兵庫一番の進学高校の男は、ジャージで牽制する。
土曜日の昼前。
初夏の日差しがアスファルトをじりじりと焦がし始めた頃、天馬は陸と一緒に、ベーカリーツバメの前に立っていた。
「うわー洒落てんなー。こんな洒落たパン屋、入ったことないわ」
陸がしげしげと見渡す。
ガラス越しに見える店内は、週末ということもあっていつもより少し混んでいる。
ドアが開閉するたびに、焼きたてのバターと小麦の甘い匂いが、外の熱気と混ざってふわっと流れてきた。
「……ほんまに行くん?」
陸が横で、少し呆れたような、面白がるような声で言う。
「パン買いに来ただけっす」
「顔がパン買いに来た顔ちゃう」
「どんな顔っすか」
「戦場に向かう顔。眉間のシワ、いつもより三割増しやぞ」
「パン屋や。ただの」
「お前にとっては戦場やろ」
天馬は口を引き結び、返事をしなかった。
図星だったからだ。
昨日の夕暮れ、武庫川の土手で、自分はすずにはっきりと言った。
友達のつもりで迎えに来ているわけではない。
すずの特別になりたい。隣を予約したい、と。
言った。
言ってしまったのだ。
その翌日に、すずが働いているパン屋へ来る。普通に考えたら、少し気まずいどころの騒ぎではない。
でも、来た。
理由はパンを買うためだ。たぶん。きっと。本当は、ただ顔が見たかっただけだなんて、絶対に口が裂けても言えない。
「俺はメロンパン買う」
「陸さん、いつもメロンパンっすね」
「甘いもんは裏切らんからな。お前の恋路と違って」
天馬はうるさいとばかりに陸を軽く睨み、ガラス張りの店の外で腕を組んで、店内の客の隙間からすずの姿を探した。
「いらっしゃいませー!」
鈴を転がすような、明るく通る声がした。すずだった。
すずは店の制服を着ていた。
黒のシンプルなワンピースに、パリッとした白いエプロン。三角巾を巻いた頭。いつもはおろしているか、ゆるく結んでいるだけの髪は後ろできっちりとひとつにまとめられていて、前髪だけがふわりと横に流れている。
左胸には、小さく「すず」と書かれた木製の名札が揺れていた。
学校で見るすずとは、少し違う。
家で見たわけでもない。病院で見たわけでもない。武庫川を歩く時のすずでもない。
「いらっしゃいませ」「ありがとうございました」と、ちゃんと働いている、パン屋のすず。
小さな体で一生懸命トレーを拭いて、焼き上がったパンの場所を綺麗に並べ直し、やって来た客にひだまりのような笑顔を向けている。
「な、なにあの子たち。すっごいお店の中睨んでる……」
レジの奥から、真帆が店の外をチラッと見て小声で言った。
え? とすずも釣られて外へ目線をやる。
「うわああっ!?」
すずは、あからさまに目を丸くして驚いた。
「天馬くん、陸くん!」
ガラスの向こうに立つ二人は、どう見てもパン屋に似つかわしくない。
筋肉質で高い身長。二人とも白に近いブルーのデニムに、形は違うが同じ白のTシャツというラフな格好だ。天馬も陸も三白眼気味で、眩しさのせいで目を細めて睨んでいるように見えるため、二人が並んで立つと少しいかついオーラを放っていた。
陸はにっこりとすずに笑うと、ドアに手をかけた。
「突撃しまーす」
「お願いしまーす」
からん、とベルが鳴って、二人が店内に入る。
「おう、バンビ。働いてるな」
陸がひょうひょうと軽く手を上げた。
「はい。今日は午前だけなんですけど」
「えらいなぁ」
「いえ、そんな」
すずは照れたように、えへへと笑った。
その無防備で柔らかい笑顔を見た瞬間、天馬は思った。
——無理。これは無理だ。
昨日、自分はあんなことを言った。
言ったのに、今日こんな屈託のない顔で笑われたら、普通でいられるわけがない。心臓の奥が鷲掴みにされたように跳ねる。
天馬はトレーを取る前に、耐えきれずに低く呟いた。
「はー……」
「え?」
すずが不思議そうに首を傾げる。天馬はにっこりと笑って、いつもの低調なトーンで言った。
「マジで俺のこと殺す気ですよねー」
「えっ!?」
すずの手から、危うくトングがカチャンと落ちそうになった。
「ころ……!? 私、何もしてへんよ!?」
「してる」
