もっかい、いい?〜ファーストキスはお預けです!!〜
夏の終わりの午後の教室
玲花が倒れた翌日。
つまり、木曜日の昼休み。
陸の、過剰なまでの過保護が始まった。
「食え」
ドンッ、と玲花の机の上に置かれたのは、コンビニのサラダチキン、ゆで卵、鮭おにぎり、野菜ジュース、そしてヨーグルト。
玲花はそれを見て、あからさまに顔をしかめた。
「いや、多い多い多い! フードファイト?」
「食え」
「太るー!」
「太れ」
「女の子に向かって言う言葉ちゃうやろ!」
「倒れるよりマシや」
陸は一切引かない真顔だった。
玲花は不満げに頬を膨らませる。
「私、映える女やで? 丸なったら困るやん」
「骨浮いてる方が困る」
「うっ」
玲花は言葉に詰まった。
陸は無言でコンビニ袋から割り箸を出し、パチンと割って玲花の手に握らせた。
「食え。残したら俺が横で見張る」
「お父さんやん!」
「誰がお父さんや」
いつもの、漫才のようなやり取り。
でも、いつもと少しだけ違った。
玲花は文句を言いながらも、大人しく箸を動かした。
鮭おにぎりを3口。ゆで卵を1つ。サラダチキンを少し。ヨーグルトは「これ美味いやん」と目を細めながら、最後まで綺麗に食べた。
「少食か!」と呆れながらも、残した分は陸が文句を言わずに平らげた。
すずも、朝に『ベーカリーツバメ』で買ってきた袋を開けた。
「玲花ちゃん、これも」
手のひらサイズの小さなクリームパンを差し出す。
「バンビまでー!」
「店長さんが、玲花ちゃんにって」
「えっ、店長さんが?」
「うん。ちゃんと食べてねって言ってたよ」
「うわ、包囲網えぐい」
玲花は苦笑いしながらも、クリームパンを受け取り、一口かじった。
「……うま」
小さく漏れた声があまりにも素直で、すずはふふっと笑った。
「美味しい?」
「美味しい」
「よかった」
「太るー!」
玲花はまた嘆くように叫んだが、その顔は明らかに嬉しそうだった。
陸は「やかましいわ」とため息をつきながら、野菜ジュースのストローを袋から出し、プスッと刺して玲花の前に置いた。
「飲め」
「……世話焼きすぎ」
「焼かせてんのお前や」
「も〜、私のこと、好きなんちゃう!」
玲花がわざとらしく、からかうように言う。
陸の手が、一瞬だけぴたりと止まった。
それから、いつもより少しだけ低い、落ち着いた声で言った。
「倒れられたら迷惑やからな」
「はいはい」
玲花は笑って流した。
でも、すずにははっきりと見えた。
ジュースを飲む玲花の耳が、ぽっぽと赤く染まっているのを。
陸も、世話が焼けると言いながら、甲斐甲斐しくおにぎりの袋を開け、飲み物を渡し、食べた量を確認している。
その視線は、まるで、本当に好きだと告げているように甘かった。
すずは、ふと天馬の方を見そうになって——慌てて視線をノートに落とした。
だめ。
見たら、絶対に変な顔になる。
昨日、病院で玲花に「それ好きやで」と指摘されてから、すずは天馬をまともに見られなくなっていた。
自分の、天馬への気持ちを、完全に自覚してしまったから。
そのせいで、今まで当たり前だったすべてが、急に牙を剥き始めたのだ。
天馬の低い声。
天馬の真っ直ぐな視線。
天馬の大きな手。
並んで歩く時の、肩が触れそうな距離。
何気ない「大丈夫?」という一言。
全部が、心臓に悪い。
だからすずは今日、あからさまに天馬を避けていた。
廊下で天馬がこちらへ歩いてきたら、さっと玲花の後ろに隠れる。教室で不意に目が合ったら、弾かれたように教科書を見る。帰り道に「一緒に帰る?」と聞かれそうな気配を察知したら、逃げるように佐伯先生のところへ質問に行く。
自分でも、不自然極まりないと思う。
でも、どうしたらいいのかわからなかった。
そして天馬は、そんなすずの不審な動きを、狩人のような鋭い薄茶の瞳で、ずっと、ずっと見つめていた。
午後の授業が終わった。
夏休み明けの教室に、少しずつ日常の喧騒が戻ってきている。
放課後のざわめき。机を後ろに下げる音。課題を忘れた誰かの悲鳴。
「おい!お前はこっちじゃ!弟ら連れて飯行くぞ!」
「ぎゃー!!太るー!!!」
陸が半ば引きずるようにして玲花を駐車場へ連行して行った。
(ど、どうしよう、天馬くんと二人になってしまった!!!)
