男の決意。
※話数分けました!
「て、天馬くん!!!」
すずは顔を真っ赤にして、天馬の口を両手で塞ぐように覆った。
肩で激しく息をして、胸を大きく上下させている。結んでいたはずの髪がほどけかけて床に散らばり、床に押し倒されている。天馬を見上げる瞳は、涙を湛えたように潤んでいた。
天馬は塞がれた口の向こうで、もう一度、とばかりに熱を帯びた顔を近づけてきた。薄い茶色の瞳が、獲物を逃がさない肉食獣のようにすずを捉えて離さない。
「だ、だめ!!」
すずは耐えきれず、顔をそらした。
そこでようやく天馬は、ハッと我に返ったように瞬きをし、ゆっくりと体を退かせた。
「……あー、早まりましたかね?」
コクコクコクコクコクコク、と、すずは首がちぎれそうなほどのありえない速度で頭を振った。
面談の後。
人の来ない談話室の横、薄暗い階段の踊り場で、どちらともなく二人はキスをした。
最初は、ただ触れ合うだけの優しいキスのつもりだった。しかし、その時、急に止まらなくなった天馬に押し込まれるようにして、すずは壁際から床へと追いやられ、キスの濃度がいつもの数倍にもなって襲ってきたのだ。
甘い香水の匂いとともに、熱い舌がすずの歯を割って入り、息もできないほどに深く、貪るようにかぶりつかれた。未知の感覚に腰の奥が痺れ、もじもじと膝を擦り合わせたのを察知した天馬は、それで完全にたがが外れたように、さらに獣のように食らいついた。本能で動く天馬の大きな手がすずの腰をさすると、びくりと身体が大きく揺れた。
少し離れて、息を継ぐ間もなく「もう少し」と吸い付こうとした瞬間に、すずに名前を呼ばれて、天馬は現実に引き戻された。
それでももう一度と近づけたけれど、本気でダメだと言われたら、天馬にはそれ以上進むことはできなかった。
ふと、遠くで予鈴の音が鳴った。
天馬は、自分の腕時計をひらりと見ると、すっと普段の涼しげな顔に戻った。
「あ、時間だ。行こっか」
何事もなかったかのように立ち上がり、すずの手を取って歩き出す。
天馬は、前を歩きながら(あー、やってしまったなぁ)と内心で頭を抱えつつ、すずと過ごしたこの冬と、次いでやってきた春のことを思い返していた。
■■■
冬は、思っていたより静かに来た。
秋の武庫川で初めてキスをしてから、すずと天馬は少しずつだが恋人らしくなっていった。
指を絡めて手を繋ぐことにも慣れた。
天馬がバイト帰りに、冷たい風の中を迎えに来てくれる日もあった。
武庫川沿いを少し歩いて、すずが肩をすくめて「寒い」と言えば、天馬が何も言わずに自分の首から温かいマフラーを外して、すずの首にぐるぐると巻いてくれる。
すずが「天馬くんが寒いでしょ」と返そうとすると、天馬は決まって得意げに言った。
「父さんの教え」
――好きな子が寒そうなら、上着を貸せ。
その直球すぎる教えは、冬の寒さが深まるにつれて、ますます絶大な効力を発揮した。
十二月。
母の、再度の手術が行われることになった。
街中が浮き足立つ、クリスマスの少し前だった。
病院の広いロビーには、小さなツリーが飾られていた。赤いリボン。金色の星。白い綿で作られた雪。
すずはその前を通るたびに、胸の奥が少しだけきゅっと締め付けられた。
世の中は、ケーキやプレゼントや、きらびやかなイルミネーションの話で持ちきりだ。でも、すずの今年のクリスマスは、病院の無機質な白い壁と、手術室の前の冷たくて硬い椅子と、点滴の管が繋がった母の手を握った感触だけでできていた。
「ごめんね」
病室のベッドの上で、母が力なく言った。
「クリスマスが病院で」
「私は泣いてないよ」
「目ぇ潤んでる」
「乾燥してるだけ」
「病院、乾燥するもんなぁ」
母は弱々しく笑った。
けれど、その笑顔の奥にある、死への怖さや不安を、すずは痛いほど知っていた。前の手術の時よりも、すず自身も病気のことや現実の重さが、少しだけわかるようになっていたからだ。
手術は、予定通り行われた。
年末年始は、母はそのまま病院で過ごすことになった。
