スーパーポジティブガール。初めてアルバイトに大遅刻した日。
目が覚めた時、部屋はもう明るかった。
カーテンの隙間から、朝の光がまっすぐ差し込んでいる。
すずは、ぼんやりと天井を見た。
頭が重い。体も重い。まだ眠い。
昨日、何時に寝たのだろう。夜中にコンビニへ行って、おにぎりとスープを食べて、プリンを冷蔵庫に入れて、それから薬を飲んで。そこまでは覚えている。
すずは、枕元のスマホを手探りで探した。画面を見る。
七時二分。
「…………え」
もう一度見る。七時二分。
「ええええええええええええええ!?」
すずは飛び起きた。
スマホのアラームは、全部止まっていた。五時四十分、五時五十分、六時。三つもかけたはずなのに、まったく記憶がない。
「うそ!」
ベッドから転がるように降りて、リビングへ飛び出す。
「紗英さん!」
キッチンにいた紗英が振り返った。「おはよう」
「おはようじゃない! なんで起こしてくれなかったの!?」
すずの声は、寝起きでかすれていた。紗英はきょとんとする。
「今日、休みやと思ってた」
「なんで!?」
「昨日早退したし、体調悪いってライン来てたから……え、ちゃうの?」
「そういう問題じゃないー!」
時計を見る。7時5。
今日のベーカリーツバメの出勤は7時だ。もうすでに5分過ぎている。
しかも今日は生理二日目。体はまだ重い。お腹も痛い。シャワーを浴びないといけない。薬も飲まないといけない。髪もどうにかしなければならない。
「終わった……」
すずは本気で呟いた。
「すず、休んだら?」
紗英が心配そうに言う。
「無理。行く」
「でも」
「行く!」
すずは洗面所へ駆け込んだ。シャワーを浴びる。急いでいるのに、体は思うように動かない。髪を濡らさないようにして、体だけ洗う。それでも時間がかかる。
薬を飲む。冷蔵庫の麦茶を飲む。昨日買ったプリンが目に入ったが、食べている時間はない。髪を適当にまとめる。スマホ、財布、鍵。
「行ってきます!」
「すず、ほんま無理せんときや!」
「うん!」
返事だけして、すずは玄関を飛び出した。
外に出ると、朝の空気はすでに少し暑かった。走る。足が重い。お腹に響く。でも走る。いつもなら何でもない景色が、今日は全部邪魔に見える。
店の前に着いた時、時計は八時を少し過ぎていた。大遅刻だった。
「す、すみません!」
すずは息を切らしながら、店の扉を開けた。
店内には、焼きたてのパンの匂いが広がっていた。いつもなら、少し安心する匂い。でも今日は、その匂いを嗅いだ瞬間、胸がきゅっと縮んだ。
奥さんがレジ横から顔を上げる。
「すーちゃん」
大きなお腹を支えながら、パンを出していた。
「ごめんなさい! 寝過ごしました! ほんとにごめんなさい!」
すずは深く頭を下げた。奥さんはすずの顔を見て、すぐに眉を寄せた。
「顔、まだ白いやん。大丈夫?」
「大丈夫です。働けます、大丈夫です」
大丈夫。また言った。自分でも嘘だとわかっていた。でも、言わずにはいられなかった。休めば時給が消える。定期代、学費、母の入院費。数字が、脳内で勝手に並んでいく。
それに、奥さんは今双子ちゃんを妊娠中だ。夏の間に生まれると聞いている。自分なんかより、きっと大変なはずだ。
「着替えてきます」
すずは小さく言って、奥へ入った。
それから十二時まで、必死に働いた。
レジを打ち、袋にパンを入れ、トングを洗い、棚を拭く。立ちっぱなしの足はだるく、時々ふっと目の前が暗くなる感じがした。それでも、意地だけでピークを乗り切った。
「すーちゃん、時間よ、もう上がってね」
昼前、奥さんに半ば強制的に促され、すずはエプロンを外した。
更衣室で着替えを済ませ、重い足取りで出ようとした時だった。
「すーちゃん」
低い声に呼び止められ、すずはビクッと肩を揺らした。
振り返ると、そこにいたのは店長だった。
いつも厨房の奥で黙々と生地を捏ね、一日のセリフといえば「うす」か「いらっしゃいませ」くらいの、最高に無口で寡黙な職人。読めない表情のまま、その大きな手には茶色の紙袋が握られていた。いつももらうまかないの袋よりも、明らかに大きくて、ずっしりと重そうだ。
