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神戸駆けるバンビ! 〜奈良県民JK、ギャルとワイルド系イケメンのいる定時制高校に放牧される〜  作者: みょんたま


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55/73

愛を、ください

「修学旅行代を稼ごうとしただぁー!?」


 静寂に包まれていた保健室に、陸の怒号にも似た叫びが響き渡った。


「松本、声量!!」


 佐伯先生が即座に怒鳴り返す。


「保健室やぞ! 病院ちゃうけど、保健室やぞ! 安静にする場所や!」

「すんません!」

「謝る声もでかい!」

「……すんません……」

「今度は急に小さい!」


 手際よく消毒液の準備をしていた養護の先生が、呆れたように、けれどどこかホッとしたように笑った。


「佐伯先生も十分うるさいです」

「すみません!」

「先生もうるさい」


 天馬が地を這うような低い声で突っ込むと、佐伯先生は「はい……」と物理的に小さくなった。


 保健室の空気は、さっきまでのタクシー乗り場で張り詰めていた、あの命の削り合いのような緊張感とはまったく違っていた。


 風に揺れる真っ白なカーテン。

 ツンと鼻をつく、けれどどこか安心する薬品の匂い。

 窓から差し込む、傾きかけた午後の柔らかい光。


 ベッドの上には、泣きすぎてウサギのように目を赤くした玲花が、膝を抱えて座っていた。

 その膝の上には、養護の先生がかけてくれた毛布がふんわりと乗っている。


 その隣の丸椅子には、陸が腰掛けていた。

 シャツの裾を無造作にめくられ、養護の先生に脇腹のどす黒い痣を診察されている。


「松本くん、これ、ちゃんと病院行った方がいいですよ。骨にヒビが入ってるかもしれない」

「いや、大丈夫っす」

「大丈夫じゃないです」

「現場で鍛えてるんで」

「鍛えてても内臓は鍛えられません。鉄骨でも入ってるんですか」

「内臓……」


 陸が少しだけ真顔になった。

 痛みを我慢しているのか、額にはうっすらと脂汗が浮かんでいる。


 天馬が横から容赦なく言い放った。


「病院行け」

「お前に言われると腹立つな」

「腹はもう立ってるやろ。物理的に腫れてるし」

「誰が上手いこと言えと」


 すずは、保健室の入口近くに立ち尽くしていた。


 胸が、まだズキズキと苦しい。


 さっき、非常階段の下で玲花に「裏切ったな」と言われた。

 その言葉が、鋭いトゲのように心臓にずっと刺さっている。


 でも、ここにいる玲花は無事だった。

 あのおぞましい大人たちの車に乗せられることなく、ここにいる。

 それだけで、また泣きそうになる。


 木村妙子は、保健室の机の横に静かに立っていた。

 無表情にも見える落ち着いた顔で、けれど玲花の些細な仕草や表情の動きを、何一つ見逃さない深い目をしている。


 紗英も駆けつけてくれていた。

 すずが電話で泣きじゃくりながら要領を得ない説明をしたあと、佐伯先生が学校の『大人』として呼んでくれたのだ。


 紗英は保育士特有の、すべてを包み込むような顔で玲花のそばに立っている。

 優しいけれど、絶対に問題から逃がさない、大人の顔だった。


「で」


 陸が、消毒の痛みに顔をしかめながら口を開いた。


「修学旅行代って何やねん」

「……」


 玲花は毛布の端を白くなるほど強く握ったまま、俯いて黙っていた。


「白」


 佐伯先生が、いつものふざけた調子を一切消した低い声で呼ぶ。


「あいつらは、お前に何ていうてきたんや。何をさせるって言った」


 静まり返る保健室で、玲花の小さな、震える声が響いた。


「な、茄子を……」


「「「は?」」」


 突拍子もなくいきなり出てきた野菜の名前に全員がはてなを思い浮かべた。


「うちが嫌いな茄子を、食べて、口から出すだけって。そんなことができるなら、うちでも五万もらえる仕事があるって。困ってるなら、するかって言うから、だからうち……」


 ドン!!!


