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神戸駆けるバンビ! 〜奈良県民JK、ギャルとワイルド系イケメンのいる定時制高校に放牧される〜  作者: みょんたま


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47/73

武庫川の眼鏡橋は、キスの聖地。

 土曜日。

『ベーカリーツバメ』の朝は、相変わらず目が回るほど忙しかった。


 焼きたての食パン。バターが香るクロワッサン。揚げたてのカレーパン。

 レジに並ぶ常連さんたちに笑顔を向けながら、すずは袋詰めをしつつ、何度も壁の時計を盗み見てしまっていた。


 恋人になってから、初めての土曜日。


 恋人。

 その言葉を頭の中で反芻するだけで、胸の奥が甘く疼いて、変な音を立てた。

 自分で思うだけで、顔がカッと熱くなる。


「すーちゃん、顔赤いよ。熱ある?」

 奥さんに心配されて、すずは慌てて首を横に振った。

「あ、暑いだけです! オーブンの前だったから!」

「ほんとに?」

「ほんとですっ」

 

 奥さんはオーブンなど全く見ていない。にこにこと目を細め、絶対にすべてを察している顔だった。


「あの、その顔やめてください」

「どの顔?」

「全部わかってます、青春ですね、みたいな顔です」

「ふふっ」

 

 奥さんはそれ以上何も言わなかったが、その優しいからかいが、かえってすずの羞恥心を煽った。


 昼前、ピークが落ち着いた頃、エプロンのポケットでスマホが震えた。


【tenma:今日、会いたい】


 すずは、トングを落としそうになった。

 短い。あまりにも直球すぎる。

 でも、そのまっすぐさがたまらなく嬉しかった。すずはレジ裏の死角に入り、こっそりと返信を打つ。


【suzu:私も会いたい】


 送ってから、すぐにスマホを伏せて胸に押し当てた。

 心臓がうるさい。たったこれだけのやり取りで、どうしてこんなに息が苦しくなるのだろう。


 バイトが終わると、すずは更衣室で制服から私服に着替えた。

 白いブラウスに、淡いブルーのふんわりとしたスカート。髪はおろして、少しだけ巻いてある。

 