「……これ、持って帰り」
店長はぶっきらぼうに、その袋をすずの前に差し出した。
「え、でも、私今日遅刻したし、そんな……もらえません」
すずが恐縮して一歩引くと、店長は袋を差し出したまま、ふっと少しだけ目をそらした。長い沈黙。店内の時計の秒針の音だけが響く。店長は、頭の後ろを少し気まずそうに掻いた。
「……店は、準備がある。来るか、来ないか分からんと困る。遅刻も、連絡がないと……こっちも心配する」
「……はい」
「叱ったんは、大事なことやからや」
そこまで言うと、店長は一度言葉を切り、大きく息を吸い込んだ。普段なら絶対にこんなに喋らない人が、すずのために一生懸命に言葉を探しているのが分かった。
「……けどな。無理はしてほしくないけど、鈴木さんがここで働いてくれるんは、ほんまに助かってる」
「え……」
「ちゃんと戦力やねん。俺も、嫁さんも、鈴木さんに期待してる。だからこそ、体調悪い時は連絡してほしい。来るか休むか、一緒に考えられるから」
店長の目が、まっすぐらすずを捉えた。普段は怖いくらいに無表情なその目が、今は信じられないくらい温かかった。
「期待、してるからな」
その瞬間、すずの目の奥が猛烈に熱くなった。
店長はそれだけ言うと、「ええから、持っていけ」と半ば強引に紙袋をすずの手に握らせ、背を向けて厨房の奥へと引っ込んでしまった。入れ替わるように顔を出した奥さんが、すずの肩に優しく手を置く。
手渡された紙袋からは、出来立てのサンドイッチのぬくもりが伝わってきた。お肉がたっぷりはみ出たサンドイッチ、プリン、ジュース、それに焼き菓子がふたつ。
叱られた時は耐えられたのに、その不器用な優しさに触れた瞬間、涙が溢れて止まらなくなった。
「ごめんなさい……私、……遅刻して、迷惑かけて……」
「ちゃうちゃう。ちゃうよすーちゃん!」
奥さんが優しく背中をさすってくれる。
「店長がこんなに喋るの、滅多にないんやから。ダメな子には、こんなにパンも持たせへんよ」
すずは泣きながら、温かい紙袋をぎゅっと抱きしめた。
「ありがとうございます……」
「今日はこれ食べて。な?学校も、ママのお見舞いもあるんやろ?いっぱい食べて、元気の足しにして?な?」
「……ズビ。はい。行きます。連絡は、次から絶対します。約束します」
何度も何度も頷いて、すずは店を後にした。
すずは甲子園口の駅に入ると、深呼吸を繰り返した。
今日の服装は、ダサい。
よれよれのTシャツに、デニムだ。せっかくおばさんやお母さんが買いだめしてくれた服で毎回決めて登校していたのに、今日は、もうヨレヨレだ。
ガラッと教室のドアを開けると、玲花がいち早くすずに気づいてすっ飛んできた。
「バンビ!」
その顔を見た瞬間、すずはまた一瞬で泣きそうになった。
「顔、また死んでるやん。朝、バイト行ったん?」
「行った……」
「偉すぎ!」
「でも、遅刻しちゃって……」
すずが消え入りそうな声で言うと、玲花は食い気味に両手を叩いた。
「それでも出勤しただけ偉いよ!」
「寝坊しちゃったの……」
「朝起きたんでしょ? えらい!!」
全肯定の嵐に、すずは戸惑いながら続ける。
「時間ないのに、どうしても気持ち悪かったから、シャワーも浴びちゃって……」
「ええっ!? 気持ち悪いからって、あのバタバタの時間にちゃんとシャワーも浴びて!? なにそれ、女の鏡やん! 美意識高っ! 偉すぎ!」
「でも今日すごくよれよれのTシャツだし…チキンラーメンのTシャツだし」
「ひよこちゃんいーやん!すぐおいしい!すごくおいしいやん!」
「それで……急いで学校来たのに、焦りすぎて教科書全部忘れちゃった……」
すずが完全にへこんで肩を落とすと、玲花はフッと不敵な笑みを浮かべ、すずの両肩をガシッと掴んだ。
「いーのいーの! きただけで偉いって! オールオッケー!」
「でも、教科書どうしよ……」
