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強敵すぎる!

 翌日。

 休憩時間の教室は、いつもより少しだけ浮ついたざわめきに包まれていた。


 誰かが買ってきたコンビニの袋をガサガサと開ける音。

 玲花が手鏡を覗き込みながら、熱心に前髪のカーブを直している音。

 陸が机に突っ伏したまま、すでに深い眠りに落ちている規則正しい呼吸音。


 すずは次の授業で使うはずのプリントを探して、鞄の中をがさごそと必死に漁っていた。


 その時、教室の前のスライドドアがガラガラと開いた。


「鈴木ー」


 担任の佐伯が、少し呆れたような顔を覗かせる。


「また、あの兵庫高校の男が来とるぞ。忘れ物届けに来たって」

「えっ」


 すずは勢いよく顔を上げた。


「忘れ物?」

「財布やて」

「えっ!」


 すずは慌てて鞄の奥底を確認する。


 ——ない。

 いつも内ポケットに必ず入れている、お気に入りの小さな財布がない。


「お、お財布!」

「ほら、早よ行け。授業始まる前にパパッと回収してこい」

「あっ、す、すみません!」


 すずは椅子をガタッと引き、ぱたぱたと小走りで廊下へ向かった。


 教室と廊下を隔てる壁は、上半分が透明なガラス窓になっている。

 だから、教室にいる生徒たちからも、廊下に立つ見慣れない他校の男子生徒の姿がよく見えた。


 色白で、知的な細いフレームの眼鏡をかけていて、背が高い。

 指定の兵庫高校の制服を、シワひとつなくきちんとした着こなしでまとめている。

 シャツの襟の白さも、鞄を持つ指先も、どこか洗練されていた。ただそこに立っているだけで、「ああ、こういう男は将来、立派な名刺を持って人を動かす側に行くのだろう」と思わせる特有のオーラがあった。


