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第3回 尼崎市民による恋愛サミット IN 神戸国際会館

 どっどっどっどっ。


 すずは25階から1階まで一気に降りていくエレベーターの中で、激しく打つ心臓を押さえていた。


(あーもう意味わからん私! なんで部屋飛び出しちゃったんやろ! 気まずいー!!!)


 ティーン……。


 一階に到着し、重厚な扉が開くなり、すずは弾かれたように走り出した。

 鞄を胸に強く抱え込んだまま、オフィスビルを出る。


 ううう、まだ顔が熱い。

 先生、絶対に変な子だと思った。

 私ってなんでこんなんなん……。

 兵庫に引っ越してきてから、恥ずかしいことばっかりだ。


 外に出ると、三宮の街は夕方のざわめきに包まれていた。

 ぐすん、と一つ鼻を鳴らしながら、駅を目指して歩く。


 学校帰りの高校生たちの笑い声。

 足早にすれ違うスーツ姿の会社員。

 買い物袋を提げたマダム。

 大きなキャリーケースを引く外国人観光客。


 信号待ちをする人の波に紛れた瞬間、少しだけ息ができた。


(ほんまに、なんで佐伯先生に渡しちゃったんやろ……)


 玲花ちゃんと、陸くんに渡すつもりだったのだ。

 昨日、天馬くんに渡したものとは別に、お世話になっている三人分をちゃんと用意していたのに。

 友達だから。

 いつも助けてもらっているから。

 ただ、それだけだったはずなのに。


 ふと、玲花と天馬が階段で寄り添うように話していた姿が、また胸の奥にフラッシュバックする。

 天馬くんの腕の中に、玲花ちゃんがすっぽり収まるようにして、内緒話をして笑い合っていた。


(……私、何にショック受けてんねやろ)


