ママ、嘘つき。〜初めての、阪神武庫川駅〜
すずの母、恵美が入院したのは、翌週の火曜日。
須磨シーワールドに行った金曜日から、四日後のことだった。
入院する前日の夜、恵美はすずの部屋にやってきた。
「ママな、ちょっと入院するねん」
その言い方が、あまりにも軽かった。
まるで、少し遠いスーパーへ買い物に行くみたいに。 まるで、すぐ帰ってくるみたいに。
すずは、喉の奥がぎゅっと詰まるのを感じた。
「……ちょっとって、どれくらい」
「んー、検査とか、治療とか、手術とか、いろいろ込みで。先生に聞かなわからへんけど」
「どこに入院するん?」
「兵庫医大っていうて、ここからバスで15分くらいかな」
「…いつから、しんどかったんよ」
すずの声が震えた。
ずっと聞きたかったことだった。
父からのLINEを見た日から、胸の奥で何度も何度も転がしていた言葉。
いつから。 どれくらい。 どうして言わなかったの。
母は一瞬だけ目を伏せた。
けれど、すぐに顔を上げて、いつものように笑った。
「しんどかった日なんて、ないよ」
嘘だ、と思った。
そんなはずがない。
父と別れて、奈良の家を出て、荷物をまとめて、すずの転校先を探して、西宮へ引っ越して、働いて、毎朝化粧をして、いつも通りの顔を作って。
その間ずっと、体の中に病気があったのに。
しんどくなかったはずがない。
「嘘つき……」
声が震える。
「ママ、嘘つき!」
すずは母に飛びついた。
恵美の体は、思っていたより細かった。
抱きしめた背中が、前より少し薄い気がした。
それが悔しくて、怖くて、たまらなかった。
「なんでよ、なんで言ってくれへんかったんよ」
「ごめん」
「私、そんなに頼りない?」
「違う」
母はすずの背中を強く抱きしめた。
ポロポロと流れ落ちる涙が止まらない。
「違うねん、すず。ママが、すずに普通でいてほしかっただけ」
「普通って何よ……」
「学校行って、バイトして、友だちと遊んで、恋して、勉強で困って、そういうので忙しくしててほしかった」
「ママが入院するのに?」
「うん」
「私だけ知らんまま?」
「……うん」
「ひどいわ…そんなん…」
「うん。ひどいな」
母の声も、少しだけ震えていた。
「でも、ママな。すずが水族館で笑ってる写真見て、嬉しかった」
すずの目から、まだ、涙がこぼれた。
「シャチの前で、リョンファちゃんと笑ってたやろ。天馬くんも、陸くんも写ってて。あれ見て、ああ、よかったって思った」
「よくないよ」
「うん」
「よくない……」
「うん。ごめんな」
恵美は、すずの髪をゆっくり撫でた。
小さい頃と同じ手つきだった。
奈良の家で、ピアノの発表会の前に緊張して泣いた時も。
父と母が喧嘩して、すずが布団の中で息を潜めていた夜も。
いつも、こうして髪を撫でてくれた。
その日は、二人で一緒に眠った。
手を繋いで。
「こうやってしてたら、まだまだあんたも子どもやな」
「ママだってまだまだママやで」
二人して涙顔で笑い合った。
そして、詳しいことを、すずにわかりやすいように丁寧に教えてくれた。
胸にしこりが見つかったこと。
癌で、広がっていったこと。
薬で小さくしたこと。
七月半ばに、手術をするということ。
生命保険に入っているから、生活は大丈夫だということ。
「ママ、毎日お見舞い行くね」
「ええっ! こんでええよそんなん。学校行き、学校」
「行くよ。帰りに寄るから」
「バイトもあるやん」
「行ける日は、行く」
恵美は困ったように眉を下げた。
けれど、それ以上は止めなかった。
兵庫医科大学病院。
阪神武庫川駅の方にある、大きな病院だと紗英が教えてくれた。
母は「近い近い」と笑ったけれど、すずにとっては全然近くなかった。
電車の路線も、駅名も、まだ全部が知らない街の記号みたいだった。
