青年、輝きを放つ。
水曜日。
三宮の駅に、その青年は降り立った。
ただの真っ白なTシャツに、ただのデニム。
それに履き古したコンバース。
腕には登山用のゴツいデジタル時計。
使い古した吉田カバンのリュック。
小さな頭に、短い髪。
長い腕と足。
小麦色の肌。
形のいい額。
尖った顎。
穴がたくさん空いた耳。
大きく、薄茶色の瞳はキラキラと輝いている。
薄い唇は、口角が上がっている。
まとった服に、高級ブランドものは一切ない。
それなのに、突出して輝いて見えた。
学校へ行くと、教室の空気が一瞬止まった。
最初に気づいたのは玲花だった。
「えっ、待って」
教室の入口で、玲花が目を見開く。
「天馬?」
「何」
「耳が静か」
「耳が静かって何」
「ピアスがない! 髪も短い! え、何、誰?」
その声に、陸が顔を上げた。
天馬を見る。
そして、ゆっくり笑った。
「急に男やんけ」
「そう?」
「おう。前より全然いい。」
陸は机に頬杖をついた。
「似合っとーで。腹立つけど」
「褒めてんのかそれ」
「めっさ褒めとる」
陸と天馬は拳を突き合わせた。
玲花が天馬の周りをぐるりと回った。
「普通にモテるやつになってる。むかつく。ピアスない方が顔の良さが出るの、むかつく」
「むかつきすぎやろ」
「だってむかつくもん」
天馬は面倒そうに眉を寄せた。
その時、すずが教室に入ってきた。
「あ、おはようございま……」
言いかけて、止まった。
すずの目が、天馬に向く。
耳。 髪。 顔。
いつもと違う天馬。
ピアスがないだけで、少し大人びて見えた。 前髪が短くなったせいで、目元がはっきり見える。 もともと整った顔立ちなのに、隠れていたものが出てきたみたいだった。
すずは、なぜか息をするのを忘れた。
「……天馬くん?」
「何」
「髪……」
「切った」
「ピアスも……」
「外した」
「なんで?」
天馬は少しだけ目をそらした。
「ま、色々?」
「色々……」
すずは小さく繰り返した。
その言い方はいつもの天馬なのに、いつもの天馬ではない気がした。
髪型が違う。 ピアスがない。 耳がすっきりしている。
それだけのはずなのに。
胸の奥が、ふわりと熱くなった。
その日の授業前、佐伯が教室に入ってきた。
「はいこんにちは〜。呼吸してるか〜」
いつもの声が教室に響く。
そして、天馬を見て止まった。
「……西倉」
「はい」
「お前、今日どうした。面接の三日前か」
教室が笑った。
天馬は不機嫌そうに言う。
「形から入りました」
「ええやん」
佐伯は、にやっと笑った。
「形から入れるやつは、中身も作れる可能性あるからな」
その言葉に、天馬は少しだけ目を伏せた。
すずは、その横顔を見ていた。
昨日までと、何かが違う。
何が違うのか、うまく言えない。
髪型。 ピアス。 服。
そういうものだけではない。
天馬くんの中で、何かが動き始めている。
すずはそれを見て、胸の奥がまた少し熱くなった。
放課後。
すずは病院へ行く準備をしていた。
鞄にノートをしまい、スマホを見る。
天馬はいつもなら、武庫川駅まで行くと言ってくれる。
けれど今日は、天馬の方から先に言った。
「今日、行けへん」
「えっ」
すずは顔を上げた。
「面談ある。佐伯と」
「あ……そっか」
すずは頷いた。
ちゃんと頷いた。
でも、胸の奥が、少しだけ寂しかった。
武庫川駅で、天馬が待っていない。
たったそれだけのことを想像しただけで、帰り道が少し広く、少し冷たく見えた。
「すず?」
天馬が低い声で呼んだ。
「大丈夫?」
「うん。大丈夫」
すずは慌てて笑った。
「面談、頑張ってね」
「うん」
天馬は少しだけ迷ったあと、言った。
「明日は行く」
「うん」
その一言に、胸が少し軽くなった。
すずは、自分でも不思議だった。
天馬くんが来てくれることが、いつの間にかこんなに当たり前になっていたなんて。
■■■
放課後。
天馬は、佐伯に呼ばれて進路指導室の前に立っていた。
廊下は夕方の光で、少し黄色かった。
窓の向こうの瀬戸内海が輝いている。
