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神戸駆けるバンビ! 〜奈良県民JK、ギャルとワイルド系イケメンのいる定時制高校に放牧される〜  作者: みょんたま


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44/73

社会的、弱者。

 淡路島から帰ってきた夜。


 玲花は、陸の車を降りた瞬間から、まだ体の中に海の光が残っているような気がしていた。


 明石海峡大橋。

 りんごの家。

 慶野松原の海。

 水色のサマードレスを着たバンビ。

 海辺で不器用に笑う天馬。

 運転しながらずっと現実的なことばかり言っていた陸。

 楽しかった。

 ほんとうに、楽しかった。


「ただいまー」


 玲花は鍵を開け、玄関に入った。

 その瞬間、まるで魔法が解けたように冷酷な現実が戻ってきた。

 むわっと鼻をつく、換気されていない部屋特有の淀んだ空気。

 玄関には、脱ぎっぱなしの靴が何足も散乱して転がっている。

 リビングの床には、いつ洗濯したかわからない衣類と、学校のプリント、空のペットボトルが散らばっていた。

 台所のシンクには、昨日の皿と、今朝の皿と、底に茶色い汚れがこびりついたコップが山のように重なっている。

 足の踏み場がない。

 玲花は一瞬だけ、玄関に立ったまま目を閉じた。体の中に残っていた淡路島の潮風が、一瞬で上書きされて消えていく。

 小さく息を吐き出し、すぐにいつもの笑顔を顔に貼り付けた。


「ヨンチョリ?」


 リビングの奥。

 薄暗い部屋の中で、テレビの画面だけが青白く光っていた。

 その前に、末の弟がちょこんと座っている。

 背中を丸めて、ゲームのコントローラーを無言で握っていた。

 画面の中では、四角いブロックの世界が明るく動いている。


「ただいま」

「……おかえり」


 ぽつりとした小さな声が返ってきた。

 玲花はサンダルを脱ぎ、リビングに入る。


「今日、何してたん?」

「マイクラ」

「ずっと?」

「うん」

「ご飯は?」

「パン食べた」

「何枚?」

「……二枚」

「チーズは?」

「食べた」

「よし」


 玲花は、ヨンチョリの後ろにしゃがんだ。

 本当は、今日は楽しかった話を家族にしたかった。


 海がどれだけ綺麗だったか。

 バンビがどれだけ可愛かったか。

 陸が観覧車でもないのに高いところを警戒して面白かったとか。

 天馬が父さんの教えを実行しすぎていて不器用だったとか。

 

 でも、目の前にあるヨンチョリの背中は、あまりにも小さかった。

 暗い部屋で、たったひとりで、一日中画面と向き合っていた背中。

 遊びたい。

 外に行きたい。

 可愛い服を着たい。

 写真を撮りたい。

 海にも行きたい。


 でも、自分が外で笑って遊んでいる間、ヨンチョリはずっと一人だったのだ。

 それでも、遊びに行った、自分。

 

 その事実を突きつけられると、胸の奥がぎゅっと締め付けられるように痛んだ。


「ヨンチョリ」

「何」

 

