心に、甘い栄養を。〜武庫川の風と一緒に帰る日〜
土曜日。
朝から、すずは落ち着かなかった。
母の見舞いに、父が来る。
その事実だけで、胸の奥に重たい石を入れられたようだった。
アルバイトがあることが、むしろ救いだった。
働いてる間は、何も考えなくてよかったから。
それでも仕事が終わって、
スマホを見れば、父からのLINEが目に入る。
――今日、昼過ぎに行くわ。
――病院の場所、ナビで行けそうや。
何度見ても、気持ちは重くなるばかりだった。
母は「会いなさい」と言った。
父とは家を出る寸前まで仲が良かった。
むしろ好きだった。
ばかな人だなとは思っていたけれど、
悪人ではないのだと思っていた。
今でもそうだ。
たぶん、本当に心配しているのだろう。
でも、気づいてしまったたくさんの事と、
離れていた距離と時間が、溝を作っていた。
でも。
会いたくない。
そう思ってしまう自分を、すずは責めきれなかった。
13時少し前。
すずは、父を病院の前で待っていた。
兵庫医大の大きな建物の前は、土曜日でも人の出入りが多かった。 タクシーが停まり、家族連れが降りる。 入院患者らしい人を支えながら歩く人もいる。 看護師さんらしき人が、足早に建物の中へ消えていく。
すずは、病院の入口から少し離れたところに立っていた。
しばらくして、古いオレンジ色の車がゆっくりと近づいてきた。
見覚えのある車だった。
父の車。
すずの心臓が、嫌な音を立てた。
車は病院の車寄せから少し離れた場所に停まった。
運転席から父が降りてくる。
久しぶりに見る父は、記憶の中より少し丸くなっていた。
髪も少し薄くなっている。
でも、歩き方や肩の揺らし方は昔のままだった。
父はすずに気づくと、ぱっと顔を明るくした。
「久しぶりやなぁ、すず!」
「うん」
すずはぎこちなく笑った。
その瞬間、鼻の奥に、煙草の匂いが刺さった。
嗅ぎ慣れていたはずの匂いだった。 奈良の家で、昔はずっと父の周りにあった匂い。
でも、久しぶりに嗅ぐと、吐き気がするほど嫌だった。
父は病院の敷地の端で、ポケットから煙草を取り出した。
「ちょっと一本だけ」
「ここ、だめやと思う」
すずは小さく言った。
「すぐや、すぐ」
父はそう言って、歩道の端で火をつけた。
だめだと言っているのに。
すずは、口を開きかけた。
やめてよ。
その一言が、喉の奥まで出かかった。
けれど、言えなかった。
父は煙草を吸い終わると、当然のように吸い殻を足元の側溝へ落とした。
すずの胸の奥が、ぎゅっと縮んだ。
やめてよ。
今度こそ言わなければと思った。
けれど、やっぱり言えなかった。
すずは、ただじっと耐えた。
病室に入った途端、父はまるで離婚する前のように振る舞った。
「おー、久しぶりやなぁ。えらい老けたな!」
母はベッドの上で上体を起こしていた。 父の言葉に、少しだけ眉を上げる。
「あんたもな」
「ほいでどうや? 調子は」
「うん。薬でだいぶ小さくなったから、もう少しで手術するわ」
「えらい手術まで時間かかるなぁ。ステージ四とか、そういうやつか?」
「まあ、そんなとこや」
母はいつものように笑っていた。 けれど、すずにはわかった。
口元だけが笑っている。 目が、笑っていない。
父は、そのことに気づいていない。
「ほんま癌家系やなぁ。義母さんも癌で亡くなってるしなぁ」
病室が一瞬で凍りついた。
すずは、凍りついた空気の中で、なおも話そうとする父の声を、もう耳を塞ぎたい思いで聞いていた。
耐えきれず、視線を下げる。
窓の外を見ると、武庫川の空が見えた。
昨日まで、あの川沿いを歩いて帰っていた。
眼鏡橋の上で、天馬と話していた。
怖いなら、怖いでええやろ。
そう言ってくれた声を思い出す。
でも、今ここには天馬はいない。
