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神戸駆けるバンビ! 〜奈良県民JK、ギャルとワイルド系イケメンのいる定時制高校に放牧される〜  作者: みょんたま


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奈良に帰りたい。

「……それ」


 地鳴りのように低く、ひんやりとした声が落ちた。


 すずは不思議そうに小首を傾げた。


「え?」


 天馬の鋭い目は、すずの肩にかかった男物のジャージから一切動こうとしない。

 射抜くような、底冷えのする視線だった。


「誰の」


 わいわいと騒がしかった教室の空気が、その一言でぴたりと止まった。


 玲花がパタン、と手鏡を閉じる。

 陸が、机に突っ伏していた顔をわずかに上げて、すずと天馬を交互に見た。


 すずは、自分の肩をぼんやりと見下ろした。


 すっぽりと体を覆う、紺色のジャージ。

 袖は絶望的に長くて、手の甲まですっかり隠れている。

 胸元には、小さく『兵庫高校』の文字が几帳面に刺繍されていた。


「あ、これ? 圭太くんの」


 すずが何の気なしに答えた瞬間、天馬の顔からスッと表情が消え失せた。


「脱いで」


「え?」


「脱いで」


 すずは、きょとんとして目を瞬かせた。


「あ、あの、ちょっと何言ってるかわかんないです」


 天馬の眉間に、ぐっと深い皺が寄る。

 ギリッと奥歯を噛み締めるような音が聞こえそうだった。


「……」


「寒いんで、着ます」


 すずは本気で言った。

 冗談でも意地悪でもなく、切実だった。


 外は七月だというのに、サポート校の教室の冷房は容赦なく効いていて、半袖の腕をさすると鳥肌が立つほど肌寒い。

 朝乗ってきた電車の冷房もきつかった。


 それに加えて、今日は朝からどうにも体の芯が冷え切っているような感覚があった。

 ——生理痛だ。


 下腹部を重い鉛で引きずられるような、鈍い痛みが続いている。

 だから、圭太が強引に貸してくれたこの分厚いジャージは、正直なところ今のすずにとって命綱のようにありがたかったのだ。


「電車の冷房、寒いからって、圭太くんが貸してくれたの」


「ふーん」

「ふーんって……」


「冷房対策」

「うん」


「兵庫高校の、男物ジャージが」

「うん?」


「冷房対策」

「そうだよ?」


 すずはますます首を傾げた。

 なぜそんなに凄まじいオーラを出されているのか、本当に理解できない。


 天馬は、苛立ちを抑え込むように、ふぅっと長くゆっくり息を吐いた。


 陸が横から、呆れたように小さく呟く。


「バンビ、男心が壊滅的やな」


「えっ」


 玲花も机に肘をつき、こめかみを押さえた。


「いやー、これはバンビが悪い」

「えっ、私が!?」

「悪気はない。でも悪い」

「どういう意味!?」


 すずは慌てて二人の顔を見た。


 ただ寒かっただけだ。

 ただ借りただけだ。

 確かに学校が違うから少し変かなとは思ったけれど、圭太は心配して貸してくれたのだ。


 何がそんなに大問題なのか、すずのキャパシティでは処理しきれなかった。


 天馬はしばらく黙っていたが、やがて絞り出すような低い声で言った。


「……普通にきつい」

「きつい?」

「それ着てるの見るの、普通にきつい」


 すずはパチパチと瞬きをした。

 そして、ふと、思ってしまった。


(あぁ、なんだか、面倒くさい……お腹も、痛い……)


