生きろ
「はいー、じゃあ今日もお疲れ様でしたぁ。点呼しますので、名前を呼ばれた人は『はい』と返事して、明日の工事の案内とりにきてくだっさい! はい、バオくん、また明日よろしくー。キエムくん、はい元気ですねー。コンくん〜はいー、次、ジアーンくん。……ジアーン? あれ、おるやん、どうした?」
プレハブの詰所に、陸のよく通る声が響く。
きょとんとしているベトナム人の青年に、陸が首を傾げていると、横にいた天馬が流暢な英語で「明日の現場の案内と点呼だよ」とフォローを入れた。
ジアーンが「アッ、ハイ!」と慌てて紙を受け取りにくる。
「おお、サンキュー天馬。さすが先生の卵やな。はい次、佐々木ー、中野ー、御崎ー……最後、西倉ー」
金髪に近い明るい髪に、ガタイのいい体。見た目はいかつく、口調も関西弁で少し荒っぽく聞こえるが、陸の指導方法は誰よりもきめ細やかで優しかった。だからこそ、外国人労働者からも、普通の日本人作業員からも「陸さん」「陸くん」と慕われている。
配られた紙には、明日の集合場所、注意事項、緊急連絡先が書かれており、下半分には天馬が翻訳した英語やベトナム語も併記されていた。
「質問ある人〜? いませんね、後で思い浮かんだら遠慮せんと電話してくだっさい。じゃ、解散!」
「「「「お疲れっした!!!!」」」」
陸が深々と頭を下げると、従業員たちも一斉に陸に頭を下げ、笑い合いながら詰所を出て行った。
***
場所は変わって、尼崎のスーパー銭湯『湯遊び広場』。
一日の汗とほこりを流した陸と天馬は、広い湯船に並んでゆったりと浸かっていた。
「にいちゃんら、ええ身体しとんなぁ!!」
首をコキコキと鳴らす陸と、その横の天馬を見て、近くにいた常連らしきおじさんたちが目を丸くして褒めちぎってきた。現場仕事で鍛え上げられた二人の筋肉は、年齢以上に仕上がっている。
天馬は「どうもです」と少しだけ愛想よく頭を下げた。
「ほー、顔までイケメンかいや。こら、かなわんなぁ!」
さらに褒められて、天馬は困ったように苦笑する。
「俺、サウナ行くわ」
のぼせそうになった陸が、ザバーッと立ち上がって先に湯船を出た。
その後ろ姿を見て、さっきまで陽気に話しかけていたおじさんたちが、ヒッと息を飲んだ。
がっしりと筋肉がついた陸の広い背中には、白く盛り上がったケロイド状の傷がいくつも走っていた。中でも一番目を引くのは、右の肩甲骨の下あたりに、アイロンの底を連想させる『舟形』の火傷の痕が、くっきりと深く刻まれていることだった。
どう見ても、ただの事故でついた傷ではない。
天馬も、ちろりと視線をやったが、すぐに何も見なかったかのように外した。
おじさんたちは、バツが悪そうに眉をひそめて黙り込んだ。
(まぁ、目立つよなぁ)
背中に刺さる視線を感じながら、陸は心の中で一人ごちた。
しかし、隠しようもないこの傷をどうすることもできない。猫背になって隠すような生き方は、もうやめたのだ。陸は堂々と胸を張り、濡れたタオルを肩にかけてサウナの扉を開けた。
むわっとした熱気が全身を包み込む。
目を閉じて熱に耐えていると、ふと、あの苦々しい記憶の底の匂いが、瞼の裏に蘇ってきた。
***
――じゅうううっ。
「うあああああ!!!!」
小学五年生。十歳だった陸の背中に、熱されたアイロンを押し付けて火傷を負わせたのは、実の母親だった。
「いい加減にせーよ、このクソガキ!!!」
陸の父と母は、若くして陸をもうけた、いわゆる早熟な夫婦だった。経済力も親としての覚悟もなく、元気盛りの陸を持て余し、やがて育児放棄という形で放置するようになった。
働かない父はいつも万年床の布団の中にいて、母はいつだって何かにイライラして怒鳴り散らしていた。
夏休み。
家に、お菓子も、パンも、米もなかった。
腹を空かせた陸は、勝手に冷蔵庫を開けるしかなかった。砂糖があれば砂糖を舐め、マヨネーズがあればそれを吸った。
同級生たちが「家族で旅行に行く」だの「プールに行く」だのと笑い合っているのが羨ましくて仕方がなかったが、陸はただ、今日食べるものを探すだけで必死だったのだ。
その日、冷蔵庫には卵が一つだけあった。
賞味期限はとっくに切れていたが、陸は迷わず手を伸ばした。これを飲めば、少しは腹の足しになる。
