私の武庫川。私のホーム。
母の手術の日は、朝から痛いくらいに晴れていた。
兵庫医大の白い建物が、夏の日差しを受けて眩しく光っている。
すずは、伯母の紗英と一緒に病院へ向かった。
いつもなら、一人で阪神電車に乗って、武庫川駅で降りる。川の上にある駅のホームで、強い風に髪を乱されながら、病院へ向かう。
けれどその日は、紗英が一緒だった。
「大丈夫やで」
紗英は何度もそう言った。
でも、病院の廊下を歩く横顔は、いつもの明るい伯母とは少し違っていた。口元は笑っているのに、目が少しだけ硬い。
ドキドキしているのは、自分だけではないのだと、すずはその時初めて気づいた。
伯母さんも、怖いんだ。
ママのことを、ずっと支えてきた伯母さんも。大丈夫やで、と言ってくれる伯母さんも。
病室に入ると、母はいつものように笑っていた。
「おはよう、すず。姉ちゃんも」
「おはよう」
「おはよう、恵美。なんや、顔色ええやん」
「女優やからな」
「それは知らんかったな。あんたの大根役者ぶり、幼稚園のお遊戯会から見とるけど」
紗英がそう言って笑う。母も笑う。すずも笑った。
けれど、笑っても、胸の奥の震えは止まらなかった。
看護師さんが来て、手術前の確認をする。手術と同時に、いくつか細胞をとって、転移していないかの確認もするそうだ。母の腕には点滴が繋がれている。
現実が、少しずつ近づいてくる。
すずは母の手を握った。
「ママ」
「ん?」
「帰ってきたら、プリン食べよう」
「冷蔵庫にあるやつ?」
「ううん。また買う。ちょっと高いやつ。……いや、めっちゃ高いやつ。瓶に入ってるようなやつ」
「それは楽しみやな。絶対生還せなあかんな」
母は笑った。
その笑顔を見た瞬間、すずは泣きそうになった。けれど、泣かなかった。泣いたら母が心配する。
そう思ったのに、母が先に言った。
「泣いてもええよ」
「……」
「ママも怖いし」
すずの喉が詰まった。
「ママ」
「でも、大丈夫。ちゃんと戻ってくる。帰ったら、いっぱい甘やかしたる約束やし。小言も百万回言ったる」
「うん」
やがて、母のベッドが動き出した。手術室へ向かう時間だった。
すずと紗英は、病室の入口までついていった。
「すず」
手術室の前で、母が呼んだ。
「うん」
「ちゃんとご飯食べて待っとき」
「うん」
「プリンも忘れんと買っといて。瓶のやつな」
「……うん。どんだけプリン執着するの」
「生きる希望や」
二人で笑った。
「行ってくるわ」
「……行ってらっしゃい」
白い扉の向こうに、母が消えた。
手術は、四時間かかった。
すずと紗英は、病院の待合で過ごした。時間は、進んでいるはずなのに、少しも進んでいないように感じた。
四時間後。
医師から、手術は無事に終わったと告げられた。
癌は切り取れた。予定通りだった。
紗英が、はぁ、と大きく息を吐いた。すずも、その場で息を吐いた。気づかないうちに、ずっと息を詰めていたのだと思った。
「よかった……」
声にした瞬間、涙が出た。紗英が、すずの肩を強く抱いた。
その日、母はまだ麻酔から覚めきらず、ぼんやりしていた。
病室に戻ってきた母の手を、すずはずっと握っていた。手は少し冷たかった。でも、生きている手だった。
「ママ」
母は薄く目を開けた。
「……すず」
「うん。ここにいるよ」
「……プリン……」
「(生還の第一声がそれ!?)」
すずは涙で視界を滲ませながらも、思わず心の中でツッコんだ。
「買う。瓶のやつ、買うから」
母は満足そうに、少しだけ笑ったように見えた。すずは、その手を握ったまま静かに泣いた。
夏休みに入ってから、すずは手術が無事に終わったことを、みんなに報告した。
玲花は電話口で『よかったああああああ! マジでよかった! もう泣く!』と鼓膜が破れそうな大声を出し、陸は短く『よかったな。ほんまに』と言ってくれた。
天馬は、少し遅れてLINEをくれた。
【tenma:よかった】
【tenma:ちゃんと飯食えよ】
それだけだった。でも、すずにはそれが天馬らしいと思えた。
インスタにも、病院の帰りに買った「瓶に入った高いプリン」の写真を載せて報告した。
投稿すると、たくさんの「いいね」がついた。その中に、久しぶりの名前があった。遥。奈良にいた頃、いつも一緒にいた幼馴染だ。
【haruka:すず、ママ大丈夫なん? 俺のママとお見舞い行きたい】
その文字を見た瞬間、すずの胸がぱっと明るくなった。
【suzu:ありがとう! ぜひ来て! ママも喜ぶと思う】
数日後。
遥は、遥のママと一緒に西宮まで来てくれた。
駐車場で車から出てきた遥を見た瞬間、胸が懐かしさでいっぱいになった。日焼けした肌。笑い方は昔のままだった。
