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武庫川と、眼鏡橋と、君と、夕焼けと。

「恵美さん!! そろそろお時間ですぅ!!」


 しんみりした病室に、ものすごく大きい声が響き、すずは驚いて肩をびくりと動かした。

 つけまつげをつけたギャル……と思いきや、看護師さんが病室の外から顔を出していた。


「え! 娘さん!? めっちゃ似てるやん!!」

「よ、よく言われます?」

「あはは! 声ちぃっさ! 帰ってな!!!」

「は、はい!」


 すずは鞄を持って立ち上がる。


「ま、また来るわ」

「毎日来んでええで。ちゃんと学校行って、バイトして、寝るんやで」

「行ける日は来る」

「もう、頑固やなあ」

「……」

「……」

「来るったら来る!」

「あはは、わかったって!」


 母は困ったように笑った。


 その笑い方がいつも通りすぎて、すずはまた胸が苦しくなった。


 病室を出ると、廊下には消毒液の匂いがした。白い壁。静かな足音。ナースステーションの中で動く看護師さんたち。カートの車輪が、床の上を小さく鳴っている。


 病院は明るいのに、どこか重い。


 泣いている人はいない。大声を出す人もいない。けれど、そこにいる人たちはみんな、それぞれ何かを抱えているように見えた。


 エレベーターを待っていると、さっきの看護師さんがすずの隣に立った。


「あ! 鈴木さんの娘ちゃんやん!」

「あ、は、はいい!」

「ほんっまにお母さんとそっくりやん! 私、あれよ、紗英とは同じ学校やったんよ。小中高!!」

「そ、そうですか」

「今日、お母さんよー笑っとったな! 娘ちゃんが来てくれたからやな!!!」

「よ、よ、よかったです?」

「なんで疑問系やねん!! 後で紗英にラインしとくわな!」


 看護師さんは、やわらかく笑った。


「娘ちゃんもよー食べや!! 病院に通う家族さんもけっこう疲れるからさぁ!!」


 そう言った時だけ、看護師さんの声は少しだけやわらかかった。


「……は、はい」


 すずは小さく頷いた。


 バシバシと背中を叩かれ、すずは苦笑いする。

 看護師さんは、母の体だけを見ているのではないのだと思った。母の顔色も、すずの顔色も、ちゃんと見ている。

 仕事って、こんなところまで見るんだ。

 すずは、そんなことを思いながら、病院を出た。

 外に出ると、夕方の風が吹いていた。

 病院の建物の向こうに、武庫川の空が広がっている。


(駅の向こうに河原があるから、そこ歩いたらええ言うてたよね)


 病院を出て右に曲がると、もうすぐそこに駅が見えた。


(なんか、兵庫の人って、声がでかい気がする……たまたまかなぁ……先生やろ、玲花やろ、看護師さんやろ……紗英さんも声でかいし……鼓膜が破れちゃう……)


 そんなことを考えながら、ぼけーっと駅への道を歩く。


(あー、なんか涼しい。もう少しで七月やのに。涼しいのはたまたまかなぁ……)


 空を見ながらぼけーっと歩く。


(帰ったら、お風呂入って、課題して、ピアノもしたいな)