「してないです!」
「してるやろ」
天馬は、すずの制服姿をもう一度だけ見た。
見たら負ける気がした。でも見てしまう。見ずにはいられない。
「可愛すぎるっていう意味」
すずの顔が、一瞬にしてポンッと音を立てるように赤くなった。
「か、かわっ……」
「うん」
「そ、そういうの、普通に言わないでください!」
「普通に言うたらあかんの?」
「あかんというか、困る!」
「ふーん……困るんや」
天馬は、ふっと笑った。
ほんの少しだけ。口元だけを緩めて、少し意地悪に。
それでも、すずの顔はさらに限界まで赤くなり、口をぱくぱくさせている。
陸は横でトレーを持ったまま、やれやれと目を細めていた。
「お前、昨日からだいぶ攻めるな」
「ぱ、ぱ、パンを選んでください!」
「逃げた」
レジの奥では、店長が無言でパンを並べていた。
その横で、真帆が目をきらきらさせて身を乗り出している。
「え、何。今の何。ちょっと何」
「真帆さん!?」
「すーちゃん、今の何? 学校のお友達?」
「は、はい。同じクラスの……」
真帆は天馬をじっと見る。天馬は軽く頭を下げた。
「西倉です」
「まあまあまあまあ」
真帆は、あからさまに楽しそうな、大好物を見つけたような顔をした。
「背、高い。顔、いい。声、低い。しかも、すーちゃんのことストレートに可愛いって言う」
「真帆さん!」
「うわー」
真帆は両手を頬に当てて、わざとらしくため息をついた。
「ライバル登場よ」
すずは固まった。
「ラ、ライバル!?」
天馬も一瞬だけ動きを止める。
陸はメロンパンを二つトレーに乗せながら、ぼそっと言う。
「店内実況、強いな」
店長は何も言わずに、焼きたてのクロワッサンを並べ続けている。
真帆はそんな店長をちらっと見た。
「今の無言はね、“圭太、これは大変だぞ”って意味やね」
「店長、何も言ってないです!」
「言ってる。長年夫婦やってたらわかる」
店長は否定しなかった。ただ、少しだけ眉を動かした。
「ほら。認めた」
「……認めたんすか」
陸が真面目な顔で聞く。店長は低い声でボソッと言った。
「……別に」
「今の“別に”は、“面白くなってきたな”って意味やね」
「違う」
店長が即座に否定する。真帆はコロコロと笑った。
「違わないわよ」
すずは顔を茹でダコのように真っ赤にしたまま、レジの前で小さくなっていた。
天馬はパンを選びながら、店内の空気に少しだけ居心地の悪さを感じていた。
けれど、悪くはなかった。
すずがここで働いている。この店の人たちに、まるで家族のように大事にされている。
圭太の家族に、温かい笑顔で見守られている。
それは、ほんの少しだけ悔しい。でも、同時に少し安心するのだ。
すずが朝早くからここで働いて、ちゃんと「おはよう」と言える温かい場所があることが、なぜか嬉しかった。
「……天馬くん、何にする?」
すずがまだ赤い顔で、上目遣いに聞いてくる。
「おすすめは」
「えっと、今日は塩パンと、きなこクリームのコッペパンが人気です」
「じゃあ、それ」
「二つ?」
「うん」
「陸さんは?」
「メロンパン二つと、カレーパン」
「はい」
すずはいつもの調子を取り戻そうとして、懸命にレジを打った。
けれど、天馬が財布を出す時、ふと視線が合った。
すずはまた、思い出したように顔を赤くして視線を泳がせる。
天馬は、それを見て、また少しだけ愛おしそうに笑った。
「……天馬くん」
「何」
「笑わないでください」
「無理」
「無理って」
「かわいいから」
「もう!私で遊ばないでください!」
すずの声が裏返った。真帆が奥で小さく拍手をした。
「いやー、これは強いわ。破壊力抜群ね」
「真帆さん!」
「ごめんごめん。お仕事中やったね」
真帆はにこにこしながら、手早く紙袋を用意する。
「西倉くん、陸くん、また来てね」
「はい」
「おう。ごちそうさんです」
陸が紙袋を受け取る。天馬も小さく頭を下げた。
店を出る時、すずが小さく手を振った。
「ありがとうございました」
天馬は一瞬だけ振り返る。
すずのエプロン姿が、ガラス越しに見えた。小さくて、白くて、少し赤い顔。