二人でたくさん笑い合い、病院へ向かう道すがら、遥がふと横を流れる川を見た。
「川、でかいな」
「うん。武庫川っていうの」
「へぇ。泳げんの?」
「……え?」
すずは耳を疑った。
横を見る。水深は浅いが、濁った緑色をしている武庫川。たまに謎の大きな魚が跳ねている武庫川。
「お、泳ぐ……? いや、どうだろう。吉野川とか大和川とは色が違うし、たぶんお腹壊すと思う……」
「うげ。なんかちょっとドブっぽい匂いせぇへん?」
「(ドブ……否定しきれない自分が悔しい……!)」
病院で母に会うと、遥はきちんと挨拶してくれた。昔の友達が、今の母に会ってくれている。奈良と西宮が、少しだけ繋がったような気がした。
けれど。
おばさんとお母さんが話し込んでいる間、病室の外の待合で話している時、少しずつ何かがずれていった。
「すずの学校って、定時制なんやろ?」
「うん。昼からの定時制。いろんな子がいるよ。働いてる子とか、年上の子とか」
「ふうん」
遥は、あまり想像できないという顔をした。
「友達できた?」
「うん。玲花ちゃんっていうめっちゃ綺麗で明るい子と、陸くんっていう働きながら来てる子と、天馬くんっていう……」
言いかけた時、スマホが震えた。陸のインスタ通知だった。
何気なく開くと、現場の写真が上がっていた。そこには、作業着姿の陸と、指に包帯を巻いた天馬が写っていた。
――現場でアホがちょい負傷。
――こいつ今、この世の終わりみたいな顔して無言やけど。
ーー
写真の天馬は、指に巻かれた包帯を見つめながら、確かに「俺の指が……」と言わんばかりの神妙な面持ちで写っていた。
すずは画面を見つめる。
(小指……天馬くんの顔、ちょっと面白いな……)
そう思っていると、遥が画面を覗き込んだ。
「え、何この子」
「え?」
「現場仕事してるん?」
「うん。バイトで」
「すずの学校、底辺すぎん?」
すずは、瞬きをした。
言葉の意味が、一拍遅れて届いた。
「……」
「高校生で現場とか、怖」
「怖くないよ。正社員で働いてる子もいるんだから」
「え、じゃ大学は? 大学行かねーとか何? ていうか、その学校大丈夫なん?」
遥は、悪気なさそうに言った。昔と同じ調子だった。
すずは、スマホを握ったまま、黙っていた。胸の奥で、何かがすっと冷えた。
遥は何も知らない。
陸がどれだけ一生懸命か。天馬がどれだけ不器用で優しいか。玲花がどれだけ温かいか。
やめて。私の友達を、そんなふうに言わないで。
その言葉が喉まで上がったけれど、すずは言わなかった。言っても、きっと伝わらない。
「……そういう考え方もあるよね」
すずは、静かに、氷のように冷たく言った。
遥は少し拍子抜けしたような顔をした。
「え、怒った?」
「怒ってないよ。大丈夫」
すずは笑った。でも、それは静かに、線を引くための笑顔だった。
遥を見送ったあと、すずはしばらく駐車場に立っていた。
奈良に帰りたい。そう思って泣いた日があったのに、今は少し感情が変わってきていた。
スマホを見る。陸のインスタ。マキロンを塗られた天馬の神妙な顔。
胸がまた、ざわざわした。
すずは玲花にLINEを送った。
【suzu:天馬くん、怪我したって】
一秒で既読がついた。
【Lyon:見た!? 私も今見た! アイツ絶対大げさにしてる!】
【Lyon:行こ。尼崎】
【suzu:えっ】
【Lyon:見舞いや見舞い。擦り傷にでっかい絆創膏貼りにいくで。天馬の家、知ってる】
【suzu:行っていいのかな】
【Lyon:こういう時は行くねん。チャリ飛ばすで!】
【suzu : 私、自転車ないし、乗れへんけど】
【Lyon:ええええええええええ】
【suzu : 坂道の多い山にいたからさ】
【Lyon:いやそれでもや】
すずは、少しだけ迷った。でも、行きたいと思った。
天馬の(おそらく大したことない)怪我が気になる。顔を見たい。そして、玲花のあの無駄な勢いに巻き込まれたかった。
【suzu:どーにかして、行く】
送信する。夕方の空は、少しずつ色を変え始めていた。
電車が川の上を渡る。窓の外に、広い水面が見えた。
強い風に揺れる川面。遠くに続く河川敷。その向こうに、眼鏡橋の方へ続く道。
すずは、ふと胸がきゅっとした。
最近、あの道を歩いていない。
ドブの匂いがすると言われた川。
泳げない川。
でも、風が強くて、楽器の音が聞こえて、夕焼けが水面に反射する、あの道が。
奈良に帰りたいと思って泣いた日があった。
でも今、恋しいと思ったのは、奈良ではなかった。
武庫川だった。
西宮の、あの風だった。
すずは、そのことに少しだけ驚いた。
いつの間にか、ここも、自分の場所になり始めているのかもしれない。




