今、頑張れることが若さの特権。
「そんなん普通に『今日は遊べない』って言えばいいねん!」
玲花のその男前なアドバイスを受け、すずはその通りにメッセージを返した。
【suzu:ごめんね、今日はお見舞いがあって、遊べないや】
送ってから数秒。すぐに既読がつき、ポップアップが跳ねる。
【keitatubame:そうですか、めちゃくちゃ会いたかったです。また誘います。次は一緒に遊びましょね、二人で。僕、もっと仲良くなりたいです。】
世間知らずのすずでも、この圭太のメッセージがストレートな「直球」であることくらいは察せられた。
「ねぇ、玲花ちゃん……圭太くんって、あの、ひょっとしたら……」
「うん! そらすずのこと、相当興味あると思うで!!」
「や、やっぱり!? だって、すぐに会いたいとか言ってくれるし、誘いたいとか、距離も近いし……。でも、もし私の勘違いやったら死ぬほど恥ずかしいな。それに、もし本当にそうやとしたら、私、どうしたらいいの!?」
すずがパニックを起こしていると、玲花は「えー?」と恋のベテランっぽく腕を組んだ。
「そんなん、こっちからは普通にしてるしかないよ。向こうがハッキリ『好きや!』って言ってくるまでは、どうしようもないって」
「そんなものなの……?」
「え、知らん。実は私もあんま経験ないし。てか、そもそもバンビはどうなん? 恋愛経験。今まで彼氏とかいたことあるん?」
「うん、あるよ」
――その瞬間。
教室内の一角の、時が完全に止まった。
「「「ええええええ!!!!」」」
天馬、陸、玲花の三人が、絵に描いたような石像と化す。
特に天馬は、先ほどまでの「サイレントアピール顔」のまま筋肉が硬直しており、ピキピキとひび割れそうなほどの衝撃を受けていた。
「な、ななな、何ですかその失礼なリアクション! 私だって、彼氏くらいいたことあります!」
「えっ、いつ!? なに見かけによらず! 今まで何人と付き合ったん!?」
玲花が身を乗り出して問い詰めると、すずは指を折って数えた。
「えーと、二人……かな」
「二人ぃ!?」
天馬の目がカッと見開かれる。白目を剥く寸前である。
「どうやって付き合ったんや、それを教えろ!」
陸がガチの顔で尋ねると、すずは記憶を遡るように人差し指を頬に当てた。
「え? なんかよく分かんないんだけど、小学校の修学旅行の時に、夜のまくら投げのドサクサで『好きや』って言われたの。それでお付き合いするってなったんだけど……なんか、気がついたら別れたことになってたの」
「「なんじゃそら」」
陸と玲花の息の合ったツッコミが響く。
「で、二人目は、高校に入る少し前なんだけど……。受験が終わってから告白されたの。でも、他校の生徒だったからあんまり会えなくて……。それで、私がこっちに引っ越してくるって言ったら、『じゃあお別れやね』ってなっちゃったの」
「「なんじゃそら!!」」
二度の「なんじゃそら」が教室にこだました、その時だった。
ガタン……。
天馬が、まるで糸の切れたマリオネットのように、あるいは致命傷を負ったゾンビのように、フラフラと椅子から立ち上がった。
目はどこも焦焦を結んでおらず、虚空を見つめている。
そのまま、すり足で教室のドアの方へ向かい、パタン……と力なく廊下へ出て行ってしまった。
「……トイレかな?」
すずが不思議そうに首を傾げると、陸と玲花が声を揃えた。
「「いやちゃうやろ」」
(天馬、ドンマイ……!)
陸は、誰もいない教室のドアを見つめながら、心の中で熱い涙を流していた。
(まさかの彼氏経験者だった上に、パン屋の息子のストレートなアプローチにはちゃんと気づいとる。なのに、お前の必死のサイレント顔面アピールだけは綺麗にスルーされとる……! これはもう、撃沈してもしゃーない!!)
