その手を離さないで
地を這うような、凄まじい殺気を孕んだ低い声。
玲花が振り返る。非常階段の重い扉を蹴り開けて、陸が出てきた。肩で息をしている。額には汗が光っている。けれど、その目はまっすぐ、寺田を射抜いていた。
少し遅れて、天馬も駆けつける。天馬の整った顔も、見たことがないくらい険しい怒りに満ちていた。
「お前、何?」
邪魔が入ったことに、寺田が不快そうに顔をしかめる。
陸は答えなかった。ただ、山口が掴んでいる玲花の腕を見た。
「手ぇ、離せ」
「は?」
「離せっつってんねん」
陸はまっすぐ歩み寄り、山口の腕を掴んだ。現場の鉄骨を素手で歪めるかのような、万力の力だった。
「痛っ……!」
巨漢の山口の顔が苦痛に歪む。
「こいつ、なんやねん!」
陸は強引に山口の手を引き剥がし、玲花を自分の方へ乱暴に引き寄せた。玲花の小さな体が、陸の広い背中の後ろにすっぽりと隠れる。
その瞬間、寺田が舌打ちした。
「おいガキ、調子乗んなよ」
次の瞬間。寺田の容赦ない前蹴りが、陸の無防備な腹部に深々と突き刺さった。
ドスッ。
内臓を揺らすような鈍い音が響いた。
「陸!!」
玲花が悲鳴を上げる。
けれど、陸は微動だにしなかった。一歩も引かなかった。表情一つ変えない。ただ、氷のような冷たい視線で寺田を見下ろしている。
陸の脳裏に、一瞬だけ過去の匂いがよぎった。閉じ込められた部屋。空腹。施設の冷たい廊下。誰も助けてくれなかった夜。皮膚を焼いたアイロンの熱。
あの絶望的な痛みに比べれば、こんな薄っぺらい悪意の蹴りなど、そよ風にも等しい。
陸は、背後の玲花の存在を背中で感じていた。怖くても笑う女。助けてと言えない女。弟のためなら、自分を泥水に沈めようとする女。
ここで退くわけにはいかなかった。絶対に。
「……こんなもんか」
「てめぇ……!」
気味悪さを感じたのか、寺田が今度は拳を振り上げた。硬い拳が陸の頬にモロにめり込む。
バキッ、と骨が軋む音。陸の口端が切れ、鮮血がツーッと顎を伝う。
それでも、陸は揺るがない。巌のように立ち塞がり、ただそこにいるだけで圧倒的な威圧感を放っていた。天馬が一歩前に出ようとしたが、陸が片手で制した。その手は、一片の震えもなかった。
「最後や」
陸の声は低く、空気を震わせた。
「二度とこいつに近づくな」
寺田と山口が、思わず一歩引いた。そこにいたのは、ただの高校生ではなかった。本物の地獄を這いずり回って生きてきた男の、凄絶な覚悟だった。
「金に困ってるなら、俺に言えよ」
陸が、背中の玲花に振り返らずに言った。
「あんたに関係ないやん!!」
玲花の声が、泣きそうに震えた。
「うちの家のことも、弟らのことも、お金のことも、陸には関係ないやろ!!」
「ある!」
「ない!」
「ある!」
「なんで!」
陸は大きく息を吸った。
「お前のことがす……!」
そこでピタッと止まった。一瞬、タクシー乗り場の空気が時を止めたように静まり返る。陸は片手で顔を覆った。
「いや、たんま。これだけは、ちゃんとした環境で言わせて」
「はああ!?」
「やっぱり言う。お前が好きや」
「…言ってんやん」
天馬の切れ味鋭いツッコミが飛んだ。
シリアスな空気をぶち壊され、寺田が顔を真っ赤にして激昂する。
「お前ら、俺を無視するなー!!」
寺田が陸をさらに蹴り上げた。
その瞬間。
「先生!!」
すずの甲高い声が響いた。靴下だけで階段から転がるように走ってくる。
エレベーターから降りてきた佐伯と木村妙子が全速力で駆けてきた。
佐伯先生は、いつものだらしないジャケットをなびかせ、息を切らしている。木村は息一つ乱さず、冷ややかな目だけが鋭かった。