「通り過ぎんのかい」


 すずはわかりやすくびくついた。

 ぼんやりモードのすずに、天馬の低音ボイスはあまりに響いた。


「!? って、てててて! 天馬くん?」


 すずが呆然と名前を呼ぶと、天馬はひらりと手を上げた。


「お疲れ」

「え、なんで!?」

「迎え」

「む、迎え?」

「うん」


 あまりに普通に言われて、すずは一瞬意味がわからなかった。


「え、でも、天馬くん、学校終わってから……」

「一回帰った」

「帰った?」

「家。尼の立花の方」


 天馬は自転車のハンドルを軽く叩いた。


「そっから自転車で来た」

「なんで!?」


 思わず声が大きくなる。

 天馬は少しだけ目を細めた。


「武庫川、俺の道やし」

「ど、どゆこと?」

「家からすぐ川出れる。川沿い走ったら、ここまで来れる。で、このまま真っすぐ行ったら、すずんちの近くの眼鏡橋まで行ける」

「そ、そうなんや」


 すずは言葉に詰まった。


 兵庫医大から家までは、歩いて三十分ほどだと伯母が言っていた。バスで帰ってもいい。でも、待ち時間やバス代を考えたら、歩いた方がいい日もある。


 それでも。


「そんなん悪いよ、迷惑やろ?」

「迷惑ちゃう」

「天馬くんも疲れてるのに」

「俺が来たいだけ」

「でも」

「ついで」

「ついでって……」


 すずは天馬を見た。


 学校から一度家に帰って、自転車を取って、また武庫川沿いを走って、病院の近くまで来る。

 それは、絶対についでではない。

 そう思ったのに、天馬は何でもないことのように自転車から降りた。


「一人で武庫川沿い帰らすの、ちょっと怖いし」

「怖い?」

「暗くなるやろ。風強いし。人おるけど、少ないとこもある」

「でも、まだ明るいよ」

「今はな」


 天馬は、すずの鞄と紙袋を見た。


「荷物、持つ」

「いいよ」

「病院帰りやろ」

「関係ある?」

「ある」


 また、反論できない声だった。

 すずは少し迷ってから、紙袋だけ渡した。


「じゃあ、これだけ……」

「ん」


 天馬は当然みたいに受け取ると、自転車のカゴに入れた。

 それから二人は、武庫川沿いを歩き出した。

 天馬は自転車を押している。


 川からの風は、思っていたよりずっと強かった。髪が頬に張りつき、スカートがぱたぱたと揺れる。水面は夕焼けを受けて、オレンジ色と灰色のあいだで細かく光っていた。


 阪神武庫川駅の下を離れると、河川敷にはいろんな人がいた。


 犬を散歩させている人。

 黙々と走るランナー。

 自転車で通り過ぎる学生。

 川沿いに座って肩を寄せ合っているカップル。

 橋の下では、トロンボーンらしき低い音が伸びている。

 少し離れたところでは、クラリネットの音が同じフレーズを何度も何度も繰り返していた。


 吹奏楽部の子たちだろうか。

 楽器の音は、風に少し揺らされながら、川の上へ流れていく。


「……すごいね」


 すずは思わず呟いた。


「何が」

「川なのに、いろんな音がする」

「せやな」

「走ってる人も多いし、楽器の練習してる人もいるし、犬もいるし」

「夜になると、もっと風の音する」

「風の音?」

「うん。橋の下とか、けっこう鳴る」


 天馬は慣れた口調で言った。

 この川は、天馬にとって本当に「道」なのだと思った。


 すずにとってはまだ少し怖い病院帰りの道でも、天馬にとっては、昔から知っている場所なのだ。

 しばらく歩くと、遠くに大きな橋が見えてきた。

 夕暮れの中、いくつものアーチが連なっている。川の上に、ゆるやかに弧を描く影が並んでいた。


「あれが眼鏡橋?」

「うん。ほんまの名前は武庫大橋な。左行ったら尼で、右が西宮や」

「きれい……」


 すずは足を止めた。


 橋は、ただ道路が通っているだけのものではなかった。古くて、重くて、それなのにどこか上品だった。いくつも並んだアーチが、夕方の川面に影を落としている。橋の中央あたりには、少し外へ張り出した場所があって、まるで川を見るために作られた小さな舞台みたいだった。