 昨日の武庫川での出来事も、朝の圭太の執拗な気遣いも、目の前の天馬の怒りも。

 今のすずには、すべてを受け止めるだけの余裕が、一ミリも残っていなかった。


「あの、私、ちょっと、寝ます」

「は?」


 それは明らかに、まだ話が全然終わっていない男の「は?」だった。


 でももう、それどころではない。

 シクシク、ズーンと、お腹の奥が本格的に痛み出していた。


 すずは無言で椅子を引いて座ると、鞄を机の上に置き、それを枕にしてドサッと突っ伏した。

 机の下で、片手でこっそりとお腹をさする。


 天馬は立ったまま、突っ伏したすずを見下ろしていた。


「ふて寝かよ」


 声が、少しだけ荒く、棘を帯びていた。


 武庫川でのやりとりは何だったのだろう。

 昨日、あんなに不器用なりに言葉を選んで、自分の気持ちを伝えたのに。

 すずはそれを、圭太のジャージ一枚羽織ることで、全部なかったことみたいにしている。


 怒りよりも先に、天馬はひどく悲しくなっていた。


 けれど、すずの様子を観察していた玲花の表情が、サッと変わった。


「……バンビ?」

「え?」

「あんた、顔白ない?」

「そうかな……」

「そうかな、じゃない。唇も色ない」


 すずは顔を伏せたまま、反射的に笑おうとした。


「大丈夫だよ」

「大丈夫な顔ちゃう」


 玲花が椅子ごとすずの席に近づき、下から顔を覗き込む。


 すずは少しだけ迷ったあと、机の下でお腹を指差して、片手の人差し指をぴんと立てた。


 ——一日目。


 女の子同士の暗号。玲花は一瞬で察した。


「あーね」


 それだけ言うと、玲花はすずの耳元に口を寄せ、声を落とした。


「薬飲んだ?」


 すずも、蚊の鳴くような小さな声で答える。


「朝飲んだけど……ちょっとだけ、痛いの」

「おけおけ。冷やさんようにしとき」


 玲花の表情が、完全に切り替わった。


 さっきまでの『恋愛実況を楽しむギャル』の顔ではない。

 女の体調不良を全力で守る、頼れる女友達の顔だった。


「天馬」

「何?」


「今それ以上ジャージの話したら、私があんたをマジで殴る」

「……あ?」


 突然の威嚇に、天馬の眉がぴくりと動く。


 その時、ジリリリリ! と無機質な始業ベルが鳴り響いた。

 同時に、教室の前方のドアが勢いよく、バンッ! と開く。


「はいこんにちは〜!!!」


 教室に漂っていた物々しい空気を物理的に切り裂くように、担任の佐伯が登場した。


「呼吸してるかー! そこの電池切れー、今日はカニどころか乾燥ワカメみたいな顔してるぞー!」


 いつも通りの、鼓膜を震わせる大声だった。


 いつもなら、すずもその勢いに少しだけ笑えたかもしれない。

 でも今日は、その声が直接脳みそを殴ってくるように響いた。


「おーなんや鈴木!」


 教卓に立った佐伯が、突っ伏しているすずにすぐに気づいた。


「お前、顔真っ白やないか!」


 すずはリュックに顔を乗せたまま、重い瞼を上げて視線だけを佐伯に向けた。


「先生……いつもならいいんですけど……今日は鼓膜が破れそうです……」


 けれど、声が擦れて小さすぎて、教卓の佐伯にはほとんど聞き取れなかった。


「なんやてー!?」


 無情な大声の返しが、すずを直撃した。


 ぐっと、お腹の痛みが波のように増す。

 目の前が、ぐらぐらと揺れた。

 吐き気がこみ上げる。お腹を下しているわけではないのに、内臓が全部下へ引っ張られるような、嫌な気配だけがある。


「あ、あの……今日、体調悪くて……」

「先生! すず、貧血です!」


 すずの言葉を遮るように、玲花が教室中に響く声で助け舟を出した。


 佐伯の顔が一瞬で真面目な教師のそれに変わる。


 教卓に置きかけていた出席簿を放り出し、大股ですずの席まで歩み寄ってきた。


「鈴木、ちょっと顔見せろ。無理やったら言え」


 すずは小さく頷いて、のろのろと顔を上げた。


 佐伯はすずの前にしゃがみ込み、その顔色を至近距離で確認した。


 玲花が横から、そっとすずの目元を指差す。


「先生、目の下も真っ白」


「ほんまや。真っ白やないか。これはアウトやな」


 隣の席の天馬が、ガタンと音を立てて立ち上がりかけた。


 けれど、佐伯が片手をスッと上げてそれを制した。


「西倉、待て」


 天馬の動きが、ピタリと止まる。


「お前ら、とりあえず自習や。鈴木、立てるか? 保健室行くぞ」


 すずは小さく頷いた。