天馬は外の熱気の中に出てから、肺に溜まっていた息を長く低く吐き出した。
「……殺傷能力高すぎる」
「パン屋で言う台詞ちゃうぞ」
陸が隣で、メロンパンの袋を揺らしながら呆れたように言った。
---
その日の夕食。
葉鳥家の食卓には、焼き魚と出汁の効いた味噌汁、冷奴、それから店で余ったパンが少し並んでいた。
圭太は部活帰りで、少し髪がシャワーで湿っている。
制服のシャツの袖をまくり、箸を持ったところだった。真帆がにこにこしながら、思い出したように言った。
「今日ね、すーちゃんの学校のお友達が来たんよ」
「へえ」
圭太は興味なさそうに、味噌汁のお椀に手を伸ばした。
「名前ってわかる?」
「西倉くんって言ってたかな。背が高くて、ちょっと怖そうで、でも顔がすごく良くて」
圭太の箸が、ほんの少し、ピタリと止まった。
「……西倉さん」
「知ってるの?」
「名前は」
圭太は静かに答えた。声のトーンが一段下がる。
「どんな人やった?」
「うーん。声が低い。目が綺麗。あと、すーちゃんのこと見て、開口一番に“殺す気ですよね”って」
「……は?」
圭太が鋭く顔を上げた。真帆は面白がって続ける。
「可愛すぎるって意味なんだって。すーちゃん、真っ赤になってたわよ」
「……へえ」
圭太は、音を立てずに味噌汁のお椀を置いた。
「すーちゃん、真っ赤に」
「うん。あれは完全に照れてたわね。女の子の顔してた」
「へえ」
圭太は笑った。
いつも通りの、誰が見ても好青年な爽やかな笑顔。
でも、よく見ると、少しだけ目が笑っていなかった。黒目の奥が冷たく凪いでいる。
店長はその顔をちらっと見て、何も言わずに無心で魚を食べている。
真帆は楽しそうに目を細める。
「あら」
「何?」
「圭太、珍しく機嫌悪い?」
「悪くないです」
「悪い顔してるわよ」
「してません」
「してる。小さい時、積み木を崩された時の顔。お気に入りのおもちゃ取られそうになった時の顔」
「何年前の話ですか」
圭太は少しだけむっとして口をとがらせた。それから、無駄に力を込めて冷奴を箸で割る。
「ただの学校の友達やん」
「さあ? すーちゃんはそう言ってたけど」
「やったら、ただの友達です」
「でも、西倉くんは、ただの友達って感じじゃなかったで」
圭太は完全に箸を止めた。
真帆は、そんな息子を見て少しだけトーンを落とし、柔らかい母親の声で言う。
「圭太」
「はい」
「好きなら、ちゃんと言いなさいよ。もたもたしてると、取られちゃうわよ」
圭太はしばらく黙った。それから、味噌汁を一口飲む。
「……まだや」
「まだ?」
「まだ、すーちゃん困らせたくないので。お母さんのこともあるし」
「お財布届けたり、家まで押しかけた子が何言うてるの〜?」
「そんくらいは普通や。友達として」
「普通にしては、向こうもだいぶ攻めてたわよ」
圭太は少しだけ目をそらした。
「……西倉さんって、どんな感じやった?」
「だから、声が低くて、顔が良くて、ちょっと怖そうで」
「そこは聞きました」
「すーちゃんが、すごく照れてた」
圭太は黙った。
それが一番、聞きたくなかった。
真帆は、面白くないという顔をしている息子を見て少し笑う。
「ライバル登場ね」
「……負けません」
圭太は小さく、けれどはっきりと言った。真帆の目が丸くなる。
「あら」
圭太はいつもの爽やかな笑顔を作った。
けれど、声は低く、瞳の奥には静かな闘志が宿っていた。
「すーちゃんを困らせるつもりはないけど」
箸を置く。
「遠慮するつもりも、ない」
---
翌週の水曜日。
すずは痛みで目が覚めた。
ズーン…
文字通りの痛みがお腹を襲う。
「いたた…」
生理痛だった。
すずはすぐに痛み止めを飲んだ。
アルバイトがある日は、この薬を飲めば、特に痛みなく過ごせるから重宝していた。
朝六時四十五分。
ベーカリーツバメの裏口に、すずがやってきた。
進学校に通う圭太の夏休みは、早くに訪れ、そして短い。
この日はもうすでに先取り学習と補習の期間に突入しており、圭太は午後からの登校になっていた。
それでも圭太は、朝のすずに会うためだけにわざわざ早起きして、裏口に立っていた。