クリスマスらしいことは、ほとんど何もできなかった。ケーキも、華やかなイルミネーションも、楽しいプレゼント交換もなかった。
ただ、天馬が一緒にいてくれた。
手術の当日、天馬は仕事の合間を縫って病院のロビーに来てくれた。
作業着の上にコートを羽織っただけの姿で、冷え切った手にはコンビニの袋を持っていた。
「食べてる?」
すずの青白い顔を見るなり、天馬はそう聞かれた。
「食べたよ」
「何」
「おにぎり」
「何個」
「一個」
「少ない」
天馬は袋の中から、ゼリー飲料と、カイロ代わりに温められたコーンスープを出した。
「飲んで」
「天馬くん……」
「父さんの教え」
「もう、全部それだね」
「使える教えは、とことん使う」
すずは、ふっと笑った。
涙が溢れそうになりながら、それでも笑うことができた。
クリスマスイブの夜。
病院のロビーの端で、二人は並んで硬い椅子に座った。
母は術後の麻酔で眠っていた。紗英は着替えを取りに一度家へ戻っている。
病院の大きな窓の外には、少しだけイルミネーションが見えた。それは街の華やかなものではなく、ロータリーの植え込みに巻かれた、ささやかな小さな光だった。
天馬は、すずの冷たい手を、自分の大きな手でしっかりと握っていた。
「何もできんで、ごめん」
悔しそうな低い声で言われて、すずは首を振った。
「してくれてる」
「何を」
「一緒にいてくれてる」
天馬は少し黙った。
すずは、天馬の温かい手をぎゅっと握り返す。
「それが、今は一番嬉しい」
天馬は、ほんの少しだけ目を伏せ、それからすずの肩を引き寄せた。
「なら、いる」
「うん」
恋人同士になって、初めてのクリスマス。
お洒落なレストランも、特別なデートもなかった。
でも、消毒液の匂いがする病院のロビーで、ずっと手を繋いで温めてくれたことが、すずにとってはどんな宝石よりも最高のプレゼントだった。
年が明けると、天馬はさらに忙しくなった。
大学進学に向けて、本格的に貯金を始めたからだ。
現場の仕事をできるだけシフトに入れる。学校へ来る。授業の合間に勉強する。夜はボロボロになった英単語帳を開く。休みの日も、声がかかれば現場へ行く。
「なかなか会えないね」
すずが少しだけ寂しそうに言うと、天馬は心底申し訳なさそうに眉を下げた。
「ごめん」
「謝らなくていいよ。天馬くんにとって、大事なことだもん」
「でも、会いたい」
「……私も」
直接会える日は激減した。
けれど、LINEだけは毎日、途切れることなく続いた。
【tenma:今日、現場めっちゃ寒い】
【suzu:風邪ひかないでね。温かいもの飲んで】
【tenma:すずも】
【suzu:今日はママの通院の日だよ】
【tenma:終わったら連絡して】
【suzu:うん】
【tenma:好き】
【suzu:急に言わないで】
【tenma:毎日言う】
【suzu:心臓に悪いから】
【tenma:鍛えて】
画面越しのそんな不器用なやり取りが、すずの心を支える日常になっていった。
春休み。
すずは勉強に打ち込んだ。
それと同時に、中村楓に言われた言葉が、ずっと胸の中で燃え続けていた。
――自分の刃を研ぎなさい。
すずは、朝に少しだけ外を走るようになった。
走ると言っても、体力がないため最初はすぐ息が切れた。冬の終わりを告げる冷たい空気の中、武庫川の土手を、少し歩いて、少し走る。
息を切らして帰ってきたら、母に笑われた。
「すずが朝から走ってる。明日は雪降るんちゃうか」
「体力つけるの」
「えらい」
「刃を研いでるので」
「部長の影響、強いなぁ」
母は呆れたように笑った。でも、娘が前を向いていることが嬉しそうだった。
天馬は、春休みも泥臭く働いていた。
仕事の合間を縫って、少しだけ会う。
会えたとしても、長い時間ではない。
駅前で一時間だけ。
武庫川の土手で三十分だけ。
ベーカリーツバメの前で、すずのバイト終わりに少しだけ。
それでも、顔を見て声を聞けるだけで嬉しかった。
ただ、少しだけ距離が近づくと、天馬はいつも呪文のように呟いた。
「急がない」
「何が?」
「全部」
「全部?」
「手繋ぐのも、キスも、その先も」