 鼓膜を揺らすような激しい音が響いた。

 陸が、拳で保健室の壁を思い切り殴りつけたのだ。


 すずも玲花も、ビクッと肩を震わせた。


 玲花が何を言っているのか、まったくわからなかった。

 茄子を食べる? 吐き出す? どうしてそれで五万円もらえるのか。


 きっと、言葉を発している玲花自身もわかっていない。

 ただの、少し変で悪趣味な何かだと思っているのだろう。

 たったそれだけのことで、毎日毎日働かなくても一瞬でお金を稼げるとしたら。

 その分遊べる。その分楽できる。

 そう思ったら、食いつかずには、いられなかった。



 でも、天馬も、陸も、佐伯先生も、そして木村妙子でさえも。

 その場にいた「現実の底にある闇」を知っている人間たちは全員、完全に目が据わっていた。





 彼らが、まだ何も知らない十八歳になったばかりの玲花に何をさせようとしていたのか。





 そのおぞましく、吐き気を催すような倒錯した要求の正体に、一瞬で気づいたのだ。

 人を人とも思わない、極めて悪質で下劣な欲望。


 壁を殴った陸の背中からは、先ほど寺田に向けた以上の、明確な殺気すら漂っていた。


 天馬は無言のままギリッと奥歯を噛み締め、佐伯先生の目は冷たい怒りに沈んでいる。


 その尋常ではない男たちの空気に、玲花は怯えたように毛布を引き寄せ、身を縮めた。


「お、怒ってる! だから言いたくなかったのに!」

「……怒ってへん」


 佐伯先生が、感情を無理やり腹の底に押し殺したような、低く重い声で言った。


「いや、怒ってはいるけど、お前に怒ってるんちゃう。お前を丸め込もうとした人の皮を被った危ない大人にや。こんなことになるまで機能しなかった制度の穴にや。そして、何も言わんかったお前にも少しは怒ってる」


 佐伯先生は、ゆっくりと息を吐き出し、玲花をまっすぐに見つめた。


「でも、まずは事情を聞かせろ。どうしてあんな奴らの車に乗ろうとしたんや」


「……怒ってるやん」

「怒ってる。でも、聞く」


 玲花は、血が滲むほど唇をきつく噛んだ。


 いつもの玲花なら、ここで「ベッツニー」と冗談を言って、煙に巻いて逃げるはずだ。

 でも、今日は声が喉に張り付いたように出ないようだった。


 保健室の中が水を打ったように静かになる。


 やがて、玲花は消え入るような声で小さく言った。


「ヨンチョリの、修学旅行費」


 陸の眉がぴくりと動いた。


「ヨンチョリって、末の弟か」

「うん」

「いくら」

「四万」

「四万であんなとこ行こうとしたんか」


 陸の声が、怒りとも悲しみともつかない色を帯びて低くなる。

 玲花は弾かれたように顔を上げた。


「四万やで」

「あ?」

「陸にとっては、たかが四万くらいかもしれんけど」

「違う」

「うちには、その四万がないねんもん!」


 玲花の悲痛な叫びが震えた。

 保健室の空気が、再びビリッと張り詰める。


「学校から電話きてん。このままやと白くんだけ行けませんって。お母さんに何回も電話したけど振り込まれませんって。申請すれば補助金が出ますって。市役所行けって」


 せき止めていた感情が、決壊したダムのように言葉となって溢れ出す。


「だから市役所に電話した。そしたら、お母さん本人が来なあかんって。来れませんって言ったら、じゃあダメですって。学校に相談してくださいって。学校は市役所に相談しろって言うし、市役所はお母さん連れてこいって言うし、ずっとたらい回しや!」


 玲花の目に、ボロボロと大粒の涙が溜まり、こぼれ落ちた。


「おんまは、起きへん。酒と薬でずっと寝てる。起こしても起きへん。起きたら起きたで機嫌悪くて怒鳴るだけや。市役所なんか、あの状態で行けるわけないやん」


「……」


「でもヨンチョリ、しおり大事そうに持って帰ってきてん。広島行くって。フェリー乗るって。大きいカバンいるって。うちのカバン、穴空いてるカバンでも、ガムテ貼ったらいいよって笑ってん。……そんな顔見たら、お前だけ行けへんなんて、言われへんやん」


 玲花は、顔をくしゃくしゃにして毛布を握りしめた。


「う、うちが悪いねん……」


 玲花の声が、嗚咽に変わる。


「ま、毎日無駄つかいしとったから! スタバ行ったり、服買ったり……。毎日真面目に働いて、何にもお金使わんと、遊ばんと、真面目に貯めとったら、こ、こんなことには……!」