 葉鳥圭太だった。


 圭太は廊下に出たすずに気づくと、数歩向こうからぱっと顔をほころばせて手を振った。


「すーちゃん」

「圭太くん!」


 すずは廊下に出るなり、ぺこりと深く頭を下げた。


「ご、ごめんね。わざわざここまで」

「いえ。今日は部活もないんで、ちょうどよかったです。寄り道したかったし」


 圭太も礼儀正しく、けれど親しげに頭を下げる。

 それから、手に持っていたすずの小さな財布を軽く目の高さに掲げた。


「あ、ありがとう、ほんとに」


 すずがほっとして手を出す。

 すると圭太は、にこっといたずらっぽく笑って、その財布をひょいと頭の上へ持ち上げた。


「えっ」


 すずは反射的に手を伸ばす。

 届かない。

 圭太は背が高い。当然、腕も長い。

 すずが必死につま先立ちになって思い切り手を伸ばしても、圭太の指先にある財布にはまったく届かなかった。


「ちょ、圭太くん! 返してっ」

「あはは。すーちゃん、ちっちゃいですね」

「ちっちゃくないです!」

「かわいいです」

「かわっ……!」


 すずは顔をカッと赤くして、ぷくっと頬をふくらませた。

 その一連のやり取りを、ガラス窓の向こうで教室の中から数人がじっと見ていた。


「おい、何やってんねん、あれ」

「兵庫高校の男、距離近っ」

「めっちゃ青春やなぁ……」


 玲花は窓際に寄り、品定めをするように目を細めた。

「うわ、圭太、やりよるな」


 天馬は、自分の席で石のように固まっていた。

 見ない方がいい。見てもろくな感情が湧かない。

 そう頭ではわかっているのに、どうしても視界の端に入ってしまう。


 圭太は財布を自分の背中の後ろに隠した。

 すずが慌ててその後ろに回り込もうとする。

 その瞬間、圭太は空いた反対の手で、まるで手品のように冷たく冷えた小さなパックジュースを取り出した。


「え?」


 すずが目を丸くする。圭太は涼しげに笑ったまま、その冷たい水滴のついたパックジュースを、すずの細い首筋に「ぴとっ」と当てた。


「ひゃっ!」


 すずがびくっと肩を跳ねさせ、身をすくめる。

 教室の中から、「おおーっ」というどよめきと笑い声が上がった。


「かわいー!」

「あれは強い、強すぎる」

「圭太くん、やるやん」


 天馬の眉間に、これ以上ないほど深い皺が寄った。机の下で、無意識に拳が強く握り込まれる。


 圭太はパックジュースをすずの手に持たせ、それからようやく、背中に隠していた財布も差し出した。


「はい。財布と、ここまで来たおまけです」

「あ、ありがとう……びっくりした」


 すずは両手で財布とジュースを受け取った。それから、パックジュースを見て、少し困ったように、でも嬉しそうに笑う。


「でも、これ、もらっていいの?」

「もちろんです。暑いですし、すーちゃん走ってきたでしょ」

「ほんとにありがとう」

「いいえ? どういたしまして」


 圭太はずっと、きらっと白い歯を見せて笑っている。


 爽やかだった。

 あまりにも、爽やかすぎた。


 すずが何かお礼の言葉を話しかける。

 圭太は少し悩むそぶりを見せたあと、ふと何かを思いついたように、自分の頬をトントンと指で示した。


 そして、すずの背丈に合わせて、少しだけ腰をかがめる。

 ——お礼、ここに。


 そういう冗談なのだろう。

 すずは一瞬意味がわからず、目を瞬かせて固まった。


 教室の中から、ギャラリーたちが一斉に声を上げた。


「うわーーっ!!」

「ヒュー!」

「それはあかんやろ〜!!」


 **ガタンッ!!**


 一際大きな音が教室に響いた。

 天馬が、椅子を激しく後ろに蹴り飛ばすようにして立ち上がっていた。

 顔が、かつてないほど怖い。


「やめとけ天馬!」


 いち早く異変に気付いた陸が、ガバッと起きて天馬の腕に手を伸ばした。

 けれど、今の天馬の耳には何も聞こえていない。


 天馬は一直線にドアの方へ向かおうとした。

 その瞬間——ジリリリリッと、無情にも授業開始のベルが鳴り響いた。


 廊下にいた圭太が、少し残念そうに眉を下げる。

 それから、すぐにいつもの爽やかな顔に戻った。

