淡路島作戦会議ライン
母の退院が決まったのは、八月に入ってすぐのことだった。
手術から二週間。まだしばらく通院は必要だけれど、ひとまず家に帰れると聞いた瞬間、すずは病室で完全にフリーズした。
「え」
「え、て」
母がベッドの上で、おかしそうに笑う。
「ママ、帰れるの?」
「帰れるよ」
「ほんまに?」
「ほんまに」
「今日?」
「明後日や。今日やったら夜逃げやろ」
「明後日……」
すずは、両手で口元を覆った。
嬉しい。ものすごく嬉しいのに、なんだか脳の処理が追いつかない。
この夏、すずの日常は、病院の白い壁、消毒液の匂い、面会時間のタイマー、そして武庫川駅から病院までの、あの死ぬほど暑い一本道だけで構成されていたからだ。母が家にいるという当たり前の日常が、急にSFの都市伝説みたいに現実味を失っていた。
「すず、泣くん早いで。まだ退院届も出してへんのに」
「泣いてない」
「目ぇ、アラビアの真珠なみに潤んどるけど」
「これは、あの、冷房。兵庫医大の冷房がピンポイントで私を泣かせにきてる」
「最先端の医療ビルの冷房、情緒ありすぎやろ」
母がベッドを揺らして笑う。すずもつられて笑った。でも、笑ったらやっぱり涙がひと粒、ぽろりとこぼれた。
「……帰ったら、プリン食べる?」
「食べる。あの、瓶に入った、スプーンが底に届かんくらい長いやつな」
「底まで食べる気満々やん。あと、ママ、帰ったら最初に何食べたい?」
「うーん……」
母は少し天井を見上げて、真剣に吟味した。
「味噌汁」
「味噌汁?」
「うん。家の、なんでもない味噌汁」
その言葉に、すずの胸がきゅっとした。
病院の栄養管理された食事でもなく、高級なホテルのディナーでもなく、家の味噌汁。
「作る。私、最強のやつ作る」
「大丈夫? 味、大爆発せえへん?」
「せえへんよ! 出汁からちゃんと取る!」
「じゃあ、薄めで頼むわ。手術後の体に塩分過多は死活問題やからな。具は豆腐とわかめ。ネギは薬味として、存在を主張せん程度に細かく刻んでな」
「注文多いな……」
「あと、冷蔵庫に何もないのは、主婦として精神的に耐えられへんから、明日のうちに買い物しといて。洗濯物も溜めすぎたらアハンの呪いかけるで」
「……はい」
すずは少しだけ唇を尖らせた。
「ママ、帰ってくる前から小言のフルコースやん」
「帰ったら甘やかしたる言うたやろ」
「小言も甘やかしなん?」
「せやで。『小言を言える距離に、ママが戻ってくる』っていう、最高級の贅沢や」
すずは、ぐうの音も出なかった。
小言を言える距離。それが、こんなにも愛おしくて、ありがたいものだとは知らなかった。
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退院の日。
すずは朝の五時から目が冴えて、完全にそわそわしていた。
手伝いに来てくれた伯母の紗英と一緒に、狂ったように部屋を掃除する。
「すず、テレビの裏のホコリ、恵美が見つけたら一時間は説教コースやで!」
「わかった、コロコロ持ってくる!」
掃除機をかけ、洗濯物をまるでホテルのタオルのように美しく畳み、冷蔵庫へ食材をギチギチに詰め込んでいく。
豆腐。わかめ。ネギ。卵。ヨーグルト。そして、お約束の「瓶入りの高いプリン」。
冷蔵庫を開けたときに、冷気と一緒に『食べ物がある安心感』が押し寄せてくる。それだけで、すずは視界が滲んだ。
あの日、冷蔵庫には何もなかった。
絶望的に空っぽの箱を前に、ただ泣きそうで、夜中にヨレヨレのTシャツと短パン姿で、圭太くんのジャージを羽織ってコンビニへ走った。あの時の自分は、本当にギリギリの限界だったのだと思う。
でも、今日は違う。冷蔵庫にはネギもあるし、プリンもある。そして、ママが帰ってくる。
「すず、玄関の靴、ミリ単位で揃えた?」
「揃えた!」
「洗面所のタオル、高級ホテルのやつに替えた?」
「替えた!(ニトリだけど!)」
「恵美の布団、お日様の匂いする?」
「めちゃくちゃする!」
「よし、完璧や。いつでも来い!」
紗英と二人でパチンとハイタッチを交わした数分後、インターホンが鳴った。
すずは、廊下をすっ飛んで走った。
ガチャリと扉を開ける。
「ただいま」
紗英に支えられて、少しゆっくりとした足取りで、母がそこに立っていた。
入院前より一回り痩せて、顔色もまだ少し白い。でも、間違いなく、すずのママだった。
「おかえり……っ」
声にした瞬間、決壊した。
「ママ、おかえり……!」
「うん、ただいま。すず、インターホン鳴ってからドア開けるまで、3秒やったな。野生のイノシシかと思ったわ」
母は呆れたように、でも本当に嬉しそうに笑った。