陸はただただ、哀れみとリスペクトの目を、天馬の去った廊下へと送るのだった。
◇
学校が終わると、すずはいつものように鳴尾・武庫川女子大前駅から阪神電車に乗り、兵庫医大のある武庫川駅へと向かった。
駅に降り立つと、川の上を渡る風が今日も強かった。
ホームの端から見える広い水面は、初夏の夕日を受けて白くちらちらと光っている。
すずはホームでスマホを取り出し、天馬にLINEを送った。
suzu:武庫川、着きました。
suzu:今日は少しだけ寄って帰ります。
送信して一秒。光の速さで既読がついた。
tenma:迎え行く。
tenma:終わったらLINE。
その、相変わらずの短文のぶっきらぼうさに、すずは「ふふっ」と少しだけ笑った。
「うん」
小さく呟いてスマホをポケットにしまい、改札を出て病院へ向かう。
病院の廊下は、いつものように白くて、どこか静かだった。
ツンとする消毒液の匂い。
リネンカートの車輪が床を滑るガラガラという音。
ナースステーションの中から聞こえる、看護師さんたちの忙しそうな声。
最近は少しだけ、この空間に慣れてきた。
けれど、慣れたからといって、胸の重みが軽くなるわけではない。
母の病室の前で、すずは一度立ち止まった。
スカートの裾を正し、深呼吸をする。
よし、と笑顔を作った。
「ママー、来たよー」
そう言って静かにカーテンを開けた瞬間、すずはピタッと足を止めた。
病室には、ベッドの上の母以外に、もう一人、全く知らない男性がいた。
とても背の高い人だった。
年齢は、母より少し上だろうか。
非の打ち所がないほどきれいに整えられた髪。
仕立ての良さが一目でわかる、薄いグレーのスーツ。
アイロンがぴしりと当たった白いシャツに、落ち着いた上品な色のネクタイ。
決して派手ではないのに、その人がいるだけで、無機質な病室の空気がそこだけホテルのラウンジのように違って見える。
すずの鼻腔を、ふわりと、上質な香水の香りがかすめた。
「あ、すず」
母がベッドの上で、いつもよりずっと明るい声をあげた。
「ちょうどよかったわ。この人ね、ママの会社の上司の方」
男性は、すずの姿を認めると、すぐに椅子から立ち上がった。
「はじめまして」
低く、けれど優しく耳に届く、よく通る声だった。
すずは圧倒されながら、慌ててペコペコと頭を下げた。
「は、はじめまして……っ」
「突然お邪魔してしまってすみません。お母様と同じ部署におります、中村楓と申します」
男性――中村は、スーツの内ポケットから流れるような動作で名刺入れを取り出した。
その一連の動きが、驚くほど静かで、洗練されていて綺麗だった。
差し出された名刺は、白く、独特の厚みがあり、角がぴしりとしていた。
日本生命保険相互会社 大阪本店
第5法人営業部 総合法人部長
中村 楓
すずは指先を震わせながら、両手でそれを受け取った。
「す、鈴木すずです」
「すずさん。お母様から、よくお話は伺っていますよ」
「えっ」
すずが驚いて母を見ると、母は少しだけ子供のように照れたように笑った。
「もう、中村さん、私の話なんて覚えすぎなんですよ」
「恵美さんのお話はいつも面白いですから」
中村は、柔らかく目元を緩めて微笑んだ。
それから、もう一度すずに真っ直ぐ向き直る。
「お母様には、会社でも本当に助けていただいているんです。担当先の方からの信頼ももの凄く厚くてね。今回の入院を聞いて、皆さんとても心配されていました」
「担当先の方……ですか?」
「ええ。お母様が担当されている大阪の大手飲料メーカーの役員の方からも、ぜひにとお見舞いの品が届いています」
中村が病室の棚の方をそっと指し示す。
そこには、格式の高そうな包装紙に包まれた見事なギフトが置かれていた。
すずが今朝見た時には、絶対になかったものだ。
「え……ママ、すごい……」
「すごないよ。仕事やから普通や」
母はぶっきらぼうに笑った。
けれど、その笑顔はどこか誇らしそうで、すずの知らない「大人の働く女性」の顔をしていた。
中村は手帳を一度見つめ、事務的になりすぎない優しいトーンで続けた。