「その先って言わないで!」
「急がない、急がない」
天馬は、必死に自分に言い聞かせるように呟く。
すずは呆れながらも、少しだけ笑った。
「誰に言ってるの?」
「俺」
「自分に?」
「うん。かなり必要」
「そんなに?」
「そんなに」
天馬は真顔だった。
その切実な真剣さが、少し可愛くて、でも少し危うくて、すずはまた心臓が忙しく跳ねた。
そして、三年生になった。
四月。天馬は十八歳になった。
教室では、玲花が「十八歳おめでとうパーティーしよ!」と騒ぎ、陸が「金かからん範囲でな」と現実的な制限をつけた。
結局、放課後の教室で、スーパーで買ってきた小さなお菓子とパックのジュースを机に並べるだけの、ささやかな誕生日会になった。
「天馬、十八歳!」
玲花が百円ショップのクラッカーを鳴らす。パンッという音が教室に響く。
「おめでとう!」
「ありがとう」
「大人やん!」
「まだ全然そんな感じしないけど」
「法律上はだいぶ大人やで!」
「圧がすごいな」
すずは、ポケットから小さな包みを取り出し、天馬に渡した。
淡路島で買った貝殻のキーホルダーとは別に、英単語帳のリングにつけられるような、小さな革のストラップだった。
「これ、邪魔じゃなかったら」
すずが差し出すと、天馬はそれを受け取り、手のひらに乗せてしばらく愛おしそうに見つめた。
「使う」
「ほんと?」
「絶対使う」
「そんなに?」
「すずがくれたから」
すずはカッと顔を赤くした。
玲花が横で「はいはい、ごちそうさまー!」と叫び、陸が「砂糖吐くわ」と呆れ顔でぼやいた。
ジュースを飲み終えると、天馬は自分のカバンから使い古したノートを開いた。
そこには、大学の名前、通信教育部、必要な学費、取得できる免許の種類、入学方法、そして働きながら学ぶための緻密な学習計画が、天馬の几帳面な字でびっしり書かれていた。
天馬は、少し緊張した顔で、真っ直ぐに前を向いて言った。
「俺、先生になる」
すずは、息を呑んで天馬を見た。
その言葉は、今までにも何度か聞いていた。でも、その日の天馬の声は、夢を語る少年のものではなく、覚悟を決めた大人のように、ずっとはっきりしていた。
「小学校教諭の免許と、中学校英語、高校英語の免許を取りたい」
玲花が「おお」と感嘆の声を上げる。陸は腕を組み、黙って聞いていた。
「普通の大学に行きたい気持ちはある。でも、金のこと考えたら、今の俺にはきつい」
天馬は、ノートの数字に視線を落とす。
「だから、通信教育部のある大学に行く。入るだけなら、落ちる可能性は低い。現場で働いて金を貯めながら、基礎学力を上げて、自力で単位を取る」
「簡単じゃないよね」
すずが心配そうに言うと、天馬は力強く頷いた。
「簡単じゃないと思う。働きながらやし、自分で計画立てて勉強せなあかんし」
「うん」
「でも、それで教員免許を取りに行く」
天馬は顔を上げ、すずたちを見渡した。
「俺、ちゃんと先生になる」
すずの胸の奥が、ぶわっと熱くなった。
もう、ただの憧れや夢ではない。天馬は、現実の道を探し当てたのだ。
自分の足で歩ける道を。お金がないから無理だと環境を言い訳にして諦めるのではなく、自分に合う泥臭い道を探して、そこへ進もうとしている。
すずは、その横顔を心から尊敬した。
その時、陸がゆっくりと拍手をした。
ぱち、ぱち、ぱち。
いつものからかうような乾いた音ではない。心からの、真面目で重みのある拍手だった。
「ええやん」
陸が静かに言った。
「高校生活のバディとして、友達として、尼崎市民として、お前を支えるわ」
「尼崎市民いる?」
玲花がすかさず突っ込む。
「いる。地元愛は大事や」
陸は真顔で答えた。
「天馬、お前、通信はほんまに自分との孤独な戦いやと思うで。仕事しながら勉強続けるんは、体力も精神力もかなりきつい」
「わかってます」
「でも、お前ならできると思う」
天馬は、少しだけ目を見開いた。陸は続ける。
「俺も、働きながら資格いくつか取った。この前、現場の主任にもなった」
「主任!?」
