武庫川の眼鏡橋は、キスの聖地。
土曜日。
『ベーカリーツバメ』の朝は、相変わらず目が回るほど忙しかった。
焼きたての食パン。バターが香るクロワッサン。揚げたてのカレーパン。
レジに並ぶ常連さんたちに笑顔を向けながら、すずは袋詰めをしつつ、何度も壁の時計を盗み見てしまっていた。
恋人になってから、初めての土曜日。
恋人。
その言葉を頭の中で反芻するだけで、胸の奥が甘く疼いて、変な音を立てた。
自分で思うだけで、顔がカッと熱くなる。
「すーちゃん、顔赤いよ。熱ある?」
奥さんに心配されて、すずは慌てて首を横に振った。
「あ、暑いだけです! オーブンの前だったから!」
「ほんとに?」
「ほんとですっ」
奥さんはオーブンなど全く見ていない。にこにこと目を細め、絶対にすべてを察している顔だった。
「あの、その顔やめてください」
「どの顔?」
「全部わかってます、青春ですね、みたいな顔です」
「ふふっ」
奥さんはそれ以上何も言わなかったが、その優しいからかいが、かえってすずの羞恥心を煽った。
昼前、ピークが落ち着いた頃、エプロンのポケットでスマホが震えた。
【tenma:今日、会いたい】
すずは、トングを落としそうになった。
短い。あまりにも直球すぎる。
でも、そのまっすぐさがたまらなく嬉しかった。すずはレジ裏の死角に入り、こっそりと返信を打つ。
【suzu:私も会いたい】
送ってから、すぐにスマホを伏せて胸に押し当てた。
心臓がうるさい。たったこれだけのやり取りで、どうしてこんなに息が苦しくなるのだろう。
バイトが終わると、すずは更衣室で制服から私服に着替えた。
白いブラウスに、淡いブルーのふんわりとしたスカート。髪はおろして、少しだけ巻いてある。
鏡の前で、何度も自分の姿を確認する。
変じゃない。たぶん。大丈夫。
すずは深呼吸して、店を飛び出した。
待ち合わせは、武庫川の眼鏡橋の近く。
夕方にはまだ少し早い時間だったけれど、川沿いにはもう、秋の始まりを思わせる柔らかいオレンジ色の光が差していた。
風が吹く。川面がきらきらと揺れる。
橋の近くの土手。
そこに、黒いTシャツに薄手のシャツを羽織った天馬が、すでに立って待っていた。背が高く、遠目からでも目を引く。
すずを見つけた瞬間、天馬の少し不機嫌そうな顔が、ふわりと柔らかく崩れた。
「お疲れ」
「お待たせ!」
「待ってない」
「絶対待ってたよね。」
「待ったけど、待ってない」
「どゆこと?」
「早く会いたかったから、俺が勝手に早く来ただけ」
さらりと放たれた言葉に、すずは一瞬で顔を赤くした。
「……そういうの、急に言わないで」
「恋人やし」
「恋人って言葉も、急に言わないでっ」
「事実やろ」
天馬は、少し得意そうに笑った。
昨日までと同じ天馬なのに、同じ川沿いで、同じ低い声なのに。恋人になった途端、何もかもが新しくて、ドキドキする。
天馬は手に持っていたコンビニの袋を軽く掲げた。
「腹減ってる?」
「まだ大丈夫かな」
「ほんまに?」
「ほんまに」
「じゃあ、あとで。パン残ってるやろうし」
「買ってくれてるんだ」
「父さんの教え」
「また出た」
「絶賛、実行中」
すずはふふっと笑った。
二人で、夕陽が長く伸びる川沿いをゆっくりと歩く。
眼鏡橋のあたりまで来ると、水面が黄金色に輝いていた。
天馬がふいに立ち止まり、言った。
「写真撮る?」
「写真?」
「うん」
「いいよ。景色?」
「ううん」
天馬はスマホを取り出し、何気ない顔で爆弾を落とした。
「インスタに上げて。彼氏できましたって」
すずはピタッと固まった。
「えっ、そういうの面倒……」
言った瞬間、天馬の顔が、捨てられた子犬のように曇った。
「面倒?」
「あ、いや、そういう意味じゃなくて!」
「じゃあ、いつ圭太とか、遥に言うねん」
「い、いちいち言いません!」
「なんで」
「恥ずかしいから!」
「言わんかったら、いつまでもすずに言い寄ってくるやろ」
「言い寄られてなんかいません」
「圭太は言い寄ってる。絶対」
「圭太くんは、誰にでも優しいだけで……」
「それが一番あかん」
「なんで?」