翌朝。
部屋の中は、妙に静かだった。
旅行用のキャリーケースではなく、伯母の紗英が出してきた少し大きめのボストンバッグに、タオルや下着、洗面道具、充電器、母の化粧ポーチが一つずつ詰められていく。
恵美は、いつもと同じように見えた。
黒いボブの髪を整えて、薄く口紅を塗り、少しだけ明るい色のカーディガンを羽織っている。保険会社へ出勤する時と同じように、しゃんと背筋を伸ばしていた。
けれど、その日は仕事ではなく、病院へ行く日だった。
「じゃ、ちょっと行ってくるわ!」
まるで普通に会社に出勤するかのように、恵美は家を出た。
恵美は、付き添うと言った紗英の申し出を断って、一人で行ってしまった。
だから、紗英とすずは、二人で家に残された。
一瞬の沈黙が流れた。
「さぁ! こんな日は掃除や!」
紗英は急に腕まくりを始めた。
一瞬、すずはそんな紗英を見つめた。
それから、うん、と頷く。
「私、床磨く」
すずも腕まくりをし、掃除に取り掛かった。
(泣かへん。泣いてる場合とちゃう!!)
そう、自分に言い聞かせながら。
その日の夜。
紗英は、すずをとっておきのお店に連れていってくれた。
マンションから駅に向かう途中にある、イタリア料理のナチュールだ。
「いっぱい食べて、いっぱい動こう。うちらまで元気なかったら、恵美も困るからな!」
そう言って、紗英はサラダやパスタ、デザートを注文した。
どれもとても美味しくて、すずは笑顔で食べた。
美味しい、と思ってしまうことに、少しだけ罪悪感があった。 母は病院にいて、自分はこうしてパスタやデザートを食べている。
そんなことを思った瞬間、紗英が言った。
「すず」
「え?」
「美味しい時は、美味しいって思ってええねん」
すずは、はっとして顔を上げた。
「恵美が入院してても、すずがお腹空くのは悪いことちゃう。美味しいもん食べて、明日もちゃんと動くために食べるんやから」
「……うん」
「泣くのもええ。食べるのもええ。怒るのもええ。全部いっぺんに来るから、しんどいだけや」
紗英は、明るい顔でそう言った。
すずは、ゆっくり頷いた。
食べながら、紗英は兵庫医大への行き方を教えてくれた。
マンションの裏手にある武庫川は、兵庫医大の最寄り駅まで繋がっていて、川沿いを歩けば三十分ほどで着くそうだ。
「バスで行ってもええし、川沿いを歩いていくのも気晴らしになってええと思うで」
「歩いて三十分……」
「ちょっと遠いけどな。でも、川沿いは気持ちええよ」
もし学校帰りに行くなら、阪神電鉄になるそうで、すずはスマホでメモを取った。
阪神神戸三宮駅。
阪神武庫川駅。
そこから、病院まで歩く。
文字にすると簡単だった。
けれど、すずの頭の中では、三宮の地下街も、阪神電車も、武庫川という駅名も、まだ全部が知らない地図の上に浮かんでいるだけだった。
「大丈夫。最初だけややこしいけど、一回行ったら覚えるわ」
紗英は、フォークでパスタをくるくる巻きながら言った。
「ほんまに?」
「ほんまほんま。あかんかったら電話して。仕事中でも出る」
「でも……」
「でも禁止」
紗英はすずをまっすぐ見た。
「迷ったら電話。しんどかったら電話。不安でも電話。そういう時のために、伯母さんはおるんです」
すずは、胸の奥が少しだけ熱くなるのを感じた。
「……うん」
「よろしい」
紗英は満足げに頷き、デザートの皿をすずの方へ押した。
「はい、これ半分あげる」
「え、いいの?」
「こういう日は甘いもん食べるって、法律で決まってる」
「そんな法律ある?」
「うちの法律や!!」
すずは思わず笑った。
その夜、すずはお気に入りのノートを開いた。
そして、今日聞いたことや思ったことを書き始めた。
ーーーーー
バイト⇨学校⇨阪神電車で兵庫医大→歩いて帰ってくる!