 わからない。わからないから、苦しい。

 すずは阪神神戸三宮駅へ向かう地下への階段を下りた。

 今日はこのまま、母の病院へ向かう日だった。


 ***


 一方そのころ。

 天馬、玲花、陸の三人は、神戸国際会館前のスターバックスの外にある、すり鉢状の半円形ベンチに座っていた。


 天馬はポケットに手を突っ込んで、国際会館のガラス張りの壁を眉間によわを寄せて睨んでいる。

 玲花はスマホを片手に、店頭のメニューボードを見上げて目を輝かせていた。


「あ〜ん、待って! 新作出てるやん! え、なにこれ、かわい! めっちゃかわい! 飲みたい!」


 陸が、斜めがけの鞄から黒いサーモスの水筒を取り出しながら冷ややかに言った。


「お前ら、先に言うとくけど看板に釣られるなや。財布と相談——」

「七百円消える罠やぞって言いたいんやろ? わかってるって〜」

「七百円!?」


 天馬が低い声で反応する。

「飲み物で!?」

「今さら何言うてんのぉ? スタバってそういう場所やん〜。」


 玲花はあっけらかんと言い放ち、スタバに向かおうと立ち上がった。


「決断早っ」

「アホや」


 呆れる天馬と陸をよそに、玲花は財布を開いて一瞬ピタッと止まり、また座った。


「あ。やば。定期買うお金、ぎり足らんわ」

「え、お前アホなん——」

「まあいいや、貯金おろそっと!」

「アホかー!」

「今さら何言うてんのぉ?スタバってそういう場所やん〜」


 玲花は平然と立ち上がった。

 陸の低く、静かな声が被さった。

 水筒の蓋を開ける手を止め、二十歳の冷めた視線が玲花を射抜く。


「いざという時に金なかったら、ほんまに後悔するぞ」

「……」

 玲花がぱちぱちと瞬きをする。


「で・も!かわいいから買っちゃうもんね〜」

「アホ!!理由が弱い!!」


 陸が水筒の蓋を開けながら言う。


「かわいいは強いやろ!」

「かわいいで家賃は払えん」


「もぉっやめてや急な真面目っ!アホちゃう」

「アホはお前や」


「うっさいハゲ」

「うっさいギャル」


 玲花はけらけら笑いながら店内へ消えていった。


 その横で、天馬はメニュー看板と自分の財布を交互に見つめ、微動だにしていなかった。

「……七百円か」

 低く呟く。

「晩飯一食分やん」

「お前は買うな」

 陸が即座に言った。

「いや」

「いや、ちゃうやん。金ないんやろ」

「作戦会議やろ。サミットやサミット!」

「サミット言いたいだけやんけ。あとサミットにフラペチーノいらんぞ。水筒持て」

「燃料入れるわ」

「燃料は水で入れろ」

「……」


 天馬はしばらく無言で考えた末、決死の覚悟を決めたように顔を上げた。


「晩飯抜けばええか」

「お前もか!!」


 陸の鋭いツッコミを背中で受けながら、天馬もふらふらと店内へ吸い込まれていった。


 数分後。

 玲花は新作のカラフルなフラペチーノを、天馬はアイスコーヒーを持って戻ってきた。


「見て〜! ばりかわいい!」

「飲み物を見た目で買うな」


 陸が麦茶を飲みながら言う。


「かわいいは、み・か・く!(味覚)……あれ? 天馬、フラペチーノちゃうん?」

「……さすがに七百円は無理」

「そこは理性あったんや」

「アイスコーヒーでもまあまあ高い」

「高いと思うなら買うな」


 陸は水筒をカチャリと置いた。その動作がやけに堂に入っている。


「陸、それ何?」

「麦茶」

「渋」

「俺はスタバは月一回って決めてんねん。お前らも水筒持てや」

「え〜、でも水筒かわいくないやん」

「じゃあかわいい水筒買え」

「あ」


 玲花が、ハッ!と天啓を受けたような顔をした。


「それや」

「なんや」

「かわいい水筒買ったら、毎日テンション上がってスタバ代節約できるやん!」

「やっと気づいたか」

「陸、天才?」

「さっきまで渋いとか言うてたやんけ」

「待って、今かわいい水筒探す……」

「今見るな。今日は天馬の作戦会議や」

「あ、そうやった」


 玲花はフラペチーノをずずっと吸い込み、幸せそうに目を細めた。

「う〜っま。七百円の味する」

「七百円の味って何」

 天馬が低くツッコむ。


 玲花はストローをくわえたまま、天馬をまじまじと見た。

「で、どうすんの」

「何が」

「バンビよ、バンビ」


 天馬の目が、少しだけ泳いだ。


「さっき、逃げたやん?」

「うん」

「クッキー、先生に渡したやん?」

「うん」

「天馬、死んでたやん?」

「ちょ待てや」

「死んでた。完全に目が点になってた。チーンって音聞こえたもん」


「沈みすぎやろ」

 陸が小さく笑いながら、水筒を指で回す。


