心に小さな炎を宿して。
家に帰ってからも、天馬の頭の中には、中村楓の名刺が強烈な残像として焼き付いていた。
もう手元にはない。
名刺はすずに返した。あの白くて独特の重みがある厚い紙も、光の加減で浮かび上がる光沢のある文字も、自分のこの殺風景な部屋にはない。
それなのに、目を閉じるとありありと浮かぶ。
日本生命保険相互会社
大阪本店 法人営業部
総合法人部長 中村楓
隙一つなく仕立てられた、薄いグレーのスーツ。
一糸乱れず整えられた髪。
まるで高級ホテルのラウンジをそのまま切り取ったような、車の窓が音もなく下がる時の静けさ。
低くて、落ち着いていて、それでいてよく通る声。
高校生のすずにまで、ごく自然に敬語を使うあの絶対的な大人の余裕。
――匂いが違う。
天馬は、薄暗い部屋の真ん中で立ち尽くしたまま、ぼんやりと思った。
香水の匂いだけではない。クリーニングの行き届いた服の匂い。磨き上げられた車の匂い。上質な紙の匂い。大きな会社という強固な地盤に属し、社会の第一線で活躍している男だけが纏うことのできる、圧倒的な「力」の匂いだった。
あの男には、今の自分がどう足掻いても敵わない、誰にも負けない男としての魅力があった。
大人だった。
誰かを守る力を持った、ちゃんとした大人だった。
テーブルの上には、帰りがけにコンビニで買ったツナマヨのおにぎりが一つ、ぽつんと置いてある。蛍光灯の冷たい光に照らされた安っぽいビニールのパッケージを見ても全く食べる気にならず、そのままになっていた。
天馬は、乱暴にベッドに腰掛けるとスマホを開いた。
検索窓に、さっき見た会社名を入れる。
『日本生命保険相互会社』
検索結果を見ても、最初はよくわからなかった。画面に並ぶのは、自分とは無縁の世界の羅列だ。
大企業。
保険会社。
福利厚生。
給与。
安定。
ホワイト企業。
「……ホワイト企業」
小さく呟く。白い企業とは何だ。天馬は無意識に眉間に皺を寄せた。
次に、さっき見た役職名を打ち込んだ。
『総合法人部長』
画面に出てきた数字を見て、天馬は大きく目を見開いた。呼吸が、一瞬止まる。
月収、100万円前後。ボーナス年間400万円前後。
天馬の月収など、バイトを掛け持ちして死に物狂いで働いても、毎月十五万円あるかないかだ。
その何倍もの額を、あの男はたった一ヶ月で稼ぎ出すのだ。
「……は?」
思わず、かすれた声が出た。
目を擦り、何度見直しても、画面の数字は変わらない。
自分が一ヶ月働いて、ようやく手にする金額。
親が残してくれたこの部屋があり、家賃がかからないから何とかギリギリ生活できている金額。
時には飯を抜き、削れるものを全て削って、少しだけ手元に残る金額。
その途方もない倍数の金が、あの男の「当たり前の一ヶ月」にある。
世界は、こんなにも違うのか。
このまま適当に生きて進んでいって、あの男と同じ額を稼げるようになるには、何をどうすればいいのか、まるで見当もつかなかった。スタートラインすら、同じ地面にはない気がした。
天馬はもう一度、震えそうになる指で検索した。
『日本生命保険 就職』
【大学卒】
その四文字が、分厚い壁のように何度も何度も画面に現れる。
天馬は、頭を振った。
そもそも、生命保険会社に就職したいわけでも、興味があるわけでもない。中村楓という人間にそっくりそのままなりたいわけではない。
でも。
あの名刺を、誰の目にも恥じることなく差し出せる人生。
あの黒い高級車の窓を開けて、不安で潰れそうな誰かを心底安心させられる人生。
すずの母親の命と生活を実務的にも金銭的にも支え、すずにまで丁寧な言葉を使える、あんなにも頼もしい人生。
そういうものが、世の中には確かに存在している。
天馬は、苛立ちと無力感に耐えきれず、スマホをシーツの上に放り投げた。
けれど、数秒後にはまた拾い上げていた。
取り憑かれたように検索をする。
男 働く 給与 安定。
高校生 進路 わからない。
大学 行きたい お金がない。
奨学金 親なし。
検索すればするほど、今まで生きてきて一度も触れたことのない、知らない言葉が次々と波のように押し寄せてきた。
共通テスト。推薦入試。
給付型奨学金。貸与型奨学金。
社会保険。厚生年金。福利厚生。
知らない言葉が、あまりにも多すぎる。自分は、世の中の仕組みを何一つ知らずに生きてきたのだ。
天馬はスマホを裏返して伏せた。
「……詰み、かよ」
乾いた声が、静寂の部屋の中にポトリと落ちた。
このマンションはある。