 圭太は紳士そのものの所作でドアを開け、すずを教室の中へ促した。


 ドアが開いたことで、圭太のクリアな声が教室の隅にまで響いた。


「じゃあ、お礼、忘れないでくださいね?」

「し、しませんっ! じゃない、するけど! 考えます!」

「遊び、行きましょーね?」

「だ、だから! 考えますってば!」

「あはは。じゃあ僕、帰ります」


 圭太は教室の教卓に立つ佐伯を見つけると、ピシッと姿勢を正した。


「あ、先生。お邪魔しました。失礼します」


 ぺこりと、角度まで完璧な一礼をする。

 佐伯は教卓のところで、チョークを持ったまま半分呆然としていた。


「お、おう。おう、気ぃつけてな。ありがとう?」


 圭太はもう一度すずに甘く笑いかけると、颯爽と踵を返して帰っていった。廊下の向こうに消えていく背中まで、計算されたように爽やかだった。


 教室に、嵐が去ったあとのような奇妙な沈黙が落ちた。


 佐伯は教卓に立つ。

 そして、通路の真ん中で鬼神のように呆然と立ったままの天馬を見た。

 その次に、顔を真っ赤にして立っているすずを見る。

 また、殺気を放つ天馬を見る。


 佐伯は、大きく息を吸い込んだ。


 **「強敵すぎるーーーーっ!!!!!!」**


 教室中がドッと吹き出した。


「先生っ!」


 すずが茹でダコのように真っ赤になって叫ぶ。

 玲花はバンバンと自分の机を叩いて涙目になりながら笑っていた。


「佐伯、正直すぎやろ!」

「いや、今のは言わなしゃーないやろ! 何やあの歩く爽やか兵器!」

「……爽やか兵器」


 陸が呆れたようにぼそっと繰り返した。

 天馬は立ったまま、ピクリとも動かず、目だけで圭太が消えた廊下の方を睨みつけている。


「西倉、戻れ。授業始めるぞ」

「……はい」


 天馬は地の底から響くような低い声で返事をした。けれど、席に戻る足取りは、鉛を引きずっているように重かった。


 すずはパタパタと両手で顔を仰ぎながら、自分の席についた。

 その瞬間、前の席の玲花がくるりと振り返る。


「これは来てるっ」

「来てる?」

「来てる。完全にバンビ狙いやんっ」

「や、やっぱり!?」

「だって帰り際に遊びにまた誘われてるやんっ。しかもあんな甘い声で、二人で!」

「ややや、やっぱりー!?」


 すずは小声でやり取りしているつもりだったが、ほとんどパニックで叫んでいた。


「すぐ会いたいとかLINEしてくるの。か、可愛いとか、誘いたいとか、ストレートすぎるし。距離も近いし。でももし私の自意識過剰な勘違いだったら、恥ずかしくて死んじゃうから聞けないしっ!」


 陸が横から冷静に口を挟む。


「お前ら、二人で遊ぶなら、場所と時間はちゃんと考えた方がええで」

「場所と時間?」

「夜とか、家とか密室はなし。昼。外。人がいるとこ限定や」

「う、うん……わかった」


 すずは真面目な顔でこくりと頷いた。

 その平和な会話を、天馬は少し離れた席で、死んだような目で聞いていた。


 聞くつもりなど毛頭なかった。

 でも、耳に入ってきてしまう。


 圭太は、すずに「会いたい」と堂々と言った。

「二人で遊びたい」と、みんなの前で言った。


 すずも鈍感なりに、それが明確な好意かもしれないと気づき始めている。


 ——自分とのことは?

 自分のことになると、すずは全部「仲のいい友達だから」という便利な箱に入れて、無意識に流しているように感じる。


 何が違うと言うのか。


 武庫川の橋で何時間も待つことも。

 夜道が危ないからと迎えに行くことも。

 弱っている時にゼリーを渡すことも。

 父親の後ろ姿を見て泣きそうな時、ただ黙って横にいたことも。


 俺の行動は全部、すずの中では「友達の箱」に綺麗に仕舞われている。


「おい、大丈夫か? 天馬」


 陸がシャーペンを回しながら、小声で話しかけてきた。


「……はー」


 天馬は窓の外を見たまま、肺の中の空気を全て吐き出すような深いため息をついた。


「一周回って、怒りはないっすわ」

「怒りを無駄に一周させるな」

「完全なる無です」

「無の顔ちゃうぞ。人一人殺りそうな目ぇしてるわ」


 天馬は黙っていた。

 考える。

 何が違う? 圭太と自分の、何が違う?