 玲花がうーんと唸って、自分の推理を語る。

「あれ、先生が好きで渡した……とかではないとは、思ったり思わなかったり?」

「どっちやねん」


 天馬が睨むと、陸は肩をすくめた。


「すずちゃん、恋愛経験なさそうやしなぁ。天馬にも先生にも、純粋に感謝の気持ちで渡してそう」


「そう!……いや、わからんっ!」

 玲花が即座に頭を振る。

「だってあれは異性意識してる動きやったで! すぐ赤くなって、すぐ謝って、すぐ逃げたし!」

「鹿やん」

「バンビやからな」


 天馬は手元のアイスコーヒーの水滴を指で拭いながら、ぽつりと低くこぼした。


「……クッキー。俺だけやと思ってた」

「それはまあ、思うわな」


 陸が同情したように言う。


「もうこう思おう。先生に渡したんは事故って。」

「…事故にしては痛い」

「交通事故やっ」

「ひき逃げや」

「逃げたしなっ」


 玲花と陸が手を叩いて笑い合う。ツボに入ったようで、玲花は「ヒーッ」と引き笑いまでしている。

 天馬は二人をジロリと睨んだ。

「お前ら、慰める気ある?」

「あるあるー」

「め〜っちゃある」

 声が揃う。まったく信用できなかった。


 玲花はフラペチーノをベンチに置き、両手をパンと叩いた。

「はい、じゃあ作戦会議いきます!」

「はいお願いしまーす」陸が応じる。

「天馬くんは、昨日クッキーをもらいました」

「はい」

「お礼が必要です」

「はい」

「相手はバンビ。小さくて可愛くて、真面目で、今お母さんの病院通い中で大変な時期」

「はい」

「重すぎる誘いはだめです。高すぎるものもだめです。夜もだめです。変な場所もだめです」

「だめ多いな」

「当たり前やろ!」


 玲花は人差し指をビシッと立てた。

「ムーヴィー!」

「映画」天馬が低く繰り返す。

「そう。映画なら目的がある。時間も決まってるから安心。終わった後に語り合える。しかも今、新しいディズニー映画やってる!」

「すず、ディズニー好きなん?」

「絶対好き」

「根拠は」

「ここのストリートピアノでディズニー弾いてたやんもう忘れたんアホちゃう」

「あーね」


 天馬は少し考えた。「……うん。好きそう」

「ほるぁ!」玲花が得意げに胸を張る。


 陸が横から冷静に口を挟んだ。


「映画って千円?」

「高校生やし、ハーバーランドも国際会館も千円やで」

「二人分で二千円。飲み物とポップコーン買ったら三千超えるぞ」


 天馬の眉間に、再び深いシワが寄った。


「……」

「晩飯抜くなよ」

「……いけ、る?」

「今、脳内で抜く計算したやろ」

「してへん」

「嘘つけ」

 陸はため息をついた。

「奢るなら、ちゃんと自分の生活が崩れん範囲でやれ。かっこつけて飯抜いて倒れられたら、すずちゃんが

 気負うやろ。ただのアホやぞ」


 玲花も深く頷く。


「そうやで。バンビが知ったら絶対しょんぼりする」

「それは……困る」

「ほな、無理すんな」


 天馬はアイスコーヒーを見下ろし、小さく頷いた。


「……これ、買わんかったら良かった」

「ほらみろ。早速後悔しとるやんけ」


「映画だけ誘う。飲み物とかは、その場で考える」

「よし!」


 玲花が自分のスマホを構えた。

「文面考えるで」

「ラインで?」

「まずラインやろ。さっき逃げたんやし」

「直接言う」

「逃げた鹿を追いかけて直接言うのは、もはや猟師や」

「猟師」


「こっっわ」陸が短くツッコむ。


 天馬はしばらく黙った。


「……じゃあライン」

「よし。まず、『今日どうしたん?』はあかん」

「なんで」

「詰問っぽいから」

「じゃあ」

「『さっき大丈夫やった?』」

「……弱い」

「弱くてええねん! あんたただでさえ圧あるんやから!」

「圧」

「ある」

 陸が続く。「天馬、お前声低いから、短文送るとテキストでもキレてるみたいに見えるぞ」

「……そうなん?」

「「そう」」

 二人が同時に頷く。天馬は不服そうだったが、大人しくスマホを開いた。


 画面に文字を打つ。


【tenma:さっき大丈夫やった?】


「うん。いい! 次!」

「本題」

「『クッキーのお礼したい』」

「うん」

「『土曜、映画行かへん?』」


 天馬の親指が、送信ボタンの上で止まった。


「……急ちゃう?」

「急やけど、回りくどいよりいい」


 陸が言った。


「ただし、断られても死ぬなよ」

「死なん」

「顔は死ぬやろ」

「……はーあ」


 天馬は、しばらく画面を睨みつけ、意を決して送信をタップ…

 できなかった。


 三人の間に風が吹く。


 スマホのインカメラを鏡代わりにリップを塗り直しながら、玲花が鋭い声を出した。