 玲花は、ごめんねと言いかけて、やめた。

 後ろから弟の小さな体を抱きしめた。


「今日、寂しかった?」

「別に」


 弟の体は、ピクリとも動かなかった。

 抱き返してくれるわけでもない。

 鬱陶しそうに振りほどくわけでもない。

 ただ、ゲームの画面を見たまま、じっとしている。

 玲花は、その華奢な背中に頬を寄せた。

 少しだけ、涙が出そうになった。

 でも、奥歯を噛み締めてぐっとこらえた。私が泣いてどうする。


「そっか。ならええわ」

「うん」

「明日、パン買ってくるから」

「チーズも」

「はいはい。チーズも」


 玲花は立ち上がり、台所へ向かった。

 淡路島のきらきらした思い出は、もうすっかり消え失せていた。



 ■■■



 翌日。

 夜20時。

 玲花は、若者向けの服がずらりと並ぶファッションブランドの店内で、最後の棚を整えていた。


 カラフルなトップス。

 ひらひらのミニスカート。

 流行りの厚底サンダル。

 ジャラジャラしたアクセサリー。

 スマホケース。

 キラキラしたバッグ。


 ここにいる時だけは、玲花は少しだけ息がしやすかった。

 可愛い服に囲まれ、明るい照明を浴びて、アップテンポな流行りの音楽を聴いていると、鏡に映る自分が「普通の女の子」になれた気がした。

 家の中の泥沼のような現実を、少しだけ忘れられる。


「玲花ちゃん」


 店長のユキが、レジ横から声をかけてきた。

 ユキは三十代前半で、髪は明るいベージュ。

 派手な見た目だけれど、いつも玲花を気にかけてくれる目の優しい人だった。


「連勤お疲れ様。体調、大丈夫?」

「大丈夫です! 元気です!」


 玲花は振り返り、100点の笑顔で明るく答えた。


「ほんまに?」

「ほんまです!」

「無理してへん?」

「してません!」


 ユキは、じっと玲花の顔を見た。

 バッチリ決めたメイクの下にある疲労を見透かすように、その目が少しだけ心配そうに細くなる。


「お母さんのことで何かあったら、言うんやで」

「はい」

「ほんまに。夜中でも、電話してきていいから。すぐ行ってあげるし」


 玲花は笑った。


「ユキさん、優しすぎますって」

「優しいんちゃう。心配してるだけ」

「大丈夫です。うち、強いんで」

「強い子ほど、倒れる時は急やで」


 ユキの真っ直ぐな言葉に、玲花は一瞬だけ言葉に詰まった。

 胸の奥の柔らかいところを突かれた気がした。でも、すぐにいつものようにへらっと笑う。


「倒れません! フォロワー一万人目前なんで!」

 ユキは呆れたようにふっと笑った。

「またそれ」

「もうちょいなんですよ! あとちょっとで一万人!」


「ほんまにちゃんと食べてんのー?」


 近くにいたパートのおばさんが、品出しをしながら横から口を挟んできた。


「食べてます!」

「ほんまに?」

「はい!」

「若い子、すぐ痩せようとするからなぁ。細すぎるのもあかんで」

「大丈夫です。私、可愛く健康的に売れる女なんで!」


 玲花はおどけてピースサインを作った。

 おばさんたちもつられて笑った。

 でも、その笑いの奥に確かな心配が混ざっているのを、玲花はちゃんと知っていた。

 知っていたけれど、今の自分にはそれを受け取って甘える余裕なんて、一ミリもなかった。


 閉店作業を終え、店を出る頃には、足が棒のように重くなっていた。

 駅へ向かいながら、玲花はスマホを取り出す。

 電車のホームの端で、短い動画を撮った。

 少し疲れた顔も、角度と表情、そしてフィルターでどうにでもなる。

 カメラに向かって、今日一番の笑顔を作る。


「今日のバイト終わりコーデ! 脚長く見える最強ミニ、これほんま盛れる!」


 小さく声を入れて、数秒の動画を撮る。

 確認する。

 悪くない。

 心がすり減って疲労困憊しているなんて、画面の中のキラキラした自分からは微塵も伝わらない。

 玲花は動画を保存し、やってきた電車に乗り込んだ。


 最近、フォロワーが目に見えて増えている。

 もう少しで一万人。

 一万人。

 その数字を頭に思い浮かべると、冷え切った胸の奥に小さな火が灯る。

 いつか、ここから抜け出してやる。

 顔が可愛いだけで終わらない。

 センスがあるだけで終わらない。

 この顔も、この体も、この声も、この底辺の生活も、全部、自分の武器にしてやる。這い上がってやる。


 電車を降りると、玲花は足早に二十四時間営業のスーパーへ向かった。


 明日のパンとラーメン。

 それさえあれば、弟たちはなんとかなる。飢えはしない。

 夏休みが終われば、学校の給食がある。

 そこまで、あと少しだけ頑張ればいい。


 一番安い六枚切りの食パン。

 スライスチーズ。

 特売のワゴンに入っていた袋ラーメン。

 卵。

 それだけをカゴに入れて、レジへ向かう。

 会計の数字を見て、頭の中で財布の残金と照らし合わせて素早く計算する。


(うあー、淡路島で遊んでる場合ちゃうかった。でも子ども手当振り込まれたらいけるはずっ)