※体力つけたいから!
ーーーーー
そういう作戦!というつもりで書いていく。
そしてこうも書いた。
ーーーーーー
泣かない。できることをしていくだけ。
ーーーーーー
そしてグッと手を握って、目を瞬かせた。
ピロン
ラインがなった。
天馬からだった。
tenma:大丈夫か?明日、学校休むなら、プリント届ける。
すずはしばらく、誰からのラインにも返事していなかったことを思い出した。
(わわっ未読スルーをしてしまっていた!)
suzu:大丈夫!ありがとう。明日行きます。
タップして、ライン一覧をみる。
日付は一昨日になっていて慌てて返事を送る。
Lyon:すず大丈夫かー!!
Riku:疲れたんか?
すずは文字を打った。
suzu:大丈夫!あの時、ママが入院するって連絡がいきなり来たの。それでびっくりしちゃって…でももう大丈夫だから!心配かけてごめんね
すぐに返事がきた。
Lyon:マジか!大丈夫?無理しないで
Riku.:マジか
suzu:うん!大丈夫ありがとう!
すずは少しだけ考えて、LINEを打った。
suzu:ママ、おやすみ
すぐに返事がきた
emi:おやすみ〜
すずは、少しだけ安心してベッドに入ったのだった。
翌日の水曜日。
「ええかバンビ!よー聞け!阪急三宮はJR三ノ宮の北側で高架で二階で、バンビの乗る阪神三宮は、JR三ノ宮の南側で地下の阪神三宮!阪神三宮駅の上には神戸阪急ってデパートがあるけどそれは罠で実はその下に阪神三宮の駅があるって覚えとけよ!わかったな!!?」
「はいいいい!!!」
帰りのHRが終わると、心配した佐伯がすずを捕まえて三宮のダンジョンを説明した。
すずは何を言っているかさっぱりだったが、佐伯の声に圧倒されて、とりあえず元気よく返事をした。
佐伯は、眉を寄せてすずを見つめて「あかんな」と呟いて、「天馬、頼むわ」と言った。
「最初からそのつもりです」
「えっ、いいよ! 天馬くん、JRやん」
「すぐそこやから」
「でも……」
すずが言い淀むと、天馬は少しだけ目を細めた。
「迷ったら電話しろって、伯母さんに言われたんちゃうん」
「なんで知ってるの」
「顔に書いてる」
「書いてないよ!?」
リョンファが横で吹き出した。
「天馬、もう保護者やん」
「違う」
天馬は低く返した。
「途中までや」
結局、すずは天馬に阪神神戸三宮駅の改札近くまで送ってもらった。
地下へ降りる階段を下りると、空気が少し変わる。
JRとは違う、人の流れ。 見慣れない色の案内板。 聞き慣れない発車案内。
すずは改札の前で、スマホをぎゅっと握った。
「ここから、武庫川まで乗る」
天馬が言う。
「うん」
「降りる駅、間違えんなよ」
「うん」
「着いたらLINE」
「うん」
天馬は少しだけ黙ってから、すずの頭に手を置いた。
ぽん、と一度だけ。
「行ってこい」
その手の重さで、すずの喉が少し詰まった。
「……行ってきます」
改札を通る。
振り返ると、天馬はまだそこに立っていた。
すずは小さく手を振り、ホームへ向かった。
阪神電車は、JRとは違う、どこか重厚で力強い音を立てて走り出した。
地下駅特有のひんやりとした空気を切り裂き、電車がトンネルから抜け出す。
その瞬間、夕陽に染まった神戸の街並みが視界に飛び込んできた。
窓の外を、知らない街の名前が次々と流れていく。
線路のすぐ脇には、ぎっしりと住宅が立ち並んでいる。
ベランダに干された洗濯物、夕飯の支度の匂いが漂ってきそうな古いアパートの窓、街工場の錆びたトタン屋根。JRの路線よりもずっと、街の「日常」と、生活のすぐそばを電車が縫うように走っているのがわかった。