「いつまで画面見つめて呪文唱えてるん? さっさと送信ボタン押しよ!!!」

「……タイミングってもんがあるやん。今頃病院かもしれんし」


「もー!そんなん気にしてたら一生終わるって!だいたい、ただ映画誘うだけやん。既読スルーされる前からヘタレてどうすんねん」


 玲花の容赦ない言葉に、天馬は舌打ちをして視線を逸らす。

 その横のベンチでは、陸が仰向けのまま完全に死体のように伸びていた。


「天馬、もう俺はこの焦ったい恋に終止符を打ちたいんや。送れないなら諦めて俺と一生モンエナ飲んで地下で朽ち果てようや……」


 陸が、焦点の合わない目で天井のコンクリートを見つめながら呟く。


「も!はよしてー!!!!!」

「うるっさいな押すって」


 天馬はようやく送信ボタンを押した。


【tenma:さっき大丈夫やった?】

【    クッキーのお礼したい。】

【    土曜、映画行かへん?】


 三つの緑の吹き出しが並ぶ。

 三人はベンチに身を寄せ合い、画面を覗き込んだ。

 既読は、すぐにはつかなかった。


 ■■■


 そのころ、すずは阪神電車の中にいた。

 座席の端に座り、膝の上に鞄をぎゅっと抱え込んでいる。

 車内は夕方の手前で、帰宅ラッシュが混み始める少し前だった。

 すずは鞄から水筒を取り出し、少し温くなった麦茶を飲んだ。

 ふとスマホを開くと、スタバの新作フラペチーノの広告がタイムラインに流れてきた。


(あ、美味しそう! でも……七百円か……)


 七百円。

 たった一杯の飲み物に七百円。

 今のすずにとって、それは途方もない贅沢に思えた。

 七百円あれば、パン屋のまかない以外に惣菜が買える。病院から家までのバス代にできる。新しいノートも買えるし、お母さんに口当たりのいいゼリーも買ってあげられる。


(今日から頑張って、一学期無事に単位取り終わったら、ご褒美で一回だけ買おう!)


 すずは広告をスワイプして消し、検索ブラウザを開いた。

 検索欄に、ゆっくりと文字を打つ。


『大学 学費 教育学部』

『奨学金 返済 利子』

『国立大学 入学金 授業料』

『保育士 資格 短大 大学 違い』


 検索ボタンを押すたびに、無機質な数字が画面に並ぶ。

 入学金、約三十万。

 授業料、年間約五十四万。

 それに加えて、教科書代、交通費、生活費。


 スクロールするたびに、画面の向こうから現実が重くのしかかってくる。


「うーん……」


 思わず、小さく声が漏れた。


 教育大に行くなら、一体いくら必要なんだろう。

 保育士になるなら、短大でもいいのだろうか。

 それとも、学校の先生になるなら、

 やっぱり四年制大学に行かないといけないのだろうか。


 看護師さん。

 佐伯先生。

 木村先生。

 ベーカリーツバメの店長と真帆さん。

 大きな会社でバリバリ働いていた頃の母。


 最近、すずの周りには色んな大人がいる。

 みんな、仕事をして、誰かを支え、誰かが息をしやすい場所を作っている。

 自分は、どんな大人になりたいんだろう。

 どうやってそこへ辿り着けばいいんだろう。

 考え始めると、胸の奥がざわざわと波立ち、息苦しくなった。


 ブブッ。

 その時、手元のスマホが短く震えた。

 画面の上部に、ポップアップの通知が出る。天馬からだった。


【tenma:さっき大丈夫やった?】

【    クッキーのお礼したい。】

【    土曜、映画行かへん?】


「えっ」


 心臓が、ドクンと大きく跳ねた。

 映画。

 天馬くんと、映画。


(えっ嬉しい! 映画なんて、何ヶ月ぶりだろう。で、でもどこで? 私、奈良県のイオンの映画館しか行ったことないや!)


 土曜日。お礼。二人きり?

 すずの顔が一気に熱くなり、パニックになりかける。

 でも、すぐに画面の向こうに、病室のベッドで横たわる母の顔が浮かんだ。


 土曜日。

 パン屋のバイト。

 病院への付き添い。

 洗濯物も掃除だってある。

 たまったレポート課題。

 大学費用の計算。

 母のこれからの治療費。


(え、でも待って。玲花ちゃんとはどうなってるの? さっきあんなにひっついてたやん。それにそもそも、映画っていくらするんやろう。奈良県と一緒かな、神戸価格やったらどないしよ……服は? 着ていく服、最近買ってないし…)


 すずの中で、電卓が弾かれるようにカタカタと思考が回り始める。


(待って待って、とりあえず、考えないといけないことが山ほどあったはず。映画なんか見てる時間あったら……)


 チーン、と算段がついた。


 結論:そんなことしてる場合じゃない!!!!