 このまま黙って、ただ傍にいるだけの「いい奴」でいたら、すずはきっと俺の気持ちに気づかない。

 わからないまま、圭太のあの真っ直ぐで嘘のない言葉に戸惑って、真面目に考えて、少しずつそちらを向いてしまうかもしれない。


 それが嫌だった。

 想像しただけで吐き気がするほど、ものすごく、嫌だった。


「圭太、強いな」


 陸がぼそっと、核心を突くように言う。


「っすね」

「お前、今のうちにちゃんと言わな、完全に置いていかれるで」


 天馬は目をそらした。


「天馬」

「何すか」

「黙ってても、以心伝心で伝わらんことって、世の中にはあるで」


 天馬は返事をしなかった。

 ただ、窓の外の景色を見た。

 三宮の高層ビルの向こうに、初夏の太陽を反射して光る瀬戸内海が少しだけ見える。


 言わなあかん。

 今のまま、機嫌の良い「普通の友達」みたいな顔をして横を歩いていたら、たぶん間に合わない。


 頭の中に、バイト先の親方の豪快な声が急に聞こえた気がした。


『告白する時って言うのはな、天馬。確実に勝算がある時か、フラれてでもはっきりさせたい時かの、どっちかや』


 焦りたくない。すずの負担になりたくない。

 でも、このまま「確実に勝てる」と思える日が来るまで待っていたら、間違いなく誰かに取られる。


 すずの母親が退院して、すずが心から安心できる日まで待ちたかった。

 でも、圭太は無邪気に、高校生らしい特権を振りかざして、遠慮せずにガンガン来ている。


 天馬は、教室の前方に座るすずの背中を見た。

 そして、自分の机の上でがっくりと縮こまると、絞り出すような小さな声で唸った。


「はー……参った。参りました」

「ちょ、お前、大丈夫? マジで」


 陸は心底心配そうに振り返って、天馬を見た。

 天馬は、必死に板書を写す、授業を受けるすずの横顔をじっと見ていた。


 その鋭い視線を辿って、陸もすずを見る。

 すずは無意識に、右手に持った黒いシャープペンを、考え事をする時の癖で唇の下に当てていた。

 真剣な顔で、プリントと黒板を見比べている。


 ——あのシャープペン。

 この前、インスタのストーリーに載っていたやつだ。圭太からの、プレゼントの。


「あー……あのシャーペンはー、もしかして、この前のインスタに載ってた?」


 陸が恐る恐る小声で言う。

 天馬はスナイパーのように目を細めて、そのシャープペンを親の仇のように見つめた。


「……あれを今すぐバッキバキにへし折って、窓から捨ててやりてー……」

「やめとけー」

「……」

「や、やめとけー?」


 本気とも冗談ともつかない天馬の低いトーンに、陸はもう一度念を押すように言った。


 ---


 その日の放課後。

 すずはいつものように、電車を乗り継いで兵庫医大の病室へ向かった。


 母の病室は、西陽が差し込み、今日は少し明るかった。


「ママ、今日、顔色いいね」


「ほんま? そろそろ手術近いから、先生たちが栄養とか色々調整してくれてるんよ」


「そっか」


 ——手術。

 その言葉を聞くたびに、すずの胸の奥はきゅっと冷たく縮む。


 抗がん剤が効いて、腫瘍は薬で小さくなった。

 だから、切れるところまで来たのだ。

 大丈夫。

 主治医の先生も、看護師さんも、そして母自身も、そう笑って言っている。


 でも、母の体にメスを入れ、切るのだ。

「大丈夫」と何度聞かされても、怖いものは怖い。


 母は、すずの膝の上の手をぽんぽんと優しく叩いた。まるですずの不安を全て見抜いているようだった。


「すず、そんな顔せんの」

「どんな顔?」

「雷の音が怖くて震えてる、子犬みたいな顔」

「……そんな顔してる?」

「してる。丸わかり」


 母はくすくすと笑った。

 すずもつられて笑おうとした。

 けれど、顔の筋肉がこわばって、少しだけうまくいかなかった。


 面会時間を終えて病院の自動ドアを出る頃には、空はすっかり濃い夕暮れの色に染まっていた。