すずが驚いて声を上げると、玲花が横から得意げに言う。
「そうやで。最近、ちょっと偉そうやねん」
「実際ちょっと偉いからな」
「腹立つ!」
陸は低く笑った。
「俺も、天馬に現場で支えてもらってる。あいつ、見た目怖いし口数少ないけど、仕事はちゃんと全体を見るし、絶対に手ぇ抜かへん」
「……褒めてます?」
天馬が照れ隠しに聞く。
「褒めてる」
「珍しい」
「茶化すな」
陸は、大きな拳を天馬の前に突き出した。
「俺も支える。お前が先生になるまで」
天馬は、差し出されたその拳をじっと見た。
少しだけ黙り、何かを噛み締めるようにしてから、自分の拳を軽く合わせた。
こつん。
骨と骨がぶつかる、小さくも確かな音がした。
「お願いします」
「任せとけ。ガンガン仕事振ったるわ」
二人は、拳を合わせたまま、少しだけ誇らしげに笑った。
すずは、その光景を胸がいっぱいになる思いで見つめていた。
陸は、もうただのクラスメイトではない。現場で泥にまみれて働き、資格を取り、主任になり、誰かの夢を支えられる大人になろうとしている。
天馬も、自分の手で未来への扉を開き始めている。
二人とも、ちゃんと前へ進んでいる。
すずは、眩しいものを見るような尊敬の目で二人を見つめた。
私も、もっと刃を研がなきゃ。そう強く思った。
玲花も隣で拍手していた。
「いいやん。男同士の友情、めっちゃ熱いやん」
いつものように無邪気に笑っている。
けれど、その明るい瞳の奥が、ほんの少しだけ暗く沈み、疲れていることに、すずは気づいた。
陸も、たぶん気づいているはずだ。
でも玲花は、すぐに空気を変えるように明るい声を出した。
「じゃあ私は、天馬が先生になったら、保護者代表でクレーム入れに行くわ」
「何のクレームや」
「『先生がイケメンすぎて、うちの子が授業に集中できません!』って」
「帰れ」
天馬が低く冷たく言い放つ。
玲花はケラケラと腹を抱えて笑った。
教室には、うららかな春の光が満ちていた。
それぞれの抱える事情は、何ひとつ軽くなっていない。
母の病気も。
天馬のお金のことも。
玲花の複雑な家のことも。
陸の拭えない過去も。
何も、魔法のようには解決していない。
それでも、四人は同じ教室で笑い合っていた。
十八歳になった春。
未来はまだ遠くて、怖くて、見えないことばかりだった。
でも、手を伸ばす先は、少しずつ確かに決まり始めていた。
――そして、日々はすぎ。
進路に向けた三者面談が続く、ある日の放課後のこと。
すずと天馬は、人気のない薄暗い階段の踊り場に立っていた。
天馬の現場仕事が忙しく、一週間ぶりにようやく二人きりになれた放課後。
「天馬くん!一週間、お仕事お疲れ様!」
「……ん」
言葉は、それだけで十分だった。
一週間会えなかった寂しさと、ようやく顔を見られた安堵感。それはすずだけではなく、天馬も同じだったのだろう。
少し疲労の色が滲む天馬の薄い茶色の瞳が、すずを見つめてふわりと柔らかく緩む。
天馬の大きな手が伸びてきて、すずの頬をそっと包み込んだ。
すずもまた、引力に吸い寄せられるように天馬の服の袖をきゅっと掴み、ゆっくりと目を閉じる。
どちらからともなく顔を近づけ、二人は静かに唇を重ねた。
ちゅ、と。微かな音が薄暗い踊り場に落ちる。
久しぶりの体温。安心する甘いムスクの香り。
最初は、本当にただの、労うように触れ合うだけの優しいキスのつもりだったのだ。二人とも。
しかし――。
一度触れ合ってしまったその温もりが、冬から春にかけて「急がない」と必死に押さえ込んできた天馬のストッパーを、いともたやすく吹き飛ばしてしまうことになる。
重ねた唇から熱が伝染し、一週間分の飢えを満たすような、息もできないほどの激しいキスの嵐がすずを飲み込むまで――あと、数秒。
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毎日更新予定です。完結約束、ハッピーエンドです(^ ^)
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