 大丈夫。

 まだいける。

 大丈夫。私はやれる。


 玲花は、指に食い込むスーパーの袋を両手に提げて、重い足取りで家へ帰った。


 玄関を開けると、またリビングだけが青白く光っていた。

 ヨンチョリが、ゲームをしている。

 昨日と全く同じ背中だった。


「ただいま」

「おかえり」

「パン買ってきたで」

「チーズも?」

「ある」

「やった」


 抑揚のない声だったが、その「やった」が、玲花には少しだけ嬉しかった。

 袋を台所に置き、ヨンチョリの後ろに回る。

 中古ショップで買ったボロボロのニンテンドーの画面が、薄暗い部屋を照らしている。


「今日もマイクラ?」

「うん」

「新しい家、できた?」

「できた」

「見せて」


 ヨンチョリは無言でコントローラーを操作し、画面の中の家を見せてくれた。

 四角いブロックで作られた、立派で大きな家。

 中に入ると、ベッドがいくつも綺麗に並べられていた。


「ベッド多いな」

「みんなの分」

「誰の?」

「ぬなと、ヒョンらと、僕」

 ※ヒョン=お兄ちゃん


 玲花は、一瞬だけ息が詰まり、言葉を失った。

 それから、無理やり声を作って笑った。


「うちらの家なん?」

「うん」

「豪邸やん」

「うん」


 玲花は、また弟を後ろから抱きしめた。

 今度は、昨日よりも少しだけ強く。


「ヨンチョリ、天才」

「苦しい」

「ごめん」


 目頭が熱くなり、少しだけ涙が出そうになった。

 でも、またこらえた。私が泣いてどうする。

 その時、ドアが開く音がして上の弟たちが帰ってきた。


「ただいまー」

「腹減った」

「何かある?」


 部活終わりの疲れ切った声。

 でも、3人ともすぐに台所へ向かい、手伝ってくれる。

 山積みの食器をどかし、シンクの奥から鍋を引っ張り出し、今使う分だけを水と洗剤で雑に洗う。

 買ってきたばかりの袋ラーメンを5つ投入する。

 卵を5つ割って入れる。

 ネギなんてない。

 野菜もない。

 でも、卵を落としただけで、ただのインスタントラーメンが少しだけちゃんとしたご飯に見える気がした。

 5人で床に座り、無言でずるずるとラーメンを啜る。


 部屋には、テレビの音と、麺をすする音だけが響いていた。

 その時、玄関のドアがガタガタと乱暴に鳴り、ヒステリックな叫び声が飛んできた。


「おい! 飲みもん持ってこい!!!」


 リビングが、一瞬でしんとなった。

 空気が凍りつく。

 弟たちの箸が一斉に止まる。

 ヨンチョリも、ラーメンの上で箸を止めたまま固まった。

 玲花は、すぐに条件反射で笑顔を作った。


「ヌナ行くわ! あんたら食べとき」

「俺行くで」


 上の弟が立ち上がりかけるのを、玲花は手で制した。


「ええ。食べとき。冷めるやん」


 玲花は立ち上がる。

 足が鉛のように重い。

 でも、立つ。

 冷蔵庫から飲みかけのペットボトルのお茶を取り出して、薄暗い玄関に向かう。


「あ、玲花ちゃん! お母さんだいぶ出来上がってるわ!」


 玄関には、足元もおぼつかない玲花の母が、両側から支えられながら雪崩れ込んでいた。

 両脇にいるのは、淡いピンクの綺麗なドレスを着たキャバ嬢の女性と、恰幅のいい黒服の男だ。


「あ、こんばんは、ヒメカさん、山口さん…」

「んもうっ! リンカさんっ、しっかり立ってっ!」

 

 黒服の男、山口は、泥酔した母親を玄関のたたきに寝かせると、汚いものでも払うように両手をパンパンと叩いた。まるで荷物の扱いだな、と玲花は心の中で毒づいたが、決して口には出さない。