「会社からも、まずお見舞金が出ます。部署の皆で集めたものと、会社の福利厚生の制度から出るものを合わせて、二十万円ほどになります」
「に、二十万円……!?」
すずは思わず、すっ頓狂な声を上げてしまった。
その金額は、今のすずにとって、目眩がするほど大きかった。
スタバの700円のフラペチーノを「高いなぁ」と諦め、少しでも節約するために毎日水筒を持つかどうかを真剣に悩んでいる。
大学の学費をネットで調べては、画面に並ぶ数字の桁数にため息をついていた。
そのすずにとって、二十万円という大金は、現実味がないほど巨額だった。
「もちろん、それで全ての費用が足りるわけではありません。ですが、会社としても、全力で恵美さんの生活を支えたいと考えています」
中村は、ベッドの上の母を安心させるように見つめた。
「団体保険の手続きもこちらですべて進めています。今日はその確認もあって伺いました。今回は癌での入院ですので、診断給付金なども合わせて100万円前後はすぐに下りるよう手配します。必要な書類は私がすべて確認しますので、恵美さんは何も心配せず、治療にだけ集中してください」
「ほんま、すみません……。何から何まで、ありがとうございます」
「謝らないでください。これは、これまで恵美さんが会社に積み上げてきてくれた財産なんですから」
その言葉を聞いた瞬間、すずは小さく息を止めた。
これまで、母はずっと働いていた。
毎朝、早くに起きて化粧をして、営業用のヒールを履いて、どれだけ疲れていても会社へ向かっていた。
すずはそれを、子供の目線でただ「仕事に行っている」としか見ていなかった。
でも、母はあの社会の中で、誰かにもの凄く必要とされていたのだ。
大企業の取引先に信頼され、こんなに素晴らしい上司に評価され、同じ部署の人たちに心から心配されている。
母は、ただ一人で孤独に頑張っていたわけではなかった。
「それから、これは部署の皆から、すずさんへ」
「えっ! 私にですか?」
中村が差し出してきたのは、小さな紙袋だった。
明るい水色の、上品で気品のあるブランドの袋。
すずは目を丸くしながら、恐る恐るそれを受け取る。
「開けても……いいですか?」
「もちろんです」
そっと中を覗くと、淡いピンク色の上質なハンカチが入っていた。
隅の方には、小さな可愛い子熊の刺繍がついている。
触らなくてもわかるほど柔らかくて、上品で、とびきり可愛い。
「あ……ファミリア……」
すずは思わず、その有名な神戸のブランドの名前を呟いた。
「神戸らしいものがいいだろうと、女性社員たちが皆で選びました。お母様のお見舞いに来る時や、学校で使っていただけたら」
「ありがとうございます……!」
すずは、そのハンカチを両手でそっと胸に抱きしめた。
胸の奥が、じんわりと熱くなっていく。
――あの日の夜、父は、母の病気をただの「お金の数字」として処理しようとした。
保険金がいくら、家賃がいくら、ローンがどう。
母の命の重みも、残されたすずの不安な気持ちも、どこか遠くに置き去りにしたまま、冷たい話をした。
でも、同じお金の話でも、目の前の中村の言葉は全く違っていた。
母の命を支えるためのお金。
母が今まで懸命に働いてきたからこそ受け取れる、正当な権利。
誰かの大切な暮らしを守るための、温かい仕組み。
同じ「お金」という言葉なのに、使う人間によって、こんなにも体温が違う。
すずは人生で初めて、「本物のちゃんとした大人」を見た気がした。
年齢の高さではない。高級なスーツでもない。
誰かが不安で押しつぶされそうになっている時に、必要なことを、必要な順番で、一歩先を照らすように丁寧に話せる人。
それが、大人なのだ。
「すず」
ベッドから、母が声をかけた。
「よかったな」
「うん……!」
すずは強く頷いた。
「私、このハンカチ、一生大事に使う。絶対に汚さない」
「アホやねぇ、汚したら洗えばええねん」
母がケラケラと笑う。
「でも、最初はもったいなくて使えへんかも……」
すずが真剣に悩んでいると、中村がフフッと優しく笑った。