 その冷や水のような言葉が、胸の中にズドン、と重く落ちた。

 すずは返事を打とうとして、画面の上で指を止めた。

 何て言えばいいのかわからない。

 嬉しい。

 でも行けない。

 行きたい気もする。

 

 でも、玲花ちゃんの存在が引っかかる。

 何より、今の自分には、そんなフワフワしたことに時間を使っている余裕なんてないのだ。


 ブブッ。

 迷っている間に、またスマホが震えた。


(え、パパ!?)

 今度は、離婚した父からだった。


【papa:土曜日、ママのお見舞いに行くわ〜】

【papa:すずにも会いたい。】

【papa:時間、合わせてな。】


 画面を見た瞬間、世界が一段、暗く沈んだ気がした。

 すずはスマホをきつく握りしめた。

 離婚の時、穏やかにお別れはしたけれど、母が癌だと知って以来、ずっと気持ちが沈み、黒い感情が渦巻いている。


 会いたくない。

 真っ先にそう思った。

 父の新しい家族。

 もう少しで産まれるであろう、初めての妹か弟。

 奈良に置いてきた大きな家。

 大好きなピアノ。

 そして、一人で泣いていた母の顔。

 癌を隠して、痛みを堪えてずっと黙って働いていた母の背中。


 すずは、何も返せなかった。

 天馬のLINEにも。父のLINEにも。

 電車は、ガタンゴトンと音を立てて武庫川駅へ向かって走っていく。

 暗転したスマホの画面だけが、手の中でやけに重く、冷たかった。


 ■■■


 国際会館前。

 天馬のスマホの画面に「既読」の文字がついた。

 けれど、返事は来ない。

 玲花が横から画面を覗き込む。


「あ、既読っ!」

「……返ってこーへんねんけど」

「考えてるんちゃう?」

「断り文句を?」


「ネガティブ草」

 陸が水筒を鞄にしまいながら言った。


「病院行ってるんやろ。親の前とか、すぐ返事できへん時もあるって」

「……うん」


 天馬はそう言ったが、食い入るようにスマホから目を離さなかった。

 一分、三分、五分。


 玲花がストローでフラペチーノの底をズズッと吸い上げる音だけが、虚しく響く。


 天馬は、バンッと音を立てて立ち上がった。


「迎え行く」

「え、今から?」

「武庫川」

「いや、待って待ってって。今、返事待ち中やん?」

「今から電車乗れば、病院出る頃までには着く」

「えーマジかっ」

「……うす」


 天馬は飲み終えたアイスコーヒーのカップをゴミ箱に投げ捨てた。


「じゃ」


 背を向けた天馬に、陸が小さく息を吐いて声をかける。


「押すなよ」

「何を」

「気持ち。相手にも相手のペースがある」


 天馬は少しだけ黙り、振り返らずに言った。


「……わかってる」

「ほんまか?」

「たぶん」

「たぶん言うな」


 玲花が手をひらひらと振った。


「ちゃんと優しく聞きや! 低音で詰めたらあかんで!」

「わかってる」

「あと眉間!」

「何」

「シワ寄せんな! 怖いで!」

「無理」

「努力しろ!」


 天馬は低く「うす」とだけ言って、JR の方へ足早に歩き出した。

 その大きな背中を見送りながら、陸がぽつりと呟いた。


「かわいいよな、あいつ」

「かわいいよな、めっちゃ」


 玲花が笑う。


「めっちゃダウナーでスレてる感じやのに、恋だけ小学生」