「お前らなんか食ったんか」


 山口が上から目線で言った。


「あ、ラーメン食べました」


 男はあからさまなため息をついて、リビングの奥に目をやった。

 山のように溜まったゴミや洗濯物、洗い物。そして上半身に何も着ていない少年たちが4人、ラーメンを啜る手を止めて不安げにこちらを見ている光景。

 山口は盛大にもう一度ため息をつくと、財布から千円札を5枚抜き出し、

「明日はこれでなんか食え」と玲花に押し付けた。


「あ、ありがとうございます…」

「リンカさん、男にばっかり金使わんと、子どもらにも使ってくださいよー!」


 山口は床で潰れているリンカの耳元で言ったが、母親はもう夢の世界でうわ言をこぼしているだけだった。


 ぬらり。

 開きっぱなしの玄関から、山口よりも一回り小さな男が音もなく入ってきた。

 この男も黒尽くめのスーツだ。

 狐のように細く釣り上がった目、薄い唇。何も面白いことがないはずなのに、常に口角が上がっていて不気味だった。


「くっさ。なんやこの家。次の送り、さっさといくで…‥って、これ娘?」

「寺田さん。はい。リンカさんの長女さんです」


 男——寺田の視線が舐め回すように散らかった家を回り、そして玲花でピタリと止まった。


「へー、なかなかええやん。今何歳?」

「17です」


「あと何ヶ月で18〜?」

「え? あ、えっと、来年の5月?」


 寺田はニィッと薄気味悪く笑った。


「覚えておくね」

「……?」


「うわー悪い顔!」

 華やかな香水の匂いをさせたヒメカが騒ぐ。


「ふん。こっちはリンカに金貸してんねん。回収せなアカンやろ」

「親が返されへんからって、娘使うんは悪党しすぎでしょー」


 三人はわいわいと場違いな冗談を飛ばしながら、玄関から出ていった。


 バタン、とドアが閉まった瞬間、濃密なアルコールの匂いが鼻をついた。

 玲花はため息をつき、母親を部屋へ運ぼうと腕を持ち上げる。だが、ぐったりとした大人の体は鉛のように重たくてびくともしない。真っ赤なドレスが、暗闇の中で毒々しく薄光りしている。


「……おんま、どんだけ飲んだん?」

「うっさいなぁ。水はいや!!!」


 不意に母親が暴れ、玲花はたまらず手に持っていたペットボトルを放り投げた。

 ごろん、とお茶のペットボトルが転がる。


「はい」

「お前、今投げたんか?」

「っごめん、はい」


 玲花は慌ててペットボトルを拾い上げ、もう一度手渡す。

 母親はそれを奪い取るようにして一口飲むと、顔をしかめた。


「ぬる。冷やしとけよ」

「おんま、あの、部活のお金欲しいってヒョンジンとテミンが…」


 玲花が言い終わるか終わらないかの、その瞬間だった。


 アルコールで焦点の定まっていなかった母親の目が、爬虫類のようにぎらりと光った。

(あ、くる)

 玲花が身構えるより早く、理不尽なスイッチが入った母親の細い腕が、大きく後ろへと振りかぶられる。


 バチィンッ!!!


<イライラ!!!!>


 そんな文字が、まるで漫画の背景のように空中に浮かんで見えるほどの強烈な一撃。

 空気を裂くような破裂音とともに、凄まじい衝撃が玲花の頬を殴りつけた。

 首が嫌な音を立てて横に持っていかれ、視界が一瞬白く飛ぶ。

 リビングでラーメンを食べていた弟たちが、ビクッと体を強張らせる気配が背中越しに伝わってきた。


 玲花はよろけそうになる足を踏ん張り、なんとか声を抑え込む。


「っ〜〜〜」

「そんなもんない!! だから部活なんか入るなって言うたやろが!!」


 金切り声が耳元で響く。

 再び、赤いドレスの腕が大きく振り上げられた。


 バチィンッ!!


 容赦のない平手が、今度は逆の頬を張り飛ばす。


「っ! でも…他の子らは全員部活するのに、うちらだけせんってのは…」

 バチィンッ!!


 口答えを許す間もなく、また平手が飛ぶ。口の中に鉄の味が広がった。


「アホか!!! 部活くらいさしたってって言うたんお前やろが!!」

「……そうやんね、忘れてた」


 反抗すれば、暴力が長引くだけだ。玲花は痛みを堪えながら、震える声で同意する。

 だが、母親の苛立ちは収まらない。怒りで歪み、血走った目が玲花を睨みつける。大きく振りかぶられた腕が、風を切る音を立てて落ちてきた。


 バチィンッ!!!

