くっついても、いいですね?
天馬の家は、武庫之荘の方にあるらしい。
最寄りは立花駅。武庫川にも近い、大きな分譲マンションだと玲花が言った。
「天馬って、一人暮らしなんやろ?」
「うん。お母さん亡くなって、お父さんほとんど海外って聞いてる」
「3LDKに一人って聞いた時、金持ちかと思った」
「金持ちなの?」
「ちゃうくて。遺産らしい。家だけ残ったタイプ」
玲花の言葉に、すずは少しだけ胸が痛くなった。
家だけある。
それは、少し寂しい言葉だった。
夏の夕暮れ、並んで歩く玲花は相変わらずお洒落で派手だった。
胸元の開いたタイトなタンクトップに、健康的な脚ががっつり出たデニムのミニスカート。歩くたびに、ミュールのヒールが、カツカツと小気味いい音を立てている。
一方のすずは、淡いブルーの夏らしいワンピースにサンダル姿。
最近、少しだけ髪が伸びた。
今日はそれを高めの位置できゅっと結び、ポニーテールにしている。歩くたびに、うなじの後ろで毛先がぽよぽよと揺れた。
到着したマンションは、想像していたよりずっと立派だった。
大きなエントランスに、きれいに磨かれた大理石風の床。
重そうな自動ドアを抜け、管理人室の前を通る。
「すごい……」
「やろ? 初めて来た時、私もびびった」
玲花が迷いなくインターホンを押す。
少しして、スピーカーから低い声がした。
『何』
「怪我人、見舞いに来たでー!」
『帰れ』
「開けろ」
一瞬の無言のあと、ガコッとオートロックが開いた。
「開けるんや」
すずが小さく言うと、玲花は得意げに笑った。
「いや、今日行くって言うてあったしな。なんだかんだ開ける男やねん」
エレベーターで上へ上がり、廊下の突き当たりの扉の前へ。
チャイムを押す前に、内側からガチャリと扉が開いた。
「……」
天馬が立っていた。
すずは、思わず息を止めた。
ゆるい黒のスウェットパンツに、くたっとしたグレーのTシャツ。
お風呂上がりなのか、少し濡れたような髪が、額に無造作にかかっている。
差し出された左手の小指には、白い包帯が巻かれていた。
学校で見る制服姿とも、現場での作業着とも違う、完全に油断した家の中の天馬だった。
ラフな格好なのに、妙に格好いい。
背が高くて、肩幅が広くて。
前髪の隙間から覗く、色素の薄い綺麗な茶色の目が、眠そうに細められている。
夕暮れの光を反射するその瞳が、すずにはひどく素敵に見えて、一瞬で見惚れてしまった。
「……一時間も早いやん」
天馬が低く言った。
「うるさいなー! ほら、バンビも来たで」
「えっ、あ、はい。天馬くん、怪我、大丈夫……?」
すずが慌てて一歩前に出ると、天馬の薄い茶色の瞳が、じっとすずを捉えた。
そして、ふっと口元を緩める。
その時にちらりと覗いた綺麗な八重歯が、ずるいくらいに可愛くて、すずはどくんと胸を鳴らした。
「擦っただけ」
「血は?」
「出た」
「痛い?」
「ちょっと」
「病院は?」
「行ってない」
「行ってないの!?」
すずが思わず声を上げると、天馬は少しだけきまずそうに目をそらした。
「大したことない。マキロン塗った」
「マキロン……」
玲花が横で吹き出した。
「ほら、大げさやろ?」
「大げさちゃう。陸が勝手に撮った」
天馬は不機嫌そうに首を振りながら、二人を中へ入れた。
部屋は、一人暮らしにしては広すぎる三LDKだった。
床には物が落ちておらず、キッチンも綺麗に片付いている。
「天馬くん、部屋きれいなんだね」
「汚いと思ってた?」
「え、いや、そういうわけじゃ」
「思ってたんや」
「ち、違うよ!」
すずが焦る横で、玲花がソファにどさっと座った。
「天馬、意外と几帳面やで。見た目だるそうやのに」
「うるさい」
すずは部屋を見回した。
広い。
きれい。