「小学生より不器用やろ。余裕なさすぎや」

「それはそう」


 二人は同時に頷いた。


「まぁ、焦ってるねん。あいつ」

「なんでよ」

「実はな……」


 陸は玲花に、自分がインスタパトロールで発見したハルカ(幼馴染)の存在や、夏休みにすずが家に泊まりにいくらしいという不穏な情報を共有した。


「まぁじか! そりゃ焦るわ!でもどうやろ?本人の前では言わなかったけど、なんか性格も全然ちゃうやん?服のジャンルとかもさ〜」

「底辺の野良犬テリトリーに、血統書付きのゴールデンレトリバーが来たようなもんやからな。」

「例え草。バンビのお母さん、生粋の西宮市民らしいしなw どうなることやら〜やな」


 ■■■


 病院の面会時間が終わる。

 窓の外は夕暮れ時で、空は燃えるようなオレンジ色に染まっていた。

 すずは母の病室を出た。

 父のLINEのことを言うべきか、迷っていた。でも、言わないままだと、勝手に土曜日が来てしまう。

 すずは病室の扉の前で立ち止まり、思い切ってもう一度中へ戻った。


「……ま、ママ?」

「ん?」

 ベッドに寄りかかっていた母が顔を上げる。

「パパから、LINEきたんやん……土曜日、お見舞い来るって」


 母の表情が、ほんの少しだけピクリと変わった。

 すずがスマホの画面を見せると、母は呆れたように小さく息を吐いた。


「またあのおっさんは……なんで決定事項みたいなラインしてくるねん」


 そう毒づいて、深いため息をつく。


「てゆか、私、会いたくない……な、とか思ったりして……」


 すずは、思ったよりはっきりと言葉にできた。

 母は少しだけ黙った。それから、ひどく穏やかな、疲れた声で言った。


「はぁ。……会っといたら?」

「なんでよ」

「パパは、すずに会いたいって言ってるんやろ」

「私は会いたくない!」

「うん」

「パパはママの病気を知ってて離婚したの! ママがしんどいって知ったから、逃げたんやん!」

「うん、まぁ最低やわな」

「それでも?」


 母は、ベッドの上で少しだけ目を伏せた。シーツを握る手が、かすかに震えているように見えた。


「……それでも、すずの、たった一人の、パパやんか」

「……」


 すずは何も言えなかった。


「会って、嫌やったら、嫌やって言うたりよ」

「……」

「でもな、会う前から全部扉を閉じたら、すずの中にずっと『もしも』が残る気がする。それは、あんたの重荷になる」


 母は手を伸ばし、すずの手をそっと握った。点滴の跡が残る、少し冷たい手だった。


「大丈夫。何かあったら、ママも紗英姉ちゃんもおるから」


 すずは、うつむいたまま、こくりと頷いた。


(ママにこんな悲しい顔させて。パパのこと、ほんまに嫌いになっちゃうよ)


 病院を出ると、空はすでに群青色に沈み始めていた。

 武庫川へ向かう風が、今日も強く吹き付けてくる。


 駅の方へトボトボと歩いていくと、見慣れたシルエットがあった。

 天馬だった。

 片足を地面につき、自転車のハンドルに腕を置いて、風に吹かれながら立っている。


(え! 天馬くん!? なんで!? あんな別れ方したのに……!)


 すずはわかりやすくビクッとし、思わず近くの電柱の影にサッと隠れた。


(ど、どどどどうする!? このまま病院引き返す!? いや無理! バス、バスってどこから出てるんやっけ……!)