 私の、可愛い弟。


 マイクラの家の中で、玲花と兄たちと自分のベッドを並べて、いつかこんな豪邸に住むんだと、無邪気に夢を思い描く弟。




 すずは、ハッと息を呑んだ。


 玲花は、毎日誰よりも頑張っていた。


 昼間はアルバイトで汗を流し、夜はきちんと定時制学校にも来て、いつも笑って、みんなを明るくして、必死に頑張っていた。


 それなのに。


 これ以上、何を、頑張れというのか。

 これ以上、何を、差し出せというのか。


 玲花が過労で倒れた日。

 病院に駆けつけて、点滴を見上げて「ぬな、痛い?」と不安そうに聞いていた弟たちの姿。

 それを想像しただけで、すずの胸は張り裂けそうに痛かった。


 姉と、弟たちは、頼るべき大人の支えが一切ない中で、ただ肩を寄せ合い、必死で、ギリギリのところで生きているのだ。


「誰にも言わんかったんか」


 陸が言った。

 怒っている声ではなかった。

 でも、自分の無力さを噛み締めるような、ひどく痛そうな声だった。


「言えるわけないやん」


 玲花は笑った。

 涙で顔を濡らしながら、自嘲するように笑った。


「陸に言ったら、今みたいに怒るやろ」

「怒るわ」

「ほら」

「怒るけど、何とかするやろ!」

「それが嫌やねん!」


 玲花が力の限り叫ぶ。


「なんでうちの弟の金を、陸が何とかすんねん! なんでうちの家のことで、関係ない陸に頭下げなあかんねん! なんで、また誰かに助けてもらわなあかんねん!」


 保健室が水を打ったように静まり返った。


 惨めだった。

 恥ずかしかった。

 お金がないということが。

 親が、ろくでなしで、自分たちを顧みないということが。


 そのどうしようもない現実のすべてが、玲花の声を震わせていた。


「すずにも、言われへん」


 玲花は、今度はすずを見た。

 すずは、ビクッと肩を震わせた。


「バンビは優しいから、絶対泣くやん。紗英さんに言うやん。先生に言うやん。大人が来るやん。……うちの滅茶苦茶な家、見られるやん」

「……」

「嫌やってん。普通の子のふり、したかってん」


 すずの目から、ボロボロと涙がこぼれた。


「ごめん」


 小さく、絞り出すように言った。

 玲花が顔を歪める。


「謝らんといて。謝られたら、うちが悪者みたいやん」

「でも、勝手に先生呼んだ」

「呼んだな」

「うん」

「裏切った」

「うん」


 すずは手の甲で乱暴に涙を拭った。

 でも、玲花の目からは絶対に視線を逸らさなかった。


「でも、もう一回同じことになっても、私、また呼ぶ」


 玲花の涙に濡れた目が見開かれる。


「玲花ちゃんに一生嫌われても、呼ぶ。私ひとりじゃ、あの大人たちから玲花ちゃんを止められないから。玲花ちゃんを守れる人を、絶対に呼ぶ」

「……」

「それが裏切りなら、ごめん。でも、見なかったことにはできない」


 玲花は、すずを見つめていた。


 怒った顔。泣きそうな顔。

 何か言いたいのに、感情が追いつかなくて言葉が出ない顔。


 結局、玲花はゆっくりと顔を伏せた。


「……バンビのあほ」

「うん」

「ほんま、あほ」

「うん」

「でも」


 玲花の声が、糸のように少しだけ小さくなる。


「間に合ってよかったって、ちょっと思ってる自分も、おる」


 すずは、もうこらえきれずに声を上げて泣いた。

 木村先生が、すずの隣に立ち、そっと細い背中をさすってくれた。


「よう言えたね」


 木村先生が、今度は玲花に向かって静かに言った。

 玲花は恥ずかしそうに毛布に顔をうずめた。


「言えてない。泣いて喚いただけ」

「泣けたのも、喚けたのも、えらい」


 木村妙子が、静かにパイプ椅子を引き、玲花のベッドのすぐ近くに座った。

 目線を玲花と同じ高さに合わせる。


「白さん」

「……はい」

「今から、確認をさせてください。あなたを責めるためではありません。道を作るためです」

「道?」

「はい。弟さんの修学旅行費をどうするか。今日の食事は足りているか。お母さんの状態はどうか。家に今夜、大人が入れるか。学校と市に、こちらからどう連絡するか。その道筋です」