しかし、何日もまともなものを食べておらず、極限までお腹が空きすぎて手から力が抜けていた。
つるり、と滑った卵は、床に落ちて無惨に割れてしまった。
手が滑ったのは、仕方なかった。
だが、夜に出かける予定があり、苛立ちながら自分の服にアイロンをかけていた母親にとって、それは格好の八つ当たりの理由になった。
殴られることは何度もあった。でも、アイロンは初めてだった。
悲鳴を聞いた隣の家の住人が警察に通報し、陸はそのまま施設に引き取られることになった。
しかし、施設に行っても地獄は続いた。
家から大事に持ってきたポケモンのカードや、唯一の宝物だったゲーム機は、入所したその日に年上の子どもたちにすべて奪われた。
施設では、年長者の言うことは絶対だった。風呂から上がるのが少しでも遅ければ、死角に連れ込まれて殴られた。挨拶の声が小さくても殴られた。毎日、誰かが理不尽な理由で泣いていた。
施設の職員たちは、事を荒立てないために躍起になるだけで、本当に子どもたちを守るためには動いてくれなかった。話は聞いて同情してくれても、それだけだった。
ある日、唯一友達になった同い年の気の弱い男の子が殴られているのを見て陸は職員室へ走った。陸は職員に横暴を訴えたせいで、「チクリ魔」という報復の理由で凄惨な暴行を受け、さらにその気の弱い男の子は殺されかけたと言えるほどの暴行を受けた。
やがて陸は、誰とも、何も話さなくなった。
それでも、家でのあの飢餓の辛さと絶望を知っている陸は、黙って耐え続けた。まるで牢獄だった。毎日が、無力で、どうしようもない日々だった。
だけど陸は、その地獄の中で一つだけ、自分に絶対に曲げないルールを課していた。
それは、『自分だけは、絶対に弱いものを殴らない』ということ。
自分が成長し、施設の中で年長者の立場になっても、絶対に年下に手を挙げず、理不尽に声を荒げることはしなかった。それだけが、陸の唯一の矜持だった。
陸はその暗闇の中で五年間耐え抜いたが、十五歳の時、ついに限界がきて施設を飛び出した。
夜中、十八歳の高校生の入所者三人に囲まれ、無理やり体を押さえつけられ、性的で身体的な屈辱を受けそうになったのだ。
必死で噛みつき、殴り倒して、裸足のまま夜の街へ逃げた。
大阪の商店街でうずくまっていたところを補導された陸は、今度は里親に引き取られた。
その時にはもう、陸の心は完全に壊れかけ、刃物のように尖りきっていた。学校には全く行かず、いつも何かに怯え、反抗し、近づく大人を誰彼構わず睨みつけていた。
里親は陸をなんとか社会のレールに戻そうと躍起になり、塾や不登校支援センターなどあらゆることに手を尽くしてくれたが、大人を信じられなくなっていた陸は、その善意すらも偽善に感じて猛反発した。
十七歳。
里親の家も居づらくなり、家を飛び出した陸は、文字通り何も持っていなかった。
金も、学歴も、身分証も、帰る場所もない。
そして、自分の命を背負うには、まだ若すぎた。
あてもなく彷徨い、飢え死にしかけていた陸が流れ着いたのが、今の『金本道路建設』の食事と寮付きの工事現場だった。
そこで出会ったのが、今の親方だ。
「飯、食ってへんのやろ。ほれ」
汚い身なりの陸に、親方は無造作にホカホカの弁当を二つ投げ渡した。
警戒しながらもがっつく陸を見て、親方は何も聞かずに陸を現場に置いた。そして、スコップの持ち方から、挨拶の仕方、金の稼ぎ方、そして『生き方』を、根気よく教え込んだ。
毎日、ただ寡黙に泥だらけになって働く陸を、親方は「お前はほんまに真面目やな」と事あるごとに褒めて認めてくれた。陸の背中の傷を見ても顔をしかめず、境遇を憐れみ、まるで年の離れた出来の悪い弟のように、とことん世話を焼いてくれた。
そんな親方の不器用な優しさに、氷のように固まっていた陸の心は少しずつ溶かされていった。
徐々に自分から話すようになり、親方に「中卒のままじゃ、この先苦労する。学校行け」と頭を下げられ、十九歳で定時制のある今の高校に入学したのだ。
そこで、真面目すぎる佐伯や、底抜けに明るくてどこか危うい玲花と隣の席になり、次に天馬が転入してきた。
気づけば、腐れ縁のように三年間同じクラスで、彼らを見守る立場になっていた。
背中の傷は、一生消えない。