「っ!!!」


 今日一番の重い平手が側頭部に炸裂し、玲花は壁に手をついて必死に倒れるのを堪えた。ジンジンと両頬が熱を持ち、耳鳴りがやまない。

 玲花はもう、何も言わなかった。嵐が過ぎるのを、ただじっと耐えるしかなかった。


 母親がいびきをかき始めたのを確認し、暗い部屋から出てリビングに戻ると、4人の弟たちが全員黙りこくって、不安そうにこちらを見ていた。

 玲花は深く息を吸い込む。

(しっかりしな、笑え、リョンファ)


「あ、お金もらったで、部活代。袋に入れとくね」


 玲花は努めて明るい声を作り、テーブルの上に置かれた集金袋に、財布の金を詰めていく。


 5500円と、2800円か。

 さっき山口からもらった5000円。ラッキー。

 残りはうちのバイト代から出そ。


 うーん、昼ごはん3回抜いたらいいや。

 節約なるし、ダイエットなるし、ちょうどいいやん。


 自分にそう言い聞かせて、寝室から毛布を持ってきて、再び玄関に戻る。

 たたきで死んだように眠る母親に毛布をかける。


 ヒョンジンが無言で冷えたペットボトルを玲花の頬に当てる。

 底知れない情けなさと虚しさが込み上げてきたが、あえて笑う。


 「やばない?めっさ痛いねんけど。」

 「やばいな。あのババァ、クソやな」

「間違いない」

 「産むなよな、殴るくらいなら」


 いつか抜け出してやる。

 絶対に。

 このゴミ溜めみたいな部屋から。

 酒と安い香水の匂いから。

 このヒステリックな声から。

 でも、ヨンチョリたちは絶対に置いていかない。

 置いていかないまま、全員で抜け出す。


 そんな都合のいい道があるのかは、わからない。


 でも、探す。

 絶対に探す。


 夏休みの食事は、ひどい有様だった。


 食パン。

 袋ラーメン。

 スーパーの半額の出来合い。


 食パン。

 袋ラーメン。

 スーパーの出来合い。


 その繰り返し。


 夜になれば、酔っ払って帰ってくる母。

 理不尽な平手打ち。


 その繰り返し。


 溜まったシンクから、今使う食器だけを取り出す。

 洗う。

 使う。

 そしてまた、シンクに汚れた皿が溜まっていく。


 炭水化物ばかり食べているはずなのに、玲花の体は少しずつ軽くなっていった。

 体重が軽くなっているのに、体は鉛のように重かった。


 そんな、地獄のような17歳の夏休みだった。

 


 夏休み最終日。

 あぁ、やっと夏休みが終わる。

 玲花は、明日からの弟たちの給食を思って、心の底からほっと一息ついたのだった。



 ■■■


 