 玲花の表情が再びスッと硬くなる。


「うちの家、見るんですか」

「必要なら見ます。でも、見世物にはしません」

「とっちらかってますけど」

「そんなことは、生活していれば当たり前です。いいのです」


 木村の声は、どこまでもフラットで落ち着いていた。


「白さんを責めたり、評価するためではなく、あなたと、弟さんたちを守るためです」


「……弟たち、施設とか連れて行かれる?」


 玲花の声が、急に怯えたように細くなった。


 陸の表情がピクリと変わる。

 その言葉が、陸がかつて経験した冷たい過去に触れたのだと、すずにも痛いほどわかった。


 木村は、言葉を選ぶように慎重に答えた。


「すぐにそう決まる話ではありません。まずは状況を確認します。家で暮らし続けるために使える支援もあります。学校から市へつなぐ方法もあります。食事、学用品、修学旅行費、相談できる窓口。あなたが知らないだけで、いくつもカードはあるんです」


「でも、さっき市役所ダメって……」

「玲花さん『一人』で電話したからです」


 木村は、はっきりと力強く言った。


「未成年のあなたが、全部の事情を説明して、全部の責任を背負う必要はありません。学校の『大人』が間に入れば、話は全く変わります」


 玲花は、呆然とした顔をした。


「……変わるん?」

「変えるために、私たちがいます」


 佐伯先生が、腕を組んで深く頷いた。


「そういうことや。白、お前は分厚い手続きの壁に、丸腰で一人で突撃して粉砕された状態や」

「言い方」

「でも次は、木村さんという重機が行く」

「重機!?」


 木村が少しだけ不満げに眉を上げる。


「佐伯先生、私は重機ではありません」

「すみません、頼れる専門職です」

「言い直しが雑です」


 玲花が、ほんの少しだけ、ふふっと笑った。


 本当に一瞬だった。

 でも、確かに笑った。


 陸はそれを見て、肩の力が抜けたように少しだけ息を吐いた。


 養護の先生が、陸の脇腹に冷たい湿布をピシャリと貼りながら言う。


「松本くんは、このあと速やかに病院です」

「え」

「え、じゃないです」

「いや、俺はまだ白の話が」

「あなたも保護対象ではないですが、立派な治療対象です」

「うまいこと言わんでください」

「内臓は根性で治りません」

「さっきも聞きました」

「二回言うくらい大事です。大人をなめないでください」


 玲花が、泣き腫らした顔で陸をジッと見た。


「病院行き」

「お前に言われる筋合いある?」

「ある」

「なんで」


 玲花は、少しだけ照れ隠しのように唇を尖らせた。


「好きって、言ったから」


 保健室の空気が、ピタッと止まった。


 陸の耳が、首筋まで一気に茹でダコのように赤くなる。

 天馬がたまらず小さく吹き出した。


「今なんやそれ」


 佐伯先生が大げさに天井を仰ぐ。


「はい、青春爆弾二発目入りましたー。保健室は野戦病院か!」

「うるさい佐伯」

「先生です」

「今それどころちゃう」

「ほんまにそれどころちゃう」


 佐伯先生はわざとらしくゴホンと咳払いをした。


「とにかく、整理するぞ」


 ホワイトボード代わりに、養護教諭が余っていた大きな裏紙を持ってきてくれた。木村がペンを持つ。


「まず、ヨンチョリくんの修学旅行費。四万円。締切は?」

「もう過ぎてます」

「出発は?」

「来月」

「小学校名、担任の先生の名前は?」


 玲花は淀みなく答えた。

 木村がすらすらとメモしていく。


「次に、お母さんの状態。今日は家にいますか」