ふと視線を上げると、建物の隙間から、オレンジ色の光を反射してきらきらと輝く海が見えた。
大阪湾だ。
行き交う貨物船やクレーンのシルエットが、まるで絵画のように流れ去っていく。
さっきまでの、JRの都会的な景色とは違う。
もっと無骨で、でもどこか懐かしいような、人の営みが濃い風景。
その景色が、すずの知らない「お母さんのいない世界」の現実として、心臓をざわつかせた。
岩屋、
西灘、
大石。
聞き慣れない駅名を、すずはスマホの地図アプリと見比べながら必死に追う。
新在家、
魚崎、
芦屋。
電車がカーブを曲がるたびに、車体が大きく揺れる。
吊り革につかまるすずの手には力が入り、その振動が指先から心臓まで伝わってくるようだった。
西宮、
甲子園
(あ、ここが伯母さんが言ってた駅だ。)
<阪神甲子園駅通るけど、帰りに阪神で帰ってきたらあかんで。JR甲子園口はまたちゃうからな。うーん、甲子園口帰ってきてからバス乗るのもいいけど、結局お金使うんやったら最初から阪神で行ったらええねん>
おばさんの声がリフレインした。
なんとなく言っていたことが、実際に乗ってみてわかった気がした。
大きなスタジアムの影を通り過ぎる。
そして、武庫川駅。
ホームへ滑り込む電車の音とともに、すずは思わず足を止めた。
駅に降りた瞬間、息を呑んだ。
駅は、川の上にあったのだ。
足元には、静かに流れる武庫川の水面。
広い川幅が、夕闇の中で青黒く透き通っている。
吹き抜ける風が、電車の揺れで高ぶっていたすずの心臓を、冷たく、優しく冷やした。
風の抜ける音。
遠くで誰かが奏でる楽器の音色。
向こう側に見える尼崎の街の光と、こちら側に続く西宮の街の明かり。
武庫川は、思っていたよりずっと大きく、そしてどこか孤独に寄り添うような広がりを見せていた。
ちょうど夕暮れの時間帯で、川と空の境界線が、燃えるようなオレンジ色から、深い藍色へとゆっくりと溶け合っていく。
海が近いのだろうか、カモメが数羽、水面を低く滑るように飛んでいくのが見えた。
すずは、さっきまで感じていた不安が、川風にさらわれていくのを感じた。
ここで、お母さんは戦っているんだ。
この川の先にある病院で。
すずはスマホを握りしめ、自分を奮い立たせるように小さく息を吐いた。
suzu:武庫川、着きました!駅が川の上にある。すごい!!
天馬に送ったLINEの返信を待つ間も、川面は変わらず穏やかに流れ続けていた。
すぐに既読がついた。
tenma:せやろ
tenma:そこ、風強いから気をつけろ
すずは少しだけ笑った。
それからスマホの地図を開き、病院へ向かって歩き出そうとしたが、もうすでに駅から見えていた。
兵庫医大の建物は大きかった。
明るくて、清潔で、人がたくさんいて、けれどどこか静かだった。
受付の声。 エレベーターの音。 消毒液の匂い。 白い壁。 ナースステーションの前を通る時の、少しだけ緊張する感じ。
病室の前で、すずは一度立ち止まった。
深呼吸をする。
いつも通りに。
そう思って扉を開けると、母はベッドの上で本を読んでいた。
「あ、すず」
母は、いつものように笑った。
「来たん?」
「来たよ」
「学校帰り?」
「うん」
「疲れてるやろ。無理せんでええのに」
「無理じゃない」
母が言う「大丈夫」と、すずが言う「無理じゃない」は、たぶん同じくらい嘘だった。
でも、その日はまだ、二人ともそれを責めなかった。
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