玄関で思いきり抱きつきたい。でも、手術の傷に触れたら大変だ。すずが両手を泳がせてオロオロしていると、母が小さく、そっと腕を広げた。
「そーっとな。豆腐を扱うようにな」
「うん……!」
すずは、世界一壊れやすい宝物を触るように、そっと母の体に腕を回した。
昔みたいに骨が軋むような強さではないけれど、確かに、そこには母の確かな体温があった。あの、実家の洗剤と少しお薬の混ざった、大好きなママの匂いがした。
「ママ、細い……折れそう……」
「これから倍速で太るわ。すずの特製味噌汁でな」
「責任重大すぎる……!」
三人でリビングへ入る。母は使い慣れたソファに深く腰掛け、はぁぁぁ、と地鳴りのような深い息を吐いた。
「家や。やっぱり、我が家のクッションの硬さが一番落ち着くわ」
すずはすぐにキッチンに立った。
鍋に水を張り、昆布と鰹節で丁寧に出汁を取る。豆腐をサイコロ状に切り、わかめを水で戻し、ネギを信じられないくらいの集中力で刻む。嬉しさで手が少し震えて、危うくネギがザク切りになりかけた。
「すず、包丁の音が不穏や。ギロチンみたいな音させんといて」
「大丈夫、ちゃんとやってる!」
「ネギ、ちゃんとみじん切りになってる? 小口切りやなくてみじん切りやで」
「ママ、座ってて! 目が届かないリビングから遠隔で料理指導せんといて!」
キッチンからの抗議に、母と紗英が顔を見合わせてケラケラと笑った。
できあがった、特製の薄味味噌汁。
母は小さなお椀を両手で包むように持ち、ふーふーと息を吹きかけてから、一口飲んだ。
「……あ。美味しいわ、これ」
その一言で、すずのこれまでの苦労がすべて宇宙の彼方へ吹き飛んだ。
「ほんま!? 薄すぎん?」
「ちょうどええ。五臓六腑に染み渡るとは、まさにこのことやな。姉ちゃん、この子、いつの間にか出汁の天才になってるわ」
「ほんまやね、恵美。これでいつでも嫁に出せるわ」
「ちょっと、気が早すぎる!」
食卓に、三人分のお椀が並んでいる。ただそれだけの、一ヶ月前なら当たり前だった光景が、今は総額一億円の奇跡みたいに輝いて見えた。
そして食後。すずは満を持して、冷蔵庫から「瓶入りの高いプリン」を取り出した。
「出た。我が命の灯火、生きる希望」
母の目が輝く。
「ちゃんと買ったよ。スプーンの長いやつ」
「えらい。これ食べんことには、社会復帰できへんからな」
パカッと蓋を開け、スプーンですくって口へ運ぶ。
「……うま。何これ、めちゃくちゃなめらかやん。生還した味がするわ」
「プリンにどんな重いテーマ背負わせてんの」
ツッコミを入れつつ、すずも自分の分を一口食べた。
甘くて、冷たくて、濃厚で。ちょっとだけ、これまでの不安が全部溶けていくような、最高の味がした。
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その日の夜。すずは嬉しさのあまり、久しぶりにインスタに写真を投稿した。
湯気が上がる豆腐とわかめの味噌汁。並んだ瓶入りプリン。テーブルの上の、三人分のスプーン。
『ママ、退院しました! 味噌汁とプリンでお祝い。おかえり!』
投稿ボタンを押した直後、画面が爆発したかのように「いいね」の通知が鳴り響いた。そして、玲花から怒涛の勢いでLINEが送りつけられてきた。
【Lyon:おめでとうおめでとうおめでとう!!!!!!(クラッカーの絵文字30個)】
【Lyon:退院祝いしよ!!!!】
【Lyon:ここは一発、ド派手にいくで!!!!】
【suzu:ド派手に? どこ行くの?】
【Lyon:淡路島!!!!】
【suzu:なんで淡路島!?】
【Lyon:海! 大鳴門橋! 玉ねぎ! 圧倒的映え!!!!】
すずはベッドの上で思わず吹き出した。
すると、その数分後には四人のグループLINEが、阪神タイガースの優勝決定戦ばりのスピードで動き出した。
【Lyon:全員強制招集! すずママ退院祝いで淡路島ドライブ行くで!】
【riku:おい、展開急すぎるやろ。夏バテか?】
【Lyon:夏休みやぞ!! 現役JKが家でじっとしてられるか!】
【riku:どうせ車出すん俺やろ。完全にアッシー君(死語)やんけ】
【Lyon:さすが陸様! 頼れる男! 一生ついていく!(当日まで)】
【riku:当日で契約切れるのやめろ。ガソリン代と高速代は1円単位でキッチリ割り勘な。俺の給料をアテにするな】
【tenma:行く】
【suzu:天馬くん、食い気味にレスするの早い】
【tenma:淡路島、すず行きたいやろ。連れてったる】
【riku:え運転俺草】
すずはスマホの画面を見つめたまま、ぶわっと顔が熱くなった。
(……な、何、その『連れてったる』って。相変わらず、サラッと心臓に悪いこと言うんだから……!)