「それなら、最初の一回だけ、特別な日に使い始めてはいかがですか?」
「特別な日……ですか?」
「ええ。お母様が笑顔で退院される日はどうかな」
すずはパチパチと目を瞬かせた。
退院する日。
それは、まだ少し遠いようで――でも、中村にそう言われると、確かにそこにある約束された未来なのだと思えて、目の前がぱっと明るくなった。
「はい!」
すずはハンカチをもう一度ぎゅっと抱きしめた。
「その日に、絶対使います!」
やがて面会終了の時間が近づき、中村は母にもう一度丁寧に挨拶をした。
「では、恵美さん。書類の手続きはこちらで完璧に進めておきます。何か少しでも不安なことがあれば、夜中でも構いませんから、遠慮なく連絡してくださいね」
「ありがとうございます。本当に心強いです」
中村は荷物をまとめると、最後にすずの方を振り返った。
「あ、それから、すずさん」
「は、はい!」
「今日、恵美さんにもお伝えしたのですが、今回の傷病による休職期間中も、会社から毎月きっちりとお給料(傷病手当金など)が出ます。ですから、生活のことは何も心配しないでくださいね」
「え、ええ!? は、働いてないのに、お給料が出るんですか!?」
「はい。それが会社の『福利厚生』という仕組みです」
中村は、すずの驚く顔に温かい眼差しを向けた。
「福利厚生や、保険のこと、もし分からないことや不安なことがあれば、いつでも(叔母の)紗英さんを通じて聞いてください。会社としてできることは限られますが、私たちは全力でお二人を支えますから」
すずは、もらった名刺を両手でぎゅっと握りしめた。
「ありがとうございます……っ」
中村は穏やかに一礼すると、足音も静かに病室を出て行った。
その後、すずは母のベッドの横の椅子に座り、少しだけ二人で話した。
「ママ、会社でめちゃくちゃちゃんとしてるんやね……」
「何よその言い方。ママを何やと思ってたん」
「いや、なんか……すごいなって。お母さん、カッコいい」
「普通やで。みんな普通にこうやって働いてんねん」
「でも、中村さん、ママのことすごく大事にしてはる」
母は少し照れくさそうに、視線を窓の外へとそらした。
「……ええ上司やねん。若い時はちょっと怖かったけどな」
「怖いん?」
「仕事ができる人やからね。ミスしたら、怒鳴るんじゃなくて、静かーに理詰めで詰められるの」
「静かに……」
「うん。大声で怒られるより、よっぽど胃が痛くなるで」
母が笑い、すずもつられて笑った。
けれど、今すずの胸の奥に残っている温もりは、父が来た日とは比べものにならないほど、確かで力強いものだった。
すずはもう一度、手の中の名刺を見つめた。
ふと裏面を見ると、そこにはいくつかの資格名が整然と並んでいた。
・証券アナリスト
・中小企業診断士
すずの人生では、一度も聞いたことのない難しい言葉だった。
それに気づいた母が、ベッドから声をかける。
「ふふ、ママもね、同じ資格持ってるのよ」
「ええっ! ママもこれ持ってるの!?」
「当たり前やないの。血の滲むような勉強したんやから。それくらい持ってないとね、大企業の社長さんたちと対等に渡り合えへんからね」
「な、なんかよく分からんけど……ママ、すごすぎる……」
「すずもね、いつか社会人になる前に、何か一つでも国家資格とか取ったらええと思うねん。今から少しずつでも考えておくと、世界が広がるよ」
「う、うん……!」
すずは深く頷いた。
まだ何が何だか分からないけれど、社会という場所には、こんなに凄い仕組みと、凄い大人たちがいるのだと、初めて知った。
◇
病院を出ると、もうすっかり日が暮れかけていた。
あの日の夜、父と会った帰りは、足元が真っ暗で、一歩も前に進めないような絶望の中にいた。
けれど今日は、少しだけ、道の先に明るい光が見えた気がした。
すずはハンカチの入った紙袋をそっと鞄にしまい、病院のロータリーへと歩いていく。
その時だった。
すっと、一台の大きな黒い車が、すずの横に滑り込んできた。
静かすぎるくらい静かなエンジン音。