「おはようございます」
夏の朝は、もうすでに日差しが白く明るい。七月の空気は湿気を帯びていて、少し歩いただけで首筋に汗がにじむ。
すずは今日は、水色のシャツワンピースを着ていた。
今日は玲花とザラで買ったお揃いの服に、お揃いの靴。
腰の部分にリボンがあり、キュッと結ばれていて、すずのか細い腰のラインが際立っている。ノースリーブで、動くたびに膝下でふわりと軽やかに揺れる。靴は黒で、少しだけヒールがあった。
学校に行く前にバイトをして、そのまま着替えて行くつもりだったのだ。
裏口を開けた圭太が、すずを見て、一瞬だけ動きを止めた。
「……おはようございます」
「あ、おはよう。圭太くん」
すずは反射的にニコッと笑って、ぺこりと頭を下げる。
圭太はしばらく黙ったまま、上から下まですずの姿をじっと見た。
「圭太くん?」
「……可愛いから嫌になるなぁ」
「えっ」
すずは固まった。
「い、嫌……?」
「嫌です」
「え、ええっ。私、変な格好してる?」
「逆です」
圭太は少しだけため息をついて、前髪を軽くかきあげた。
「可愛いです。だから嫌です」
「よ、よくわからないです……」
「わからなくていいです」
圭太は、いつもの完璧な爽やかな笑顔を少しだけ崩した。
その顔は、いつもよりずっと年相応の男の子に見えた。不機嫌というより、純粋に悔しそうだった。
すずは意味がわからず、目をぱちぱちさせる。
「とりあえず、中に入ってください。暑いですし」
「う、うん」
店の中に入ると、すでに朝の準備が始まっていた。
店長はオーブンの前で生地の様子を見ている。真帆は奥で伝票を確認している。まだ店内に客はいない。
すずは更衣室で着替えてエプロンをつけ、急いで開店準備を手伝った。
パンの匂い。バターの匂い。小麦の匂い。いつもの朝だった。
学校が午後の圭太は、時々二階から降りてきては品出しを手伝いながらも、いつもより少し口数が少なく、静かだった。
仕事をしながらも、圭太の頭にはすずの白いワンピースの姿が焼き付いていた。
別に胸元が大きく開いているわけではない。過激な服でもない。
なのになぜ、他の男に見られたくないんだろう。
華奢な足だった。
白い細い腕だった。
リボンで締められた可愛い腰だった。
同年代の女の子なら、それくらいみんな出している。
でも、すずのその肌を、誰かに、特に“彼”に見られるのが、どうしても嫌だった。
圭太は、パンを陳列しながら考える。
あの西倉という人は、背が高い。声が低い。すーちゃんを照れさせる。
それから、たぶん、すーちゃんの生活のすぐ隣にいる。
学校が同じ。教室が同じ。
圭太には、それが、ないのだ。
パン屋で会える。家に行ったこともある。進路の話もした。シャープペンも渡した。
でも、学校でのすーちゃんを知らない。自分の知らない場所に、西倉がいる。
それが、どうしようもなく気に入らなかった。焦りに似た独占欲が胸を焼く。
今日、圭太の学校は放課後の先取り学習だけだ。まだ時間はたっぷりある。
それなのに、圭太は、学校へ行く準備を始めた。
昼の十二時。着替えを済ませて、すずは挨拶のためにキッチンに出てきた。
すると、圭太が裏口の前で制服を着て立っていた。
紺色の半袖ポロシャツに、グレーのズボン。
「あれ? 圭太、あんた二時に家出るって言ってなかった?」
真帆が不思議そうに聞く。
「言ってない。今から行く」
「え? 圭太くんも学校今からですか? 私もです」
真帆は、息子のいけしゃあしゃあとした返事を聞いて、内心でニヤリとした。
(うわー、あれは完全にすずちゃんに合わせたわね)
父であり店長である葉鳥は、作業の手を止めると、綺麗に包まれた二つ分のサンドイッチの賄いをすっと差し出した。そして、何も言わずにじっと息子を見つめた。
「わぁ、ありがとうございます! すごくおいしそう!」
すずがパッと花が咲いたように笑う。
「父さん、ありが……とう。うん、わかってる」
圭太は、父の無言の意図を正確に読み取り、小さく頷いた。
真帆は再び心の中でガッツポーズをした。
(あれは完全に『一緒に食べろ』っていうアシストね。ナイスよ、お父さん!)