 心臓がバクバクと音を立てる。

 すると、天馬は「はぁ」と一つ大きなため息をつき、自転車をゆっくり走らせて、すずが隠れている電柱の横でピタリと止まった。


 そして、いつもの低い、感情の読めない声で言った。


「あのー、丸見えですけど」

「……ひ、人違いです!」

「お疲れさま」

「う……あ、ありが、とう……?」

「LINE、見た?」

「み、見た、かな」

「……うん」


 天馬は少しだけ目をそらした。


「返事こやんかったから」

「ご、ごめんね……」

「別に」


 別に、の声は低かった。怒っているわけではない。でも、すずの耳には、ほんの少しだけ傷ついているように聞こえた。


「とりあえず、帰ろ」


 二人は武庫川沿いを歩き出した。

 天馬は自転車を押し、すずは少し後ろを歩く。

 風が強い。 今日は楽器の練習をしている人の音は聞こえない。 ジョギングをしている人の靴音だけが、遠くから近づいては過ぎていく。


 眼鏡橋のバルコニーまで来ると、天馬はピタリと足を止めた。川面を見つめたまま、口を開く。


「土曜」

「うん」

「無理そう?」


 すずは、冷たい手すりをぎゅっと握った。

 返事をしなければいけない。そう思うのに、喉が詰まる。


「あ、あああああの! 嬉しかった!」

「うん」

「誘ってくれたのは!……嬉しかったんやけど!」

「うん」

「でも……土曜日、パパが来ることなっとって」


 天馬の表情が、少しだけピクリと動いた。


「お見舞い?」

「うん。ママに会いに。……私にも会いたいって」

「……そっか」

「私、ほんまは会いたくないんやけど、ママが会いなさいって言うから……」

「うん」

「それに、バイトもあるし、病院もあるし、家の洗濯もあるし、学校の課題もあるし……!」


 言えば言うほど、自分の声が焦って早口になっていくのがわかる。

 すずは手すりをさらに強く握りしめた。


「今、そんなことしてる場合じゃないかも」


 言った瞬間。

 天馬の顔から、ほんの少しだけ何かがスッと消えた。

 微かに目を見開き、奥歯を噛み締めたような顔。

 すずは「あ」と声を漏らした。

 言ってしまった。酷い言い方だった。

 けれど、一度出てしまった言葉を取り消すことはできない。どう弁解すればいいのかわからなかった。


「ち、違う! 映画が嫌とか、天馬くんが嫌とかじゃなくて!」

「わかってる」

「ほんまに、今、いっぱいいっぱいで、いろいろあって……!」

「うん」

「ご、ごめんね!」

「謝らんでええよ」


 天馬はいつものように淡々と言った。

 でも、声は少しだけくぐもっていた。すずの胸が、ズキリと痛む。


「クッキーのお礼やったし」

「うん」

「また今度。もしあの、落ち着いて、良かったら」

「……うん」

「父親のこと、気ぃつけて」

「え?」

「会いたくない相手に会うの、しんどいやろ」


 天馬は川の方を見たまま、ぽつりと言った。


「帰り、迎え行く」

「でも」

「行く」

「土曜日やよ?」

「行く」


 すずは何も言えなかった。

 嬉しい。とても嬉しい。でも、その嬉しさすら、今の自分には抱えきれないほど重く感じる。


(玲花ちゃんとは、どういう関係なの? 誰にでも、こういう距離感で優しくするの?)


 そう聞きたいのに、言葉が出ない。

 そもそも、聞いてどうするのか。自分には彼と映画に行く余裕すらないのに。

 誰かに優しくされるたびに、何も返せない自分がひどく嫌になる。


 天馬は自転車のハンドルを握り直した。


「帰ろ」

「……うん」


 二人は橋の上で別れた。

 いつもより、ほんの少しだけ距離があった。


 家に帰ったあと、すずは机に向かい、ノートを開いた。

 今日は、インスタグラムを投稿する気にはなれなかった。スマホの中のキラキラした世界より、ただ、このノートの白いページに今の気持ちを書き記したかった。

 昨日書いた言葉が、そこに残っている。


『どんな大人になるか考える』


 すずは、病院での母の疲れた顔と、迫り来る父の存在を思い出し、シャープペンシルを握った。

 そして、その理想の言葉の下に、ゆっくりと書き足した。


 ーーーーーーーー

 誰かを傷つける大人には、ならない。

 ーーーーーーーー


 誰かを傷つける大人。

 それを、すずはまだ、ちゃんとは知らなかった。

 ただ、迫り来る土曜日が、ひどく怖かった。

リアクションや、☆☆☆☆☆を★★★★★に変えていただけると、執筆の励みになります^^

感想、ご指摘、ブクマも大歓迎です!

毎日更新予定です。完結約束、ハッピーエンドです(^ ^)

よろしくお願いします!

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