すずは鞄を抱き抱えるように持ち、できるだけ気配を消して、自然に教室を出ようとした。
その時。
ぐっ、と手首を強く掴まれた。
「っ」
振り返る。
天馬だった。
背の高い彼がすずを見下ろしている。薄い茶色の瞳が、すずを絶対に逃がさないように真っ直ぐ射抜いていた。
「あー……避けてる?」
低い声。
少しだけ意地悪な、でもどこか焦りを含んだ響きが、すずの耳をくすぐる。
すずの顔は、一瞬で沸騰したように熱くなった。
「さ、避けてないです!」
「敬語」
「避けてないよ!」
「嘘」
「嘘じゃない、です!」
「目ぇ一回も合わへんし、俺が近づいたら小動物みたいに逃げるし、話しかけようとしたらマッハで佐伯のとこ行くやん」
「それは、先生にどうしても質問があって……!」
「5回連続で?」
「べ、勉強熱心なので!」
すずの耳が、羞恥で真っ赤に染まる。
言い訳が苦しすぎる。
天馬が、にやっと、肉食獣のように笑った。
「どうしました? すずさん?」
わざとらしく丁寧なその呼び方に、すずの心臓が大きく跳ねた。
「教えてください」
「……っ」
天馬が手首を少しだけ引く。
すずの体が、ふらりと天馬の胸元に引き寄せられる。
距離が近い。天馬の体温が伝わってくる。
それだけで、胸が苦しくて、息ができなくなりそうだった。
すずはたまらず目を逸らした。
「……なんでもない」
「なんでもない顔ちゃう」
「本当に」
「泣きそうやけど」
その優しい指摘の瞬間に、我慢していたものが一気に目に滲んだ。
すずは自分でも驚いた。キャパシティを完全に超えていたのだ。
「え、なんで」
天馬の顔からからかうような色が消え、本気で焦った声になる。
「すず?」
「ごめん」
涙がこぼれそうになって、すずは慌てて下を向いた。
「ごめん……なんか、もう、わかんないです」
「何が」
「天馬くんが近いと、苦しい……っ」
声が震える。
「前は、こんなじゃなかったのに。普通に話せてたのに。今は、もう、しんどいです」
天馬は黙って聞いていた。
すずは、手首を掴まれたまま、ぎゅっと目を閉じて叫んだ。
「こういうことは!」
「うん」
「付き合ってもないのに、こういう距離感は、絶対におかしいと思います!!!!」
言ってしまった。
ハッとして顔を上げると、いつの間にか教室には二人だけになっていた。
すずは自分の放った言葉の破壊力に気づき、さらに顔を赤くする。
何を言っているんだろう。自分で言っておきながら、恥ずかしくて今すぐ窓から神戸の海へダイブしたい。
天馬は、しばらく無言だった。
それから、ふっと息を吐き、低く、地を這うような声で呟いた。
「……そう来るか」
「ご、ごめん、変なこと……」
「いや」
すずの手首を掴む天馬の手に、少しだけ、熱い力がこもった。
「あー……俺、もう我慢できへん」
すずが顔を上げる。
「え?」
「すず」
天馬の声が、いつもより低く、少しだけ掠れていた。
そして、震えていた。
余裕なんて、どこにもなかった。
「俺、ずっと我慢してる」
「我慢?」
「手、繋ぎたい。抱きしめたい。もっと近づきたい。すずに可愛いって言いたいし、誰にも渡したくないし、俺だけ見てほしい」
すずの心臓が、耳の奥で狂ったように鳴り始める。
「それ以上のことも、いつか、したいって普通に、思ってる」
天馬の薄い茶色の瞳が、真っ直ぐに、ただすずだけを映している。
「友達やからとか、そういう理由つけて近くにおるの、もう無理」
「……っ」
「特別やから」
甘く、低い声が、すずの耳元を直接揺らした。
「好きなんやけど」
その瞬発力に、すずの思考回路は完全にショートした。
好き。
目の前にいる、この人が。
私のことを。
どうしたらいいの。
心臓が口から飛び出しそうなくらい、バクバクと鳴っている。
窓の外に広がる瀬戸内海は、夕日を受けてどこまでも黄金色に輝いている。
ああ、夕陽が綺麗だ。
なんて、現実逃避をしている場合じゃない。
「……なんか言うて。俺、今けっこう限界やねんけど」
天馬が、すがるような小さな声で言った。
その不器用な声で、すずは我に返った。
教室には、誰もいない。