「たぶん。ずっと寝てると思います」

「弟さんたちは?」

「ヒョンジンと、上の弟は夕方帰ってくる。ヨンチョリはもう帰ってるかも」

「今日、誰か大人が家に入れますか」


 玲花は、またしても固まった。


 家を見られる。

 足の踏み場もなく散らかった部屋。

 シンクに溜まった洗っていない食器。

 空の酒瓶。

 母の寝ているシミだらけのソファ。

 弟たちの、踵が薄くなった靴下。


 全部。見られる。


「嫌や」


 反射的に言葉が出た。


「じゃあ、まず私が行きます」

「木村先生が?」

「いえ。今日は、ただの妙子です。近所のお節介な妙子おばさんとして、行きます」

「え、あの、いうていいですか?……何いうてるねん」


 佐伯がすかさず呆れて突っ込む。


「おっまえこんな時に、無理してツッコまんでええねん。こんなありがたい話に」

「ふふ、いいんです佐伯先生」


 そういって、木村妙子は、急にふわりと言葉を崩した。


「怒らへん。片づけの採点もしない。まず、子どもたちがちゃんとご飯食べてるか見るだけ」


 その声は、春の陽だまりのように優しかった。

 でも、逃げ道はなかった。


「玲花ちゃん。今日の晩ご飯、あるん?」


 玲花は、答えられなかった。


 冷蔵庫の中身を思い出し、俯く。

 その重苦しい沈黙が、何よりの答えだった。


 陸がガタッと立ち上がろうとする。


「焼肉」

「座れ、負傷者」


 天馬がすかさず陸の肩を強く押さえた。


「俺がスーパーに買いに行きます」

「お前も当事者の関係者や。今は勝手に動くな」


 佐伯先生がビシッと止める。


「学校として動く。木村さん、僕でまず状況確認。松本は強制的に病院。西倉は逃げないように付き添い。鈴木は……」


 佐伯先生がすずを見る。

 すずは、涙を拭って背筋をピンと伸ばした。


「私も行きます」

「今の状態で?」

「行きます」

「白は?」


 佐伯先生が玲花を見る。

 玲花は、すずを見た。


 長い沈黙。

 すずは、絶対に逃げなかった。


 玲花が、ぽつりと口を開く。


「……バンビは、来たら絶対泣く」

「泣くかも」

「絶対泣く。百パー泣く」

「うん」

「泣かれたら、なんか惨めでムカつく」

「でも、抱き合って一緒に泣こうよ……」

「〜〜〜っっ」


 玲花は、真っ赤になって目を逸らした。


「……来たら」


 すずは、また泣きそうになった。


「うん」

「泣いても、うちの家を、かわいそうって顔で見んといて」

「……うん」

「ヨンチョリのこと、貧乏でかわいそうって見んといて」

「見ない」

「ほんまに?」

「うん」


 すずは、力強く、何度も頷いた。


「ヨンチョリくんは、玲花ちゃんが命がけで守った、大事な弟として見る」


 玲花の目が、また限界まで潤んだ。


「ほら、もう泣くやん」

「もう泣いてる」

「ほんまや」


 玲花は、くしゃっと笑って、またポロポロと泣いた。

 木村がメモをパタンと閉じた。


「では、今日の動きです」


 その凛とした声で、全員の空気が切り替わる。


「一つ、松本くんは病院で診てもらう」

「俺、ほんまに」

「一つ目で反論しない」

「うす」

「二つ、白さんの家に、佐伯先生、私、鈴木さんで向かいます。状況確認と、弟さんたちの安全確認。三つ、修学旅行費については、学校から小学校へ連絡し、支払い期限と支援制度の再確認をします。四つ、お母さんについては、必要に応じて医療・福祉の専門機関につなぎます」


