世話のかかるやつ!!!
「栄養失調だぁ!?」
病院の白い廊下に、陸の素っ頓狂な叫び声が響き渡った。
すずも、天馬も、目を見開いて固まっていた。
診察を終えたばかりの初老の医師は、陸の剣幕に少しだけ引き気味になりながらも、カルテを見ながら淡々と告げた。
「ええ。重度の貧血と、脱水症状。それに明らかな栄養不足です。まあ、簡単に言えば過労と栄養失調ですね。現代の女子高生には珍しいですが……心当たりは?」
陸が絶句して振り返る。
処置室のベッドの上で、腕に点滴の針を刺された玲花が、気まずそうに「へへっ」と笑ってピースサインを作っていた。
「栄養……失調……?」
すずは、その言葉を頭の中で何度も反芻した。
栄養失調。
それは、いつも明るくて、流行りの服を着て、誰よりもキラキラしている玲花には、世界で一番似合わない言葉だった。
ちゃんと食べて、ちゃんと寝て、数日は安静にすること。
医師からそう言われたものの、すずはどう反応していいかわからなかった。
ただ一人、大体の事情を知っている担任の佐伯先生だけが、深く、深いため息をついて頭をガシガシと掻いていた。
「お前……っ、どんな生活してんねん!!」
我慢しきれなくなった陸が、ずかずかと玲花のベッドの脇に立って怒鳴った。
「いやー、夏バテ? 最近あっついからさー」
「夏バテで栄養失調になるかアホ!! お前、ちゃんと飯食ってへんのちゃうか!?」
「食ってるって! 食パンとか、袋ラーメンとか!」
「それはメシとは言わん!! 炭水化物の塊やろが!!肉を食えよ肉をー!!」
「おい西倉、今はやめとけ。病院や」
佐伯先生が、陸の肩を掴んで制止した。
陸は悔しそうに顔を歪め、大きく息を吐き出す。
「お前ほんまに手間かかるな!」
呆れと、隠しきれない心配が混ざったその声に、玲花は少しだけ目を逸らした。
「……ごめん」
その時だった。
病院の自動ドアが開き、バタバタと騒がしい足音が真っ直ぐにこちらへ向かってきた。
「ぬな!!!」
「大丈夫なん!?」
処置室に飛び込んできたのは、三人の男子中学生だった。
すずは思わず目を丸くした。
中学生にしては、やけに背が高い。肩幅もしっかりしている。何より目を引くのは、その容姿だ。色白の肌に、切れ長で涼しげな目元。全員が揃いも揃って、韓国のアイドルグループにいそうな端正な顔立ちをしていた。ただ、髪は乱れ、目つきは野犬のように鋭く尖っている。
一番背の高い弟が、息を切らしながら玲花のベッドにすがりついた。
「倒れたって、学校から電話かかってきて……ぬな、大丈夫なん!?」
「あー、ヒョンジン、テミン、ジミンまで。大丈夫やって、ちょっと貧血起こしただけ」
「ちょっとちゃうやろ! 点滴しとるやんけ!」
真ん中の弟が、泣きそうな顔で怒鳴る。
その横で、三人めの弟ジミンが、腕組みをして仁王立ちしている陸をジロリと睨みつけた。本日の陸は、作業着にいかついサングラス、ピアスにちょび髭で少しばかりいかつい。さっきまでの怒鳴り声の主だと判断した。
「……ぬな、このおっさん誰? 借金取り?」
「「「ぶっ」」」
全員が吹き出す。陸の額に青筋が浮かんだ。
「おっさんちゃうわ!! 20や!! お前らの姉ちゃんの同級生や!!」
陸が吠えると、ヒョンジンが陸の前に立ちはだかり、鋭い目で睨み返した。
「は? 同級生? 嘘つけ、貫禄ありすぎやろ。なんやこのおっさん。うちの姉ちゃんに何の用や」
「なんやとコラ! 心配して付き添ってやったんやろがい!」
「頼んでへんわ! 俺らで連れて帰るから、おっさんは引っ込んどけや!」
「お前らだけでどうやって連れて帰るんじゃ! 家遠いやろが!」
バチバチと火花を散らす陸と弟たち。
佐伯先生がまた深いため息をついた。天馬は我関せずといった顔で壁にもたれかかっている。
陸はふうっと息を吐き、イライラした様子でポケットに手を突っ込んだ。
「……あー、もうええわ。わかった。お前ら、どうせろくなもん食ってないんやろ」
「はぁ?」
「俺が車で送ったる。……その前に、焼肉でも食いに行くか。俺が奢ったるわ」
ピタッ。
処置室の空気が、一瞬で止まった。
弟たち三人の顔から、スッと敵意が消え去る。
「……焼肉?」
ヒョンジンが、信じられないものを見るような声を出した。
「おう。食べ放題やけどな」
陸がぶっきらぼうに答える。
次の瞬間、三人の態度が劇的に変わった。
「お車、どちらに停めてらっしゃいますか?」
テミンが、信じられないほど流暢な敬語で頭を下げた。
「荷物持ちます!! 一生ついていきます!!」
ヒョンジンが、陸の持っていた玲花の鞄をひったくるように奪い取る。
「陸様神様。カルビ食べたいでーす」
ジミンが陸の腕をギュッと抱きしめた。
「お前ら現金すぎるやろ!! さっきまで借金取りのおっさん呼ばわりやったやないか!!」
陸がツッコミを入れると、ベッドの上の玲花が腹を抱えて大爆笑した。
「あははははっ! 痛い、点滴の針ずれる! こいつらめっちゃチョロいねん、ごめんな陸!」
「お前のDNAを死ぬほど感じるわ……!」
陸はブツブツと文句を言いながらも、どこか呆れ半分、世話焼き半分の顔になっていた。
