刃を研ぐ。(圭太ではないよね)
秋になった。
夏の終わりに恋人同士になったすずと天馬は、あの武庫川の夕暮れの日以来、少しだけ距離が近くなった。
とはいえ、すずの心臓は相変わらず弱い。
肩が触れる距離を歩いたり、手を繋いだりするだけで全身が緊張するし、天馬が甘い声で「可愛い」と言うたびに、まだ恥ずかしくて逃げたくなる。
けれど、逃げたくなるのに、会いたい。
そのどうしようもない矛盾にも、すずは少しずつ慣れてきた。
玲花は、あれから陸にすっかり見張られるようになった。
「食え」
昼休みになると、陸は当然のように玲花の机にこれでもかと食べ物を置く。
おにぎり。
ゆで卵。
野菜ジュース。
チーズ。
サラダチキン。
時々、季節感を取り入れた焼き芋まで並ぶ。
「太るー!」
玲花は毎回、本気で嫌そうな顔をして文句を言う。
「太れ」
陸も毎回、一切の妥協を許さない真顔で同じように返す。
それだけでは足りないのか、陸は時々、玲花の弟たちもまとめて焼肉へ連れて行っているらしい。
「え、弟くんたちも?」
すずが驚いて目を丸くすると、玲花は少し照れたように頬を膨らませた。
「そう。陸がうるさいねん。育ち盛りがカップラーメンばっか食うなって」
「いいことじゃん。優しいね」
「いいことやけど、あいつ肉焼く順番まで管理してくるねんで? まずタン、次ロース、野菜も食え、白飯は一杯までとか。完全に網の上の独裁者や」
「完全にお父さんだね」
「やろ!?」
玲花が声を大きくした途端、少し離れた自分の席でノートを開いていた陸が、低く凄むような声で言う。
「聞こえてるぞ」
「聞こえるように言ってるもん!」
「……焼肉、次はなしやな」
「嘘! ごめんなさい陸様!」
「様つけたら済むと思うな」
玲花はケラケラと笑っていた。
夏の終わりに病院のベッドで倒れていた日の、あの子どもみたいな泣き声や青白い顔は、今の玲花からは少し遠く見えた。
でも、すずは忘れていない。
陸も、たぶん絶対に忘れていない。
だから、これほどまでに過保護に世話を焼き、焼肉へ連れて行くのだと思った。
一方、圭太には、思いもよらぬ形で天馬と付き合っていることを伝えることになってしまった。
ある日のバイト終わり。出産したばかりの奥さんを手伝って、時々双子ちゃんにミルクをあげさせてもらえることになったのだ。
温かくて、小さくて、ミルクの匂いがする双子ちゃんは可愛くて可愛くて、すずは毎日のようにミルクをあげたがった。
圭太の家の子どもたちもすっかり懐いて、すずをみると「すーちゃん!」と抱きついてくるようになっていた。
「可愛い……! 私、赤ちゃん大好きです。私もいつか赤ちゃんが欲しいです」
すずが哺乳瓶を持ちながら幸せそうに微笑むと、奥さんが、休憩ゾーンにいる圭太にもわざと聞こえるような大きな声を出した。
「うふふ、その前にすずちゃん、彼氏作らないとあかんやん」
それが、特大の地雷となってしまった。
「あ、いますよ彼氏」
すずが何気なく答えた瞬間。
「「「ええ!!!」」」
厨房にいた店長も、目の前の奥さんも、そして休憩ゾーンでジュースを飲んでいた圭太も、全員が揃って大声をあげた。
「おぎゃあああああ!」
大人の叫び声に驚いて、双子ちゃんが泣き出す。
「え、まってまってそれって誰?!(圭太ではないよね)」
奥さんが慌てて身を乗り出す。
「え、あの……学校の、子です。天馬くんっていう……」
「〜〜〜〜はぁ……っ」
圭太が、この世の終わりのような、声にならない絶望の息を吐き出した。
店長が無言で近づき、哀れな圭太の肩をポンと優しく叩くのであった。
***
母は、入退院を繰り返しながらも、仕事を続けていた。
体調の良い日は時短勤務。
通院の前後は在宅勤務。
抗がん剤の予定や、十二月に予定されている手術の説明を受けながらも、ダイニングテーブルにパソコンを開いて仕事をしている。
「ママ、無理してない?」
すずが心配して聞くと、母はパソコン用の眼鏡を少し上げて笑った。
「してる」
「してるんや」
「でも、仕事してる方が気が紛れる日もあるねん」
「そうなの?」
「病人だけやってると、しんどい。会社員もやってる方が、ママは楽なんよ」
そう言われると、すずは何も言えなかった。
母は、ただの「病気の人」ではない。