夏の終わりの夕暮れ。午後の光が、机の端を金色に染めている。
ここで、天馬と出会った。
目立たないように息をひそめていたすずの世界の扉を、天馬は突然、強引に開けて入ってきた。
「好きすぎて、体が、イライラする。だから、返事がほしい」
怖そうで。無愛想で。
でも、誰よりもすずのことを、ちゃんと見てくれていた人。
すずは、もう逃げられなかった。逃げたくなかった。
「あの」
「うん」
「私、今まで」
声が震える。
「誰かと付き合ったことは、あるけど」
天馬の眉が、ぴくりと不機嫌そうに動いた。
「知ってる」
「あ、でも、そんな大したことじゃなくて……!」
「後で詳しく聞く」
「今じゃなかったやんね!?」
「今じゃない。続けて」
すずは慌てて頷いた。
「でも、自分から誰かを好きになったことは、たぶんなかった」
天馬が、息を止めるようにして聞いている。
すずは、自由な方の手で、うるさい胸元をぎゅっと押さえた。
「天馬くんが近いと、苦しい。目が合うと逃げたくなる。ほかの子に優しくしてると、胸がちくちくして、嫌だって思う」
自分で言いながら、頬から火が出そうだ。
「でも、会いたい。さ、触られたら、心臓が飛び出そうになる」
すずは、ようやく、真っ直ぐに天馬の目を見た。
「これが好きってことなら」
声が小さくなる。
「私……も、天馬くんが、好きです」
天馬の目が、限界まで見開かれた。
それから、信じられないくらいゆっくりと、その端正な表情が、泣きそうなほど嬉しそうに崩れた。
「……ほんまに?」
すずは、こくりと頷いた。
次の瞬間、視界が反転し、すずは天馬の腕の中に強く抱き寄せられていた。
「っ!」
ぎゅうううっ、と骨が軋む音がしそうなくらい、強く。
でも、ちっとも苦しくはなかった。
天馬の大きな腕が、すずの体をすっぽりと包み込む。
胸元に頬が当たる。ドクン、ドクンと、天馬の心臓の音が聞こえる。すずと同じくらい、ものすごく速かった。
「天馬くん」
「ちょっと待って」
「え?」
「今、死ぬほど嬉しい」
低い声が、すずの頭上から降ってくる。
その言葉の響きに、すずの胸の奥がぎゅっと締め付けられた。
天馬は少しだけ体を離し、すずの顔を至近距離で覗き込んだ。
薄い茶色の瞳が、甘い熱を帯びている。
視線が、すずの唇に落ちた。
そのまま、天馬の顔がゆっくりと、抗えない引力のように近づいてくる。
「っ!」
すずは反射的に、自分と天馬の唇の間に、シュバッ! と手のひらを差し込んだ。
ちゅっ。
すずの手のひらに、熱くて柔らかいキスの感触が落ちる。
天馬の動きが、ピタッと止まった。眉毛を寄せて、怒気を含んだ声が落ちてくる。
「…‥なんで?」
「は、早いです!」
「あ?早い?」
「早い!」
「好きって言ったやん」
「言ったけど!」
「付き合うんやろ」
「それは、そうだけど!」
「じゃあ」
天馬はもう一度唇を見つめて、近づいた。が、またもや手に邪魔される。
「これ邪魔‥」と言って退かそうとするが、すずが叫ぶ。
「いいいいい!いきなりは早いです!」
天馬は、がくりと崩れ落ちるように、隣の机に両手をついてうなだれた。
「……マジか」
「ああああああ、当たり前です!」
「俺、今、めっちゃ頑張って止まった」
「あ、ありがとうございます……?」
「ここで礼言われると余計つらい」
すずは顔を真っ赤にしたまま、両手で自分の口元をガードした。
天馬はしばらく机に突っ伏していたが、やがて顔を上げた。その目は、少しだけ潤んでいて、反則級に色っぽかった。
「じゃあ、来てください」
「え?」
「抱きしめるだけ」
「さっきしたよ」
「もう一回」
「……」
「これだけで我慢します」
そのおねだりの仕方が、あまりにも真剣で、大型犬が尻尾を下げているみたいで。
すずは、少しだけ笑ってしまった。
「ほんとに?」
「ほんと」
「それだけ?」
「それだけ」
「……わかった」
すずが一歩近づくと、天馬は待ってましたとばかりに腕を広げた。
その中に、そっと自分から入る。
今度の抱擁は、さっきより少しだけ優しかった。でも、体温は恐ろしいほど熱かった。