「ねぇ、あんたの目の前に、今誰がいると思ってんの?」
「……ぐす。玲花ちゃん?」
玲花はバッと自分の胸に手を当て、モデルのようなポーズを決めてウインクした。
「そ! 超スーパービューティで、スーパーポジティブガール!そしてしっかり教科書持ってきてると・も・だ・ち! 」
「玲花ちゃん……」
「一緒にみよ!な?」
あまりの勢いと底抜けの明るさに、すずの胸の奥のモヤモヤが、みるみるうちに溶けていく。思わず、ふふっと声を出して笑ってしまった。
「とりあえず、それ食べた?」
玲花がすずの手にある大きな紙袋を指差す。「まだ」
「食べよ。今すぐ!」
「授業前やよ?」
「じゃあ急いで食べ!」
玲花はすずを席に座らせ、袋を覗き込んだ。
「うわ、めっちゃええやつやん。お肉はみ出てる!」
「店長さんがくれたの。無口なのに、期待してるって言ってくれて……」
「ほら、愛やな! バンビがダメな子ちゃう証拠!」
すずは、サンドイッチを一口食べた。お肉の旨味と少し甘いソース、シャキシャキのレタス。ちゃんと美味しかった。美味しいと思える自分が、少し嬉しかった。
少し離れた席から、天馬がその様子をじっと見ていた。
何度か謝ろうと声をかけようとして、やめた。
謝りたいことはたくさんある。
昨日のことも、今朝のことも。
でも、結局最後まで声をかけることは、できなかった。
今日も迎えに行く、その一言も、かけれないまま、放課後が過ぎた。
■■■
放課後。すずは兵庫医大の病室にいた。
丸椅子に座り、母の細くなった手を握る。
「昨日と今日、いろいろダメだった。寝坊して、遅刻して、怒られて、泣いて……」
「ママが入院してるから、すずが頑張りすぎてるだけ」
母は優しく笑った。
「でも、できない日、あるよ。四十過ぎたママでもある」
「ママでも?」
「あるある。女の体も心も、毎日同じじゃないの。昨日できたことが、今日できない日もある」
「でも……」
「でも禁止」
すずは少しだけ笑った。母は「帰ったらいっぱい甘やかしたる。小言もいっぱい言うたる」と目を細めた。その言葉がお守りのように胸に染みる。
「ママ、昨日の夜コンビニでプリン買ったの。冷蔵庫にある」
「帰ったら食べ。冷蔵庫にプリンがあるって、けっこう大事やで」
面会時間が終わり、病室を出る時、母が振り返って言った。
「すず。昨日のすずも、今日のすずも、ダメな子ちゃうよ。しんどかった子。頑張りすぎた子。それだけ」
すずは、ぎゅっと唇を結んだ。でも、無理に口角を上げるのはやめた。泣きそうな顔のまま、しっかりと頷いた。
「……うん」
病院を出ると、武庫川の風が、すずの頬を優しく撫でるように吹き抜けていった。
夏の日差しが暑い。
今日はもう無理せず、バスで帰ろう。
すずは、もう30分歩く元気がなかった。
兵庫医大の1号館の東側に行くと、バス停があった。
バスはタイミングよく来た。
プシューと音が鳴り乗り込む。
バスに揺られながら、すずは目を閉じた。
お腹の痛みは引いていた。
すずは窓の外から景色を眺めた。
引っ越してきて半年経ったとは言え、すずの行動範囲はまだまだ狭い。
バスはいろんなところを通りながら、JR甲子園口まで帰ってきた。
今日、玲花の言っていた言葉がリフレインする。
< 超スーパービューティで、スーパーポジティブガール!そしてしっかり教科書持ってきてると・も・だ・ち! >
すずは、また涙が出そうになった。
ずっと、不安だった。
引っ越してきて、半年。
ずっと頑張ってきた。
ママが入院してしまって、一人ぼっちになったような気がした夜もあった。
でも今日、玲花が友達だと言った。
たくさん励ましてくれた。
よれよれのTシャツでも、ボロボロでも、一緒に励ましてくれた。
玲花と出会って、もう半年が経ったと言うのに、すずはやっと心から、友達ができたと思えた気がした。
「嬉しいな」
明日からは、きっと頑張ってみせる。
きっと。
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