すずはトントン、と胸を叩いて鼓動を落ち着かせ、リビングの母に声をかけた。
「あのね、ママ。友達が、退院祝いで淡路島行こって言ってくれてるんだけど……」
「ええやん、行ってき。玉ねぎに揉まれてき」
「いいの? ママ、帰ってきたばかりなのに」
「ママには紗英姉ちゃんがおるし、すずが毎日家で監視員みたいに張り付いとったら、逆に息詰まるわ。せっかくの夏休みやねんから、若者は外で羽伸ばしてきなさい」
母は優しく笑ってから、人差し指を立てた。
「ただし、お土産は玉ねぎ以外」
「なんで? 淡路島といえば玉ねぎなのに」
「帰ってきて早々、玉ねぎ刻んで泣きたくない。主婦への嫌がらせかと思われる」
「じゃあ何がいい?」
「プリン」
「またプリン!? どんだけプリンに魂売ってんの!」
「淡路島にも『淡路島プリン』とか絶対あるやろ。ご当地モノ買ってき」
すずは声を上げて笑った。笑いながら、目の奥がじわりと熱くなる。
お母さんが家にいて、ふざけた会話をして、友達と淡路島へ行く約束をしている。ただそれだけで、世界の彩度が一段階上がったように、すべてが明るく見えた。
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その夜、布団に入ってからも、グループLINEの通知は「ピコンピコン」と鳴り止まなかった。
【Lyon:当日の服どうしよ! 海っぽいやつ! おニューのサンダル履いていく!】
【riku:淡路島舐めんな。砂浜歩くし、あそこ階段多いから歩きやすいスニーカーにし】
【Lyon:おしゃれの敵! リアリスト男!】
【riku:海でヒール折れて『陸、おんぶして〜』とか言われても、砂浜に埋めるからな】
【tenma:すず、車酔い大丈夫か? 酔い止めいる?】
【suzu:あ酔ったことないですありがとう】
【tenma:念のため、一番強くて眠くならんやつ俺が持っとく】
【suzu:え】
【riku:草】
すずはスマホを胸元に抱きしめ、毛布に顔を埋めた。
天馬くんは、本当にこういうところがある。
普段は低い声でぶっきらぼうで、学校ではだるそうにしているのに。そして、時々私のパーソナルスペースを容赦なく破壊してグイグイ攻めてくるくせに、こういう細かい体調の変化や心配事を、誰よりも先に見つけてくれる。
ゼリー。「夜中でも連絡して」。そして、酔い止め。
派手な愛の言葉なんかより、天馬がすずの足元にそっと置いてくれる、この不器用で小さな安心感が、たまらなく愛おしかった。
リビングの方から、母と紗英の、いつもの小言の応酬が小さく聞こえてくる。
「恵美、食後の薬飲んだ?」
「飲んだって」
「嘘つき。さっきから一歩も食卓から動いてへんやん。薬の袋、そこにあるで」
「チッ……姉ちゃん、警察犬なみに鼻が利くな」
「誰が警察犬や、飲みなさい!」
「はいはい、飲みますよ……姉ちゃんうるさい、お見舞いの時からずっと思ってたけど声がデカい」
すずは布団の中で、声を殺してクスクスと笑った。
小言がBGM代わりに響く、騒がしくて温かい我が家。これ以上の贅沢なんて、この世にない。
すずはゆっくりと目を閉じた。
あの強烈だった武庫川の向かい風も、夜の病院の張り詰めた空気も、奈良の暗い夜道で感じた孤独も、すべてが心地よい過去として遠ざかっていく。
今夜は、同じ屋根の下にママがいる。
明後日からは、きっと、もっと特別な夏が始まる。
天馬の、あの綺麗な茶色の瞳を思い出しながら、すずは久しぶりに、何の不安もない深い眠りへと落ちていった。
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毎日更新予定です。完結約束、ハッピーエンドです(^ ^)
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