鏡のように夕日を反射する、光沢のある美しい黒い車体。
素人のすずが見ても「絶対に、もの凄く高そう」だと分かる、圧倒的な高級車だった。
ウィィィン、と運転席の遮光ガラスが、音もなく滑らかに下がる。
「すずさん」
中にいたのは、中村楓だった。
ジャケットを脱ぎ、白いシャツの袖を少し捲り上げてハンドルを握っている。
「あ、中村さん!」
「帰りですか? よかったら、ご自宅までお送りしますよ。今にも雨が降り出しそうな空模様ですし」
「えっ」
すずは驚いて、反射的に一歩後ろに下がった。
「い、いえ! そんな,滅相もないです!大丈夫です、私、歩けますから!」
「はは、遠慮なさらなくても大丈夫ですよ。実は私も西宮に自宅があるんです。方向も同じですし、ついでですから。さあ、どうぞ」
中村が助手席のドアのロックをパチリと解除する。
あまりにスマートな大人の親切に、すずがどう断ればいいか分からず困り果てていた、その時だった。
「……誰や、そのおっさん」
背後から、地の底を把うような低い重低音が響いた。
すずはビクゥッ!!!と肩を大きく跳ねさせて振り返った。
そこに立っていたのは、自転車のハンドルを握りしめた天馬だった。
ヨレた白いTシャツに、デニム。
首には部活帰りのような水色のスポーツタオルを巻き、額にはうっすらと汗をかいている。
どう見ても、武庫川沿いの凸凹道を、自転車で必死に激チャリして爆走してきた格好だった。
「て、天馬くん!?」
天馬は中村を親の仇か何かのようにジロリと睨みつけ、中村は車の窓の向こうから、そんな天馬の姿を静かに見つめた。
術てを一瞬で察したように、中村はフッと大人の余裕に満ちた笑みを浮かべた。
「あぁ、なるほど。お迎えがいたんですね」
「え、あ、はい! えっと、あの、これは……」
すずは顔を真っ赤にして慌てふためく。
「こ、こちら、ママの会社の上司の中村さんです……!」
天馬は中村を見た。
中村も、天馬を見た。
高級車のコックピットと、自転車の上。
数秒間、完全に空気が凍りつく。
やがて、中村が柔らかく言った。
「はじめまして。中村です。すずさんのお母様と同じ部署で働いています」
「……西倉です」
天馬は、刺すような視線のまま、短く地を這う声で答えた。
中村は天馬の自転車にちらりと目をやり、それからすずを見て、イタズラっぽく微笑んだ。
「では、今日は『彼氏さん』の特等席にお譲りした方がよさそうですね」
「か、彼氏!?」
すずの声が盛大に裏返った。
天馬の身体も、一瞬だけガタッと硬直する。
脳内で(彼氏……!? 今、このおっさん俺のこと彼氏言うたか……!?)と、激しい動揺と謎の歓喜のガッツポーズが激突していた。
「ち、違っ……あの、違います! 同じクラスの、ただの友達で……!」
すずが顔を湯気が出るほど真っ赤にして否定すると、中村は少しも慌てず、大人の余裕で穏やかに頭を下げた。
「これは失礼しました。ですが、とても心強いお友達ですね」
すずは恥ずかしさのあまり耳まで真っ赤になり、もう何も言えなくなった。
中村は車のギアをドライブに入れると、天馬に向き直る。
「西倉さん」
「……はい」
「すずさんを、よろしくお願いしますね」
天馬は少しだけ眉をピクリと動かした。
それから、男としてのプライドを振り絞るように、低い声で言った。
「……はい」
ウィィィン、と窓が静かに上がる。
黒い高級車は、高級な絨毯の上を滑るかのように、音もなく滑らかに走り去っていった。
すずはしばらくその場に呆然と立ち尽くしていた。心臓がバクバクといっている。
彼氏。
その響きが、頭の中で何度も何度もリフレインしていた。
「……ママの上司だよ」
ようやく、すずは蚊の鳴くような声で言った。
「見たらわかる」
天馬は低く答えた。
「なら、なんで最初『おっさん』って……」
「おっさんやろ」
「失礼やよ! すっごい偉い人なんやから!」
「すんません」
全然悪いと思っていなさそうな、どこか不機嫌な声だった。
すずは、まだ頬を赤く染めたまま、天馬の顔を覗き込んだ。
「天馬くん、いつからいたの?」