 生温かい風に吹かれながら、阪神武庫川駅の高架の方へ歩く。


 駅の下の、少し薄暗い駐輪場。

 いつもの場所に、天馬がいた。


 自転車のハンドルに片腕をだらんと乗せて、こちらをじっと見ている。


 洗いざらしの白いTシャツ。

 黒いゆったりとしたパンツ。

 首には、少し汗ばんだ水色のタオル。


 ——耳に、あのジャラジャラとしたピアスがない。

 そして、目にかかっていた重たい前髪が短く切り揃えられている。


 すずは、その見慣れない、けれど端正な顔立ちに、ほんの少しだけハッとして足を止めた。


「……お疲れ」


 天馬が、いつもと変わらない低い声で言った。


「うん。ありがとう」

「お母さん、どうやった」

「今日は少し元気そうだった。もう少しで手術やって」

「うん」

「ちょっと、緊張しちゃうね」

「うん」


 天馬はそれ以上、無理に励ましたり、言葉を急かしたりはしなかった。

 ただ静かに自転車を押し、すずの歩幅に合わせて隣を歩き出す。


 二人は自然と、武庫川沿いの土手へ向かった。


 風が強い。

 広い川の水面が、オレンジ色の夕方の光を乱反射して、細かく揺れている。

 遠くの橋の下で、誰かがトランペットの練習をしている拙い音が風に乗って聞こえてきた。


 いつもの帰り道だった。

 でも、今日は明らかに何かが少しだけ違った。


 天馬が、不自然なほど黙っているのだ。

 いつも無口だけれど、今日の沈黙はただの無口ではなく、何か重いものを飲み込み、考えているような、張り詰めた沈黙だった。


「ああああの!」


 耐えきれず、すずは弾かれたように先に口を開いた。


「き、昨日の面談、どうだった?」

「……大変やった」

「そっか」

「でも、行ってよかった」

「うん」

「佐伯、声でかい」

「ふふ、それは知ってる」

「でも、あの馬鹿でかい声で言われると、ちょっと信じそうになる」

「何を?」


 天馬は自転車を押したまま、少しだけ遠くの前を見た。


「俺みたいなやつでも、これからの人生、何か選べるってこと」


 すずは、胸の奥がきゅっと熱くなった。


「選べるよ、絶対」

「まだ、何になりたいかはわからん」

「でも、選びたいって、前に進みたいって思ったんやろ?」

「うん」

「じゃあ、もう始まってると思う。天馬くんの新しい道」


 そう力強く言うと、天馬は横目でちらりとすずを見た。


「……すずは、たまに佐伯みたいなこと言うな」

「えっ、私、そんなに声大きい!?」

「そこちゃう」


 すずが真剣に聞き返すと、天馬は少しだけ、ふっと吹き出すように笑った。

 その笑い方が、いつもよりずっと柔らかくて、年相応の男の子の顔をしていて。


 すずはまた、胸の奥がざわざわと落ち着かなくなった。


 武庫大橋の巨大なアーチが近づいてきた時、天馬がふいにピタリと足を止めた。

 すずもつられて立ち止まる。


「すず」

「はい」

「手、貸して」

「え?」


 すずは、言われた意味がわからず、ぱちぱちと目を瞬かせた。


「手」

「て、手?」

「……嫌ならええ」


 天馬は、傷ついたようにスッと手を引こうとした。

 でも、すずは反射的に首を横に振ってしまった。


「い、嫌では、ないけど……」

「じゃあ」


 天馬は、ためらいがちに、そっと手を伸ばした。

 すずの小さな右手を取る。


 握る、という強い力ではなく、壊れ物を扱うようにそっと包み込むような触れ方だった。


 大きい手。

 関節のしっかりとした、長い指。

 土建のバイトで少しだけマメができている、硬い手のひら。


 重なった皮膚から、天馬の少し高い体温が直接伝わってくる。

 その瞬間、すずの心臓が、自分の耳に聞こえるほど『ばくんっ!』と大きな音を立てた。


「……っ」

「ドキドキする?」


 天馬が、覗き込むように低い声で聞いた。


「なっ」