二人は並んで普通電車に乗り込んだ。
平日の昼間の電車は空いている。ガタンゴトンと心地よいリズムで揺られながら、十分くらい経った頃。
(あー、お薬切れてきたかも、ちょっとだけお腹痛いな)
すずはお腹を軽くさすった。その瞬間。
くしゅんっ。
すずは、冷房の風にあたりすぎたのか、小さく身震いをして身をすくめた。
「夏の電車って寒いね、冷房がすっごい効いてる」
「寒暖差すごいですよね」
圭太は、お腹をさすりながら、肩をすくめるすずを横目に見て、(もしかして)と察したようだった。
自分の鞄をガサゴソと漁り、中から薄手のジャージを取り出した。
紺色の、胸元に『兵庫高校』の名前が小さく刺繍されたジャージだった。
「これ、着てください」
「えっ、なんで?」
「そんな格好で電車に乗ったら冷えますよ。ノースリーブだし」
「でも、七月だよ?」
「電車の冷房、きついです」
「そうかな」
圭太は真面目な顔で、有無を言わさぬ圧をかけて言った。
「でも、圭太くんのジャージ借りたら、圭太くんが困らない?」
「困りません。冷房対策に持ってただけなんで」
「でも、私学校違うし……」
「だから何ですか」
「えっと……」
すずは困ったように笑う。圭太は少しだけ声を柔らかくして、すずを覗き込んだ。
「すーちゃん」
「はい」
「風邪ひかないか、心配なんです」
そう真っ直ぐな瞳で言われると、すずは弱い。
「じゃあ……借りるね」
「はい」
圭太はジャージを広げ、すずの肩に優しくかけた。
すずは袖に腕を通す。サイズが絶望的に大きすぎた。
袖が手の甲まですっぽりと隠れる。肩も完全に落ちている。
華奢な白いワンピースの上に、無骨な男物のジャージ。そこからは、圭太と同じ爽やかな柔軟剤の匂いがする。
圭太はそれを見て、自分の匂いと名前がすずを包んでいることに、少しだけ満足そうに目を細めた。
「似合ってます」
「そう? ダボダボなんだけど」
「はい。可愛いです」
三宮駅に着き、改札を抜けたところで、圭太は少し歩調を緩めた。
「すーちゃん、このサンドイッチ、一緒に食べませんか?」
「あ、うん! 私、いつも国際会館の地下のベンチのところで食べてるの!」
二人はJRから国際会館までの地下道を並んで歩いた。
平日の昼下がり、足早に行き交う大人たちの中で、二人の周りだけ少しだけゆっくりとした時間が流れている。
国際会館の地下のフリースペースに到着し、二人は少し距離を空けて並んで座った。
お父さん特製のサンドイッチを開けようとした瞬間、圭太が甲斐甲斐しくストローを刺したパックのジュースをすずに手渡した。
「あ、ありがとう」
「いえ」
二人でサンドイッチを頬張りながら、すずは思い出したように鞄に目をやった。
「そういえば、圭太くんがくれたシャーペン、すごく使いやすいです」
「ああ、あれいいですよね。僕もずっと使ってます。他のペンだと、二時間くらい連続で書いたら指が痛くなるんですけど、あれなら平気なんですよ」
「に、二時間!?」
すずの目が点になった。
「圭太くん、二時間もずっと勉強するの!?」
「え? ああ、長いと五時間くらいは平気ですけど」
「ご、ごじかん……」
すずは、進学校に通う圭太の凄まじい基準に驚きを隠せなかった。高校で単位を取るためだけに授業を受けている自分とは、生きている世界が違うように感じてしまう。