「さっき」
「また、わざわざチャリで迎えに来てくれたん?」
「……うん」
天馬は自転車のゴム製のハンドルを、ギュッと強く握り直した。
「帰ろ」
「うん」
二人は、夕暮れの武庫川沿いに向かって歩き出した。
天馬はそれ以上、何も言わなかった。
けれど、すずにはハッキリと分かった。
天馬が、少しだけ――いや、かなり機嫌が悪いことに。
「天馬くん」
「何」
「あの中村さんね、ママのこと、会社ですごく大事にしてくれてた。会社の人たちもお見舞金くれてね、部署のみんなから、このファミリアのハンカチももらったの」
「……よかったな」
「うん!」
すずは嬉しそうに笑った。
「ちゃんとした大人って、本当にいるんやね」
天馬は、横目でちらりとすずの横顔を見た。
「……さっきの人みたいなやつが?」
「うん。なんかね、言葉がすごくちゃんとしてたの。お金の話をしてるのに、全然嫌な気持ちにならなくて、むしろホッとしたっていうか……」
天馬は、真っ直ぐ前を向いた。
「そっか」
声は低かった。けれど、いつもより少し硬く、どこか沈んでいる。
すずは首を傾げた。
「……怒ってる?」
「怒ってへん」
「本当に?」
「うん」
「でも、いつもより声が低いよ?」
「いつも低い」
「それはそうやけど」
すずが真面目に納得すると、天馬の口元が少しだけ緩んだ。
それでも、天馬の胸の奥には、冷たくて鋭い小さな棘が、深く突き刺さったままだった。
黒くて静かな高級車。
仕立ての良いグレーのスーツ。
見たこともない難しい資格の並んだ、美しい名刺。
洗練された言葉で、すずの母親のピンチを、お金の面からも生活の面からも、完璧に支えてみせる大人の男。
天馬は、テレビのドラマの向こう側にしかいないような「本物のエリートサラリーマン」を、初めて目の当たりにしたのだ。
それに比べて、自分はどうだ。
汗をかいて、自転車を必死に漕いで、ここに駆けつけることしかできない。
車もない。お金もない。スーツも名刺もない。
すずの母親の難しい手続きの手伝いも、保険の計算も、何一つ助けてあげることはできない。
ただ、ただ、夕方の武庫川沿いを、こうして一緒に歩くことしかできないのだ。
天馬は、ハンドルを握りする指が白くなるほど、手に力を込めた。
自分の圧倒的な無力さが、惨めさが、胸の奥で渦巻いていた。
「天馬くん?」
「何」
「……今日も、来てくれてありがとう」
すずが、ぽつりと呟いた。
天馬は一瞬だけ足を止めそうになり、黙ったまま前を向いた。
「……ん」
「中村さんに『車で送るよ』って言われた時ね、実はちょっと緊張して、怖かったから」
「なんで。優しそうやったやん」
「車がすっごく高そうやったし……あと、なんか、あまりにも“完璧な大人”すぎて、私みたいな子供が乗ったらあかん気がして。……だから」
すずは少しはにかむようにして、天馬の顔を見た。
「天馬くんが来てくれて、チャリの音が聞こえた時、なんかすごく……ホッとした」
ドクン、と天馬の心臓が大きく跳ねた。
歩く足が、今度こそ一瞬だけ完全に止まった。
けれど、すぐに何事もなかったかのように、少し早足で歩き出す。
「……そっか」
「うん。あ、見てみて、この名刺。もらったの」
すずは、鞄から大切そうに中村の名刺を取り出して天馬に見せた。
天馬は片手で自転車のバランスを取りながら、空いた手でその名刺を受け取った。
まるで、親の仇の指名手配書でも見るかのような、凄まじい眼光でその紙片を凝視する。
肌触りの良い、高級な紙質。光の加減で浮かび上がる光沢のある文字。
『日本生命保険相互会社』という文字の横には、テレビで何度も見たことのある、超大企業のロゴマークが印刷されていた。
「これ……CMで、よー流れとるやつやな」
「そう! そうなの! ママね、そこの社員さんやねん!」
すずは、まるで自分のことのように誇らしげに胸を張った。
「なんだかよく分からないんやけど、『フクリコウセイ』っていうのがあって、入院してても『ショウビョウテアテ』っていうのがあって、お仕事お休みしてても、ちゃんとお給料が出るんだって!」