 玲花は、半ば呆然と聞いていた。


 自分が何日も、暗闇の中で一人で抱えていた重たい絶望が、木村の口から一つずつ理路整然と並べられていく。


 すると、不思議なことに、それは「どうにもならない巨大な黒い塊」ではなくなっていった。


 名前がつく。順番がつく。誰が動くかが決まる。

 それだけで、塞がっていた気道が開いたように、少しだけ深く息ができる気がした。


「……ほんまに、ヨンチョリ、修学旅行行ける?」


 玲花が、すがるように小さく聞いた。


 木村は、無責任に「行けます」とは言わなかった。

 ただ、まっすぐ玲花の目を見た。


「行けるように、大人が全力で動きます」


 玲花は、その重みのある言葉を、ゆっくりと飲み込んだ。


「うん」


 陸が、丸椅子に座ったまま、真剣な目で玲花を見た。


「金が必要なら、俺に言え」

「だから、それは」

「貸すとか、やるとか、お前が惨めになるようなそういう話ちゃう」


 陸は、不器用に少しだけ言葉を探した。


「一緒に考える。俺は、お前とそれがしたい」


 玲花は、陸を見た。


 頬の痛々しい傷。切れた口元の血。脇腹の湿布。

 自分のために、自分の盾になってできた傷。


 そして、非常階段の下で言われた言葉。


 ――好きやから。


 玲花の顔が、火が出そうに熱くなる。


「……陸のくせに」

「なんやそれ」

「かっこつけてる」

「悪いか」

「悪くない」


 玲花は、顔を隠すように毛布をぎゅっと握りしめた。


「……ありがとう」


 蚊の鳴くような、小さすぎる声だった。

 でも、陸の耳にはしっかり届いた。


 陸は一瞬、何か言葉を返そうとした。

 けれど、養護の先生が絶妙なタイミングで湿布の上からポンと腹を押さえた。


「痛っ」

「はい、青春はそこまで。病院行きましょうね」

「余韻!」

「余韻で破裂した内臓は守れません」


 天馬がため息をつきながら立ち上がる。


「俺、陸さん連れて行きます。タクシー拾いますわ」

「西倉、頼む」


 佐伯先生が頷いた。


「あと松本」


 佐伯先生が、陸の顔をじっと見た。


「お前は、マジでかっこいい」


 陸は目を見開いて、そして照れ隠しのように鼻を擦って笑った。


「……うす」


 玲花が毛布の中からぼそっと言う。


「全然映えてへんかったけどな。泥臭くて」

「うるさい」

「でも、ちょっと嬉しかった」


 陸の顔が、今度こそ限界まで真っ赤になった。

 天馬が無表情で言う。


「急いで病院行きましょう。これ以上聞くと、陸さんの脇腹より顔の方が爆発して腫れます」

「お前ほんま今日ずっと余計やな」

「親友として褒めてます」

「絶対褒めてない」


 保健室に、ほんの少しだけ、いつものような笑いが戻った。


 それでも、問題は何も終わっていない。


 ヨンチョリの修学旅行費。

 母の依存症。

 弟たちの明日の食事。

 玲花の散らかった家。

 寺田という男の気味の悪い名刺。


 まだ、現実は何も片づいていない。


 でも、もう玲花一人のボロボロの鞄の中だけに隠されている問題ではなかった。


 大人が知った。

 すずが、嫌われる覚悟で呼んでくれた。

 陸が、体を張って手を離さなかった。


 玲花は、毛布の中で小さく息を吐いた。


 人に頼るのが怖い。情けなくて恥ずかしい。自分の無力さに腹が立つ。

 でも、背負っていた見えない重りが半分になったように、少しだけ体が軽かった。


 その安心感が悔しくて、玲花はまた泣きそうになった。


「白」


 佐伯先生が呼ぶ。


「何」

「ここからは、大人の仕事や」


 玲花は、涙と鼻水でぐしゃぐしゃになった顔のまま、少しだけ睨みつけるように言った。


「……ちゃんと仕事してや。期待してるから」


 佐伯先生は、力強く頷いた。


「任せろ」


 その声だけは、いつもの冗談みたいな大声ではなく、深く頼もしい大人の響きだった。


 二人が病院へ向けて保健室を出て、すずたちも玲花の家へ向けて出発した。


 すずは玲花の細い手を取って歩き出す。

 玲花がぎゅっと握り返した。


 そのあまりにも細い体を、すずは支えるつもりで、ぎゅっと握り返した。


 一人で、弟たちを守ってきた、同い年の女の子。


 どれだけ痛かったことだろう。

 何を犠牲にしてきたのだろう。


 何を、見過ごしてきたのだろう。

 何もないように、平和に、幸せそうに、楽しそうに見えていた。

 その裏に、こんなにも悲しい激情を抱えて生きていた。


 今なら、毎回佐伯が生存確認をしていた理由がわかる。

 毎度のようにみんなの顔を見て、生きているかと聞く佐伯の気持ちがわかる。


 聞いても確認しても、わからない程に、みんな隠すのがうまい。


 恐怖、プライド、自分の家だってお金くらいある、

 お金がないだなんてそんなこと、言えない。

 

 自分は何も見えていなかった。

 

 隠されていた。

 それでも、本当は。

 こんなにも、助けてくれと、愛をくれと、叫んでいたと言うのに。




 弟たちのプライド、弟たちのたった一度の青春。

 玲花自身が経験できかなかったこと。


 それが守れるのならと、

 簡単に差し出された玲花の美しい体と、青春の日々。

 売り出されようとした、若く、青い春。



 そしてそれを自分の欲望の吐口として、買う大人がいる事実。

 すずは冷酷で残忍な大人たちを睨むかのように、壁を睨んだ。



 歪に輝く愛を、今度こそ守ってあげたいと、すずは心から思った。



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