 すずは勢いよく顔を上げかけて、でもあまりにも近い距離で目が合いそうになって、パニックになりすぐに視線を下へ逸らした。


「そ、そういうこと聞かないでくださいっ」

「するん?」

「し、してません」

「嘘」

「嘘じゃないです」

「手、めっちゃ固まってるやん」

「それは、急にびっくりしたからでっ……!」

「俺に触られるの、嫌?」

「嫌とかじゃなくて!」

「俺の顔、嫌いなタイプ?」

「えっ!?」


 あまりにも飛躍した質問に、すずは思わず天馬を真っ直ぐに見た。

 天馬は、一切の冗談の通じない、真面目すぎる顔をしていた。

 本気で聞いているのだ。


「な、なんで急にそんなこと聞くの」

「気になった」

「顔は……」

「うん」

「嫌いじゃ、ないです。……むしろ」

「好き?」

「それはっ!」


 すずの顔が一気に、夕焼けよりも赤く染まる。

 その恥ずかしがる顔を見て、天馬は心の底から素直に「可愛い」「嬉しい」と思った。

 それと同時に、もっと焦らせたい、もっと自分への感情でぐちゃぐちゃに赤くさせたいと、少しだけ意地悪な独占欲が首をもたげてしまう。


「それは、そういう誘導するような聞き方、ずるい!」

「ずるい?」

「ずるいです!」


 天馬は少しだけ黙った。

 それから、包んでいた手をゆっくりと離そうとした。

 すると——すずはなぜか、反射的にその天馬の大きな手を、きゅっと少しだけ握り返してしまったのだ。


「あっ」


 自分で自分の行動に驚く。

 天馬も、目を丸くして少しだけ見開いた。


 すずは火がついたように慌てて手を振り払った。


「あ、今のは違くて!」

「違うん?」

「違うというか、その、落ちそうになったから反射で!」

「平らな道で反射で握り返すんや」

「い、意地悪言わないでっ!」


 すずは逃げるように、胸の前で自分の両手をぎゅっと握りしめた。

 手のひらが熱い。

 天馬の指に触れられたところが、火傷したようにまだ熱い。

 心臓が、警報機のようにうるさく鳴り続けている。


 こんなの、困る。

 今までの「仲のいい友達」というバランスが崩れてしまう。困るのだ。


「天馬くん」

「何」

「そういう、心臓に悪いことする天馬くんは、こ、困る!」


 天馬の表情が、少しだけピタリと止まった。

 すずは「嫌われた」と思って慌てて言葉を足す。


「あ、違う、嫌いって意味じゃなくて! 嫌というか、その、困るというか……。ドキドキするから、ペースが乱されて嫌というか……」

「……ドキドキするんや」

「だから、そこだけ都合よく拾わないで!」


 すずはついに、両手で自分の真っ赤な顔を覆ってしまった。


「私は、今までみたいに普通にしたい! 普通の友達がいいです」


 言った瞬間、自分の胸の奥が鋭い針でちくりと刺されたように痛んだ。


 ——普通に友達。


 そう言って壁を作れば、楽になると思った。

 天馬くんがいつもの無口で優しい天馬くんに戻って、他愛ない話をして武庫川を歩いて、駅まで送ってくれて。

 今まで通りの、安全で居心地のいい関係でいられると思ったのだ。


 でも、口に出して言った自分の胸が、嘘をついたように少し痛かった。


 天馬は黙っていた。

 風の音だけが、二人の間を通り抜ける。

 しばらくして、地面を這うような低い声がした。


 **「……俺は嫌や」**


 すずは、顔を覆った指の隙間から、おそるおそる天馬を見た。


「え……」

「普通に友達なんて、絶対に嫌や」


 強い風が吹いた。

 武庫川の水面が、ざわざわと大きく波打って揺れる。

 天馬は、自転車のハンドルを握る手にぐっと力を込めた。

 でも、すずを捉えたその強い目は、一ミリもそらさなかった。


「俺、ただの友達のつもりで、毎日お前を迎えに行ってるわけちゃうぞ」


 すずは、息を吸うのも忘れて止めた。


「気づかなかった?」


 天馬は、射抜くようにじっとすずを見た。