フクリコウセイ。
ショウビョウテアテ。
名刺の裏に並ぶ、証券アナリスト、中小企業診断士。
どれもこれも、17歳の天馬の頭では、意味すら正しく掴めない言葉たちだった。
もし自分たちが病気になったら、その分仕事を休まなければならない。
仕事を休んだら、その分お金は入ってこないし、治療費だって払えない。
社会には、そんな個人のピンチを、国や会社が組織としてフォローしてくれる高度な制度がある。
そんな仕組みが存在することに、天馬も、すずも、ただただ圧倒されるしかなかった。
「そこの『部長さん』だから、すっごく緊張して固まってたんやけど……。天馬くんの顔が見えた時、いつもの天馬くんだーって思って、本当に安心した」
天馬は名刺をすずに返し、前を向いた。
「そっか」
「うん」
すずは武庫川の向こうへと視線をやった。
夕方の川は、今日も風が強くて、水面が細かく揺れてきらきらと輝いている。
遠くの河川敷からは、誰かが練習しているトランペットの音が、風に乗って微かに聞こえていた。
天馬は自転車のハンドルを押しながら、すずの少しだけ前を歩いた。
高級車はない。
スーツもない。
名刺もない。
けれど、すずは「天馬くんがいてホッとした」と言ってくれた。
その、たった一言だけで、天馬の胸の奥に冷たく沈んでいた劣等感が、嘘のように綺麗に消え去り、驚くほど軽くなっていた。
武庫川の橋の手前で、天馬は小さく、温かい息を吐いた。
いつか。
いつか、自分も、あんな「ちゃんとした大人」になりたい。
いや――絶対に、ならなくてはならない。
いつまでも子供のまま、自転車を漕いでいるだけじゃダメだ。
いつか、すずの隣に、胸を張って並べるだけの、本当にすずを守れる男にならなくてはならない。
将来、高級車ですずを迎えに行けるかどうかは、まだ分からない。
あの大人みたいに、高いスーツをスマートに着こなせるようになるかも、今の自分には想像がつかない。
配置、すずが本当に困った時に、ただ自転車で駆けつけて「大丈夫か」と声をかけるだけでなく。
もっとちゃんとした知識を持って、力を持って、すずの人生をまるごと支えられるような、そんな強くて頼れる男になりたい。
その進むべき未来の輪郭が、武庫川の夕日の中で、少しだけ鮮明に見えた気がした。
「天馬くん」
「何」
「さっき、あの中村さんに『彼氏さん』って言われた時、びっくりしたね」
すずは、まだ少し耳を赤くしたまま、悪戯っぽく笑った。
天馬は、視線を真っ直ぐ前に向けたまま、いつも通りの低い声でぶっきらぼうに返した。
「……俺は別に、びっくりしてへん」
「嘘やよ。あの時、完全に固まってたもん」
「固まってへん。別に」
「ふふ、頑固やなぁ」
すずが楽しそうに笑う。
天馬も、すずに見えないように、ほんの少しだけ口元を緩めた。
武庫川の強い風が、歩く二人の間を、心地よく吹き抜けていく。
その日、すずはまだ気づいていなかった。
黒い高級車と、一台の自転車。
洗練された灰色のスーツと、少し汗ばんだ白いTシャツ。
美しい大人の名刺と、ぶっきらぼうで低い声の「帰ろ」。
そのどちらもが、今の自分の不器用な日々を、とても温かく支えてくれている大切な存在だということを。
そして。
いつもは脱力系で、何を考えているか分からない天馬が、その日から少しずつ、自分の未来と進路を、前よりもずっと真剣に、熱い覚悟を持って考え始めたということも。
世の中にある、いろんな大人。
いろんな仕事。
大切な人を守るための、いろんな制度や、働き方。
自分がこの先、何になりたいかを選び、そのための準備ができる、若さの特権。
それが「今」という時間だ。
天馬の胸の奥で、静かな、けれど決して止まらない「今、頑張らなあかん」という未来への鐘が、力強く鳴り響いていた。
リアクションや、☆☆☆☆☆を★★★★★に変えていただけると、執筆の励みになります^^
感想、ご指摘、ブクマも大歓迎です!
毎日更新予定です。完結約束、ハッピーエンドです(^ ^)
よろしくお願いします!