母が残してくれた、唯一の形あるものだ。だから、家賃だけはかからない。
けれど、生きていれば電気代はいる。水道代も、食費も、スマホ代もいる。
もし進学するとなれば、学費がいる。その前に、受験費用だって馬鹿にならない。大学なんて、今とは桁違いの金がいる。
自分の生活費を、学費を、無条件で払ってくれる大人は、もうどこにもいない。
天馬は、連絡先から父の番号を選び、電話をかけた。
繋がらない。
無機質な英語のアナウンスだけが、部屋の中に虚しく響き渡った。
通話を切り、父のインスタを開く。
見渡す限りの真っ白な雪山と、吸い込まれそうな満天の星空の壮大な写真が、今さっきアップされたばかりだった。
「今、てっぺんかよ……」
父のことは嫌いではない。
遠い海外の山の方で、今も誰かの重い荷物を背負ったり、道案内をしたりして、自由に生きている。電話をすれば、いつでも豪快に笑ってくれる。
たぶん、天馬のことを愛していないわけではないのだ。
でも、父は以前、こんなことを言った。
『高校なんか、無理して出なくてもいい。自分の力で生きていければ、それでいい』
その言葉を聞いた時、天馬は特に怒りもしなかった。父は根っからのサバイバーで、そういう自由な価値観の人なのだと、ただ自然に受け入れていた。
けれど、今日ほどその言葉が重たく、そして冷たく見えた日はなかった。
あれは、不器用な自分を守ってくれる言葉ではなかったのだと、今ならわかる。自分の人生の可能性を広げてくれる言葉では、決してなかったのだ。
自分のことは、全て自分でしなくてはならない。
そんなことは、とうの昔にわかっていたつもりだった。けれど、その事実の本当の重さに、今日初めて気がついた。
天馬は仰向けにベッドに倒れ込んだ。
染みの浮いた見慣れた天井を見る。
そこに、不意にすずの顔が浮かんだ。
中村の名刺を両手で持ち、自分のことのように誇らしげに見せていたすず。母親の会社の話を、本当に嬉しそうに、安心しきった顔で話していたすず。
そして、夕暮れの川沿いで、はにかむように天馬を見上げて最後に言った言葉。
――天馬くんがいて、ちょっとほっとした。
天馬は、片腕で両目をきつく覆った。
あの中村に向けた劣等感の底で、胸の奥に、まだ小さく、けれど決して消えない熱い火が残っている。
「……いや」
天馬は、覆っていた腕をどけ、ゆっくりと起き上がった。
まだだ。
詰みかどうかを自分で決めて投げるのは、まだ早すぎる。
月曜日。
学校に行く必要のない日だった。
それでも天馬は、スマホを強く握りしめ、しばらく画面を睨みつけて迷ったあと、覚悟を決めて学校の職員室に電話をかけた。
佐伯先生を呼び出してもらう。
数分後、保留音が途切れ、聞き慣れただみ声がした。
『はい、佐伯です』
「……西倉です」
『おお、西倉。どした。まさか補導か』
「違います」
『じゃあ恋愛相談か。聞くぞ』
「違います」
『ちゃうんかい。先生ちょっと期待したやろ』
「先生」
天馬は、肺の奥まで少しだけ深く息を吸い込んだ。
「進学面談、お願いします」
電話の向こうが、一瞬だけピタリと静かになった。
『大学、か?』
「……たぶん」
『たぶんでええ』
ふざけていた佐伯の声が、大人の、教師の真面目なトーンに変わった。
『水曜、枠取るわ。授業のあとは、バイトか?』
天馬は頭の中でシフトを一瞬だけ計算した。
「行けます」
『ちなみに、進学のことで何がお悩みや』
「なんか、自分で検索してみたんですけど」
『うん』
「詰んでしまって」
『アホ、検索だけで詰むなよ。ネットは便利やけど、見えへん壁ばっかり見せて気持ち折るのも早いからな』
「もう折れかけたんで、電話しました」
『早いな! まだこれからやぞ、お前の人生は!』
電話越しに、佐伯の勢いのあるツッコミが飛んでくる。
その飾らない声に、天馬の強張っていた肩の力が抜け、少しだけ笑みがこぼれた。
『よし。ほな西倉、水曜までに図書館か本屋行ってみい』
「図書館?」
『そうや。進路の本、職業の本、大学案内、奨学金の本。なんでもええから開いてみろ。今は何もわからんでええ。わからんことを見つけに行くんや』
「わからんことを」
『そうや。最初から正解探そうとするから詰むんや。まず、自分が世の中の何をどれだけ知らんのか、それを知れ』
天馬は黙って言葉を噛み締めた。
佐伯は、電話の向こうで少しだけ優しく笑った声で続けた。
『水曜、ちゃんと話そ。……伴走したる』
「……はい」
『西倉』
「はい」
『よう電話したな』
その、たった一言で。天馬は少しだけ喉の奥が熱く詰まった。