でも、少しだけ静かすぎる。
物は揃っている。
ソファもある。
大きなテーブルもある。
テレビも、棚も、食器もある。
けれど、誰かが何気なく置いた雑誌や、脱ぎっぱなしの上着や、食べかけのお菓子の袋みたいなものはない。
生活はあるのに、家族の気配が薄い。
すずは、玲花の言葉を思い出した。
家だけあるタイプ。
その意味が、少しだけわかった気がした。
テーブルの横の小さな棚に、写真立てが置かれていた。
白い肌の、柔らかく笑う綺麗な女性。
天馬とそっくりな薄い茶色の瞳をしている。
その横には、チベットの民族衣装を着た濃い顔立ちの男性。
なんだか、とても可愛い顔をしていて、天馬に似ている。
「それ、母親と父親」
天馬が背後から言った。
「あ、ごめん。勝手に見て」
「別に」
天馬は写真を見ようとはしなかった。
「お母さん、すごく綺麗な人やね」
「うん」
「お父さんは、なんだか可愛いね。服、これ、チベットの?」
「そう」
「最近、帰ってきたりするの?」
天馬は少しだけ間を置いた。
「最後に帰ってきたの、去年」
「去年……」
「Zoomなら、この前」
「そ、そうなんだ」
すずは、写真をもう一度見た。
お父さんは写真の中で、まっすぐこちらを見ている。
でも、この部屋にはいない。
お母さんは柔らかく笑っている。
でも、もう帰ってこない。
この広い部屋を、天馬は一人で片付けて、一人でご飯を食べて、一人で眠っているのだ。
すずは、胸の奥がきゅっとした。
「つーか、濡れた」
天馬が突然呟いた。
そして、着ていたグレーのTシャツの裾を掴み、一気に頭から脱ぎ捨てた。
「えっ」
すずは脳の処理が追いつかずに固まった。
目の前に現れたのは、無駄な脂肪が一切ない、しなやかに割れた腹筋。
作業で鍛えられた厚い胸板、広い肩、たくましい腕。
薄く汗ばんだ小麦色の肌が、リビングの照明に照らされている。
「て、天馬くん!?」
「何」
「服! 服着て!!」
「いや。俺の家やし」
「家でも!!」
すずは真っ赤になって両手で顔を覆った。
指の隙間からどうしても見てしまいそうになり、慌てて後ろを向く。
玲花はまったく動じず、のんきに笑っている。
「男子ってすぐ脱ぐよなー。うちの弟らも夏ずっとそうやわ」
「すぐ脱がないで!」
「見るの嫌?」
背後から、天馬の低くて楽しそうな声が近づいてくる。
「嫌とかじゃなくて、心臓に悪いです!」
口を滑らせたすずに、天馬がさらに声を重ねた。
「へえ。ドキドキした?」
「し、してません!」
「嘘やろ」
「服、着てください!」
玲花が「バンビが死ぬから着たって!」と助け舟を出してくれ、天馬は面倒そうに別の黒いTシャツを頭から被った。
すずはようやく、深く息を吐き出すことができた。
「天馬、飯あるん?」
「ある。カップ麺」
「ないと同じや。バンビ、鍋作ろ」
玲花が冷蔵庫を開けたが、中身はほとんど空っぽだった。
「天馬、これで何を食べるつもりやったん?」
「カップ麺」
「だから、それは飯ちゃうって!」
結局、陸が食材調達係として召喚された。
「おー、怪我人、生きてるか。お前の指より鍋が心配で来た」
「帰れ」
陸が「今、金あるし」と男気を見せて買ってきた大量の肉を投入し、夏なのに冷房をガンガンに効かせた部屋で、みんなで鍋を囲んだ。
玲花が大声で笑い、陸がツッコミを入れ、天馬が低い声で文句を言う。
さっきまで広くて静かだった部屋が、湯気の向こうで、ちゃんと賑やかな家の温度になっていく。
天馬も、いつもより少しだけ表情が柔らかかった。
すずは鍋の湯気越しに、その顔を見た。
天馬くん、嬉しそう。
そう思った。
それが少しだけ嬉しかった。
食べ終わる頃、外から、どん、と低い音が響いた。
次の瞬間、大きな窓の外の夜空に、鮮やかな光が咲いた。