 鏡の前で、何度も自分の姿を確認する。

 変じゃない。たぶん。大丈夫。

 すずは深呼吸して、店を飛び出した。


 待ち合わせは、武庫川の眼鏡橋の近く。

 夕方にはまだ少し早い時間だったけれど、川沿いにはもう、秋の始まりを思わせる柔らかいオレンジ色の光が差していた。

 風が吹く。川面がきらきらと揺れる。


 橋の近くの土手。

 そこに、黒いTシャツに薄手のシャツを羽織った天馬が、すでに立って待っていた。背が高く、遠目からでも目を引く。

 すずを見つけた瞬間、天馬の少し不機嫌そうな顔が、ふわりと柔らかく崩れた。


「お疲れ」

「お待たせ!」

「待ってない」

「絶対待ってたよね。」

「待ったけど、待ってない」

「どゆこと?」

「早く会いたかったから、俺が勝手に早く来ただけ」


 さらりと放たれた言葉に、すずは一瞬で顔を赤くした。


「……そういうの、急に言わないで」

「恋人やし」

「恋人って言葉も、急に言わないでっ」

「事実やろ」


 天馬は、少し得意そうに笑った。

 昨日までと同じ天馬なのに、同じ川沿いで、同じ低い声なのに。恋人になった途端、何もかもが新しくて、ドキドキする。


 天馬は手に持っていたコンビニの袋を軽く掲げた。


「腹減ってる?」

「まだ大丈夫かな」

「ほんまに?」

「ほんまに」

「じゃあ、あとで。パン残ってるやろうし」

「買ってくれてるんだ」

「父さんの教え」

「また出た」

「絶賛、実行中」


 すずはふふっと笑った。

 二人で、夕陽が長く伸びる川沿いをゆっくりと歩く。

 眼鏡橋のあたりまで来ると、水面が黄金色に輝いていた。


 天馬がふいに立ち止まり、言った。


「写真撮る?」

「写真?」

「うん」

「いいよ。景色?」

「ううん」


 天馬はスマホを取り出し、何気ない顔で爆弾を落とした。


「インスタに上げて。彼氏できましたって」


 すずはピタッと固まった。


「えっ、そういうの面倒……」


 言った瞬間、天馬の顔が、捨てられた子犬のように曇った。


「面倒?」

「あ、いや、そういう意味じゃなくて!」


「じゃあ、いつ圭太とか、遥に言うねん」

「い、いちいち言いません!」


「なんで」

「恥ずかしいから!」


「言わんかったら、いつまでもすずに言い寄ってくるやろ」

「言い寄られてなんかいません」


「圭太は言い寄ってる。絶対」

「圭太くんは、誰にでも優しいだけで……」


「それが一番あかん」

「なんで?」


「優しい顔して、スルッと距離詰めてくるから」

「天馬くんもめちゃくちゃ距離詰めてくるけど!?」


「俺は彼氏」


 すずは言葉に詰まった。

 天馬は少しだけ顎を引き、じっとすずを見下ろした。

 薄い茶色の瞳。いつもなら少し意地悪に見えるその目が、今はどこか不安そうに揺れている。


「……俺、ちゃんと彼氏ってわかるようにしたい」

「天馬くん……」

「すずが恥ずかしいのはわかるけど。でも、圭太にも、遥にも、他のやつにも、ちゃんと知ってほしい」


 大きな犬が、雨に濡れてクーンと鳴いているみたいだった。

 黒い服で、背が高くて、顔が綺麗で、目つきは少し怖いのに。今の天馬は、完全にすずに甘えて、不安がっている。


 すずは、完全に負けた。


「……写真だけ、なら」


 天馬の顔に、ぱぁっと光が差した。


「撮る?」

「撮るだけ。上げるかは、あとで考えるます」

「わかった」


「絶対、今すぐストーリーに投稿とかしないからね」

「わかった」


 絶対わかっていない顔だった。

 それでも、二人は夕焼けの武庫川を背にして並んだ。

 天馬がインカメラでスマホを構える。


「近づいて」

「近い」

「写真やし」

「写真って怖いね……」


 天馬は、空いている方の手で、すずの手をそっと取った。

「これ」

「え?」

 すずの指と、自分の指を合わせて、不器用なハートの形を作る。


「ハ、ハート!?」

「うん」

「え、無理。恥ずかしい恥ずかしい」

「一枚だけ」

「本当に一枚だけだよ!?」


 夕焼けの中、二人の指で作ったいびつな小さなハート。

 その向こうに、武庫川の黄金色の水面。

 カシャッ、とシャッター音が鳴った。

 画面を見せられた瞬間、すずは両手で顔を覆った。


「だめ! やっぱりだめ! 恥ずかしすぎる!」


「可愛い」

「可愛いじゃなくて!」


「上げたい」

「だめってば!」


「じゃあ、せめて」

「何?」


「次、誰かに遊び誘われたら言って」

「何を?」


「『彼氏が怒るから無理』って」

「そんな悪役みたいな言い方するの!?」


「うん」

「いや、それはちょっと……」


「じゃあ、『彼氏がいるので無理です』」

「それも恥ずかしい」


「じゃあ、『天馬くんが嫌がるから無理』」

「一番恥ずかしい!」


 天馬がまた、クーンと鳴きそうな目になる。


「……だめ?」


 すずは胸を押さえた。ずるい。そんな顔をされたら、勝てるわけがない。


「わ、わかった」

「ほんまに?」


「もし、次にそういう誘いがあったら、ちゃんと言います……」

「何て?」


「か、彼氏が……」

「うん」


「彼氏が怒るから、無理……」


 声がどんどん小さくなる。

 天馬の口元が、たまらないというように緩んだ。


「よし」

「よしじゃないよ。恥ずかしい」


 すずは少し武庫川を見つめて言った。


「……天馬くんも、そうしてくださいね」

 言ってから、自分で驚いた。独占欲を丸出しにしてしまった。

 天馬も少し驚いた顔をして、それから、信じられないくらい嬉しそうに、ふにゃりと笑った。


「うん」

「な、なんで嬉しそうなの?」


「めっちゃ嬉しい」

「そっか」


「すず、俺が他の子と会ったりしたら嫌がる?」

「嫌がる、というか……他の人に、優しくしてたら、嫌です」


 天馬は一瞬、言葉を失ったように黙った。

 それから、顔を片手で覆って、天を仰いだ。


「……無理」

「え?」


「可愛すぎる」

「だから、そういうの!」


「ほっぺ、いい?」

「また!?」


「うん」

「……一回だけだよ」


「どっち?」

「え?」


「右? 左?」

「どっちでも」


「じゃあ、両方」

「一回だけって言ったよね!?」


「右と左で一回ずつ」

「計算がおかしい」


 それでも、天馬はちゃんと待っていた。

 すずが、顔を真っ赤にしながら小さく頷くまで、決して無理に近づいてこない。

 そういう誠実なところが、本当に好きだと思ってしまう。


「……いいよ」


 すずが目を閉じると、天馬はすぐに顔を寄せた。

 右の頬に、ちゅっ。

 左の頬に、ちゅっ。

 そして、もう一度右の頬に、ちゅっ。


「天馬くん!」

「右、左、右」


「増えてる!」

「最後は予備」


「予備って何!?」


 すずが真っ赤になって抗議した、その時だった。

 橋の方から歩いてきたおじさん二人が、二人の横を通り過ぎながら、にこにこと笑いかけてきた。阪神タイガースの応援がえりのようで、二人とも応援用ハッピとメガホンを首から下げている。