「誰や! 先生呼んだの!」
玲花が叫ぶ。
「わ、私です!」
すずは泣きそうな声で叫び返した。玲花の顔が絶望に歪む。
「……裏切ったな」
細く、かすれた声だった。
「友達やと思ってたのに」
その言葉は、すずの胸を鋭いナイフのように深く刺した。息が止まりそうになる。
「玲花ちゃんに嫌われてもいい! 勝手に先生呼んだって怒られてもいい! でも、見なかったことにはできない!!」
佐伯先生が、震えるすずの前にすっと立った。
「よう呼んでくれた、鈴木」
佐伯先生の声は、深く、はっきりしていた。
「何が起きてるんや」
「なんもないです」
玲花は即答した。顔を逸らし、血が出るほど唇を噛んでいる。
「なんもなくないです!」
すずが涙声で叫んだ。
「助けてください!!」
佐伯先生は大きく頷いた。
「あとは、任せろ」
佐伯先生が、陸と寺田の間に割って入る。いつもの、生徒をからかうおちゃらけた担任ではなかった。そこに立っていたのは、生徒を守る『大人』だった。
「この二人は、僕の生徒です」
佐伯先生は、寺田をまっすぐ睨みつけた。
「うちの生徒に用があるなら、僕を通してください」
木村妙子が、氷のように落ち着いた声で続ける。
「未成年の可能性がある生徒に対する接触です。これ以上続けるなら、警察を呼び、こちらも正式に対応します」
「本人が十八って」
「学校の敷地前で、生徒に声をかけ、車に乗せようとした事実は確認しました」
木村の声は静かだった。静かなのに、一切の逃げ道を塞ぐ絶対的な圧力があった。
寺田は派手に舌打ちした。これ以上は厄介だと悟ったのか、不気味な笑みを引っ込める。
「……チッ。一旦帰るけど、玲花ちゃん」
寺田は、未練がましく玲花を見た。
「電話待ってるわ、後でな」
陸が一歩前に出た。
「かけさせへん」
山口が寺田の腕を引いた。「寺田さん、もう」
「わかってるわ」
二人は車に乗り込んだ。黒い車が、逃げるようにタクシー乗り場から走り去っていく。不快な排気ガスの匂いだけが残った。
しん、と静まり返る。街は、何事もなかったみたいに動いている。遠くで、無関係な車のクラクションが鳴った。
「……私、帰る」
玲花が、糸が切れたように力なく呟いた。背を向けようとする。
「いや、帰すわけないやろが」
佐伯先生の声は、重く、太かった。
「白。お前は今、一人で帰していい状態ちゃう」
「なんで」
「危ない大人の車に乗りかけたからや」
「乗ってない」
「乗る寸前やった」
「なんもしてない」
「なんも起きる前に止めたんや。だから今、ここで止める」
玲花の目に限界まで涙が浮かんだ。
「帰る」
「帰さん」
「帰るって言ってるやん!」
「ここからは、大人の仕事や。まずは話を聞かせろ」
「嫌や!」
玲花が暴れ出した。細い腕を振り回し、鞄を抱きしめ、必死に逃げようとする。
「離して!」
「誰も掴んでへん!」
「見張らんといて!」
「見守ってます」
「木村さん、言い方が綺麗でムカつく!」
「ありがとうございます」
「褒めてない!」
すずは泣きそうになりながらも、そのやり取りに少しだけ息をついた。玲花はまだ怒れる。ツッコめる。でも、その声の底は決定的に震えていた。
佐伯、木村、陸、天馬が、玲花を囲むようにして校舎へ戻る。逃げ道を塞ぐためではなく、もう彼女を一人で暗闇へ走らせないために。
エレベーターに乗り込んでも、玲花はまだ暴れていた。密室の中で、感情が制御できなくなっていた。
「離して!」
「だから誰も掴んでへん!」
「帰る!」
「帰さん!」
「佐伯うるさい!」
「先生を呼び捨てにする元気はあるな!」
「うるさい!」
玲花がめちゃくちゃに腕を振った。その尖った肘が、陸の腹にモロに入った。