「優しい顔して、スルッと距離詰めてくるから」
「天馬くんもめちゃくちゃ距離詰めてくるけど!?」
「俺は彼氏」
すずは言葉に詰まった。
天馬は少しだけ顎を引き、じっとすずを見下ろした。
薄い茶色の瞳。いつもなら少し意地悪に見えるその目が、今はどこか不安そうに揺れている。
「……俺、ちゃんと彼氏ってわかるようにしたい」
「天馬くん……」
「すずが恥ずかしいのはわかるけど。でも、圭太にも、遥にも、他のやつにも、ちゃんと知ってほしい」
大きな犬が、雨に濡れてクーンと鳴いているみたいだった。
黒い服で、背が高くて、顔が綺麗で、目つきは少し怖いのに。今の天馬は、完全にすずに甘えて、不安がっている。
すずは、完全に負けた。
「……写真だけ、なら」
天馬の顔に、ぱぁっと光が差した。
「撮る?」
「撮るだけ。上げるかは、あとで考えるます」
「わかった」
「絶対、今すぐストーリーに投稿とかしないからね」
「わかった」
絶対わかっていない顔だった。
それでも、二人は夕焼けの武庫川を背にして並んだ。
天馬がインカメラでスマホを構える。
「近づいて」
「近い」
「写真やし」
「写真って怖いね……」
天馬は、空いている方の手で、すずの手をそっと取った。
「これ」
「え?」
すずの指と、自分の指を合わせて、不器用なハートの形を作る。
「ハ、ハート!?」
「うん」
「え、無理。恥ずかしい恥ずかしい」
「一枚だけ」
「本当に一枚だけだよ!?」
夕焼けの中、二人の指で作ったいびつな小さなハート。
その向こうに、武庫川の黄金色の水面。
カシャッ、とシャッター音が鳴った。
画面を見せられた瞬間、すずは両手で顔を覆った。
「だめ! やっぱりだめ! 恥ずかしすぎる!」
「可愛い」
「可愛いじゃなくて!」
「上げたい」
「だめってば!」
「じゃあ、せめて」
「何?」
「次、誰かに遊び誘われたら言って」
「何を?」
「『彼氏が怒るから無理』って」
「そんな悪役みたいな言い方するの!?」
「うん」
「いや、それはちょっと……」
「じゃあ、『彼氏がいるので無理です』」
「それも恥ずかしい」
「じゃあ、『天馬くんが嫌がるから無理』」
「一番恥ずかしい!」
天馬がまた、クーンと鳴きそうな目になる。
「……だめ?」
すずは胸を押さえた。ずるい。そんな顔をされたら、勝てるわけがない。
「わ、わかった」
「ほんまに?」
「もし、次にそういう誘いがあったら、ちゃんと言います……」
「何て?」
「か、彼氏が……」
「うん」
「彼氏が怒るから、無理……」
声がどんどん小さくなる。
天馬の口元が、たまらないというように緩んだ。
「よし」
「よしじゃないよ。恥ずかしい」
すずは少し武庫川を見つめて言った。
「……天馬くんも、そうしてくださいね」
言ってから、自分で驚いた。独占欲を丸出しにしてしまった。
天馬も少し驚いた顔をして、それから、信じられないくらい嬉しそうに、ふにゃりと笑った。
「うん」
「な、なんで嬉しそうなの?」
「めっちゃ嬉しい」
「そっか」
「すず、俺が他の子と会ったりしたら嫌がる?」
「嫌がる、というか……他の人に、優しくしてたら、嫌です」
天馬は一瞬、言葉を失ったように黙った。
それから、顔を片手で覆って、天を仰いだ。
「……無理」
「え?」
「可愛すぎる」
「だから、そういうの!」
「ほっぺ、いい?」
「また!?」
「うん」
「……一回だけだよ」
「どっち?」
「え?」
「右? 左?」
「どっちでも」
「じゃあ、両方」
「一回だけって言ったよね!?」
「右と左で一回ずつ」
「計算がおかしい」
それでも、天馬はちゃんと待っていた。
すずが、顔を真っ赤にしながら小さく頷くまで、決して無理に近づいてこない。
そういう誠実なところが、本当に好きだと思ってしまう。
「……いいよ」
すずが目を閉じると、天馬はすぐに顔を寄せた。
右の頬に、ちゅっ。
左の頬に、ちゅっ。
そして、もう一度右の頬に、ちゅっ。
「天馬くん!」
「右、左、右」
「増えてる!」
「最後は予備」
「予備って何!?」
すずが真っ赤になって抗議した、その時だった。