すずは、ただ病室の丸椅子に座って、父の言葉を聞いていた。
「生活は、逼迫どころか潤ったんちゃうか。お前はニッセイやし、保険いっぱい降りてきたやろ」
母の顔から、ほんの少し色が引いた。
「……すず、外で飲み物買ってきてくれる?」
「でも……」
「大丈夫。買っておいで。そこにお金が入ってるよ」
母はベッド脇の小さな財布を指差した。
すずは動けなかった。
今、出ていっていいのだろうか。 母を、父と二人にしていいのだろうか。
「すず、パパ、ドトールのコーヒーがええわ。さっき一号館で見た」
「あんた! こことは館が違うねんから! すず、自販機のコーヒーでいいからね」
母が少し強めに言った。
すずは、ぐっと口角を上げた。
「うん。買ってくる」
病室の外へ出る。
廊下に出た瞬間、足が少しふらついた。
早く戻らないと。
すずは少し早歩きでピロティへ出て、自販機の前に立った。
コーヒー一本。 ポカリスエットを二本。
それだけを買うと、すぐに病室へ戻った。
けれど、カーテンの向こうから聞こえた父の声に、すずの足が止まった。
「なぁ、あの家のローン。お前名義やったけど、どないなった。がん保険入ってたやろが。もうローンないんやったら、お前に家賃渡さんでもええんちゃうか思ってや」
すずは今度こそ、目の前が真っ暗になった。
三郷町で、すずが住んでいた家。
ピアノがあった家。 勉強机があった家。 母のお気に入りの食器棚があった家。 大きな姿見があった家。
あの家は、母の名義だったのだ。
今、その家には父と、父の新しい奥さんが住んでいる。
つまり父は、母に家賃を払っているのだ。
浮気相手と住むために。
「……ごめんやけど、私、ほんまに疲れてるねんやん。それに、すずがおるところでお金の話なんかやめてよ」
母の声だった。
低くて、弱くて、それでも何とか踏ん張っている声。
「いや、これは大事な話やで。もしお前になんかあったら、あの家は……」
すずは、ゆっくりと扉を開けた。
病室の中に入る。
飲み物を持ったまま、スタスタと奥のベッドへ向かった。
シャッとカーテンを開ける。
母の顔が飛び込んできた。
ぐっと口を結び、無理やり口角を上げている。
これは、耐えている顔だ。
それは、すずが、耐えている時にする口と、全く一緒だった。
すずは、きっと父を睨んだ。
「ママの病気の話を、お金の話みたいにしやんとってよ!!!!」
声が病室に響いた。
父が、目を丸くする。
「すず……」
「今日は帰ってください。パパ」
すずは睨んだ。
「帰ってください、パパ」
その声は、震えていた。
けれど、引っ込めなかった。
父はしばらく黙っていた。
それから、困ったように頭を掻いた。
「いや、そんなつもりちゃうんやけどな……」
「帰って」
すずはもう一度言った。
父は、気まずそうに立ち上がった。
母は何も言わなかった。
何か言おうとして、結局、唇を閉じた。
すずはそれでも、父を見送るために車の前まで行った。
父は車のドアに手をかけたまま、すずを見た。
「あ、すず。あの、ごめんな。パパ、そんなつもりはなかったんや」
すずは、笑顔で父を見上げた。
口をぎゅっと結んで、口角を上げる。
「うん、わかってる。気になるよね、お金のことは。私も、学費のこととか、どないしよって考えてるから、よくわかる。でもね、ママが退院するまでは、聞かないでおこうって決めてるの。だから、パパも、我慢してくれる?」
そこまで一気にまくし立てた。
父は少し驚いた顔をした。
「学費? 気になるってどういうことや。すず、高校はちゃんと行かなあかんぞ。学費のことは、パパからママに言うたろか!?」
すずは、数回ゆっくりと瞬きをした。
そして、笑顔で答えた。
「ううん、大丈夫やで。パパ」
声は、思っていたより落ち着いていた。