「うっ……!」
陸が小さく呻き、たまらずその場にうずくまった。
「陸くん!?」
すずが叫ぶ。天馬がすぐに陸の肩を支える。
「陸さん」
「大丈夫や」
「大丈夫な顔ちゃう」
陸は片手で腹をきつく押さえていた。さっき寺田に全力で蹴られた場所だった。シャツの裾が少しめくれる。そこには、すでにどす黒く変色し始めた痛々しい痣が広がっていた。頬には殴られた跡が腫れ上がり、口端にはまだ血が滲んでいる。
さっきまで微動だにせず立ち塞がっていた陸の体が、今になって急激に痛みを訴えていた。
玲花の顔から、さあっと血の気が引いた。自分が彼を傷つけてしまったことに気づき、息が止まる。
「り、陸……」
「心配すんな」
陸は脂汗を滲ませながら、顔を上げて無理に笑った。
「俺は男やし、現場で鍛えとるから、こんくらい、どーってことない」
「どーってことあるやん!」
玲花の声が悲痛に裏返る。
「めっちゃ痣なってるやん! 血出てるやん!」
「まあ、ちょっとは痛い」
「ちょっとちゃう!」
「だって俺…」
陸は、ゆっくりと立ち上がり、玲花をまっすぐ見た。
「お前がもし、あのまま連れて行かれて、訳のわからん大人らに囲まれて、助けてって言えん場所に置かれることに比べたら」
陸は、息を整える。
「こんな痛み、なんてことないわ」
玲花の顔が、ぐしゃりと不様に歪んだ。堪えきれなかった涙が一粒、ボロリと落ちる。
「なんで……」
声が震えていた。
「なんで、そこまですんの」
陸は、少しだけ照れくさそうに、困ったように笑った。
「さっき言うたやろ」
「言うたけど」
「好きやから」
「こんな時に言うなや」
「もう言ってもうたし」
「最悪」
「うん」
「ほんま最悪」
「うん」
玲花は、その場に力なく崩れ落ちた。
「う……っ」
喉の奥から、獣のような声が漏れる。
「うあぁあんっ……!」
大粒の涙が、ぽろぽろと、とめどなく落ちた。
借金のプレッシャー。締切に追い詰められる窒息しそうな感覚。頼れない親。弟の未来。どうにもならない理不尽な現実。自分が我慢すればいいと、自分を殺し続けてきた日々。
その全部が、決壊したダムのように、泥水となって胸の奥からあふれ出した。
「怖かった……」
玲花が、小さな子どもみたいに泣きじゃくった。
「ほんまは、怖かった……っ」
その言葉を聞いた瞬間、すずもポロポロと泣いた。玲花ちゃんが、怖かったと言った。ずっと強がっていた彼女が、初めて弱音を吐いた。
陸はゆっくり膝をつく。震える玲花の肩に手を伸ばしかけて、一度止めた。
「触っていい?」
玲花は、涙と鼻水でぐしゃぐしゃになった顔のまま、こくんと小さく頷いた。
陸は、そっと玲花を抱きしめた。強く押さえつけるのではなく、逃がさないためでもなく。ガラス細工のように壊れそうなものを、絶対に壊さないように包み込むみたいに。
「もういい」
陸の声は、どこまでも低くて優しかった。
「もう、一人で抱え込むな」
玲花は、陸の広い胸元に額を押しつけた。両手で、陸のシャツの背中をぎゅっと掴む。その手は、小刻みに震えていた。
「ごめん」
「ええ」
「ごめん、陸」
「ええって」
「ごめん……っ」
「もうええねんって」
エレベーターが静かに上昇していく。
狭い箱の中で、誰も何も言わなかった。佐伯先生も、木村も、天馬も、すずも。
ただ、陸の温かい腕の中で、玲花は声の限りに泣いた。そのシャツの胸ぐらを、白くなるほどきつく握りしめたまま。
その手だけは、もう絶対に離さないと誓うように。
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