心の底の燻りも、完全になくなったわけではない。
でも、陸は、その燻りを残したままでいいと、今はそう思っていた。
痛いほどに弱者の気持ちがわかるその『燻り』こそが、自分を優しくし、理不尽に立ち向かうための強さをくれているのだと、確信しているからだ。
***
「ふぅー……」
サウナの熱気で限界まで汗をかいた陸は、水風呂で体を締め、風呂から上がった。
腰にタオルを巻き、休憩所の畳スペースに向かうと、先に上がっていた親方がテレビを見ながら待っていた。
「おう、お疲れさん」
「風呂いただきました」
陸がペコリと頭を下げる。
横に座ると、親方から冷えた缶ビールを勧められたが、陸は首を振って自販機で買ったフルーツ牛乳の瓶を開けた。
「お前も、もう二十一か」
「うす」
「出会った頃は、ほんまどこぞの狂犬拾ってもうたと思ったけどな。よう頑張ってくれてるわ」
「うす」
親方は少し照れくさそうに笑い、ポケットから小さな紙の束を取り出した。
「ほれ。お前のや」
陸の膝に投げられたのは、真新しい名刺の束だった。
―――――――――――――
金本道路建設株式会社
主任 松本 陸
保有資格:二級土木施工管理技士
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「え……これ、俺の名刺っすか?」
「見たらわかるやろ」
陸は、自分の名前の上に『主任』と印字された文字を、穴が開くほど見つめた。
「これからは、俺の隣に立って、元請けへの挨拶回りも一緒にしてくれ。公共事業もどんどん取っていきたいから、頼むわな、松本主任」
親方の言葉に、陸は少しだけ下唇を噛み、名刺をぎゅっと握りしめた。
アイロンを押し付けられた日。施設から裸足で逃げた夜。何も持っていなかった自分が、今、自分の名前と役割が刻まれた紙を持っている。
「……ありがとうございます」
少しだけ声が震えた。
親方は、涙ぐんだ陸の首に太い腕を回し、グッと荒っぽく引き寄せた。
「痛いっすよ親方」と言いながら、陸は笑ってフルーツ牛乳を一気に飲み干した。
「まぁ、あとはええ嫁さん見つけてくるだけやなぁ!」
「そこは余計っすわ。仕事に生きますんで」
「こいつめ、可愛げのない」
親方がガハハと笑っていると、そこに髪をタオルで拭きながら天馬が合流してきた。
「お疲れ様です。……なんか、むさ苦しいんでその体勢やめてもらっていいですか」
天馬が冷めた声で言いながら、陸の対面の椅子にドカッと座る。
「なんや天馬。お前もフルーツ牛乳奢ったろか」
「あ、いただきます」
陸が小銭を出して、天馬を意地悪見上げた。
「親方、こいつ余裕ぶってますけど、彼女がキス以上のことさせてくれないってんで、最近現場でずっと不貞腐れてるんすよ」
「ブフッ!?」
親方はむせて、ビールを吹き出した。
「えええ! お前ら、付き合ってもう半年経ってんちゃうんか! そら地獄やな!」
親方が目を丸くして天馬を指差して爆笑し始めた。
「地獄じゃないです。大事にしてるんです。」
天馬は少し顔を赤くしてそっぽを向いた。
「「可愛いー!!!」」
「可愛くないっす!!」
「「ガハハ」」
休憩所に親方と陸の笑い声が響いた。
テレビからはバラエティ番組の呑気な音が流れている。
背中の勲章は痛まない。
今の陸には、帰る場所も、笑い合える明日も、確かにあるのだった。
この回は、一番描きたかったシーンの1つです。
自分は、幼稚園教諭として施設や保育所などの幾つかの現場で働いてきましたが、陸のような子は割といます。自分が40超えたあたりで、お世話してきた子どもたちも徐々に大人になっていきましたが、陸のように立派な未来を掴んだ子は、少ないと感じています。
誰と出会うか、その気持ちに素直に応えることができるか、人生の中でその一瞬一瞬の選択と、引き寄せた偶然が、その人の運命を左右するとめちゃくちゃ思います。
陸が受けた施設の暴行は、はっきり言ってあります。
そして多分、あと数年は無くならないでしょう。弱い子をいじめない。たったそれだけのことができない社会。でも私もイライラしたら、追い込まれたら、きっと弱い子からいじめてしまうと思う。
それをしないとい気めたヒーローを描きたくて、陸を作りました。