「若いなー!」

「兄ちゃんそこは口にいけやぶっちゅうううううっと!!!」


 すずは石のように固まった。天馬も、一瞬だけビクッと固まった。

 おじさんたちはさらに楽しそうに続ける。


「青春や!」

「いやー俺も昔はここでキッスした!」

「お前の初めての彼女な!」

「そう!自転車でいつも送ったってんけどなー若かったから、全くしんどなかったわ!」

「若さやのうて、惚れた弱みじゃろがい」

「いややー!恥ずかしくなってきた!」

「いやー何年前?もうここはずっとキスの聖地やな!」

「50年前か!?」

「そら歳もとるわいや!!」

「「ガハハハ!!!!」」


「す、すみませんっ!!」


 なぜ謝っているのかわからないまま、すずは深く頭を下げた。

 おじさんたちは六甲おろしを歌いながら去っていく。

 すずはその場にしゃがみ込み、両手で顔を覆った。


「もう無理……死にたい……」

 見上げると、天馬は顔を背けていた。しかし、よく見ると、耳が真っ赤に染まっている。


「天馬くんも照れてる」

「照れてない」


「耳、真っ赤」

「夕陽のせいや」


「絶対違う」


 すずは笑った。天馬も、耐えきれずに少しだけ笑った。

 武庫川の秋風が心地よく吹き抜ける。

 夕焼けは、さっきよりも濃く、世界を優しく包み込んでいた。


 この甘くて、くすぐったくて、幸せな瞬間が、ずっと続けばいいのに。

 すずは、心の底からそう思った。


 ブーッ、ブーッ。


 その時、すずのバッグの中でスマホが震えた。

 甘い空気を切り裂くような、無機質なバイブレーション。

 画面を見ると、母からだった。

 すずは少しだけ首を傾げる。


「ママだ」

「出て」

「うん」


 通話ボタンを押す。


「もしもし、ママ?」


『すず』


 母の声は、いつもよりずっと静かだった。

 静かすぎて、不自然だった。

 それだけで、すずの背筋を冷たいものがスーッと撫でた。


「どうしたの?」

『今、どこ?』

「武庫川。バイト帰りに、ちょっと」

『そう』


 母は、重苦しい間を置いた。


『帰ってこられる?』

「うん。すぐ帰るけど」

『できれば、まっすぐ病院に来てほしい』


 すずの手が、ピタッと止まった。


「病院?」

 横にいた天馬が、異変を察知してこちらを見る。

『紗英姉ちゃんも一緒にいる』

「ママ、何かあったの?」


 喉が急にカラカラに乾く。

 さっきまであんなに甘くてピンク色だった世界が、すーっと血の気を失い、遠のいていく。


 母は、電話の向こうで、震える息をゆっくりと吸い込んだ。


『今日、検査の結果を聞いてきたんやけどね』

「……うん」

『転移が、見つかったって』


 音が、消えた。


 川のせせらぎも。

 土手を走る車の音も。

 風が草を揺らす音も。

 全部が、遠い世界のことになった。


「……転移」

『うん』

「それって……」

『再入院になると思う。治療のこと、先生から説明があるから、すずにも一緒に聞いてほしくて』


 すずは何かを言おうとした。

 でも、喉がひくつくだけで、言葉が出なかった。

 手から力が抜け、スマホが滑り落ちそうになる。

 咄嗟に、天馬の大きな手が、すずの手ごとスマホを支えてくれた。


「すず」

 天馬の呼ぶ声と、スマホから漏れる母の声が混ざる。


『すず、大丈夫?』

「……うん」


 大丈夫なわけがない。

 でも、そう言うしかなかった。


「今から、行く」

『ごめんね』

「謝らないでよ」

『うん』

「すぐ行くから」


 通話が切れた。

 すずは、スマホを握りしめたまま、足の裏が地面から浮いているような感覚に陥っていた。


 夕陽が綺麗だった。

 さっきまで、天馬と笑っていた。

 彼氏がどうとか、写真が恥ずかしいとか、ほっぺにキスされたとか。

 そんなことで、顔を赤くして浮かれていた。


 その同じ時間に。

 母の癌の、転移がわかった。


 体の中が、急速に冷たくなっていく。


「すず」

 天馬の低い声がした。

「病院?」


 すずは、操り人形のように頷いた。


「ママ、転移が見つかったって」

 口にした瞬間、現実味が押し寄せてきて、視界がぼやけた。

「再入院、だって」


 天馬は、一瞬だけ表情を強張らせた。