そんなすずの戸惑いを知ってか知らずか、圭太はにかっと無邪気に笑った。
「知らないことを知ることは、楽しいですから」
「そっか……すごいなぁ。しょ、将来は何になりたいとかって決めてるの?」
「うーん、そうですね……」
圭太は少しだけ遠くを見るように目を細め、静かに、けれどはっきりと言った。
「お医者さんかな」
「…………」
すずはもう、声が出なかった。
頭が良くて、優しくて、スポーツもできて、将来の夢は医者。自分との間に横たわる途方もない距離感に、ただただ圧倒されてしまう。
昼食を終え、圭太はすずが通う高校のビルの入り口のところまで見送った。
「すーちゃん」
「ん?」
「今日、終わったら連絡ください」
「え?」
「ジャージ」
「あ、ううん。これ洗って返すから、明日でもいいですか?」
「別に、そのままでも」
「だめだよ、借りたものだし。汗かいてるかもしれないし」
「じゃあ、明日、返す時、少し話しましょう」
圭太はにこっと、完璧な笑顔を作った。
「二人で」
すずの顔が、少しだけカッと熱くなる。
「あ、ああああの、でも、明日その後、お見舞いとか勉強とか色々あるんでっ、遊べないんです」
「じゃあ、別の日に一緒に勉強しましょ?」
「〜〜〜! 考えておきますー!!!!!」
すずはジャージの長い袖をギュッと握りながら、パタパタと逃げるようにビルの方へ走っていった。
(ひょ、兵庫の男の子たちってマセてない!?天馬くんも圭太くんもストレートすぎるよ!)
圭太は、その小さな背中が見えなくなるまで、愛おしそうに笑いながら見送っていた。
男物のジャージを着たすず。
自分の学校名が、すずの肩に乗っている。
それだけで、胸の中のざらざらしたものが少しだけ収まった。
けれど、完全には消えない。
西倉さんは、今日それを見るだろうか。
見るだろう。たぶん、絶対に見る。
圭太は小さく息を吐いた。
「……冷房対策です」
誰に対する言い訳かわからない言葉を、自分に言い聞かせるように呟いた。
---
すずは25階の教室に入った。
シクシクと痛み出したお腹に、すずは少しずつ不安になってきていた。
(ううう、なんで薬忘れてきちゃったんだろう・・・)
水曜日の午後の教室は、いつものように少し気怠く、眠たげな空気が漂っていた。
玲花が机に鏡を置いてリップを塗っている。陸はすでに机に突っ伏して夢の中へ向かおうとしている。
天馬は窓際の席で、佐伯から渡された進路の資料を難しい顔で見ていた。
「あ、おはよう……じゃない、こんにちは」
すずが小さく言った。
玲花が顔を上げる。
「バンビ、おは……」
言いかけて、玲花の動きがピタリと止まり「うわーえっぐ」とつぶやいた。
陸も薄く目を開けて、すずを見た。
天馬は資料から顔を上げた。
その鋭い目が、すずの肩で止まる。
紺色のジャージ。
明らかに、男物。
天馬の表情が、すっと温度を失い、完全に消えた。
「……それ」
地鳴りのような低い声がした。
すずは首を傾げる。
「え?」
天馬の目は、すずの肩にかかった男物のジャージから動かなかった。
「…誰の」
すずは、自分の肩に羽織った大きすぎる紺色のジャージを不思議そうに見下ろした。
「あ、これ? 電車がすごく寒かったから貸してくれて」
天馬は、可能な限りにっこりと笑って見せた。
「…だれ?」
笑っているのに怖い雰囲気に、鈴は思わず後ずさった。