 夏休み明けの登校日。


 久しぶりの教室は、まだ夏休みの名残を引きずってざわついていた。

 日焼けして黒くなった子。

 髪色が少し明るくなった子。

 生活リズムが戻らず眠そうな子。

 課題を忘れて頭を抱え、叫んでいる子。

 すずは、教室に入ってきた玲花を見て、思わず目を見開いた。


「玲花ちゃん」

「バンビー!」


 玲花はいつものように、弾けるような笑顔で明るく手を振った。

 でも、すずの目には何かが違って見えた。

 顔はちゃんと可愛い。

 メイクもバッチリしている。

 髪も綺麗に巻いている。

 制服の着こなしも可愛い。


 でも、手首が異様に細かった。


 夏休み前より、明らかに。

 手首につけたブレスレットの内側で、関節の骨が痛々しく浮き出ている。


「玲花ちゃん、痩せたね」

 すずが思わず口に出すと、玲花はぱっと花が咲くように笑った。


「え、マジ? やった! ダイエット成功!」

「ダイエットしてたの?」

「してるしてる。可愛い女は日々努力!」


 陸が後ろから歩いてきて、玲花の姿をじっと見た。


「お前、ちゃんと食ってるか」

「食ってるよ」

「ほんまか」

「ほんまほんま。パンもラーメンも食ってる」

「それは食事と言えるんか」

「炭水化物は正義やろ」

「栄養が死んでる」

「陸、お父さんみたい」

「誰がお父さんや」


 玲花はいつも通り、ケラケラと笑った。

 明るい声調。だから、すずもそれ以上は深く追及できなかった。

 でも、嫌な予感がして気になった。

 ふと視線をやると、天馬も少し離れた場所から、無言で玲花を観察していた。

 天馬の眉が、わずかに寄っている。


 授業は、夏休み明けらしく、どこか浮ついて落ち着かなかった。

 佐伯先生の声は相変わらず教室中に響き渡るほど大きかった。


「はいこんにちはー! 夏休みボケの顔がずらりと並んどるなー!」


 玲花は先生の冗談に笑っていた。

 でも、その笑い方に、ほんの少し力がなかった。

 すずは何度も前の席の玲花を見る。

 玲花のペンの動きが止まる。

 まばたきが遅い。

 ぼんやりと虚空を見つめ、頬杖をつく時間が長い。


 休み時間になると、玲花は「ちょっと眠いだけ」と言って、机に突っ伏して動かなくなった。


 放課後。

 帰りのホームルームが終わった瞬間、教室の空気が一気にゆるんだ。

 椅子を引く音。

 鞄のジッパーを閉める音。

「カラオケ行こうぜ」と誘い合う誰かの笑い声。

 玲花も、帰る準備をしようと立ち上がった。

 その時だった。


「……あれ」

 玲花の声が、小さく揺れた。

 すずがハッとして振り返る。

「玲花ちゃん?」

 玲花はふらつき、咄嗟に机に手をついた。

「大丈夫、大丈夫。ちょっと立ちくらみしただけ」

「座って」

「平気やって」


 そう言って、玲花は無理やり笑おうとした。


 異変に気付いた陸が「大丈夫か?」と手を翳そうとした瞬間、玲花がびくりと肩をすくめ、顔を庇うような防御の体制をとった。

(殴られる)と体が勘違いしたような、異常な反応。

 陸が怪訝そうに顔を顰める。


 けれど、次の瞬間、玲花の体が糸の切れた操り人形のように、ぐらりと横へ傾いた。

 すずの心臓が、ヒュッと止まりそうになった。


「玲花ちゃん!」


 倒れる。

 床に頭を打つ。

 そう思った時、斜め後ろにいた天馬が反射的に動いた。

 ガタンッ! と激しい音を立てて自分の椅子を蹴るように立ち上がり、崩れ落ちる玲花の体を間一髪で受け止める。

 栄養を失った細い体が、天馬のたくましい腕の中にすっぽりと収まってしまった。


「玲花!」


 陸が鋭く叫ぶ。

 教室が一気にざわつき始めた。

 天馬は膝をつき、腕の中の玲花の顔を覗き込んだ。


「聞こえるか?」


 玲花の長いまつ毛が、微かに震える。


「……しんどい」


 いつもの、強気で明るい玲花ではない。

 弱々しい、消え入りそうな声。

 泣きそうな声。


「しんどいよー……」


 張り詰めていた糸が切れたようなその一言で、すずの胸がぎゅっと激しく締めつけられた。


 天馬は躊躇わなかった。

 玲花を軽々と抱き上げる。

 いわゆる、お姫様抱っこ。

 すずは、その光景を見た瞬間、足の先から冷水に浸かったように体が固まった。


 天馬の腕。

 そこに収まる玲花の細い体。

 玲花の頭が、コテンと天馬の胸元に寄っている。


 胸の奥の深いところに、何かどろりとした黒いものが落ちた。

 

(嫌だ)


 真っ先に、そう思ってしまった。

 こんな緊急事態なのに。


 大好きな玲花ちゃんが倒れたのに。

 自分は今、何を思った?