「だ、だって、天馬くん、みんなに優しいからっ……」

「え?」

「玲花ちゃんにも、距離、めっちゃ近いから。友達にはみんなに、そうやって特別扱いするのかなって……」

「俺がいつ」

「め、面談の後……階段で、二人があの、一緒に座って、それで、肩くっついてたの、見ました……」

「あー」


 天馬は一瞬、眉間にシワを寄せて過去の記憶を巡らせた。

 ——ああ、あの時か。


「あーね」

「……」

「すみません。あれは不可抗力です。忘れてください」

「む、無理です! 私、あの時すごく悲しかっ……あっ!」


 勢い余って口走った瞬間、すずは「しまった」という顔で自分の口を両手で塞いだ。


 天馬の目が、獲物を見つけた猛禽類のように、すっと少しだけ細くなる。


「……へえ?」

「〜〜〜っ!!!」

「はは。ごめん。また意地悪した」

「じゅうぶん意地悪です!」

「あの時は、確かに近かった。それは謝る」


 天馬は、真剣な眼差しですずをまっすぐ見た。


「でも、二度としない」

「べ、別に私にそんなこと誓わなくても……」

「いや。他のやつに誤解されるようなこと、もうする必要ないから」


 すずは完全に言葉に詰まった。

 否定してほしかったわけではない。

 でも、こんな風に真っ向から、逃げ場のないくらい真っ直ぐに受け止められると、余計に顔が熱くなってショートしそうになる。


「……ごめん」


 天馬は、少しトーンを落として低い声で言った。


「今すぐ、俺とどうにかしろって、答えを出せって話ちゃうくて」


 天馬の声は、いつもより少しだけ、慎重に言葉を選んでいるようだった。


「お母さんの大事な手術もあるし、お前自身の進路のこともあるし。今、恋愛とかそんなこと考えられへん余裕がないのも、ちゃんとわかってるつもりや」

「……」

「でも、俺の気持ちに気づいてないふり、知らんふりされるのは、……ちょっとしんどい」


 すずは、何も言い返せなかった。

 知らんふり。

 そう言われて、胸の奥の柔らかい部分に何かが深く刺さった。


 圭太くんの「会いたい」という言葉の裏にある意味はわかった。

 中村さんに「彼氏さん」と間違われた時は、顔から火が出るほど熱くなった。

 天馬くんと玲花ちゃんが付き合っていないと知って、心の底からほっとした。

 天馬くんが迎えに来てくれない日は、世界が色褪せたように寂しかった。


 それなのに。

 自分は、その感情の正体に名前をつけるのが怖くて、何も知らないふりをしていたのだ。


「……変な言い方やけど」


 天馬は少しだけ照れ隠しのように眉を寄せた。


 **「すずの隣、予約したい」**


 すずの胸が、ぎゅっと音を立てて鳴った。


「予約……」

「うん」

「隣って……」

「誰にも譲られへん、特別な場所」


 天馬は、はっきりと宣言するように言った。


 **「俺、すずの特別になりたい」**


 その言葉は、武庫川の強い風にも決して流されず、すずの心のど真ん中にまっすぐに届いた。


 すずは、たまらず目をそらした。

 顔が熱い。

 手が熱い。

 胸が破裂しそうに苦しい。


 ——関係が変わってしまうのが、怖い。

 ——でも、彼にそう言ってもらえたことが、死ぬほど嬉しい。


 困る。

 逃げたい。

 でも、絶対に逃げたくない。


 いろんな感情が一度に津波のように押し寄せてきて、とてもじゃないけれど言葉にならなかった。


「今は返事いらん」


 天馬は、すずのパニックを見透かしたように優しく言った。


「考えといて」

「……何を?」

「俺のこと、男として見れるかどうか」


 すずはまた、両手で顔を覆ってしゃがみこみそうになった。


「む、無理……っ」

「……あ? 俺のこと男として見るの、無理ってこと?」

「違うっ! 今、これ以上考えたら、頭がキャパオーバーで爆発する……」

「爆発」

「ほんとにする。シューって煙出る」