「うわ! 今日、武庫川の花火やったん!?」
玲花が立ち上がり、天馬がリビングの大きなカーテンを開け放った。
窓の向こう、武庫川の方角に、次々と花火が上がっていく。
赤。
金。
白。
大輪の光が夜空に開くたび、暗い部屋の中がぱっと色鮮やかに照らされた。
すずは吸い寄せられるように窓辺へ近づいた。
「すごい……きれい……」
感動して窓を見上げるすずの横顔を、花火の光が交互に照らす。
夢中になっているすずの隣に、天馬が静かに立った。
すずが瞬きをするたび、少し伸びたポニーテールが、うなじの後ろでぽよんと小さく揺れる。
天馬は、その様子をじっと見つめていた。
風が、窓の隙間から少しだけ入ってきた。
ポニーテールの毛先が、また小さく揺れる。
天馬は、大きな手をほんの少しだけ伸ばしかけた。
でも、途中で止めた。
指先を握るようにして、そっと手を下ろす。
代わりに、低い声で言った。
「すずさん」
「な、なに?」
「お母さん、手術成功してよかったですね?」
突然の、敬語混じりの優しい声。
すずは一瞬戸惑いながらも、こくんと頷いた。
「うん……うん。おかげさまで、本当に、よかった、です」
すると、天馬の口元が、意地悪く、でもたまらなく愛おしそうに歪んだ。
可愛い八重歯が覗く。
「じゃあ、もうええな」
「な、何が?」
「お母さん、退院するんやろ? すずの心配事、一つ減ったやん」
じり、と天馬がさらに一歩、踏み込んでくる。
「だ、だからって、なんで近くなるんですか……っ」
「くっついても、いいですね?」
「な!?ど、な、よ、よくないです!」
すずは慌てて後ろに下がろうとしたが、背中はすでに窓ガラスに当たっていた。
完全に退路を断たれる。
天馬はすずの目の前で足を止め、逃がさないように視線を固定した。
端正な顔が、信じられないくらい近い。
「すず、前、男として見るとかしんどいって言ったやん」
「う、うん、言った」
「でも手術が終わるまでは、って言うてたよな?」
「い、いやあの、忘れ、ました」
「大丈夫。俺が覚えてます」
低くて、熱い声だった。
その目と八重歯は、完全にすずを捕まえにきている。
ぐいぐいと迫る天馬の迫力に、すずの心臓はドラムのように激しく打ち鳴らされた。
「……っ、もう、天馬くん、近いってば!」
「どうされましたー? 鈴木すずさん。顔が真っ赤ですがー」
「に、逃げるんです! 心臓が大変だから!」
背後で、ソファにいた玲花がクッションを抱きしめながら叫んだ。
「キャー!! 出たー! うちらおらん時にやってー!」
「だめ! 玲花ちゃん、そこにいて! 助けて!」
すずが全力で護衛を求めると、陸がうどんをすすりながら腹を抱えて笑った。
「バンビ、天馬に喰われるぞ〜」
「笑ってないで助けてください!!」
すずの必死の抵抗に、天馬はついに堪えきれず、声を上げて笑った。
その笑い顔は、本当に楽しそうで、少年みたいで、この広い部屋に漂っていた寂しさなんて、どこにも見当たらなかった。
どん、と大きな音がして、特大の金色の花火が夜空に弾けた。
一瞬、部屋全体が昼間のように明るくなる。
光の中に浮かび上がる天馬は、ずるいくらいに格好よかった。
ラフなTシャツ姿で、小指に不格好な包帯を巻いて、八重歯を見せて意地悪に笑って。
男の子として見るのはしんどい。
なんて、もう通用しなかった。
目の前にいる天馬は、どうしようもないくらいに、すずを揺さぶってくるひとりの男の子だった。
困る。
これは、本当に困る。
すずは沸騰しそうな顔を両手で隠しながら、ますます激しくなる胸の鼓動を、必死に抑え込もうとしていた。
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