「……はい」
電話を切ったあと、天馬はしばらく黒いスマホの画面を見つめていた。
『よう電話したな』。ただそれだけの言葉なのに、強張っていた心に思っていたよりずっと深く効いた。
『伴走したる』。その言葉が、天馬の胸の奥で熱く、力強く響いていた。
母は天国だ。
父は外国の雪山にいて、息子の進路には興味がない。
だけど、自分には頼れる先生がいる。
その日の午後。
天馬は、自転車を走らせて市立図書館へ行った。
人生で初めてだった。
学校の調べ学習などで無理やり連れてこられたことはあっても、自分の意思で足を踏み入れるのは、間違いなく初めてだ。
自動ドアが開くと、ひんやりと冷たい空気と、古い紙と床ワックスの入り混じった独特の匂いがした。
あまりの静けさと本の多さに、天馬は入口で少しだけ固まった。どこに行けばいいのか、全くわからない。
キョロキョロしていると、カウンターにいる司書らしい女性と目が合った。
「何かお探しですか?」
優しく声をかけられ、天馬は一瞬迷ったが、意を決して口を開いた。
「……進路の本」
「高校生向けですか?」
「はい」
「こちらです。ご案内しますね」
女性は慣れた様子で歩き出し、奥の書架へと案内してくれた。
そこには、天馬の想像を絶するほど多様な本がずらりと並んでいた。
大学受験案内。
奨学金完全ガイド。
高校生のための職業図鑑。
『やりたいことがわからない高校生のための、最高の職業と進路が見つかるガイドブック』
天馬は、その一番長いタイトルの本を手に取った。
「……タイトル長」
思わず口に出して呟く。けれど、今の空っぽの自分には、痛いほどちょうどよかった。
やりたいことがわからない。今の自分は、まさにそれだった。
天馬は近くの閲覧席に深く座り、手当たり次第に片っ端から本を開いた。
ページをめくるたび、そこには自分の知らない広大な世界が広がっていた。
安定した仕事。
国家資格が必要な仕事。
大学で専門的に学ぶ仕事。
専門学校で技術を磨く仕事。
働きながら目指せる仕事。
世の中には、こんなにも数え切れないほどのたくさんの道があるのかと、天馬は圧倒されながら初めて知った。
これまで、自分の足元にある道はもっと狭くて、短いものだと思い込んでいた。
高校を出たら、このままアルバイトのシフトを増やす。あるいは、陸や親方のところで本格的に土建の仕事に入れてもらう。体を動かして、汗水流して生活費を稼ぐ。それで何とか生きていく。
それが嫌だったわけではない。
陸の真面目に働く背中はかっこいいと思うし、豪快な親方のことも嫌いではない。額に汗をかいて泥臭く働くことを、天馬は少しも恥ずかしいとは思わない。
けれど、「それしかない」のだと、勝手に諦めていた。
自分に何かを「選べる」権利があるなんて、思ってもみなかったのだ。
ページをめくっていると、不意に『教員』のページに目が止まった。
佐伯先生や木村先生の顔が、ふっと脳裏に浮かぶ。
『先生になるには』
得意な科目を活かす。
悩んでいる誰かを導いたり、成長を助けたりする仕事。
そんなことが書いてある。
さらにページを進める。
近年増えている外国籍の子どもへのフォロー。
登録日本語教員の創設。
教育学部の選び方。
語学を活かす仕事。
日本語教師になるには。
天馬は、本のページをめくる手を止めた。
教師になるには。
教員免許。大学。教育実習。採用試験。
日本語教師になるには。
日本語教育能力検定試験。大学での単位。登録日本語教員。
活字の羅列が、なぜか妙に目に焼き付いて離れなかった。
教室でプリントの束を前に迷っていた、外国にルーツを持つ一年生。遅延証明書の意味がわからず、駅の改札で泣きそうに困っていたあの子。
自分がただサバイバルとして、生きるために自然と使ってきた日本語と英語、そして翻訳アプリを混ぜて説明した時、その子は心底ほっとしたような、救われた顔をした。
自分が持っている「ただの経験」や「言葉」が、見知らぬ誰かのピンチを助け、安心させる力になることもあるのかもしれない。中村楓が、保険や制度の知識ですずの母親を救ったように。
「……なりたい」
静寂の図書室で声に出してから、天馬は自分で自分の放った言葉に驚いた。
何に、とはまだ明確に言えない。
学校の先生なのか。
日本語教師なのか。
社会科を教えるのか、英語を教えるのか。
それとも、外国ルーツの子どもを専門に支える仕事なのか。
まだ何もわからない。
でも、強く「なりたい」と思ったのだ。
何かに。