橋の方から歩いてきたおじさん二人が、二人の横を通り過ぎながら、にこにこと笑いかけてきた。阪神タイガースの応援がえりのようで、二人とも応援用ハッピとメガホンを首から下げている。
「若いなー!」
「兄ちゃんそこは口にいけやぶっちゅうううううっと!!!」
すずは石のように固まった。天馬も、一瞬だけビクッと固まった。
おじさんたちはさらに楽しそうに続ける。
「青春や!」
「いやー俺も昔はここでキッスした!」
「お前の初めての彼女な!」
「そう!自転車でいつも送ったってんけどなー若かったから、全くしんどなかったわ!」
「若さやのうて、惚れた弱みじゃろがい」
「いややー!恥ずかしくなってきた!」
「いやー何年前?もうここはずっとキスの聖地やな!」
「50年前か!?」
「そら歳もとるわいや!!」
「「ガハハハ!!!!」」
「す、すみませんっ!!」
なぜ謝っているのかわからないまま、すずは深く頭を下げた。
おじさんたちは六甲おろしを歌いながら去っていく。
すずはその場にしゃがみ込み、両手で顔を覆った。
「もう無理……死にたい……」
見上げると、天馬は顔を背けていた。しかし、よく見ると、耳が真っ赤に染まっている。
「天馬くんも照れてる」
「照れてない」
「耳、真っ赤」
「夕陽のせいや」
「絶対違う」
すずは笑った。天馬も、耐えきれずに少しだけ笑った。
武庫川の秋風が心地よく吹き抜ける。
夕焼けは、さっきよりも濃く、世界を優しく包み込んでいた。
この甘くて、くすぐったくて、幸せな瞬間が、ずっと続けばいいのに。
すずは、心の底からそう思った。
ブーッ、ブーッ。
その時、すずのバッグの中でスマホが震えた。
甘い空気を切り裂くような、無機質なバイブレーション。
画面を見ると、母からだった。
すずは少しだけ首を傾げる。
「ママだ」
「出て」
「うん」
通話ボタンを押す。
「もしもし、ママ?」
『すず』
母の声は、いつもよりずっと静かだった。
静かすぎて、不自然だった。
それだけで、すずの背筋を冷たいものがスーッと撫でた。
「どうしたの?」
『今、どこ?』
「武庫川。バイト帰りに、ちょっと」
『そう』
母は、重苦しい間を置いた。
『帰ってこられる?』
「うん。すぐ帰るけど」
『できれば、まっすぐ病院に来てほしい』
すずの手が、ピタッと止まった。
「病院?」
横にいた天馬が、異変を察知してこちらを見る。
『紗英姉ちゃんも一緒にいる』
「ママ、何かあったの?」
喉が急にカラカラに乾く。
さっきまであんなに甘くてピンク色だった世界が、すーっと血の気を失い、遠のいていく。
母は、電話の向こうで、震える息をゆっくりと吸い込んだ。
『今日、検査の結果を聞いてきたんやけどね』
「……うん」
『転移が、見つかったって』
音が、消えた。
川のせせらぎも。
土手を走る車の音も。
風が草を揺らす音も。
全部が、遠い世界のことになった。
「……転移」
『うん』
「それって……」
『再入院になると思う。治療のこと、先生から説明があるから、すずにも一緒に聞いてほしくて』
すずは何かを言おうとした。
でも、喉がひくつくだけで、言葉が出なかった。
手から力が抜け、スマホが滑り落ちそうになる。
咄嗟に、天馬の大きな手が、すずの手ごとスマホを支えてくれた。
「すず」
天馬の呼ぶ声と、スマホから漏れる母の声が混ざる。
『すず、大丈夫?』
「……うん」
大丈夫なわけがない。
でも、そう言うしかなかった。
「今から、行く」
『ごめんね』
「謝らないでよ」
『うん』
「すぐ行くから」
通話が切れた。
すずは、スマホを握りしめたまま、足の裏が地面から浮いているような感覚に陥っていた。
夕陽が綺麗だった。
さっきまで、天馬と笑っていた。
彼氏がどうとか、写真が恥ずかしいとか、ほっぺにキスされたとか。
そんなことで、顔を赤くして浮かれていた。
その同じ時間に。
母の癌の、転移がわかった。
体の中が、急速に冷たくなっていく。
「すず」
天馬の低い声がした。
「病院?」
すずは、操り人形のように頷いた。
「ママ、転移が見つかったって」
