唇が腫れるほどのキス。
※話を分割しました。
その日の夕方。
バイト帰りのすずを、天馬が迎えに来てくれた。
待ち合わせの場所に向かうと、スマホをいじりながら壁にもたれかかっている天馬を見て、すずの足がふっと止まった。
秋の天馬は、夏の無造作な姿とはまた別の格好よさがあった。
黒いキャップを深くかぶり、秋らしい落ち着いた色合いの長めのコートを羽織っている。背が高く、肩幅がしっかりしているから、丈の長いコートがモデルのように似合う。
すずの足音に気づいてスマホから顔を上げた天馬の、夏のTシャツ姿の少年っぽさとは違う、少し大人びた雰囲気に、すずは思わずドキリとして、しばらく見惚れてしまった。
近づくと、ふわりと、秋の冷たい風に混じって、天馬から微かに香水の匂いがした。
ウッディで、少し甘いムスクの香り。
いつもは柔軟剤の匂いしかしないのに、少し背伸びをして「大人の男」の領域に足を踏み入れたようなその香りに、すずの心臓が警鐘を鳴らす。
「何。めっちゃ見てくるやん」
天馬がキャップのつばを少し上げて、不思議そうにすずを見下ろした。
「……秋っぽいね」
「感想それ?」
「だって、かっこいいって言うの、恥ずかしくて……」
ぽつりと漏らした本音に、天馬の目が少しだけ見開かれた。
それから、嬉しさを隠しきれないように、たまらないというふうに口元が緩む。
「言えてるやん」
「あ」
すずは自分が口走ったことに気づき、ボンッと音がしそうなほど顔を赤くした。
◇
二人は武庫川沿いを歩いた。
秋の風は、夏よりもずっと涼しく、肌を撫でる空気が心地よい。川面に映る夕陽の光も、夏のような刺すような強さはなく、少しだけ柔らかかった。
歩きながら、すずは今日、中村楓が話してくれたことを天馬に伝えた。
日々、自分の刃を研ぐこと。
知識と体力。
自分に与えられた環境の中で、今できることを探すこと。
天馬は、すずの歩幅に合わせながら、黙って真剣に聞いていた。
そして、すずが話し終えると、立ち止まってすぐにポケットからスマホを取り出した。
「書いとく」
「え?」
「今の言葉。忘れたくないから」
天馬はメモアプリを開いて、長い指で素早く打ち込んでいく。
自分の刃を研ぐ。知識と体力。得意なことを磨く。
画面を見つめるその横顔は、真剣そのものだった。
「すごく響いた?」
「響いた。めっちゃいい言葉やな」
「わかるよ。すごくいいことだよね」
「うん」
「今の私たちに、一番必要な言葉だと思う」
天馬は深く頷き、スマホをポケットにしまった。
「二人で頑張ろう」
「うん」
二人は並んで歩いた。
秋の武庫川は、静かだった。
夏の花火の喧騒も、淡路島のきらめく海も、もう遠い記憶のようだ。でも、今のこの静かな風も、悪くない。
「お母さんは?」
天馬が、気遣うように少し声を落として聞いた。
「今は、見つかった癌を薬で抑えてる。十二月に、手術するって」
「十二月」
「うん。入院もまたするけど、ママは仕事も続けるって。今日みたいに」
「強いな、お母さん」
「うん。でも、無理してる時もあると思う」
「すずは?」
「私は……怖いけど、前よりは少し大丈夫」
「ほんまに?」
「ほんまに。天馬くんがいるから」
言ってから、すずはまた顔を赤くした。
でも、訂正はしなかった。本当のことだから。
天馬は少しだけ黙り、歩きながらすずの顔をじっと見つめた。
「俺も、頑張るわ」
「うん」
「教育大、受ける。あと、通信の大学も調べてる。教員免許、本気で取りに行く」
「うん」
「まだ足りへんこと多いけど」
「私も、足りないことばっかりだよ」
「じゃあ、研ぐしかないな。二人で」
「うん」
すずは力強く頷いた。
その時、天馬がぴたりと立ち止まった。
すずも数歩進んでから立ち止まり、振り返る。
天馬はそのまま、夕方の武庫川の川沿いの土手、草が短く刈られた場所に座り込んだ。すずの袖を軽く引き、隣に座るように促す。
足のすぐ下には、静かに武庫川が流れていた。涼しい風が吹く。