 でも、すぐに迷うことなく動いた。


「行こ」

「でも……」

「行く」

「天馬くんは……」

「一緒に行く」


 すずは、激しく首を振った。


「いい。大丈夫」

「大丈夫じゃない顔してる」

「でも、こんな時に」


 言葉が震え、涙が頬を伝う。


「こんな時に、恋愛してる場合じゃない……っ」


 言ってしまった。

 さっきまであんなに浮かれていた自分が、急に酷く醜いものに思えて、恥ずかしくてたまらなかった。


 母が大変な時に。

 癌が転移して、命が削られている時に。

 再入院して、またあの苦しい治療が始まるというのに。

 自分は、彼氏ができたとか、キスとか、そんなことで頭をいっぱいにしていた。


 最低だ。

 そう思った。

 すずは、天馬から一歩下がろうとした。


「ごめん。私、今、天馬くんと……」

「すず」


 天馬が、すずの手首をガシッと掴んだ。

 痛くはない。でも、絶対に離さないという強い意志がこもった手だった。


「別れるんじゃなくて、支えたい」


 すずは、涙で滲む目を上げた。


「……え?」

「『恋愛してる場合じゃない』ってすずが思うのは、わかる」


 天馬の声は低かった。

 でも、いつもよりずっと、ずっと優しく、深く響いた。


「でも、俺は、こういう時に離れるために付き合ったんちゃう」

「……っ」

「楽しい時だけそばにおるんやったら、友達でもできる」


 冷たくなり始めた武庫川の風が、二人の間を吹き抜けた。


「しんどい時に、そばにいたい」


 すずの目から、せき止めていた涙が次々とこぼれ落ちた。


「でも、迷惑かける……っ」

「かけて」

「天馬くんまで、しんどくなる」

「なるかもしれん。でも、すずが一人で抱えるよりマシや」


 天馬は、手首から手を滑らせ、すずの震える手をしっかりと握り直した。


「俺、まだガキやし、何もできへんかもしれん。医者でもないし、金もないし、車もないし、何の役にも立たん時もあると思う」

「そんなこと……」

「でも、病院まで一緒に行くことはできる。隣に座ることはできる。すずが泣くなら、泣いてる間、ずっとそばにおることはできる」


 すずは、もう我慢できなかった。

 張り詰めていた糸が切れ、胸の奥がぐしゃぐしゃになって、嗚咽が漏れた。


「ママ、やっと帰ってきたのに……っ」

「うん」


 天馬は、無責任に「大丈夫」とも言わなかった。

 ただ、泣き崩れそうなすずを、力強く抱き寄せた。

 武庫川の夕焼けの中で、すずは天馬の広い胸に顔を押し当て、子どものように泣いた。


「怖いよ……」

「うん」


 天馬の腕に、さらに力がこもった。

 すずを絶対に壊させないというように、きつく抱きしめる。


「お母さんのことが大事なんと、俺といて嬉しいのは、別の話やろ」


 すずは、はっとした。

 別の話。

 玲花が倒れた時に、天馬が言った言葉。


 心配も本当。

 嫉妬も本当。

 どちらかが嘘になるわけじゃない。


 母が大事なことと。

 天馬を好きなこと。

 どちらかを選ばなければいけないわけではない。


 すずは、天馬の黒いTシャツをぎゅっと掴んだ。

 涙が止まらない。

 でも、ひとりで絶望の中に立っている時の冷たい涙とは違った。

 天馬の腕の中で泣くと、少しだけ、息をすることができた。


「病院、行こ」

 天馬が、すずの背中を優しく撫でながら言った。


「……うん」

「手、繋いでいい?」


 こんな時なのに。

 こんな時だからこそ。

 すずは、涙を拭いながら小さく頷いた。


「うん」


 天馬は、すずの冷たくなった手を、自分の大きくて温かい手でしっかりと握りしめた。

 夕焼けの武庫川を背に、二人は病院へ向かって歩き出した。


 恋人になった日の夕方。

 甘い幸せのすぐあとに、残酷な現実が牙を剥いた。

 でも、その冷たい現実の中で、すずはもう、ひとりではなかった。

リアクションや、☆☆☆☆☆を★★★★★に変えていただけると、執筆の励みになります^^

感想、ご指摘、ブクマも大歓迎です!

毎日更新予定です。完結約束、ハッピーエンドです(^ ^)

よろしくお願いします!

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