あの人のような、ちゃんとした大人に。
すずの隣に胸を張って立っても、決して恥ずかしくない強さを持った男に。
自分の人生を、自分の言葉で堂々と説明できる人間に。
天馬は、貸出カードを作り、借りられる上限ギリギリまで本を借りた。
帰り道の自転車のカゴは、鞄がやけに重かった。でも、そのずっしりとした重さは、少しも嫌ではなかった。
部屋に帰ると、天馬はテーブルの上に借りてきた本を丁寧に並べた。
その横に、スマホ。薄い財布。使い古したコードの絡まるイヤホン。
そして、小さなアクセサリー用の箱を置いた。
天馬は、自分の耳に触れた。
いくつも開いたピアスの穴。何となく、苛立ちや暇つぶしで増やしてきた冷たい金属たち。母が生きていた頃は、まだこんなに多くなかった。高校を一度辞め、行き場を失った頃から急激に増えた。
強そうに見えるから。
世間からなめられないように。
自分が自分の体を、自分の意志で選んで傷つけている気がしたから。
この冷たい感触は、嫌いではなかった。自分を守る鎧のようなものだった。
でも。
もう、この重たい鎧はいらない。
天馬は、耳からひとつずつ、ゆっくりとピアスを外していった。
銀色の金属が、箱の中で小さな音を立てて落ちていく。
カチャン。
カチャン。
カチャン。
全部外すと、耳たぶが驚くほど軽く、風通しが良くなった。
洗面所へ行き、鏡を見る。
そこには、見慣れない、随分とすっきりとした顔が映っていた。
「……誰やねん」
思わずツッコミを入れる。でも、悪くはなかった。威嚇するようなトゲが抜け、年相応の素直な顔立ちが見えている。
次に、前髪を見る。
随分と放置して長くなっていた髪が、目元に重くかかっている。
天馬はしばらくその前髪を見つめた。
それから、洗面台の棚の中から、文房具の鋏を取り出した。
素人が自分で切るのは危ないし、失敗する。それはわかっていた。美容院に行く金もないわけではない。
でも、今すぐ、自分の手で何かを物理的に変えたかったのだ。
着ていたTシャツを脱ぎ捨て、上半身裸になると、ジーパン姿のまま鏡の前に真っ直ぐ立った。
元々後ろやサイドは美容院で短く刈り上げてもらっていたが、前髪だけはやけに長かった。
長い前髪を指でまっすぐにつまむ。
ためらいなく、少しだけ切る。
ぱさり、と黒い髪が洗面台の白い陶器に落ちた。
もう少し。
ジョキ、ジョキ。
もう少し。
勢いに任せて切っていくうちに、ふと手が止まる。切りすぎたかもしれない。
「……まあ、ええか」
天馬は鋏を洗面台に置いた。
重かった髪が消え、隠れていた形のいいおでこがすっきりと露出していた。
天馬は鏡に顔を近づけ、「だっせ」と呟いた。
けれど、鏡の中の自分の口角は、確かに上がっていた。
洗面台の端にあったワックスを指に取り、手のひらで伸ばして少しだけ髪の形を整える。
無造作にハネる束感ができ、隠れていた顔のパーツがはっきりと現れた。
鏡の中の自分が、少しだけ驚いたような目でこちらを見る。
大きな茶色の瞳、形のいい鼻と額。顔は整っていると自負している。口角が上がる。
「悪くない」
天馬は、洗面所を出て、久しぶりにベランダの窓を開け放って外に出た。
ここからの眺めが大好きだと、よく母が言っていたことを思い出す。
目の前には、広い武庫川がゆったりと流れている。川面が、沈みゆく初夏の夕日を反射して、黄金色に美しくきらきらと輝いている。
<This river has been flowing since before humans were born.>
(人が生まれる前から、流れているのよ)
心地よい風が、短くなった前髪を揺らした。
母が幼い自分を抱っこして、話してくれたことを思い出す。
<天馬は大きくなったら、何になりたい?>
<ママは、大きくなったら、ママになりたかったの。>
<だから、ありがとう。天馬>
母の優しい声が、川のせせらぎと共に記憶の中から蘇る。
天馬は、冷たいバルコニーの手すりに体重を預けてもたれかかり、ただ静かに武庫川の大きな流れを眺めた。
前を向いて生きる。
誰かを守れる強さを手に入れる。
そのためのスタートラインに、今、ようやく立ったのだ。
夕日を映す天馬の薄い茶色の瞳が、
これまでにない確かな意志を持って、
キラキラと力強く輝き出していた。
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毎日更新予定です。完結約束、ハッピーエンドです(^ ^)
よろしくお願いします!