「気をつけて、帰ってね」
すずは踵を返した。
そのまま、兵庫医大へ戻っていく。
後ろで、父の車のドアが閉まる音がした。
エンジン音がして、遠ざかっていく。
それでも、すずは振り返らなかった。
こんな人だっただろうか。
こんなにも、無神経な人だっただろうか。
すずはショックで、悲しくて、エレベーターの前でしばらく動けずにいた。
父が、知らないおじさんのように見えた。
そして、はっきりと思った。
気持ちが悪い、と。
面会の時間は、一時間以内と決まっていた。
あと五分もない。
それでも、すずは動けなかった。
母の顔を見たら、涙が出てしまいそうだった。
結局、すずは十五分以上もその場にいた。
ようやく戻ってきたすずに、母、恵美はほっとした表情を見せた。
すずは丸椅子に座る。
ポカリスエットをベッド横のテーブルに置いた。
「パパって、空気読めないよね」
ぽつりと言った。
母は一瞬だけ目を丸くして、それから小さく吹き出した。
「今さら何言うてんの」
すずも、少しだけ笑った。
けれど、笑ったら涙が出そうになった。
「すず」
母は、ゆっくり言った。
「パパにも言うたけど、ママは保険に入ってるから、お金のことは心配しなくてええからね。全部、ママの上司にお願いしてあって、紗英姉ちゃん通して、うまいことしてくれるようになってるからね」
「うん。私、何も心配してないよ。ママは今は体治すことに集中してね」
すずは、そっと母の手に手を添えた。
入院して、さらに痩せたように思うその体を労わるように、手の甲を撫でる。
母がその手に、もう片方の手を重ねた。
「大きくなったなぁ。小さい時は、もみじみたいな手ぇやったのに」
「もみじ?」
「うん。ぷにぷにでなぁ。毎日、抱っこ抱っこって……」
母の目が、少しだけ遠くなる。
「はぁ。最後に抱っこしたん、いつやったやろ」
「ママ……」
「すず、おいで」
「……うんっ」
すずは椅子から立ち上がり、母の方へ身を寄せた。
母は、すずをぎゅっと抱きしめた。
点滴が邪魔をして、うまく動かせない腕をなんとか肩に回して。
すずは母の胸に顔を埋めた。
昔より少し骨ばっている。 けれど、匂いは母の匂いだった。
「大丈夫。ママ、大丈夫やからね」
「……っ」
「すず、ごめんなぁ」
「〜〜〜! ママ、あのね、ママ……」
そこからは声にならなかった。
ずっと我慢していたものが、一気に溢れた。
父に言えなかったこと。 父に言ったこと。 母を守れたのか、傷つけたのかわからないこと。 気持ち悪いと思ってしまったこと。 母が痩せていること。 母がまだ笑ってくれること。
全部が混ざって、涙になった。
しばらくして、看護師さんがやってきた。
けれど、泣いているすずを見ると、一瞬だけ足を止めた。
そして、何も言わずに、そっと部屋を出ていった。
どれくらいそうしていただろう。
母が先に、鼻を啜った。
「ズビ。泣いちゃった」
すずも、顔を上げた。
「うん、ママも。ズビ」
二人して、鼻を啜って、あははと笑った。
面会時間は、かなり過ぎていた。
すずは母に何度も「また来る」と言って、病室を出た。
ナースステーションを通りがかると、紗英の友達だという、あのギャル看護師さんが走ってきた。
「すずちゃん」
「あ、はい」
看護師さんは周りを少し見てから、ポケットに手を入れた。
そして、まるで悪いことをしている時のように、小声で言った。
「……これ、帰りに食べ」
すずのポケットに、これでもかと飴を詰め込んだ。
「えっ、あ、あの」
「内緒な」
「あ、あの、面会時間すぎちゃって、ごめんなさい」
看護師さんは、首を横に振った。
「なんか言われたら、私がいいって言うてたって言いな。な? わかった? 病院で面会が必要と判断した場合は、ええってなってるねんから。な?」
