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神戸駆けるバンビ! 〜奈良県民JK、ギャルとワイルド系イケメンのいる定時制高校に放牧される〜  作者: みょんたま


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39/73

私の武庫川。私のホーム。

 母の手術の日は、朝から痛いくらいに晴れていた。

 兵庫医大の白い建物が、夏の日差しを受けて眩しく光っている。


 すずは、伯母の紗英と一緒に病院へ向かった。

 いつもなら、一人で阪神電車に乗って、武庫川駅で降りる。川の上にある駅のホームで、強い風に髪を乱されながら、病院へ向かう。

 けれどその日は、紗英が一緒だった。


「大丈夫やで」

 紗英は何度もそう言った。

 でも、病院の廊下を歩く横顔は、いつもの明るい伯母とは少し違っていた。口元は笑っているのに、目が少しだけ硬い。

 ドキドキしているのは、自分だけではないのだと、すずはその時初めて気づいた。


 伯母さんも、怖いんだ。

 ママのことを、ずっと支えてきた伯母さんも。大丈夫やで、と言ってくれる伯母さんも。


 病室に入ると、母はいつものように笑っていた。


「おはよう、すず。姉ちゃんも」

「おはよう」

「おはよう、恵美。なんや、顔色ええやん」

「女優やからな」

「それは知らんかったな。あんたの大根役者ぶり、幼稚園のお遊戯会から見とるけど」

 紗英がそう言って笑う。母も笑う。すずも笑った。

 けれど、笑っても、胸の奥の震えは止まらなかった。


 看護師さんが来て、手術前の確認をする。手術と同時に、いくつか細胞をとって、転移していないかの確認もするそうだ。母の腕には点滴が繋がれている。


 現実が、少しずつ近づいてくる。

 すずは母の手を握った。


「ママ」

「ん?」

「帰ってきたら、プリン食べよう」

「冷蔵庫にあるやつ?」

「ううん。また買う。ちょっと高いやつ。……いや、めっちゃ高いやつ。瓶に入ってるようなやつ」

「それは楽しみやな。絶対生還せなあかんな」


 母は笑った。

 その笑顔を見た瞬間、すずは泣きそうになった。けれど、泣かなかった。泣いたら母が心配する。

 そう思ったのに、母が先に言った。


「泣いてもええよ」

「……」

「ママも怖いし」

 すずの喉が詰まった。

「ママ」

「でも、大丈夫。ちゃんと戻ってくる。帰ったら、いっぱい甘やかしたる約束やし。小言も百万回言ったる」

「うん」


 やがて、母のベッドが動き出した。手術室へ向かう時間だった。

 すずと紗英は、病室の入口までついていった。


「すず」

 手術室の前で、母が呼んだ。

「うん」

「ちゃんとご飯食べて待っとき」

「うん」

「プリンも忘れんと買っといて。瓶のやつな」

「……うん。どんだけプリン執着するの」

「生きる希望や」


 二人で笑った。

「行ってくるわ」

「……行ってらっしゃい」

 白い扉の向こうに、母が消えた。


 手術は、四時間かかった。

 すずと紗英は、病院の待合で過ごした。時間は、進んでいるはずなのに、少しも進んでいないように感じた。


 四時間後。

 医師から、手術は無事に終わったと告げられた。

 癌は切り取れた。予定通りだった。


 紗英が、はぁ、と大きく息を吐いた。すずも、その場で息を吐いた。気づかないうちに、ずっと息を詰めていたのだと思った。

「よかった……」

 声にした瞬間、涙が出た。紗英が、すずの肩を強く抱いた。


 その日、母はまだ麻酔から覚めきらず、ぼんやりしていた。

 病室に戻ってきた母の手を、すずはずっと握っていた。手は少し冷たかった。でも、生きている手だった。


「ママ」

 母は薄く目を開けた。

「……すず」

「うん。ここにいるよ」

「……プリン……」

「(生還の第一声がそれ!?)」


 すずは涙で視界を滲ませながらも、思わず心の中でツッコんだ。

「買う。瓶のやつ、買うから」

 母は満足そうに、少しだけ笑ったように見えた。すずは、その手を握ったまま静かに泣いた。


 夏休みに入ってから、すずは手術が無事に終わったことを、みんなに報告した。

 玲花は電話口で『よかったああああああ! マジでよかった! もう泣く!』と鼓膜が破れそうな大声を出し、陸は短く『よかったな。ほんまに』と言ってくれた。


 天馬は、少し遅れてLINEをくれた。

【tenma:よかった】

【tenma:ちゃんと飯食えよ】

 それだけだった。でも、すずにはそれが天馬らしいと思えた。


 インスタにも、病院の帰りに買った「瓶に入った高いプリン」の写真を載せて報告した。

 投稿すると、たくさんの「いいね」がついた。その中に、久しぶりの名前があった。遥。奈良にいた頃、いつも一緒にいた幼馴染だ。


【haruka:すず、ママ大丈夫なん? 俺のママとお見舞い行きたい】


 その文字を見た瞬間、すずの胸がぱっと明るくなった。

【suzu:ありがとう! ぜひ来て! ママも喜ぶと思う】


 数日後。

 遥は、遥のママと一緒に西宮まで来てくれた。