「なんか、外国みたい」

「尼崎と西宮の境やけどな」

「急に現実や」


 すずが少し笑うと、天馬も口元を緩めた。

 橋に上がると、風がさらに強くなった。


 天馬は自転車を押しながら、すずを車道側ではなく、川の見える側へ自然に歩かせる。橋の途中、バルコニーのように張り出した場所まで来ると、天馬はそこで足を止めた。


「ここ、ちょっと休める」

「ほんまや」


 すずは手すりの近くに立った。

 川が見える。


 さっき歩いてきた道。

 遠くに見える阪神の高架。

 夕焼けに染まる水面。

 橋の下で練習する楽器の音。

 風に混ざる草の匂い。

 病院の白い壁から、急に外の世界に戻ってきたような気がした。


「……病院で、ママ、笑ってた」


 ぽつりと、言葉がこぼれた。

 言ったあと、自分で少し驚いた。

 天馬は何も言わなかった。

 ただ、自転車のハンドルに片手を乗せたまま、隣に立っていた。


「ママが笑ってるのが、逆に怖い」


 すずは、川を見たまま続けた。


「大丈夫や言うてたけど、たぶん嘘」


 風が強く吹いた。

 すずの低く結んだ髪が、頬にかかる。


「……なんか、病院って怖いな」


 天馬は否定しなかった。

 大丈夫とも言わなかった。

 ただ、少しだけ低い声で言った。


「怖いなら、怖いでええやろ」

「……ええんかな」

「ええやろ。病院やし」

「理由、雑じゃない?」

「でも、ほんまやろ」


 すずは小さく笑った。

 笑ったら、少しだけ息ができた。

 その時、天馬がぼそっと何かを言った。


「……自転車で来てると、手ぇつなげへんねんよな」

「え?」

「いや」


 天馬は、ふいっと川の方を向いた。


「なんでもない」

「今、何か言ったやんね?」

「風」

「風が喋ったん?」

「武庫川の風はたまに喋る」

「そんなわけないやん!」


 すずが思わず笑うと、天馬は少しだけ耳を赤くした。


 その赤さを見て、すずの胸が変なふうに鳴った。


 天馬くんは、わかりにくい。

 でも、わかりにくいまま、いつも来てくれる。


 泣いた時はそばにいてくれて、迷いそうな時は改札まで送ってくれて、病院の帰り道には自転車で迎えに来てくれる。


 すずは、手すりの上に置いた自分の指先を見た。

 言っていいのかわからなかった。

 でも、言わないと、また「大丈夫」だけで終わってしまう気がした。


「……今日」

「うん」

「来てくれて、嬉しかった」


 声は小さかった。


「ありがと」


 へらりと笑う。

 風に飛ばされそうなくらい、頼りない声だった。

 けれど、天馬には届いた。

 天馬は一瞬、黙った。

 それから、すずを見ずに言った。


「また来る」

「えっ」

「水曜と木曜は、来る」

「でもバイトとか、仕事とか……」

「来る」

「疲れてないん?」

「疲れてても」

「雨でも?」

「雨やったら、電車かバスやな」

「……ついで?」


 すずが少しだけ笑って聞くと、天馬はようやくこちらを見た。

 夕焼けの光の中で、薄い茶色の瞳がまっすぐすずを捉える。


「ついで」


 絶対に嘘だった。

 でも、その嘘はやさしかった。

 すずは、胸の奥がじんわり温かくなるのを感じた。


「私……」

「うん?」


 橋の上を、車が何台も通り過ぎていく。


「私、天馬くんと友達になれてよかった〜!」


 ガシャン!!


「えっ、天馬くん大丈夫!? 自転車重かったん!?」


 天馬は自転車をひっくり返していた。


「や、うん。なんも…ない」

「帰ろ! なんか暗くなってきたし」


 天馬は自転車にまたがって、手を振ってきた。


「橋降りて、右曲がったら、もうバンビのマンションやからな」

「うん! もう見えてる! ありがとぉ」


 すずは手を振って天馬を見送ると、もう一度武庫川を見た。


 パシャリ。


 夕暮れに染まる武庫川と、眼鏡橋をカメラに収めた。


 川の風は相変わらず強い。

 楽器の音は、少しずつ遠くなる。

 空のオレンジ色は、だんだん紫に変わっていく。


 この橋のバルコニーで、ほんの少し話してから帰る。


 それが、いつか当たり前になるなんて、この時のすずはまだ知らなかった。


 けれど、その日から。


 武庫川の帰り道は、すずにとって、ただの病院帰りではなくなった。


 散歩楽しかった!


 ♯武庫川 ♯眼鏡橋


 その日のすずのインスタグラムには、武庫川の夕暮れと、眼鏡橋が、美しく輝いていた。



■■■


 その夜。

 天馬はベッドに寝転がったまま、すずの投稿を見ていた。


 散歩楽しかった!

 ♯武庫川 ♯眼鏡橋


「……散歩」


 天馬はスマホを握りしめた。


「友達で、散歩か」


 胸の奥が、じりっと焼ける。


 それでも、指は勝手にハートを押していた。

 tenmaがあなたの投稿にいいねしました。


 その通知を見て、すずが少しでも笑うなら。

 それだけで、今日来た意味はあった。


 けれど。


「……友達で終わる気、ないけどな」


 誰に聞かせるでもなく、天馬は低く呟いて、枕を抱きしめると、ベッドの上を苦しげに回転し、最後に盛大にため息をついた。


 息子よ、それが恋だ。



 いつぞやの父親の声がリフレインする。


「…寝よ。」



 力なく立ち上がり、電気を消すと、力なくベッドへダイブした天馬なのであった。

 それでも、すずに明日も会えると思うと、微笑んでしまう。

 完全に恋する男の顔だった。

 

 こんなにも苦しく

 こんなにも楽しく、

 こんなにも切ないことを、

 これが恋なんだと、

 実感した夜だった。



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