すずは、泣き腫らした目で看護師さんを見た。
「ありがとうございます」
「よし。帰り、気ぃつけや」
「はい」
外に出ると、頬にあたる風が心地よかった。
武庫川からの風だと、すずは思った。
ポケットの中の飴を一粒取って、口の中に放り込んだ。
「甘い」
ミルクミントの味が、口いっぱいに広がった。
すずはまた鼻を啜った。
ーーーー
【suzu: 今日、パパが13時頃に来るけど、何時に解散になるかわからないんよ…だから、天馬くん今日は、ゆっくりしていてね】
今日、どんな感じ?と送ったラインに対する返事だった。
それは、来なくていいというラインなのだと思う。
それでも天馬は、病院へ向かった。
土曜。
14時。
兵庫医大の、すずのママが入院している館の出口で。
すずと、父親が出てきて、
そしてすずはまた病棟へ戻った。
涙を堪えていることが、遠目に見てもわかった。
天馬は、自分を恥じた。
映画どころでは、ないのだ。
命が揺れている中で、何が映画だ。
外国人だと言われた。
ラインの返事がなかった。
誰かとご飯を食べていて、悲しかった。
全部、自分のことばかりではないか。
「…カッコわる。」
天馬は、空を見上げた。
今、彼女に、自分がしてあげれることは何か。
それを考えた。
心が安らぐこと。
それは、何か。
■■■
すずは、病院を出てしばらく歩いたところで、天馬を見つけた。
ハンドルに片腕を乗せて、こちらを見ている。
白いTシャツに、黒いパンツ。 髪は少しだけ風で乱れていた。
すずは足を止めた。
「……天馬くん」
天馬は、いつもの低い声で言った。
「お疲れさま」
その声を聞いた瞬間、すずはまた泣きそうになった。
でも天馬は、何があったのかを聞かなかった。
父親がどうだったのか。 泣いたのか。 大丈夫なのか。
そういうことを、すぐには聞かなかった。
ただ、すずの顔を一度だけ見て、少しだけ眉を寄せた。
それから、ポケットから何かを取り出した。
コンビニの小さな袋だった。
「何……?」
「ゼリー」
「え?」
「お見舞い。これは、お前にお見舞いや」
袋の中には、飲むタイプのゼリーが二つ入っていた。
すずは、また目の奥が熱くなった。
「なんで……」
「疲れてる時には、甘いもん食えって」
「あ、そうなんだ。」
「体に栄養が行き届いたら、体が動いて、体が動いたら、心も元気が出るって。さんまが言うてたから」
「さ、さんま?」
「…しらんとか言うなよ」
「え、う、ううん、知ってるよ、前歯出てて声がうるさい人やんね」
「…はは、せやな。」
すずはもらったゼリーをみた。
<今日を生きる 全ての人に。10秒チャージ>
「元気出せとは言えんから、元気が出やすいように、栄養を、どうぞ?」
その言い方がいつも通りで、すずは少しだけ笑った。
確かに、元気出せと言われても、無理だった。
だって、母は病気で、父は無神経で、自分は将来が不安なのだ。
でも、食べなかたら、体まで元気じゃなかったら、心はもっと不安定になるだろう。
「ありがとう」
「うん」
天馬は自転車を押しながら、いつものように言った。
「帰ろ」
すずは頷いた。
「うん」
二人は武庫川沿いへ向かった。
天馬は、何も聞かなかった。
すずも、すぐには何も言わなかった。
ただ、ポケットの中には看護師さんがくれた飴があり、手の中には天馬がくれたゼリーがあった。
どちらも、小さくて甘いものだった。
すずは、それを握りしめながら、武庫川の風の中を歩いた。
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毎日更新予定です。完結約束、ハッピーエンドです(^ ^)
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