 駐車場で車から出てきた遥を見た瞬間、胸が懐かしさでいっぱいになった。日焼けした肌。笑い方は昔のままだった。

 二人でたくさん笑い合い、病院へ向かう道すがら、遥がふと横を流れる川を見た。


「川、でかいな」

「うん。武庫川っていうの」

「へぇ。泳げんの?」

「……え?」

 すずは耳を疑った。

 横を見る。水深は浅いが、濁った緑色をしている武庫川。たまに謎の大きな魚が跳ねている武庫川。

「お、泳ぐ……? いや、どうだろう。吉野川とか大和川とは色が違うし、たぶんお腹壊すと思う……」

「うげ。なんかちょっとドブっぽい匂いせぇへん?」

「(ドブ……否定しきれない自分が悔しい……!)」


 病院で母に会うと、遥はきちんと挨拶してくれた。昔の友達が、今の母に会ってくれている。奈良と西宮が、少しだけ繋がったような気がした。


 けれど。

 おばさんとお母さんが話し込んでいる間、病室の外の待合で話している時、少しずつ何かがずれていった。


「すずの学校って、定時制なんやろ?」

「うん。昼からの定時制。いろんな子がいるよ。働いてる子とか、年上の子とか」

「ふうん」

 遥は、あまり想像できないという顔をした。

「友達できた?」

「うん。玲花ちゃんっていうめっちゃ綺麗で明るい子と、陸くんっていう働きながら来てる子と、天馬くんっていう……」


 言いかけた時、スマホが震えた。陸のインスタ通知だった。

 何気なく開くと、現場の写真が上がっていた。そこには、作業着姿の陸と、指に包帯を巻いた天馬が写っていた。


 ――現場でアホがちょい負傷。

 ――こいつ今、この世の終わりみたいな顔して無言やけど。

 ーー


 写真の天馬は、指に巻かれた包帯を見つめながら、確かに「俺の指が……」と言わんばかりの神妙な面持ちで写っていた。

 すずは画面を見つめる。

(小指……天馬くんの顔、ちょっと面白いな……)


 そう思っていると、遥が画面を覗き込んだ。

「え、何この子」

「え?」

「現場仕事してるん?」

「うん。バイトで」

「すずの学校、底辺すぎん?」


 すずは、瞬きをした。

 言葉の意味が、一拍遅れて届いた。

「……」

「高校生で現場とか、怖」

「怖くないよ。正社員で働いてる子もいるんだから」

「え、じゃ大学は? 大学行かねーとか何? ていうか、その学校大丈夫なん?」


 遥は、悪気なさそうに言った。昔と同じ調子だった。

 すずは、スマホを握ったまま、黙っていた。胸の奥で、何かがすっと冷えた。


 遥は何も知らない。

 陸がどれだけ一生懸命か。天馬がどれだけ不器用で優しいか。玲花がどれだけ温かいか。

 やめて。私の友達を、そんなふうに言わないで。

 その言葉が喉まで上がったけれど、すずは言わなかった。言っても、きっと伝わらない。


「……そういう考え方もあるよね」

 すずは、静かに、氷のように冷たく言った。

 遥は少し拍子抜けしたような顔をした。

「え、怒った?」

「怒ってないよ。大丈夫」


 すずは笑った。でも、それは静かに、線を引くための笑顔だった。


 遥を見送ったあと、すずはしばらく駐車場に立っていた。


 奈良に帰りたい。そう思って泣いた日があったのに、今は少し感情が変わってきていた。


 スマホを見る。陸のインスタ。マキロンを塗られた天馬の神妙な顔。

 胸がまた、ざわざわした。

 すずは玲花にLINEを送った。


【suzu:天馬くん、怪我したって】


 一秒で既読がついた。


【Lyon:見た!? 私も今見た! アイツ絶対大げさにしてる!】

【Lyon:行こ。尼崎】

【suzu:えっ】

【Lyon:見舞いや見舞い。擦り傷にでっかい絆創膏貼りにいくで。天馬の家、知ってる】

【suzu:行っていいのかな】

【Lyon:こういう時は行くねん。チャリ飛ばすで!】

【suzu : 私、自転車ないし、乗れへんけど】

【Lyon:ええええええええええ】

【suzu : 坂道の多い山にいたからさ】

【Lyon:いやそれでもや】


 すずは、少しだけ迷った。でも、行きたいと思った。

 天馬の(おそらく大したことない)怪我が気になる。顔を見たい。そして、玲花のあの無駄な勢いに巻き込まれたかった。


【suzu:どーにかして、行く】


 送信する。夕方の空は、少しずつ色を変え始めていた。


 電車が川の上を渡る。窓の外に、広い水面が見えた。

 強い風に揺れる川面。遠くに続く河川敷。その向こうに、眼鏡橋の方へ続く道。


 すずは、ふと胸がきゅっとした。

 最近、あの道を歩いていない。


 ドブの匂いがすると言われた川。

 泳げない川。

 でも、風が強くて、楽器の音が聞こえて、夕焼けが水面に反射する、あの道が。


 奈良に帰りたいと思って泣いた日があった。

 でも今、恋しいと思ったのは、奈良ではなかった。




 武庫川だった。

 西宮の、あの風だった。


 すずは、そのことに少しだけ驚いた。

 いつの間にか、ここも、自分の場所になり始めているのかもしれない。




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