夏が動きだす〜西宮戎と尼崎インターチェンジ〜
翌週の水曜日。
授業が終わったあと、天馬はすずの席の前に立った。
「すず」
「はい」
「この前、ごめん」
低い声だった。すずは、顔を上げた。
「ジャージのこと。体調悪いのに、俺、自分のことばっかりやった」
「……うん」
「ふて寝かよって言ったのも、ごめん」
「うん」
すずは少しだけ迷って、それから小さく頷いた。
「謝ってくれて、ありがとう」
天馬の肩から、少しだけ力が抜けた。けれど、すずは続けた。
「あのね、天馬くん」
「うん」
「私、今はまだ、男として見るとか、そういうの、しんどい」
天馬は黙った。
「ママのこともあるし、バイトもあるし、進路も考えなきゃいけないし。体調悪い日もあるし。だから、今、誰かと付き合うとか、ちゃんと考えられない」
「……うん」
「でも」
すずは、ぎゅっと手を握った。
「友達から、でいいなら。一緒にいてほしい」
天馬の目が揺れた。
「友達から」
「うん」
「俺、それやと、すずが他に取られそうで怖い」
正直すぎる声だった。すずは少しだけ眉を下げた。
「ほら」
「……」
「そういうのが、しんどい」
天馬は言葉を失った。すずは、責めるようには言わなかった。でも、逃げもしなかった。
「とりあえず、今は、誰とも付き合う気がないです」
「……うん」
「待つ」
「え? 待つ?」
「待つ」
「あの、でも焦らせないでほしいって言うか、気持ちはありがたいんだけど……」
「……努力する」
「努力なんや」
「自信はない」
すずは、少しだけ笑った。
「正直」
「今日の俺は、正直でいく」
「うん」
天馬は、低く息を吐いた。
「友達から、でいい」
「うん」
「でも、俺がすずを特別に思ってることは、変わらん」
すずの顔が少し赤くなった。
「……それも、今は胸にしまっておきます」
「しまわれた」
「はい」
「鍵かけた?」
「かけました」
「いつ開く?」
「とりあえず、ママが退院した後かな」
天馬は一瞬だけ黙って、それから小さく笑った。
「じゃあ、待つ」
「でも、あの、気持ちは、ありがとう」
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その日の夜。
すずは、洗ったジャージを袋に入れた。圭太のジャージ。柔軟剤の匂いが少しだけ残っている。
翌朝、ベーカリーツバメで圭太に会った時、すずはそれを両手で差し出した。
「圭太くん。これ、ありがとう」
「もう返すんですか?」
「うん。ちゃんと洗ったよ」
「持っててくれてよかったのに」
「ううん。返す」
圭太は、袋を受け取った。少しだけ残念そうな顔をした。すずは、勇気を出して続けた。
「あのね」
「はい」
「この前、夜に送ってくれたのも、心配してくれたのも、ありがとう」
「うん」
「でも、これからは、二人では遊ばないと思う」
圭太の表情が、少しだけ固まった。
「……どうして?」
「ママのこともあるし、進路もあるし、バイトもあるし。私、今、自分のことで精一杯なの」
「……そっか」
「圭太くんは優しいし、すごく助けてくれた。だから、ちゃんと言っておきたかった」
圭太は、しばらく黙っていた。それから、少しだけ笑った。
「わかりました」
「うん」
「じゃあ、友達としてなら?」
「友達としてなら」
「二人じゃなくて、みんなでなら?」
「うん」
「じゃあ、また誘います。みんなで」
すずは、少しだけほっとした。
「ありがとう」
「すーちゃん」
「ん?」
「僕、結構しつこいですよ」
「えっ」
「でも、困らせるのは嫌なんで。今は、友達にしておきます」
圭太は爽やかに笑った。でも、その笑顔の奥に、ほんの少し悔しさが残っているのを、すずは見た気がした。
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夏は、少しずつ動き出していた。