並んで座ると、肩や太ももが触れそうな距離感になり、またあの甘いムスクの香りが鼻腔をくすぐった。
天馬が、薄い茶色の瞳で、すずをじっと見ていた。
瞬きもせず、逃げ場を奪うような、深い眼差し。
「すず」
「うん?」
「キスしてもいい?」
心臓が、どくんと大きく鳴って、喉から飛び出しそうになった。
「えっ」
「夏の終わりに付き合い始めて、もう秋やけど」
「そ、そうだけど」
「すずの速度では、どれくらいでキスできるん?」
「私の速度って何!?」
「だって、まだ早いって言うから大事に待ってたんやけど。……限界近いねん」
「そ、そうだったっけ!?」
天馬は少しだけ真剣だった。
冗談やからかいで迫っているわけではない。本当に、すずのペースを測ろうとして、必死に理性を保っている顔だった。
それがわかるから、余計に困るし、愛おしい。
「……まだ、ちょっと」
「ちょっと?」
「心の準備が……」
「じゃあ、ほっぺから」
「また?」
「うん」
天馬は、すずが頷くのをじっと待った。
すずは迷って、手でスカートの裾をぎゅっと握りしめ、覚悟を決めるように少しだけ頷いた。
「……うん」
天馬は、そっとすずの頬に顔を寄せた。
右。
ちゅっ。
左。
ちゅっ。
前よりはずっと優しく、触れるだけのキス。
でも、そこから天馬は離れず、すずの吐息がかかる距離で止まった。香水の匂いが、すずをすっぽりと包み込む。
天馬のまつ毛の長さを数えられそうな距離。少しずつ、少しずつ、口元に近づいてくる。
「天馬くん」
「うん」
「だんだん、近い……」
天馬の薄い茶色の瞳が、「もう我慢できない」と言っていた。
普段は涼しげなその瞳が、今ははっきりと熱を帯び、すずの唇だけを見つめている。
すずは、ううう、と声にならない声を出した。
怖い。
恥ずかしい。
でも、嫌ではない。
嫌ではないどころか。自分も、触れたいと思ってしまっている。
その自分の欲望に気づいた瞬間、すずは頭が真っ白になった。
「すず?」
天馬が低く甘い声で名前を呼ぶ。
次の瞬間、すずは思考を放棄し、目をぎゅっとつむって、勢いだけで首を伸ばした。
そして、自分から天馬の口にキスをしようと飛び込んだ。
ゴチッ。
骨と歯がぶつかる、鈍い音がした。
「っ!」
「いっ!」
二人は同時に顔を離した。
すずは口元を押さえる。
天馬も額を押さえた。
「痛っ……」
「ご、ごめん!」
「歯、思いっきり当たった」
「ごめん! やり方がわからなくて、距離感間違えた!」
「いや、俺も油断した……」
二人でしばらく、痛みに悶えながら土手でうずくまった。
初めてのキスは、ロマンチックでも甘いわけでもなく、ただ物理的に痛かった。
すずは恥ずかしさと申し訳なさで、今すぐ目の前の武庫川に身を投げたくなった。
「もう無理、恥ずかしい、帰る……!」
「待って」
すずが立ち上がろうとした瞬間、天馬の大きな手がすずの手首を掴んだ。
振り返ると、天馬がすずをじっと見上げていた。
さっきより、少しだけ落ち着いた、けれど確実に熱を孕んだ目で。
「もう一回」
「え?」
「ちゃんとする」
「ちゃんと?」
「うん」
天馬は、すずの手を引いて座らせ直し、少しだけ近づいた。
でも、すぐには触れない。薄い茶色の瞳が、すずの瞳を射抜くように捉えて離さない。
「キスしていい?」
「……したやん、もう!」
「今のは事故」
「事故……」
「ちゃんとしたい。すずと」
すずは、天馬を見た。
風が吹く。秋の涼しい風が、二人の間を抜けていく。
武庫川の水面が、夕方の光を受けてきらきらと揺れていた。
心臓は、相変わらずうるさいくらいに鳴っている。
でも、不思議と、もう逃げたいとは思わなかった。
「……いいよ」
小さく言うと、天馬の目がふわりとやわらかくなった。
今度は、ゆっくりだった。
天馬の大きくて少しひんやりとした手が、すずの熱い頬にそっと触れる。
両手で顔を挟まれて、顔が近づく。
視界が天馬の顔で埋め尽くされ、香水の匂いが濃くなる。
すずはゆっくりと目を閉じた。
唇が、柔らかく触れた。