 けれど、机に手をついて椅子から立とうとした瞬間、膝からカクッと力が抜けそうになった。


 佐伯がすかさず片腕を差し出す。

 玲花が反対側から、すずの細い肩をしっかりと支えた。


「ゆっくりでええ」


「うん……ごめんね」


 すずは二人に支えられながら、ふらつく足でなんとか立ち上がった。


「先生、今から保健室連れて行くから。お前ら騒がんと自習しとけよ!」


 佐伯が教室全体にそう言い残す。


 すずは玲花と佐伯に両脇を支えられながら、ゆっくりと教室を出ていった。


 天馬は、ただ呆然と、その小さな背中を見送ることしかできなかった。


 ブカブカの紺色のジャージが、廊下の向こうへと小さく消えていく。


 教室の中は、佐伯の大声が消えたことで、しんと静まり返っていた。


 足音も聞こえなくなってから、陸がぽつりと小さく言った。


「嫉妬してる場合ちゃうかったな」


 天馬は答えなかった。


 喉の奥に、硬い石が詰まったように息苦しかった。

 体調が悪いことに気づけず、自分の感情ばかりを押し付けてしまった後悔が、じわじわと胸を侵食していく。


 陸は、天馬の方を見ずに続ける。


「あとでちゃんと謝っとけ」

「……うす」

「あと、次から上着、持っとけ」

「……うす」

「素直やな」

「今日、負けすぎたんで……」

「冷房に?」

「冷房に」


 天馬は地を這うような低音で答えた。


 陸が、ふっ、と少しだけ笑う。


「圭太に、やろ」

「あとタイミングな。俺が一緒に登校してたら、俺が貸してた」

「まぁ、それは神の采配じゃ」


 天馬はもう返事をしなかった。


 深く天を仰いでから、そのまま机に勢いよく突っ伏した。


「ドンマイ」


 陸が軽い調子で言う。


「うぜー……」


 天馬のくぐもった声が、教室の天井に虚しく消えていった。


 ——保健室のベッドで、すずは丸くなるようにして横になっていた。


 カーテンで仕切られた空間は、嘘のように静かだった。

 冷房は教室よりずっと弱めに設定されており、窓から入る微風で白いカーテンがゆっくりと揺れている。


 玲花は丸椅子に座り、すずの枕元に温かいほうじ茶の入った紙コップをそっと置いた。


「薬、もう一回飲めそう?」

「うん。時間、空いてるから大丈夫だと思う」

「お腹痛い?」

「少し……」

「貧血っぽい?」

「たぶん。朝、あんまり食べられなくて」

「バンビー」


 玲花は、困ったような、呆れたような顔で眉を寄せた。


「朝バイトして、学校来て、お母さんの病院も行ってるんやろ。そら体が怒るって」

「体が怒る……?」

「そう。私の体を雑に扱うなって、中からバンビに怒ってる」


 すずは、布団の中で少しだけ目を伏せた。


「天馬くん、怒ってたね」

「怒ってたというか、嫉妬で燃え盛ってたな」

「嫉妬……

「バンビ、そこから説明いる?」

「いや、わかるんだけど……でも、ジャージだよ?」

「他校の、男物のジャージな」

「でも寒かったから」

「それはわかる。そこはバンビ悪くない」


 しばらく休んで温かいお茶を飲むと、すずの顔色は少しだけ生気を取り戻した。


 佐伯は一度様子を見に来て、「今日はもう無理すんな。授業はあとでプリント渡すから寝とけ」とだけ言って、足早に戻っていった。


 すずは「単位が……」と申し訳なくなって起き上がろうとしたが、玲花に上から布団をきつく押さえ込まれた。


「最低一時間は休め」


「でも……」


「でも禁止」


「はい……」


 結局、その時間は保健室で休むことになった。

 玲花が教室に戻り、一人きりになった空間で目を閉じようとした時。


 ぷーぷぷ。


 鞄の中のスマホが、短く震えた。

 画面を見ると、ラインの通知が来ている。


【keitatubame:その後、大丈夫ですか? 体調、悪かったりしたら、呼んでください】


 あぁ。


 なんだか。


 本当に、面倒だなぁ……。


 男の子の好意も、気遣いも、今のすずにとってはただひたすらに重かった。


 すずはスマホを裏返して手放し、枕に顔を深く突っ伏して、そのまま泥のように眠りに落ちた。


 ——目が覚めると、もう時計の針は夕方の四時を指していた。

 午後の授業の大半が、すでに終わってしまっていた。


(あぁ……単位……)


 すずは、ベッドの上で一人、悲しくなって目に手を当てた。

 少しだけ涙が滲む。


(あーなんか、うまくいかないな。何もかもが。体もしんどいし、動けないし、なんだか全部面倒だな……。でも、とりあえずトイレ、行かなくちゃ)