家の前にある武庫川が、この海に続いていて、
この海は遥か彼方、母さんの母国、イギリス、
そして今、父がいる場所、エベレストがある大陸にも繋がっているのだ。
そう思うと、少しだけ眺めたい気持ちになって、海をじっと眺めた。
教室の方からは、まだ誰かの笑い声が聞こえる。 でも、この扉の前だけ、別の場所みたいに静かだった。
天馬は、何度かドアの前で足を止めた。
手には、図書館で借りた本が二冊。 鞄の中には、大学案内と奨学金の本。 昨日から読んでいるのに、わかったことより、わからないことの方が増えた。
天馬は、短く息を吐いた。
「……失礼します」
ドアを開けると、佐伯が奥の机で書類を広げていた。
「おう、西倉。来たな」
いつも通り、声が大きい。
「そこ座れ。顔が硬い。面接試験の前に落ちる顔してる」
「まだ何も受けてへんっす」
「せやな。まずは作戦会議や」
佐伯は向かいの椅子を指差した。
机の上には、分厚い資料がいくつも並んでいた。
大学案内。 専門学校案内。 奨学金制度のパンフレット。
それから、佐伯が手書きで書いたらしいメモ。
天馬は椅子に座る。
佐伯は腕を組んで、じっと天馬を見た。
「で。大学行きたいんやな?」
天馬は少しだけ唇を結んだ。
「……はい」
「なんで?」
「ちゃんとした大人になりたいです」
「ほう?」
「教師、興味ある。でも、まだわからんっす」
「ほう!!」
言ってから、自分でも少し驚いた。
もっと違う言い方があった気がする。 でも、最初に出てきたのはそれだった。
佐伯は笑わなかった。
「ええやん」
短く言った。
「それで?」
天馬は、膝の上で手を握った。
「大学行きたいです」
「うん」
「でも、金ないです」
「うん」
「塾も行けません」
「うん」
「今から勉強して間に合うんかどうかわかりません」
「うん」
最後の言葉だけ、喉に引っかかった。
父は生きている。 嫌いではない。 電話をすれば笑ってくれる。
でも、こういう時に頼れる人ではない。
高校を出なくてもいいと言った父。 生きていければそれでいいと言った父。
それが悪いとは言えない。 でも、天馬を先に進ませる言葉ではなかった。
「親もおらんし、どうしたらええかわかりません。」
「うん」
「だから、助けてください」
佐伯はしばらく黙って聞いていた。
そして、少しだけ背もたれに体を預けた。
「遅いか早いかで言うたら、まあ遅い」
天馬は目を伏せた。
「……っすよね」
「でもな、西倉」
佐伯の声が、少しだけ低くなった。
「気づいた日から始めるしかないねん」
天馬は顔を上げた。
「今日気づいたんなら、今日が一番早い日や」
その言葉は、思っていたよりまっすぐ胸に入ってきた。
遅い。
それは事実だ。
でも、終わりではない。
佐伯は机の上のパンフレットを一つ取った。
「親がおらんくても、できる方法は探せる」
ぱん、と机に置く。
「奨学金もある。通信制もある。夜間もある。働きながら資格を取る道もある」
次の資料を広げる。
「最短ルートだけが人生ちゃう」
佐伯は、赤ペンで線を引いたメモを見せた。
「お前は語学が強い。英語も、日本語も、社会もいける」
「語学……」
「一年生の海外ルーツの子、助けてたやろ。遅延証明書の説明してたやつ」
「あれは、たまたまっす」
「たまたまで人は助からん。お前ができるから助かったんや」
天馬は黙った。
あの時の一年生の顔を思い出す。 困って、焦って、言葉がうまく出なくて。 説明が通じた瞬間、少しだけ息をついた顔。
あれは、自分にもできることだったのか。
「日本語教師、英語教員、社会科。いろいろある」
佐伯は指を折りながら言った。
「外国ルーツの子の支援に関わる道もある。学校の先生だけが全部ちゃう。でも、学校の先生に興味あるなら、そこから調べてもええ」
天馬は、少しだけ迷ってから言った。
「まだ、何になりたいかわからんので、どこ目指したらいいのかは、決定ではないです」
佐伯はすぐに頷いた。
「どこ行くかは、おいおい決めたらええ」
「でも」
「今は、“行きたい”って言えたことが大事や」