チュッ、と小さな音がして離れた。
今度は、痛くなかった。
優しくて、静かで、でも触れたところから火がつくように胸の奥がぎゅっとなる。
短いキスだった。それでも、すずには永遠のように長く感じた。
天馬が少しだけ離れ、すずの目を見る。
「大丈夫?」
「……う、うん」
「もう一回していい?」
「えっ」
「嫌ならやめる」
「嫌じゃ、ないけど」
「うん」
「でも、心臓が……もたない」
「俺も」
天馬は少しだけ自嘲気味に笑った。
その笑顔が、再び近づく。
また、天馬が両手ですずの頭をすっぽりと包み込むように掴んだ。
そして、すずの唇を少しだけ開かせるように、まるで、甘いお菓子を食べるかのように、深く唇を重ねた。
すずはまた目を閉じた。
ちゅっ。
角度を変えて、もう一度深く、チュッと水っぽい音が鳴る。
「……っ!」
すずの肩がビクッと跳ねた。
天馬が、少しだけ強く舌をねじ込んできたのだ。
未体験の生々しい感触と熱に、すずの頭が痺れる。
離れても、すぐに天馬の唇が吸い付いてくる。すずの唇を味わうように、少し強引に、何度も。
普段のぶっきらぼうな天馬からは想像もつかないほどの執着心で、天馬はすずから離れられなくなっていた。
すずはすずで、息の仕方がわからなくなっていた。
天馬のコートの胸ぐらをぎゅっと掴む。
「く、苦しい……」
すずが口の端から小さく喘ぐように言うと、天馬がようやく唇を離して、低く掠れた声で笑った。
「鼻で息吸ってください」
「なんで敬語……?」
「俺も、まったく余裕ないから」
「余裕ない人の台詞じゃない……」
「ほんまにない。頭飛ぶわ」
至近距離で見つめ合うと、天馬の耳が夕焼けよりも赤く染まっていた。
それを見て、すずは少しだけ安心した。
自分だけがぐちゃぐちゃになっているわけではない。天馬も、同じように心臓を鳴らし、余裕をなくしている。
そう思うと、少しだけ勇気が出た。
「……もう一回だけ」
すずが潤んだ上目遣いで言うと、天馬は一瞬だけ息を呑んで固まった。
「すずから言うんやば」
「言ったらだめ?」
「だめじゃない。……すごい」
「何が?」
「俺の理性が、試されてる」
「じゃあ、やめる」
「やめない」
天馬は慌てたようにすずの腰を引き寄せた。
すずは思わず笑ってしまった。
そして、三度目のキスをした。
ちゅ……。
今度も、深く、長いキスになった。
息が苦しくて、すずは天馬の背中に腕を回してコート越しに服を掴む。
時々息継ぎのために離れても、角度をかえて、まるで磁石のようにすぐに吸い付いてくる天馬に、すずはキスをされながら思わず微笑んでしまう。
「ふふ…。」
「やばい、やめられへん」
「っ!」
天馬は離れることができなかった。
秋の涼しい風が、武庫川を渡って吹いていた。
川面には夕方の光が揺れている。
夏のような焦がす熱ではない。
けれど、天馬のコートの布擦れの音とともに伝わってくるのは、確かに温かくて、甘くて、少しだけ大人びた熱だった。それが、すずの胸の奥に満ちていく。
母の病気が消えたわけではない。
十二月の手術がなくなるわけでもない。
怖さも、不安も、これからもずっとある。
それでも。
すずは、生きていていいのだと思った。
嬉しいことを受け取っていい。
誰かを好きになっていい。
キスをして、笑って、明日も頑張ろうと思っていい。
天馬が、名残惜しそうに唇を離し、額をこつんとすずの額に当てた。
互いの荒い呼吸が混ざり合う。
触れ合った唇が、ジンジンと熱い。
「すず」
「うん」
「頑張ろうな」
「うん」
「刃、研ぐ」
「……うん」
「でも今日は、もうちょっとだけ、このまま」
「……うん」
二人は武庫川の涼しい風の中で、天馬のコートに包まれるようにして、もう少しだけ寄り添っていた。
秋の夕暮れは、夏よりも静かで、少しだけ、優しかった。
リアクションや、★に変えていただけると、執筆の励みになります^^
感想、ご指摘、ブクマも大歓迎です!
毎日21時更新予定です。完結約束、ハッピーエンドです(^ ^)