すずの母で、会社員で、保険の仕事をしていて、時々小言を言いすぎる人で、プリンが好きな人。
その全部が、母なのだと思った。
ある日の午後、家に大きな胡蝶蘭が届いた。
白くて立派な花が、これでもかというほど何本も並んでいる。
木札には、母の会社の名前と『代表取締役社長』の文字が堂々と書かれていた。
「すご……」
すずはスマホで同じような胡蝶蘭の値段を検索して、あまりの桁に目を剥いた。
「ママ! これ、めっちゃ高い! 何万円もする!」
「高いやろなぁ。社長名義の特注やからな」
「え、会社ってこんなの送ってくれるの?」
「退院祝いと、復帰祝いと、応援やろ。ありがたいな」
母はそう言って、誇らしげに、でも少しだけ目を細めた。
その数日後。
母は朝から、体調が良いからと掃除に余念がなかった。
ピンポーン。
チャイムが鳴った。
すずが玄関を開けると、そこに中村楓が立っていた。
秋の涼しさに合わせた、仕立ての良い灰色のウールスーツ。一糸乱れずきちんと整えられた髪。相変わらず、名刺の端から靴の先まで美しそうな人だった。
片手には、色鮮やかな大きな花束。
そしてもう片方には、なぜか重そうなゴルフバッグを提げている。
「こんにちは。突然押しかけて申し訳ありません」
中村は深々と丁寧に頭を下げた。
「中村さん!」
「お母様はいらっしゃいますか」
「あ、はい。ママ!」
リビングから、少し身なりを整えた母が出てきた。
「部長、ありがとうございます。わざわざこんな遠くまで」
「いいえ。お見舞いと、少し仕事の確認をと思いまして」
中村は、花束を差し出した。
「復帰、本当におめでとうございます。まだ治療中のところ恐縮ですが、どうしても直接お顔を見たくて」
「そんな、わざわざ……」
「それと、こちらを」
中村は、ドンッとゴルフバッグを少し前へ出した。
すずは目を丸くした。
「ゴルフバッグ?」
「健康になったら、また一緒に回ってください」
中村は一切の冗談の気配がない真面目な顔で言った。
「お母様は、社内のゴルフコンペではなかなか手強い方ですから。いらっしゃらないと張合いがない」
母は驚いたあと、ふっと楽しそうに笑った。
「病人にプレッシャーかけるねぇ」
「元気になって戻ってきていただく理由は、多い方がいいかと」
「ほんま、営業うまいですよね」
「営業ではありません。本心です」
中村はそう言って、少し照れたようにスッと視線を逸らした。
リビングに通された中村は、鞄からノートパソコンと分厚い資料を取り出した。
「押しかけて申し訳ありません。ただ、こればかりはお母様にしかわからないことでして」
「団体保険の更新ですよね?」
「はい。大手飲料会社様の社員全員分の更新です」
母は、ソファ横の小さなテーブルに手際よく自分のパソコンを置いた。
「在宅勤務中と言うことで、今は仕事中ですから。やりましょう」
「ありがとうございます」
すずは、二人にお茶を出しながら、そっと画面を覗いた。
エクセルの表。
細かい数字と名前と記号が、画面いっぱいにびっしり並んでいる。それとは別に、見たこともない専門的なシステムの画面も開いている。
母と中村は、まるで別の言語を話しているみたいに、淀みなく次々と確認を進めていった。
「この列が旧プランで、こっちが新プランですね」
「はい。更新対象はこのフィルターでかけています」
「年齢が上がって掛金変わる人は、ここで確認しないと」
「この会社、毎年ここで引っかかるんです」
「覚えておられるんですね」
「もちろん」
母の指が、キーボードの上を迷いなく、カタカタと小気味良い音を立てて動く。
すずは、母が仕事をしている姿を見るのが好きだった。
病院のベッドで点滴を打たれ、弱っている母とは違う。
家で「早くお風呂入りなさい」と小言を言う母とも違う。
画面の中の無数の数字と、見知らぬ誰かの生活を結びつけて、きちんとその人生を守ろうとしている、プロフェッショナルの顔だった。
更新作業の途中、しばらくはシステムが自動稼働することとなり、母が少し休憩することになった。
中村はすずが出したカップのお茶を持ち、すずの方へ顔を向けた。
「すずさんは、学校はいかがですか」
「えっと、ぼちぼちです。なんとか通ってます」
「進路は?」
「それが、まだ少し悩んでいて」
すずは、自分の手元のカップを見つめた。