口にした瞬間、現実味が押し寄せてきて、視界がぼやけた。
「再入院、だって」
天馬は、一瞬だけ表情を強張らせた。
でも、すぐに迷うことなく動いた。
「行こ」
「でも……」
「行く」
「天馬くんは……」
「一緒に行く」
すずは、激しく首を振った。
「いい。大丈夫」
「大丈夫じゃない顔してる」
「でも、こんな時に」
言葉が震え、涙が頬を伝う。
「こんな時に、恋愛してる場合じゃない……っ」
言ってしまった。
さっきまであんなに浮かれていた自分が、急に酷く醜いものに思えて、恥ずかしくてたまらなかった。
母が大変な時に。
癌が転移して、命が削られている時に。
再入院して、またあの苦しい治療が始まるというのに。
自分は、彼氏ができたとか、キスとか、そんなことで頭をいっぱいにしていた。
最低だ。
そう思った。
すずは、天馬から一歩下がろうとした。
「ごめん。私、今、天馬くんと……」
「すず」
天馬が、すずの手首をガシッと掴んだ。
痛くはない。でも、絶対に離さないという強い意志がこもった手だった。
「別れるんじゃなくて、支えたい」
すずは、涙で滲む目を上げた。
「……え?」
「『恋愛してる場合じゃない』ってすずが思うのは、わかる」
天馬の声は低かった。
でも、いつもよりずっと、ずっと優しく、深く響いた。
「でも、俺は、こういう時に離れるために付き合ったんちゃう」
「……っ」
「楽しい時だけそばにおるんやったら、友達でもできる」
冷たくなり始めた武庫川の風が、二人の間を吹き抜けた。
「しんどい時に、そばにいたい」
すずの目から、せき止めていた涙が次々とこぼれ落ちた。
「でも、迷惑かける……っ」
「かけて」
「天馬くんまで、しんどくなる」
「なるかもしれん。でも、すずが一人で抱えるよりマシや」
天馬は、手首から手を滑らせ、すずの震える手をしっかりと握り直した。
「俺、まだガキやし、何もできへんかもしれん。医者でもないし、金もないし、車もないし、何の役にも立たん時もあると思う」
「そんなこと……」
「でも、病院まで一緒に行くことはできる。隣に座ることはできる。すずが泣くなら、泣いてる間、ずっとそばにおることはできる」
すずは、もう我慢できなかった。
張り詰めていた糸が切れ、胸の奥がぐしゃぐしゃになって、嗚咽が漏れた。
「ママ、やっと帰ってきたのに……っ」
「うん」
天馬は、無責任に「大丈夫」とも言わなかった。
ただ、泣き崩れそうなすずを、力強く抱き寄せた。
武庫川の夕焼けの中で、すずは天馬の広い胸に顔を押し当て、子どものように泣いた。
「怖いよ……」
「うん」
天馬の腕に、さらに力がこもった。
すずを絶対に壊させないというように、きつく抱きしめる。
「お母さんのことが大事なんと、俺といて嬉しいのは、別の話やろ」
すずは、はっとした。
別の話。
玲花が倒れた時に、天馬が言った言葉。
心配も本当。
嫉妬も本当。
どちらかが嘘になるわけじゃない。
母が大事なことと。
天馬を好きなこと。
どちらかを選ばなければいけないわけではない。
すずは、天馬の黒いTシャツをぎゅっと掴んだ。
涙が止まらない。
でも、ひとりで絶望の中に立っている時の冷たい涙とは違った。
天馬の腕の中で泣くと、少しだけ、息をすることができた。
「病院、行こ」
天馬が、すずの背中を優しく撫でながら言った。
「……うん」
「手、繋いでいい?」
こんな時なのに。
こんな時だからこそ。
すずは、涙を拭いながら小さく頷いた。
「うん」
天馬は、すずの冷たくなった手を、自分の大きくて温かい手でしっかりと握りしめた。
夕焼けの武庫川を背に、二人は病院へ向かって歩き出した。
恋人になった日の夕方。
甘い幸せのすぐあとに、残酷な現実が牙を剥いた。
でも、その冷たい現実の中で、すずはもう、ひとりではなかった。
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毎日更新予定です。完結約束、ハッピーエンドです(^ ^)
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