天馬は口を閉じた。
行きたい。
その言葉を、自分が言った。
大学へ行きたい。 ちゃんとした大人になりたい。
言葉にすると、急に怖くなる。
叶わなかった時のことを考える。
金がないこと。 親に頼れないこと。 自分の学力が足りないかもしれないこと。
天馬は、もう一度言った。
「親もおらんし、どうしたらええかわかりません」
佐伯は、今度はすぐに返した。
「親がおらんから無理、で終わらせたら腹立つやろ」
天馬は、顔を上げた。
佐伯はいつも声が大きい。 教室に入ってくるだけで空気が変わる。 電池切れだの、呼吸してるかだの、くだらないことも大声で言う。
でも、今日は、今までで一番大きく聞こえた。
「やったろうや!!」
佐伯は、机を強く叩いた。
「お前の人生や。お前が選べるって、証明したれ!!!」
天馬の胸の奥で、何かが鳴った。
強く、はっきりと。
今まで、誰かにそこまで言われたことがあっただろうか。
お前の人生だ。 お前が選べる。
そんなふうに。
天馬の口角が、少しだけ上がった。
そして、瞳がきらりと光った。
「……やります」
「おう」
「何からしたらいいですか」
「まず現実を見る」
「きついやつっすか」
「まあまあきつい」
「最初から」
「逃げんな」
佐伯は資料を一枚、天馬の前に置いた。
「今の成績。出席状況。必要な単位。得意科目。苦手科目。模試を受けるならどれか。金のこと。奨学金。生活費。全部一個ずつ見る」
「全部」
「全部。でも一日で全部は無理や」
佐伯は赤ペンで紙の端に大きく丸を書いた。
「今日はまず、希望を書け」
「希望?」
「大学行きたい。教員免許取りたいかもしれん。語学を活かしたい。学校で外国ルーツの子を助ける仕事に興味ある。そういうの」
天馬は、渡された紙を見た。
空白が多い。
その空白が、少し怖かった。
でも同時に、そこに何かを書いていいのだと思った。
「俺、書いていいんすか」
「誰の進路や思ってんねん」
「……俺の」
「せや」
佐伯は、にっと笑った。
「お前の人生や」
天馬はペンを持った。
最初の一文字を書くまでに、少し時間がかかった。
でも、書き始めると、手は止まらなかった。
大学に行きたい。
教員免許に興味がある。
語学を活かしたい。
外国ルーツの子どもを助ける仕事に興味がある。
ちゃんとした大人になりたい。
最後の一行を書いた時、佐伯がそれを見て、少しだけ笑った。
「ええやん」
佐伯は、紙を丁寧にファイルに挟んだ。
「次は、行けそうなルートを一緒に探す。昼定時からでも行ける大学、通信、夜間、奨学金。あと、働きながらどうするか」
「はい」
「塾は、行けたらええ。でも行けへんから終わりではない。学校の先生使え。図書館使え。無料の教材もある。模試も必要なやつから受ける」
「はい」
「恋愛で徹夜すんな」
「してへん」
「ほんまか?」
「してへん」
「怪しいな」
佐伯がにやっと笑う。
天馬は目をそらした。
「まあええ。恋愛も人生の一部や。でも、恋だけで人生は支えられへん」
佐伯の声が、もう一度真面目になる。
「好きな子の隣に立ちたいなら、生活を作れ」
天馬は、息を止めた。
「生活」
「そうや。金、仕事、健康、勉強、人間関係。全部含めて生活や」
佐伯は資料を整えながら言った。
「かっこええ男ってな、顔だけちゃうぞ。生活を投げ出さん男や」
天馬は黙って、その言葉を聞いた。
顔だけじゃない。
生活を投げ出さない男。
中村楓のグレーのスーツが、一瞬だけ頭をよぎる。
そして、武庫川で笑ったすずの顔が浮かぶ。
天馬は小さく頷いた。
「なります」
「何に」
「生活を投げ出さん男に」
佐伯は一瞬だけ目を丸くして、それから声を上げて笑った。
「ええやん! それ、目標にしとけ!」
面談は、思っていたより長くなった。
「さぁ続きは明日や!明日も面談じゃ!」
「え〜」
「え〜ってお前!俺も調べとくから、お前も調べろよ!」
「うす」
終わる頃には、外はすっかり夕方だった。
天馬はファイルと資料を鞄にしまい、椅子から立ち上がった。