 お腹の刺すような痛みは薬が効いてマシになっていたが、起き上がるとまだ体がふらついた。


 ゆっくりトイレに行き、顔を洗ってベッドに戻ると、すずはもう一度目を閉じた。

 疲れが取れていない。もう不可抗力だった。


 そして、浅い眠りの中で、懐かしい夢を見た。





 地元の神社の前で、友達とただくだらないことを喋り尽くして笑い合う。


 すっかり暗くなった夜道を、セーラー服を着て一人で歩く自分。

 水を張ったばかりの田んぼの水面に、満月が綺麗に映っている。

 月光に照らされて、自分の影が長く伸びていく。


 ゲコゲコというカエルの大合唱。

 虫の音。

 すぐそばを流れる、小さな川のせせらぎ。


 遠くから、信貴山の鐘の音がゴーン、と響いてくる。


 家に帰って、鞄を放り投げて、少しだけピアノを弾く。


 着替えた服は、何年も着ているだらしないオーバーサイズのTシャツに、よれよれの短パン。


 ガチャッ、と玄関が勝手に開く音がする。

 チャイムも鳴らさずに、幼馴染がずかずかと家に入ってくる。


 どかどかとリビングに入ってくると、キッチンにいるパパが「お、きたんか〜」と間の抜けた声を出す。


 すずはピアノを弾き続ける。


 後ろのソファに幼馴染がドサリと座って、勝手に漫画を読み始める気配を感じる。


 弾き終わって、すずも何も言わずにソファに座り、ダラダラと別の漫画を読む。

 思いついたようにくだらない話をして、ゲラゲラ笑う。


 どんなにだらしない格好をしていても、髪がボサボサでも、誰も何も言わない。

 飾る必要なんて、どこにもない世界。


 夜遅く、ママが仕事から帰ってくる。

「大阪の美味しいケーキ買ってきたよ!」と箱を掲げて。


 幼馴染が「マジで!?」と喜んで、みんなで夜中にケーキを食べる。


 パパと、ママと、幼馴染と、すず。


 あぁ。

 幸せだったな。





 ——明日も、朝からパン屋のバイトがある。


 少しでもお金を稼いで、せめて、自分の学費や定期代くらいは自分で払いたい。

 ママにこれ以上、心配と負担をかけたくない。

 そんなギリギリの気持ちで働いている。


 授業に出て、単位を取らないといけない。

 昔思い描いていたような立派な大学には、もういけない。


 お腹も痛い。

 動くのも辛い。


 周りの男の子たちが、少し面倒なくらい構ってくる。


 新しい人間関係。

 学校での居場所作り。

 早朝のバイト。

 ママのお見舞い。

 慣れない家事全般。

 日々の、小さくて、でも重たい、いろんなこと。


 二月に転校してきて、神戸での生活が始まって、ちょうど半年。


 あぁ……疲れたなぁ……。

 奈良に、帰りたい。


 あの見慣れた野山が。

 あの土と草の匂いのする空気が、無性に懐かしい。


 あんなに「何もない」「退屈だ」と思っていたあの日々が、狂おしいほど恋しい。






 眠ったままのすずの目から、ツゥーと熱い涙が溢れ、枕に吸い込まれていった。




 次に目を覚ました時、窓の外はすでに茜色の夕暮れに染まっていた。

 スマホの画面が明るくなり、通知を知らせる。


【tenma:教室で待ってるから】


 ロック画面から見えるその短い言葉に、すずの胸がさらに重く沈んだ。

 今、教室に行って彼に会ったら、きっとすごく心配される。

 きっと、朝のことを謝られる。

 それから、また、真剣な顔で何かを言われる。


 心配されるのも、謝られるのも、今のすずには少ししんどかった。





 (私、勝手だな・・・・)


 転校したての頃、一人ぼっちで寂しかった。

 だから、天馬や玲花が一緒にいてくれることが、純粋に嬉しかった。


 嫌われたくなくて、必要以上に「いい子」でいたからだろうか。


 天馬や圭太が、すずに好意を示してくれる。

 優しくて、可愛くて、頑張り屋の「すず」に。


 でも、本当の自分は違うのだ。

 もっとだらしなくて。

 適当で、ダサくて。

 今日みたいに、可愛いお揃いのワンピースなんて着ていなくて。

 よれよれのTシャツを着て、畳の上でゴロゴロしている時が、一番落ち着くのに。






 すずはゆっくりと起き上がり、ベッドを整えて鞄を持った。

 保健室を出て、二十階の職員室に顔を出すと、佐伯が心配してわざわざ廊下まで出てきてくれた。


「おー鈴木、顔色マシになったな! 気ぃつけて帰れよ!」


 相変わらずの、廊下に響き渡る大きな声。

 その優しさにも、今のすずは少しだけ疲れてしまって。


「ありがとうございます……さようなら」


 小さくお辞儀をして、すずは教室には向かわなかった。


 待っている天馬をやり過ごす罪悪感に胸を痛めながら、夕焼けに染まる帰路へと、逃げるように一人歩き出した。

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感想、ご指摘、ブクマも大歓迎です!

毎日更新予定です。完結約束、ハッピーエンドです(^ ^)

よろしくお願いします!

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