天馬の手が、すずの背中を愛おしそうに撫でる。すずも、恐る恐る天馬の背中に手を回した。
「すず」
「うん」
「好き」
「……うん」
「返事」
「さっき言った」
「もう一回」
「ええ……」
「お願いします」
すずは天馬の胸元に額をぐりぐりと押しつけたまま、小さく言った。
「好きです」
天馬が、深く、長く息を吐いた。
「あー……もう無理」
「無理って何が」
「幸せすぎて」
すずは、思わず吹き出した。天馬も低く笑う。
夕暮れの教室に、二人の笑い声が優しく重なる。
ここで出会い、ここで惹かれ合い、ここで二人は未来を選んだ。
天馬が、名残惜しそうに少しだけ体を離す。
そして、獲物を狙うような目で言った。
「ほっぺたは?」
「え?」
「ほっぺたなら、いい?」
すずは目を丸くした。
「ほっぺた?」
「うん」
「……それなら」
「いい?」
天馬の目が、冗談抜きで真剣だった。
すずは迷った末に、恥ずかしさに耐えながら小さく頷いた。
「……う、うん」
その瞬間。
天馬の顔が近づいたかと思うと、すずのふんわりした頬に、チュッとキスをした。
そして。
ぶっちゅうううううっ!
と、音が鳴るくらい深く、激しく、情熱的なキスを落とした。
「て、天馬くん!!!」
すずは真っ赤になって飛び退く。
「ほっぺいいって言った」
「言ったけど! そんなダイソンみたいな吸引力とは言ってない!」
「我慢した方」
「どこが!?」
天馬は悪びれもなく笑った。八重歯がちらりと覗く。
その無邪気な笑顔が、悔しいくらい大好きだと思ってしまって、すずはさらに顔を赤くした。
「もう!」
すずが怒ったその時、廊下の外から小さく「キャー!」という玲花の悲鳴(喜悦)が聞こえた。
すずと天馬は、同時にそちらを見る。
教室の後ろの扉の隙間から、玲花の目がキラキラと覗いていた。そのすぐ上に、陸の呆れ返った顔もある。
「玲花ちゃん!? 陸くん!?」
「いやー、バンビおめでとう! 眼福! 病み上がりに最高の栄養!」
「聞いてたんか」
天馬の声が一段低くなる。
玲花は全く悪びれずに笑った。
「途中から!忘れ物して戻ってきてん!いやー 青春やね〜!」
「寝てろ」
「はーい!」
陸が玲花の首根っこをつまむようにして引きずっていく。
「ほら病人、帰るぞ。邪魔すんな」
「ちょっと待って、最後まで見届ける! あ、陸、カバン持って!」
「お前はほんまに……」
二人の声が廊下の向こうへ消えていく。
すずは両手で顔を覆い、その場にしゃがみ込みそうになった。
「もう、最悪……穴があったら入りたい……」
天馬が嬉しそうに低く笑う。
「最高やろ」
「最高じゃない……明日どんな顔して会えばいいの……」
「俺は最高」
「天馬くんのバカ!」
すずが上目遣いで睨むと、天馬は愛おしそうに目を細めた。
夕陽が、教室をいっそう濃い金色に染めている。
夏の終わりの午後。神戸の海が、祝福するようにきらめいていた。
すずはまだ頬を押さえたまま、怒ったふりをしていたけれど、どうしても口元が綻んでしまう。
その時、天馬が背後からすずの体をすっぽりと包み込むように、ギュッと羽交い締めにホールドした。
「えっ!?」
「逃がさへん」
耳元で囁かれ、すずの背中がビクッと跳ねる。
「もっかい、いい?」
「だ、だめ! あ!」
振り向こうとしたすずの頬に、逃げ場のない状態で、
ぶっちゅうううううっ!
と、再び深くて甘い、熱烈なキスが頬に落とされた。
「だめって言ったのにー!!」
顔を真っ赤にして叫ぶすずの声を、天馬の幸せそうな笑い声が包み込む。
その日、すずと天馬は、ついに恋人同士になった。
幸せな気持ちでいっぱいだった。
恥ずかしくて、嬉しくて、幸せで。
二人の未来に、
暗い影が忍び寄っているなんて思いもせずに、
顔を見合わせて、笑い合ったのだった……。
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毎日更新予定です。完結約束、ハッピーエンドです(^ ^)
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