天馬は、佐伯との面談を繰り返すようになった。
教育大。通信の教育大。夜間。奨学金。教員免許。日本語教師。英語教員。社会科。
知らない言葉が、ノートに増えていく。最初は、何から調べればいいのかもわからなかった。けれど、佐伯は毎回、大声で言った。
「わからん言うたやつから、わかるようになるんじゃ!」
「声でかいっす」
「お前の人生の話やぞ! 声もでかくなるわ!」
天馬は、ピアスを外したまま学校にきて、教科書を開き、勉強するようになった。髪も短いままだ。服装も少しだけ変わった。陸はそれを見て、毎回言った。
「形から入るよな」
「うるさい」
「でも似合ってる」
「……うるさい」
天馬は相変わらず低い声で返したが、机の上には、進路の本と英単語帳が置かれるようになった。
陸も変わっていた。
親方の会社が法人化し、陸は正式に社員になった。現場に出る日が増え、顔はさらに黒く焼けた。腕も首も、夏の太陽で真っ黒だった。給料は、あっという間に佐伯を超えたらしい。
「先生、俺、来月の手取り聞いたら泣くで」
「言うな! 教師の夢がなくなるやろ!」
「夢で飯食えませんからね」
「うるさいわ!」
陸の持ち物は、少しずつ良いものになっていった。でも、派手なブランド物は買わなかった。
丈夫な革の財布。長く使えそうな時計。現場用の良い靴。少し高いけれど、壊れにくいリュック。
「高いもん買うなら、長く使えるやつがええ」
陸はそう言った。そして、施工管理技士の資格が、学歴や実務経験を問わず、十九歳以上であれば挑戦できるようになったと知ると、すぐに勉強を始めた。参考書を広げて、勉強するようになった。
「取れるもんは取る。資格は裏切らん」
その言葉を聞いて、すずは思った。陸くんは、大学に行かない。でも、何も考えていないわけじゃない。自分の道を、ちゃんと見ている。
玲花も変わっていた。
ファッションストアのアルバイト先では、看板娘のように扱われるようになり、店の公式インスタグラムにもたびたび登場した。新作のワンピース。夏のサンダル。大きなピアス。派手なバッグ。玲花が着ると、全部が生きて見えた。
「見て! 今月、収益ちょっと出た!」
スマホを見せながら、玲花が教室で飛び跳ねた。
「いくら?」
陸が聞く。
「二千円!」
「かわいい」
「でもゼロじゃないもん!」
玲花は胸を張った。
「私の顔とセンスでお金が生まれたってことやで!? すごない!?」
「すごい」
すずは素直に言った。「玲花ちゃん、ほんとにすごい」
「やろ!」
玲花は得意げに笑った。「私、いつかちゃんと稼ぐからな。顔が可愛いだけで終わらん女になる」
その言葉は冗談みたいだったけれど、目は本気だった。
二年生の夏。みんな、少しずつ変わっていた。
天馬は未来を探し始めた。陸は仕事の道を進み始めた。玲花は自分の見られ方を武器にし始めた。すずも、教育大や保育士、幼稚園教諭、いろんな進路を調べるようになった。
母と一緒に、大学のホームページを見る日も増えた。関西福祉大学。教育大。保育系の短大。通信で取れる資格。奨学金。知らなかった世界が、スマホの画面の中に広がっている。
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「ええか夏休みやからって油断すんなよー! 夏休み明けには提出がたんまりあるからな!」
佐伯の大声で締めくくられたホームルームの直後。
「ねぇすず、ママの手術、もう少しやんね」
「うん、明後日だよ」
「ほな、えべっさん行こや! 今日の帰り!」
玲花の突拍子もない提案に、すずは目を丸くした。
「えべっさん? 何それ」
「は!? ウソやろ、知らんの!? 西宮のどでかい神社やん。私、七五三とかそこで撮ったで!」
「えっと……ひょっとして、お正月に人がめっちゃ走るところ?」
「せやな、福男選びのな。……てか玲花、あそこ商売繁盛の神社やぞ」