「ははっ、じゃあ、今日はもうこれ以上考えんでいい」


 天馬は今日一番の、肩の力が抜けたような優しい笑顔で笑った。


「でも、忘れんといて」

「……」

「俺は、すずを特別に思ってる」


 すずは、顔を覆ったまま、小さくこくりと頷いた。

 頷いてしまった。


 自分でも、それが「わかった」という返事なのか、「私も特別だ」という同意なのか、どういう意味の頷きかわからなかった。

 けれど、頷かずにはいられなかったのだ。


 二人はまた、ゆっくりと歩き出した。

 武庫川沿いの夕暮れの道を、自転車を押しながら。


 さっきまでと全く同じ道なのに、まるで魔法にかかったように全然違う道みたいだった。


 天馬の手が、すずの手に触れたこと。

 大きくて、少しごつごつしていて、温かかったこと。

『ドキドキするか』と、意地悪く聞かれたこと。

 男として見てほしいと、真っ直ぐに言われたこと。

 隣を予約したいと言われたこと。


 全部の言葉と感触が、頭の中でぐるぐるとメリーゴーランドのように回っている。


「すず」

「はいっ」

「……お前、返事が軍隊みたいになっとるぞ」

「天馬くんのせいです……!」

「俺?」

「そうです」

「俺、なんか悪いことした?」

「いっぱいしました」

「具体的には」

「言いませんっ!」


 すずが少し強めに睨むように言うと、天馬はほんの少し口元を緩めて、愛おしそうに目を細めた。


「そっか」

「……そうです」


 しばらく無言で歩いて、石造りの眼鏡橋の近くまで来た。

 夕方の空は、オレンジ色から少しだけ深い紫の夜のグラデーションに変わり始めていた。

 橋のアーチが、川の上に長く美しい影を落としている。


 いつもの帰り道の、いつもの場所。

 でも、今日から、二人にとっては全く違う特別な場所。


 すずは、歩きながらそっと自分の右手を見た。

 さっき、天馬の大きな手に触れられた手。

 まだ、細胞が覚えているように、少しだけ熱い気がした。


 ---


 家に帰る頃には、外はもうすっかり暗くなっていた。


 姉の紗英はバイトでまだ帰っていない。

 母も病院のベッドにいる。

 家の中は、シンと静まり返っていた。


 すずは手を洗って、冷蔵庫にあった作り置きの夕飯をレンジで温めて、少しだけ食べた。

 でも、口の中がパサパサして、味はあまりわからなかった。


 お風呂に入って、ドライヤーで髪を乾かして、逃げ込むようにベッドに入る。

 部屋の電気を消したのに、頭の芯が冴えきって全く眠れない。


 すずは布団の中で、右手をそっと握りしめた。


 ——天馬くんの手。


 大きかった。

 温かかった。

 安心する匂いがした。


『ドキドキするから嫌だ』と言った。

『普通に友達がいい』と、嘘をついて逃げようとした。


 でも。


 天馬くんに『俺は嫌や』と、強い目で言われた時、すずの胸はチクリと痛んだ。


 それは、拒絶されて嫌だったからではない。

 たぶん。

 たぶん——彼が諦めずに踏み込んでくれたことが、嬉しかったからだ。


「……どうしよう」


 暗い部屋の中で、すずは天井に向かって小さく呟いた。


『男として見てほしい』

『すずの特別になりたい』

『すずの隣を予約したい』


 何度も、何度も、彼の色気のある低い声が耳の奥で蘇る。


 天馬くんは、ただの幼馴染みたいな友達じゃないのかもしれない。

 少なくとも、もう、ただの友達ではいられないのかもしれない。


 すずは、熱くなった顔を冷たい枕に深く埋めた。


「無理……絶対眠れない……」


 けれど、暗闇の中で響いたその声は、泣き出しそうなくらい困っているのに、少しだけ幸せそうに笑っていた。

 その夜、すずは布団の中で自分の右手をぎゅっと握ったまま、夜が明ける近くまでなかなか眠ることができなかった。

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