男がめんどくさいと知った夜。
「……最悪」
放課後の教室で、天馬は短く吐き捨てた。
机の上には、未読のままのスマホ画面。隣には、玲花が気を利かせて置いていったすずの鞄。
天馬の脳裏には、さっきまですずが着ていたブカブカのジャージばかりがチラついていた。
兵庫高校。圭太の男物ジャージ。
「お前がな」
少し離れた席から、陸がスマホから目を離さずに突っ込んだ。
「自覚あるならええけど。顔色真っ白な子に、ジャージの出処でキレてどうすんねん」
「……はぁ」
「次会ったら、とりあえず土下座やな」
「……へぃ」
ガラッ!と勢いよくドアが開き、相変わらず鼓膜に響く声量で佐伯が入ってきた。
「おー、お前らまだおったんか。鈴木なら帰したぞ」
天馬は一瞬、無になった。
「まじか」
天馬がガタッと立ち上がる。
「一人で帰ったんすか。駅まで追っかければワンチャン…」
「アホか、顔色最悪の女子を駅まで追いかけ回すな。余計しんどいやろが。大人しくしとけ」
「……っす」
正論で殴られ、天馬は勢いよく立ち上がったまま行き場を失い、ゆっくりと椅子に座り直した。
スマホを手に取る。
『帰って寝ろ』『明日鞄渡す』
——いくつか打っては消し、結局事務的な連絡だけを送信して、天馬は深いため息をついた。
■■■
一方その頃、すずは帰りの電車の中で、ただひたすらに「無」になっていた。
(男ってめんどくさいんやな……知らなかった)
下腹部を鈍い痛みが定期的に襲う。
朝、冷房対策として圭太が無理やり貸してくれたジャージ。ありがたかったけれど、そのせいで天馬は勝手に不機嫌になり、玲花には呆れられ、最終的に貧血で早退。
散々な一日だった。
マンションの部屋にたどり着き、重いドアを閉める。
「ただいまー……」
誰もいない部屋に声をかけ、すずはその場に鞄をドサリと落とした。
今日、おばさんは夜間保育のお仕事で遅い日だ。
諸悪の根源である紺色のジャージを脱ぎ捨て、適当な椅子にバサッと引っ掛ける。
(あー、もう! なんで私がこんな目に! そもそも冷房強すぎる学校が悪い!)
痛むお腹を抱えながら、すずはタンスから一番だらしない、首元のヨレたオーバーサイズのTシャツと短パンを引っ張り出した。
締め付けゼロの格好に着替えると、ようやく少し息が吸えた気がした。
ベッドに倒れ込む。
お母さんから『今日は無理しないでね』とLINEが来ていて、少しだけホッとした。返信もそこそこに、すずは泥のように眠りに落ちた。
——グゥゥゥ。
情けない音で目が覚めた時、部屋は真っ暗だった。
スマホを見ると、夜の21時。
「……お腹すいた」
痛みは薬で引いていたが、代わりに圧倒的な空腹感が襲ってきた。そういえば、昼もろくに食べていない。
フラフラと立ち上がり、すずは台所へ向かった。一縷の望みをかけて冷蔵庫のドアを開ける。
ピカーッ。
無駄に明るいLEDの光に照らし出されたのは、半分残った麦茶と、使いかけのチューブ生姜、そしてシワシワの梅干しだけだった。
「……嘘やん」
すずは冷蔵庫の前で立ち尽くした。
奈良の実家なら、こんなことは絶対にない。おばあちゃんが送ってきたミカンとか、お父さんのつまみの残りのちくわとか、何かしら腹の足しになるものがあった。
チューブの生姜を舐めるわけにもいかない。
(あぁ……なんかもう、ポテチでもドカ食いしてやりたい気分……)
コンソメと塩の両方を、今の荒んだ胃袋に叩き込みたい。
しかし現実は、空っぽの冷蔵庫の前で立ち尽くすボサボサ頭の女子高生だ。
「……買いに行くかぁ」
恨めしげにつぶやき、すずは財布を掴んだ。
外に出るため、何か羽織るものを探す。視界に入ったのは、椅子に引っかけたままの圭太のジャージだった。
(天馬くんが嫌がってたやつ……でも、今はもう誰のジャージでもいい!)