陸がすかさずツッコミを入れる。
「有名やねんからご利益あるって! すずママの快気祝い! そこでお祈りしよーよ!」
「……俺も行く。てか、まだ治ってないのに快気祝いはおかしいやろ」
天馬がボソッと正論を吐く。
「もう、細かい男はモテへんで! 天馬はえべっさんより、お初天神の方がええんちゃう?」
「黙れ」
「何? お初天神って」
すずが首を傾げると、玲花はニヤニヤしながら身を乗り出した。
「梅田にある神社でな、めっちゃピンクやねん! ピンク! 恋が叶うんやって。すず、今度そこ行こーな!」
「え、う、うん? ピンクの神社……?」
「だからお前は、なんでそんなすぐ次の話題行くねん。えべっさんどないなってん」
呆れたように陸が軌道修正する。
「あ、そうそう! 今から行こ! 今からやったら閉まる前に間に合うやろ!」
「しゃーないな。今日ちょうど車で来てるから、回すわ」
あれよあれよという間に話はまとまり、四人は陸の車でえべっさん――西宮神社へ向かうことになった。
夏の夕暮れ。西宮。
全国のえびす神社の総本社であり、京都の恵美須神社、大阪の今宮戎神社と並んで「日本三大えびす」の一つに数えられる立派な神社だ。
すずは、目の前にそびえ立つ桃山建築の重厚な「赤門」と、室町時代から現存するという日本最古クラスの「大練塀」を見上げて息を呑んだ。「三連春日造り」の本殿も、圧倒されるほどの迫力がある。
すずはお守りコーナーに行き、病気治癒を願うお守りを買った。ふと横を見ると、青々とした笹の枝に、小判や鯛、大入り袋など「吉兆」と呼ばれる縁起物がたくさん結び付けられた熊手が飾られていた。
「わあ、すごい豪華……えっ」
すずは値札を見て、目をひん剥いた。
「さ、三万円!!!」
「家賃やん」と陸が横でぼやく。「商売繁盛のお祈りする前に、財布がすっからかんになるわ」
「でもご利益ありそうやん! 陸、親方のために買っていったら?」と玲花がからかう。
「アホか、しばかれるわ」
そんなやり取りに笑いながら、すずはお守りをぎゅっと握りしめた。
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その日、そのまま陸の車で兵庫医大の病院へお見舞いに行った。
面会時間は二十時まで。陸たちは「駐車場で待ってるから、ゆっくりしておいで」と言ってくれた。
「なんでえべっさん?」
病室で事の顛末を話すと、ママはくすくすと笑った。
「玲花ちゃんが、快気祝いにって。まだ手術もしてないのに」
「ふふ、気が早いねぇ。でも、こんな夜遅くに大丈夫なの?」
「うん。友達が車で送ってくれたから」
ママは、すずの手にあるお守りを見て、目を細めた。
「……友達ができて、嬉しいわ」
「うん。みんないい子だよ」
「また明日来るね」
すずは、ママの手を優しく握ってから病室を出た。
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車に戻ると、陸がエンジンをかけながら言った。
「せっかくだから、夜景でも見に行こか」
向かったのは、マクドナルドのドライブスルー。いつもは「節約や」とうるさい陸が、「今日は俺の奢りや!」と全員分のハンバーガーとポテトを買ってくれた。
「陸、太っ腹! 一生ついていく!」と玲花がはしゃぐ。
「一生は重いわ」と笑いながら、車は海沿いへ向かって走った。
到着したのは、尼崎の湾岸エリア。関西熱化学株式会社の尼崎事業所付近は、知る人ぞ知る人気の工場夜景スポットだ。
車の窓を全開にすると、夏の夜特有の生ぬるい潮風と一緒に、車内に充満したマックのポテトのジャンクな匂いが混ざり合った。
「うわぁ……!」
すずは、助手席の後ろから身を乗り出して声を上げた。