「保健室行く」


 天馬が低く、よく通る声で言った。

 状況を察した佐伯先生が、すぐに生徒たちをどかして道を開ける。


「西倉、行け! 俺もすぐ行く! 松本と鈴木!白の鞄持ってこい!」


 天馬は玲花を抱えたまま、教室を足早に出た。

 すずは慌てて自分の鞄と、玲花の鞄を掴んだ。

 手が震えている。

 廊下を走りながら、前を行く天馬の広い背中を見る。

 天馬の歩みは早い。

 人を一人抱えているのに、その足取りには一切の迷いがない。

 廊下を曲がるたび、天馬の腕の中で玲花の髪が揺れる。


「しんどい……しんどいよー……」


 玲花が、子どものように小さく泣き続けていた。


「すぐ着く」

 天馬の声が、驚くほど優しかった。

「大丈夫。すぐや」


 保健室に着くと、養護の先生が驚きながらもすぐに奥のベッドへ案内した。

 天馬は玲花を、壊れ物を扱うようにそっとシーツの上に寝かせる。

 玲花の閉じた目元から、つーっと涙が滲んでいた。

 天馬は一瞬だけ視線を落とし、空いている手の人差し指で、その涙をそっと優しく拭った。


 すずは、保健室の入り口でそれを見てしまった。

 胸が、ずきんと刃物で刺されたように痛んだ。


 優しい。

 天馬くんは、ただ優しいだけだ。

 限界を迎えて倒れた玲花ちゃんを、人として助けているだけ。

 そんなことは、頭では嫌というほどわかっている。

 わかっているのに。


 むかついた。

 悲しかった。

 心配するより先に、嫉妬に駆られている自分が、嫌で、嫌でたまらなかった。


 シーツに沈む玲花の顔は、真っ白だった。

 念入りに塗られたメイクの下でもわかるくらい、血の気が引いている。


 駆けつけた佐伯先生と養護の先生が深刻な顔で話し合い、すぐに病院へ連れて行くことになった。


「玲花ちゃん」

 すずがおそるおそるベッドの横に寄ると、玲花は薄く目を開けた。

「バンビ……」

「大丈夫?」

「ごめん……」

「謝らなくていいよ」

「しんどいよー……」


 玲花の声は、熱を出して母親に甘える小さな子どもみたいだった。

 すずは強く唇を噛んだ。

 玲花ちゃんは、いつも笑っていた。

 全力で明るくて、派手で、可愛くて、自信に満ちていて、いつもすずを全肯定してくれた。

 でも、今のベッドの上の玲花は、あまりにも小さく、壊れそうに見えた。


 やがて、陸が走って戻ってきた。


「車、下(玄関)に回した。すぐ行ける」


 天馬が黙って玲花の荷物を持つ。

 陸が玲花を支えようとすると、天馬もすぐに手を貸し、両側から慎重に歩かせる。

 佐伯先生が保護者への連絡先を確認しながら、低い声で指示を出している。


 玲花は、そのまま病院へ連れて行かれた。

 すずは、保健室の前にぽつんと立ったまま、遠ざかっていくその背中を見送った。

 放課後の廊下に、さっきまでの喧騒はもうない。夕日が長く影を落としている。

 胸の中だけが、ぐちゃぐちゃにうるさかった。

 玲花ちゃんが心配。

 本当に心配。

 それなのに。


 天馬くんが玲花ちゃんをお姫様抱っこしたこと。

 指で涙を拭ってあげたこと。

 荷物を当たり前のように持ってあげたこと。

 それが、むかついた。

 悲しかった。

 親友が倒れているのに、恋心に振り回されている自分が、最低だと思った。


「すず」


 ふいに、天馬の声がした。

 ハッとして振り返ると、天馬が保健室の入口に立っていた。

 玲花を陸の車に乗せたあと、一人で戻ってきたらしい。


「……玲花ちゃん、大丈夫かな」

「病院行ったから。陸さんもおるし、佐伯もついてる」


「うん」

「すずも、座れ」


「私は大丈夫……」

「大丈夫じゃない顔、してる」


 天馬はそう言って、すずの目の前に立った。

 いつもなら、この距離で見下ろされるだけで心臓がうるさく鳴る。

 でも今は、それよりも自分の中で渦巻いている黒い感情を見透かされそうで怖かった。

 すずは、ギュッとスカートを握りしめ、天馬から逃げるように目をそらした。

リアクションや、☆☆☆☆☆を★★★★★に変えていただけると、執筆の励みになります^^

感想、ご指摘、ブクマも大歓迎です!

完結約束、ハッピーエンドです(^ ^)

よろしくお願いします!

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