ふわりと、温かいお茶の湯気が上がる。
「教育とか、保育とか、そういう子どもに関わる方向に行きたい気持ちはあるんです。でも、悩んでるだけで、今、自分が何をしたらいいのか、わからなくなる時があります」
「なるほど」
「ママのこともあるし……私、今、何を頑張ればいいのかなって。焦るばかりで」
中村は、少し考えるように伏し目がちになった。
それから、静かに、通る声で言った。
「すずさんは、今お母さんがされた契約がいくらになるか、知ってますか?」
「え、いいえ……」
「今日は、大手企業と契約を結んでいる団体保険契約という商品です。この団体保険契約の、日本生命の契約高ベースでは100兆円を超えます」
「ひゃ!?」
すずは思わず変な声を出した。
中村楓はふふ、と笑って、「国内トップクラスのシェアを持っています。その膨大な責任の一部を、お母さんは担っているんです」と平然と言った。
「さて、話を戻しますが、僕やお母さんがこのような責任ある仕事をできているのは、学生時代に、自分の『刃』を研いできたからです」
すずは瞬きをした。
「刃?」
「はい」
中村はカップをソーサーに置いた。カチャリと静かな音が鳴る。
「たとえば、僕は学生時代、数学と経済が得意でした。そして、社会で活躍したかった。だから、その刃を徹底的に研ぎました」
「研ぐって、どういうことですか?」
「数学と経済を専門に学ぶ大学へ進みました。数字の裏を見る力、社会の仕組みを読む力をひたすら磨いた。そして、剣道部に入って体力をつけました」
「剣道部?」
「はい。仕事は知識だけでは絶対に続きません。土壇場で踏ん張る体力が必要です」
中村は穏やかに、しかし力強く笑った。
「今こうして保険の仕事で全国を走り回れているのは、学生時代に磨いた知識という刃と、体力があるからです」
すずは、黙って引き込まれるように聞いていた。
「君の得意なことや、好きなことは何ですか」
「私の?」
「はい」
「……ピアノと、料理と……あと、双子ちゃんとか、子どもたちのお世話も好きです」
「なら、それと君自身が、君の刃です」
すずは、胸の奥でゴーンと鐘が鳴ったような気がした。
「ピアノ。料理。子どもたちのお世話。家庭の中で誰かのために役割を持ってきたこと。お母様の病気を通して、生活と仕事と医療の過酷な現実を、その目で見ていること。それらは、全部、君の強力な刃になる」
「私自身も?」
「もちろん」
中村の声は、静かだった。
でも、確かな自信と、不思議な強さがあった。
「体を元気にするために、体力をつける。得意なことを磨く。特技を使える場所を探す。そうやって、自分の刃を研ぐというのは、特別なことではなく、毎日の積み重ねなんです」
すずは、何も言えなかった。
「幸いにも、君にはお母様がしっかりしておられる。住む家も、食べるものもある。もちろん、全日制高校に通っていないことがハンデに感じられる場面は、この先あるかもしれません」
中村は、まっすぐすずの目を見た。
「でも、自分に与えられた今の環境の中で、君の刃を研ぐことは十分に可能です。なので、何ができるか迷って悩んだ日には、『今日は自分の刃を研ぐ日にしよう』と思えばいいでしょう」
すずの胸が、じんわりと熱くなった。
視界が少し滲む。
隣を見ると、母も目を潤ませていた。
「部長……」
母が、ひどく感動した、震える声を出す。
その空気に、中村は急に照れくさそうに少し慌てた。
「いやいや、そんな大層なことは言ってませんから。ただの一般論です」
「いやいや、だいぶ良いこと言いました。泣きそうです」
「職業柄、つい熱くなってしまって」
「さすが、総合法人部長!」
中村は困ったように、でも嬉しそうに笑った。
システムの更新作業が無事に終わる頃には、すっかり夕方になっていた。
中村はパソコンを鞄にしまい、玄関に置いたゴルフバッグの方を見た。
「元気になって戻ってきてくださったら、お礼にゴルフでも一緒に回ってください」
「それ、お礼なります? 私、手加減しませんよ?」
「僕にとっては、最高のお礼です」
「考えときます」
「はい。いつまでもお待ちしております」
中村は丁寧に頭を下げ、美しい所作で帰っていった。
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