目の前に広がるのは、オレンジ色に照らされた巨大なパイプラインやプラント群。無数のライトが複雑に絡み合う鉄骨を浮かび上がらせていて、まるでSF映画に出てくる近未来の要塞のようだった。時折、白い蒸気がシューッと吹き上がり、光に反射して幻想的に揺らぐ。
「尼崎って綺麗なんだね! 知らんかった!」
すずが目を輝かせながら言うと、運転席の陸がバックミラー越しにジト目を向けた。
「はい出ました、西宮市民の尼崎ディス」
「え、ええ!? ちゃうよ! 私は奈良県民やで」
すずが慌てて否定するが、陸はチッチッと舌を鳴らした。
「いーや、おかんが西宮出身なんやったらハーフじゃ、ハーフ。ええか、尼崎舐めんなよ。言うとくけどな、あの洋菓子の『アンテノール』の工場も、『マネケン』のワッフルの工場も尼崎にあんねんからな!」
「だから〜?」
すかさず玲花が隣からドヤ顔で割り込んでくる。
「大丸があるのも、阪急があんのも神戸でーす。おしゃれのレベルが違いまーす」
「お前は百貨店マウントとってくんなや!」
バチバチと言い合う二人に、すずはオロオロと視線を彷徨わせた。
「な、なんだかよくわかんないんだけど……地域で派閥があるんだね?」
すずが本気で心配そうに呟くと、玲花と陸は顔を見合わせて吹き出した。
「あはは! ネタやネタ! 笑いなだけ! 奈良が海ないのを自慢するのと一緒!」
「べ、別に自慢はしてないけど……」
すずが不満げに唇を尖らせると、助手席で静かに前を見ていた天馬が「ふっ」と小さく吹き出した。
ポテトを齧りながら、キラキラと輝く金属と光の要塞を見つめる。
大人たちが作り上げた、眠らない鉄の街。
帰り道。
「あ、陸くん。あのベンツ屋さんの角で曲がってください」
「ベンツ屋て」
陸が即座にツッコむ。
「さすが、西宮はちゃいますなぁ。目印が高級外車ディーラーやもん」
玲花がニヤニヤしながら、すずの肩を突っついた。
「もういいよそのネタは! 単に目立つから!」
すずのマンションの前で、車が静かに止まる。
「ありがと、陸くん。ごちそうさまでした」
すずが車を降りると、3人が一斉に窓を開けた。
「すず! 夏休み、ママの手術が無事に終わったら、光の速さで遊ぼな! ピンクの神社、絶対行くで!」
玲花が身を乗り出してブンブンと手を振る。
「お守り、効くとええな。……まぁ、なんかあったら、車出すから。ポテト代さえくれれば」
陸がぶっきらぼうに、でもハンドルを握る手は優しく言った。
「……なんかあったら、夜中でも連絡して。……待ってるから」
助手席の天馬は、すずと目が合うと、少しだけきまずそうに視線を逸らし、それからまた戻した。
その声は、他の二人の喧騒に消えそうなほど低かったけれど、すずの耳にははっきりと届いた。
「うん。……みんな、本当にありがとう」
すずが深々と頭を下げると、陸の車は少し寂しげな排気音を立てて、静かに夜の闇へ溶けていった。
一人、マンションの前に残される。
ついさっきまで隣にあった、陸の腕の黒さ、玲花の香水の匂い、天馬の視線。そして、バカバカしい地域マウントの掛け合い。
そのすべてが幻だったかのように、周りは静寂に包まれていた。
手に持ったレジ袋から、少し冷めたポテトの匂いが漂う。
(……明日、このポテト、トースターで焼いたらカリカリになるかな)
そんな、どうでもいいことを考えてみる。
そうしていないと、明後日のママの手術という重たい現実が、この湿った夜風に乗って、一気に心臓を潰しにくるのが分かっていたからだ。
怖い。怖くて、逃げ出したい。
だけど、さっきまで横で笑ってくれていた、あの最高にバカバカしくて温かい連中の顔を思い出すと、不思議と足は地面から離れずに済んだ。
甘酸っぱいケチャップと、汗と、少しの潮の匂い。
もどかしくて、胸が締め付けられるような、けれど決して一人ではない、新しい夏が始まろうとしていた。
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