背に腹は代えられない。すずはやけくそ気味に、そのブカブカの男物ジャージをヨレヨレのTシャツの上に羽織った。
鏡に映る自分は、控えめに言って「夜のコンビニに生息するヤバいヤツ」だったが、もうどうでもよかった。
夏の夜特有の生ぬるい風の中、すずは近所のコンビニへ向かった。
自動ドアを抜けると、ガンガンに冷えた空気がお出迎えだ。
(はぁ… どこもかしこも冷やしすぎや…)
内心で毒づきながら、すずはおにぎりコーナーへ直行した。
鮭のおにぎり、カップスープ、そして一番甘そうなプリンをカゴに放り込む。
レジに向かうと、前にはアイスで揉めている男子高校生の二人組がいた。「一口くれよ」「嫌だね」などとじゃれ合っている。
(平和…こっちは貧血と生理痛と空腹でトリプルパンチやのに)
すずは死んだ魚のような目で彼らの背中を眺めながら、無心で会計を済ませた。
そして、コンビニの外へ出て、ふらふらと歩く。
そして、もう少しでマンションと言うその時だった。
やっぱり、と言うべきか。
案の定、と言うべきか。
「すーちゃん…?」
葉鳥圭太だった。
背中には大きなリュック。おそらく塾の帰りだろう。
「え、口が、というか顔が真っ白だけど……」
(もう今日は誰にも会いたくなかった……)
すずは、手持ちのレジ袋を隠すようにしながら、あっちゃーと心の中で深く沈んだ。
(髪もボサボサだし、また短いズボン履いてって絶対言われるに決まってる……)
圭太は長い脚でスタスタと距離を詰め、すずの目の前でピタリと止まった。
そして、上から下まで、すずの全身をものすごいスピードでスキャンする。
すっぴんで真っ白な顔。
寝起きで適当に手ぐしを通しただけのボサボサ髪。
だるだるの首元のTシャツ。
そして、その上に羽織った『兵庫高校』の刺繍入り男物ジャージ。
圭太の視線が、自分のジャージを着ているすずを見て一瞬だけパッと輝いた。が、すぐにその下の、ジャージの裾から伸びる無防備なむき出しの足に釘付けになり、表情が険しくなる。
「すーちゃん、こんな時間に何してるの。っていうか、その格好…」
「……お腹、すいちゃって。コンビニ」
「顔色、最悪。倒れる寸前みたい。なんでそんな……そんな足丸出しで夜に出歩いてるん? 前も言ったよね、夜にその短いズボンはダメだって」
ほらキタ。
すずは内心で大きなため息をついた。
「だって、ジャージが長いから隠れてるし……」
「隠れてるからいいって問題じゃない。 むしろジャージの下、何も穿いてないみたいに見えるから。」
「……圭太くん、お母さんみたい」
「すーちゃんの危機感が小さすぎやから言うてるんですけど。」
いつもの完璧な爽やかスマイルはどこへやら、今の圭太は完全に『門限に厳しいお母さん』モードだった。
貧血と生理痛と空腹(おにぎりはまだ食べていない)で、すずの脳内バッテリーはすでに残り5%を切っている。これ以上、正論で殴りかかってくる進学校の男子の相手をする体力はない。
「わかった、次から気をつける。塾お疲れ様。おやすみなさい」
すずは棒読みでそう言い残し、エントランスの自動ドアを抜けようとした。
しかし、圭太はあっさりと先回りし、すずの手からコンビニのレジ袋をひょいっと奪い取った。
「ちょっ」
「部屋まで送る」
「ここ、うちのマンションの下だけど」
「部屋の、ドアの前まで送る」
「……」
有無を言わさぬ圧。
ここで抵抗する方がエネルギーを使うと悟ったすずは、無言でエレベーターのボタンを押した。
箱の中は、絶海に放り出されたかのように静かだった。
横に立つ圭太は、レジ袋の隙間から見える『鮭おにぎり』と『プリン』をチラリと見て、少しだけ口調を和らげた。
「……ちゃんとご飯、食べてなかったの?」
「うん。ちょっと体調悪くて」
「そっか。……無理、しないでね」
「うん」
「でも、やっぱりその格好で夜のコンビニはダメだ。せめて長いジャージのズボン穿くとかさぁ……」
(あー、また説教がリピート再生された)
すずは半目でエレベーターの階数表示をぼんやり見つめた。
「あのね、圭太くん」
「はい」
「今日私、すっごくしんどいの。大目に見てほしいな」
「……ごめん。うるさく言って」
「ううん。心配してくれてありがとう」
チーン、とエレベーターが目的の階に到着した。
ドアが開くと、圭太はすずの部屋の前までぴったりとついてきて、レジ袋をそっと差し出した。
「これ。ちゃんと食べて、今日は暖かくして寝てね」
「うん、ありがとう」
「……あと」
「ん?」
鍵を開けようとしたすずの背中に、圭太が少しだけトーンを落とした声で言った。
「そのジャージ、すーちゃんが持ったままでいいから」
「え? でも洗って返さなきゃ」
「いい。また……そういうダルダルの服で出歩きたくなったら、せめてそれ着て。少しは魔除けになるだろうし」
「魔除けって……」
すずが振り返ると、圭太はいつもの爽やかな、でもどこか独占欲の滲む笑顔を浮かべていた。
「じゃあね。おやすみ、すーちゃん」
「……おやすみ」
足早に去っていく圭太の背中を見送りながら、すずはガチャリとドアを開けた。
部屋に入り、ブカブカのジャージの襟元を少しだけ引っ張ってみる。柔軟剤の香りが、ふわりと鼻をかすめた。
(……やっぱ、男ってめんどくさいなー)
すずはジャージを脱ぎ捨てて椅子に引っ掛けると、今度こそ鮭おにぎりとお湯を注いだカップスープで、空っぽの胃袋を満たすミッションへと戻るのだった。
一口飲んだ瞬間、じんわりと温かさが胃の腑に染み渡り、すずは思わず「ふぁぁ」と変な声を出した。
鮭のおにぎりを頬張り、食後にプリンを流し込む。
「……生き返った」
血糖値が急上昇し、イライラが少しだけスッと引いていくのがわかった。
すずは椅子にかけた圭太のジャージを睨みつけた。
「明日はちゃんと洗って返そ…。天馬くんにも、返事しよかな、明日。」
お腹がいっぱいになると、途端に眠気が戻ってきた。
明日は朝からパン屋のバイトだ。とりあえずアラームを3つセットする。
「明日から本気出す……」
誰も聞いていない部屋の天井に向かってそう宣言し、すずは再び布団の海へとダイブした。