「ありがとうございました」
「おう。西倉」
「はい」
「焦るな。でも止まるな」
天馬は頷いた。
「はい」
「わからんくなったら来い。先生、声だけはでかいからな」
「知ってます」
「そこは否定せえ」
「無理っす」
佐伯が笑った。
天馬も、少しだけ笑った。
進路指導室を出ると、廊下の空気が少し冷たかった。
鞄は重い。 資料も多い。 やることは増えた。
でも、不思議と、来る前より足は軽かった。
天馬はスマホを取り出す。
すずからのメッセージは、まだ来ていなかった。
代わりに、自分から送る。
tenma:今終わった。
すぐに既読がついた。
その数秒後、スマホが震えた。
通話。
すずからだった。
天馬は、反射的に出た。
「どうした?」
声が少し急いた。
「何かあった?」
電話の向こうで、すずが少しだけ笑った気配がした。
『何かあったのは、天馬くんの方ちゃう?』
天馬は、進路指導室の前の廊下で、窓の向こうに見える海を見た。
「……ああ。えーと」
何から話せばいいかわからない。
でも、不思議と、話したいと思った。
■■■
その日、病院の帰り道は一人だった。
武庫川駅のホームは、いつも通り風が強かった。
すずはホームの端で、川を見下ろした。
いつもなら、駅を出たところに天馬がいる。 自転車を押して、片腕をハンドルに乗せて、低い声で「お疲れ」と言う。
今日は、いない。
それだけで、景色が少し違って見えた。
tenma:今終わった。
すずは、少し迷った。
文字を打とうとして、消す。
また打とうとして、消す。
そして、気づいた時には、通話ボタンを押していた。
呼び出し音は、一回も鳴らなかった気がした。
『どうした?』
すぐに天馬の声がした。
『何かあった?』
その声があまりにすぐで、すずは胸がきゅっとなった。
「何かあったのは、天馬くんの方とちゃう?」
電話の向こうで、天馬が少し黙った。
『……ああ。えーと』
珍しく、言葉に迷っている。
すずはベッドの上で膝を抱えた。
「面談、どうだった?」
『長かった』
「怒られた?」
『怒られてはない』
「じゃあ?」
『将来のこと、話してた』
天馬の声は、いつもより少し低かった。
『大学とか。奨学金とか。通信とか。働きながら国家資格取る道とか』
「うん」
『俺、何も知らんかった』
「うん」
『知らんこと多すぎて、途中でちょっと嫌になった』
「うん」
『でも、佐伯が、知らんことを知っただけで一歩やって言うた』
「佐伯先生らしい」
『うん』
天馬は少し息を吐いた。
『俺、ちゃんとした大人になりたい』
すずは、息を止めた。
『すぐには無理やけど』
「うん」
『でも、なりたいと思った』
その言葉は、電話越しなのに、すずの胸にまっすぐ届いた。
すずは、少しだけ笑った。
「天馬くん、すごいね」
『まだ何もしてへん』
「でも、思えたんやろ?」
『うん』
「じゃあ、すごいよ」
電話の向こうで、天馬が黙る。
それから、小さく言った。
『明日は行く』
「うん」
『武庫川』
「うん」
『待っとく』
すずは、スマホを耳に当てたまま、目を閉じた。
「ありがとう」
『うん』
電話を切ったあとも、しばらく天馬の声が耳に残っていた。
ちゃんとした大人になりたい。
それは、すずも同じだった。
母のように、子育てしながら働く大人。 中村のようにかっこいい大人。 看護師さんのように、そっと飴をくれる大人。
そして、天馬も今、自分の未来を見ようとしている。
同じ時、天馬は瀬戸内海を学校で眺めて、
すずは武庫川を眺めていた。
■■■
家に帰って、ノートを開いた。
圭太にもらった黒いシャープペンを持つ。
終わりから描く。
その言葉を、もう一度書いた。
その下に、すずは小さく書いた。
――私も、ちゃんと考える。
窓の外で、夜の風がカーテンを揺らした。
リアクションや、☆☆☆☆☆を★★★★★に変えていただけると、執筆の励みになります^^
感想、ご指摘、ブクマも大歓迎です!
毎日更新予定です。完結約束、ハッピーエンドです(^ ^)
よろしくお願いします!