弟たちが「焼肉! 肉!」と騒ぎながら陸と天馬を質問攻めにしている隙に、すずはそっと玲花のベッドに近づいた。
「玲花ちゃん、本当に大丈夫?」
「うん。点滴入ったらだいぶマシになった。大げさやねん、みんな」
玲花はそう言って笑ったが、その目は、すずの顔をじっと観察していた。
「バンビ、顔が罪悪感で死んでるで」
「……」
「何考えてるん」
すずは、膝の上で両手をギュッと握りしめた。
こんな時に言うことじゃない。
でも、言わずにはいられなかった。
「……ごめん」
「何が」
「私、最低なこと考えた」
「何」
「天馬くんが、倒れた玲花ちゃんを抱っこしたの」
すずの声が、震えて小さくなる。
「……嫌だって、思っちゃった」
親友が倒れて、生死に関わるかもしれないって時に、天馬くんの腕の中にいる玲花ちゃんを見て、胸が黒く濁った。そんな自分が、醜くて、情けなくて、許せなかった。
玲花は一瞬、目を瞬いた。
それから、ふっと吹き出した。
「え、何それ」
「笑わないでよ……」
「いや、ごめん。可愛すぎて」
「可愛くないよ。最低だよ。玲花ちゃんがしんどい時に、私、そんなこと」
「バンビ」
玲花は、点滴の刺さっていない方の手で、すずの手首を軽く掴んだ。
力は弱い。でも、その目はまっすぐですずを射抜いていた。
「それ、好きやで」
すずは息を呑んだ。
「……え?」
「好きやん」
「違……」
「違わん。天馬が他の女抱っこして嫌やったんやろ」
「それは、あの、玲花ちゃんだからとかじゃなくて……」
「うん。だから、好きやん」
「違うってば」
「じゃあ、陸が私を抱っこしても嫌?」
すずは黙った。
「圭太くんが私の涙拭いても、嫌やった?」
すずはさらに黙った。
玲花はにやっと笑う。
「ほらな」
玲花は小さく笑った。その笑顔は、いつものように明るくて、少しだけ優しかった。
「バンビ。うちが倒れたから、感情がややこしくなっただけや」
「……」
「心配も本当。嫉妬も本当。どっちかが嘘ってことじゃない」
すずは、胸の奥がじんわりと熱くなるのを感じた。
「……私、玲花ちゃんに申し訳なくて」
「申し訳ないなら、うちにも焼肉奢って」
「陸くんが奢ってくれるんでしょ?」
「別腹や」
「……好き、なのかな」
「そこから?」
「だって、まだ、わからないし……」
「じゃあ質問」
玲花は真面目な顔を作った。
「天馬に会いたい?」
「……うん」
「天馬が他の子に優しかったら、胸が痛い?」
「……うん」
「天馬が将来、先生になりたいって言った時、応援したいと思った?」
「……うん」
「はい、確定」
玲花は満足そうに頷いた。
「それ好きやで。紛れもなく」
すずは、逃げ場を失った。
顔が熱い。胸が苦しい。でも、不思議と、嫌ではなかった。
怖い。でも、少しだけ、前が開けたような気がした。
「……私、好きなんだ」
小さく呟くと、玲花はにやりと笑った。
「やっとか」
「やっと?」
「うちら全員、だいぶ前から知ってたで」
「全員!?」
「陸も」
「陸くんも!?」
「たぶん佐伯も」
「先生まで!?」
「もうやだ……」
すずが両手で顔を覆うと、玲花は声を出して笑った。
すっかり日が落ちた頃、点滴を終えた玲花は陸の車に乗り込んだ。
後部座席は、体の大きな中学生三人組と玲花でぎゅうぎゅう詰めになっている。
「はい、シートベルトしろよ」
運転席の陸が、完全に父親の顔で指示を出す。
「はいっす! 陸先輩!」
「焼肉! 焼肉!」
すっかり陸に手懐けられた弟たちが騒ぐ中、天馬が玲花に鞄を手渡した。
「玲花、今日は帰ったら寝ろよ」
「命令形やん」
「寝ろ」
「はいはい」
玲花は少しだけ笑い、それから窓越しにすずを見た。
「バンビ」
「うん」
「逃げんなよ」
「え?」
「好きってわかったなら、逃げんな」
すずの心臓が大きく跳ねた。
天馬がすぐ隣にいるのに!
「れ、玲花ちゃん!」
「病人の遺言や」
「死なないで!」
玲花がケラケラと笑う中、陸が「病人、黙って寝とけ」と呆れたように言い、車はゆっくりと走り出した。
すずは、病院の入口で、小さくなっていく車のテールランプを見送った。
夜の病院の前は静かで、救急入口の明かりだけが白く地面を照らしている。
「……すず」
不意に、隣に立つ天馬が低い声で呼んだ。
「うん」
「玲花、最後に何か言うてた?」
すずの胸が、どくんと鳴った。
「えっ」
「なんか、逃げんなとか言ってたやろ」
すずは慌てて目を泳がせた。
天馬がこちらを見下ろしている。薄い茶色の瞳。真っ直ぐで、逃げ場のない目。
好き。
その言葉が、頭の中にくっきりと浮かんでしまう。
もう、消せない。
「……秘密」
すずは、少しだけ顔を赤くして、小さく言った。
「秘密?」
「うん。玲花ちゃんとの、秘密」
天馬は少しだけ不満そうに眉を寄せた。
その表情すらも、今のすずには愛おしく思えてしまう。
困るのに、嬉しい。
近くにいるだけで、胸がうるさい。
私は、天馬くんが好きなんだ。
夜風が、病院前の植え込みを揺らした。
過酷な夏休みが終わった。
でも、すずの中では、間違いなく何かが今、始まろうとしていた。




