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大丈夫じゃない。

「……大丈夫じゃない」


 口にした瞬間、自分の声が、思っていたよりずっと幼く震えていることに気づいた。

 ピンクの傘を握った手が、小さく震えている。

 右手には、須磨シーワールドのお土産が入った袋。

 母に渡そうと思って買ったクッキーの箱が、その中でかさりと音を立てた。

 天馬は、何も言わなかった。

 ただ、すずの顔を見て、それから手元の紙袋に目を落とし、静かに息を吐いた。


「……伯母さんに電話できる?」

「え……」

「ひとりで待つ顔ちゃう」


 低い声だった。

 怒っているわけではない。

 でも、逃げ道を塞ぐみたいに、まっすぐな声だった。


「で、でも、伯母さん、仕事中やし……」

「こういう時に呼ぶための大人やろ」


 すずは、言い返せなかった。

 迷惑をかけたくない。

 大げさにしたくない。

 泣いているところなんて見られたくない。

 そう思うのに、スマホを持つ指先は勝手に震えていた。

 すずは紗英の名前を押した。

 呼び出し音が鳴る。

 一回。

 二回。

 三回。

 出ないかもしれない。

 仕事中だから。

 子どもたちを見ている時間だから。

 迷惑かもしれない。

 そう思った時、通話がつながった。


『すず? どないしたん?』


 伯母の明るい声が聞こえた瞬間、すずの喉が詰まった。


「あ、あの……伯母さん」

『うん? 須磨シー楽しかった?』

「楽しかった……」

 そこまでは言えた。

 けれど、その後が続かない。

『すず?』

 紗英の声が少し変わった。

『何かあった?』

 すずは、隣に立つ天馬を見た。

 天馬は小さく頷いた。

 言え。

 そう言われた気がした。

「……パパから、LINEが来て」

『うん』

「ママが癌になったって。入院するって。……私、知らなくて」

 電話の向こうが、一瞬だけ静かになった。


 天馬は癌という単語にピクリと視線を動かした。


 その沈黙で、すずは察してしまった。

 伯母は知っていたのだ。

『……すず』

 紗英の声が、さっきよりずっと柔らかく、そして重くなった。

『今、家?』

「うん」

『恵美は?』

「まだ帰ってない」

『わかった。私、今から帰る。すぐは無理かもしれんけど、絶対帰るから。すず、ひとり?』

 すずは天馬を見上げた。

「……天馬くんが、送ってくれた」

『天馬くん?』

「学校の友達」

『その子、まだそこにおる?』

「うん」

『なら、伯母さんが帰るまで一緒におってもらい。すず、今ひとりになったらあかん』

 その言葉で、また涙が落ちた。

「……うん」

『すぐ帰る。待ってて』

 通話が切れた。

 すずはスマホを握りしめたまま、玄関先で立ち尽くした。

「伯母さん、帰ってくるって」

「うん」

「でも、仕事……」

「帰ってくるって言ったんやろ」

「……うん」

「じゃあ待つ」

 天馬はそれだけ言った。

「天馬くんは、帰っていいよ」

「帰らん」

「でも」

「帰らん」

 短い言葉なのに、そこには絶対に動かない重さがあった。

 すずは、それ以上何も言えなかった。

 マンションの玄関を開ける。

 部屋の中は、まだ誰もいない。

 すずは靴を脱ぎかけて、でも足が動かず、玄関の上がり框に腰を下ろした。

 天馬は家の中には入らなかった。

 ただ、扉のすぐ外ではなく、玄関のたたきの端に立った。靴を履いたまま、壁にもたれるようにして、すずと同じ空間にいてくれる。

 近すぎない。

 でも、遠くもない。

 それが、今のすずにはひどくありがたかった。

 しんとした部屋の中に、冷蔵庫の小さな音だけが響いている。


 母に買ったクッキー。

 伯母に買ったクッキー。

 父に買ったクッキー。

 ベーカリーツバメのみんなへのお菓子。

 四人で買ったシャチのキーホルダー。

 今日が、楽しかった証拠ばかりだった。

 なのに、スマホの中には父からのLINEが残っている。


 ママが癌になったんやって?

 その文字を思い出した瞬間、また涙があふれた。

 声は出なかった。

 ただ、涙だけが、ぽろぽろと落ちた。

 天馬はしばらく黙っていた。

 そして、少し困ったように自分のポケットを探った。


「……俺、ハンカチとか持ってないから」

「え……」


 すずが涙でぼやけた目を上げると、天馬は少しだけ気まずそうな顔をしていた。


「悪い」

「な、なんで謝るの……」

「いや」


 天馬は一瞬迷ったあと、すずの前にしゃがんだ。

 そして、自分の白いTシャツの裾をつまむ。

 何も言わず、Tシャツの裾でそっとすずの頬を拭いた。

 乱暴ではなかった。

 不器用なのに、ひどく優しかった。

 目元に触れないように、頬に落ちた涙だけを、ゆっくり拭う。


 すずは小さく言った。


「服、汚れる」

「もう汚れた」

「ごめん」

「謝んな」


 天馬は低く言った。


「泣く時まで謝らんでええ」


 その言葉で、すずはまた泣いた。

 今度は、少しだけ声が漏れた。

 ずっと我慢していたものが、ほどけるように。

 須磨シーワールドの青も、シャチの水しぶきも、四人で撮った写真も、父からのLINEも、母の顔も、全部が胸の中でぐちゃぐちゃに混ざって、言葉にならないままこぼれていく。

 天馬は、何も聞かなかった。

 ただ、そばにいた。

 玄関先で、靴を履いたまま。

 白いTシャツの裾を涙で濡らしながら。

 すずが泣き止むまで、ずっとそこにいた。

 それから、どれくらい経っただろう。

 廊下の向こうから、慌ただしい足音が聞こえた。


「すず!」


 玄関の扉が開き、伯母の紗英が飛び込んできた。

 髪は少し乱れていて、保育所から急いで帰ってきたのがひと目でわかった。

 紗英は玄関に座り込んでいるすずと、その前にしゃがんでいる天馬を見て、一瞬だけ状況を飲み込むように目を見開いた。

 そして、すぐに靴を脱ぎ捨て、すずの前に膝をついた。


「すず」


 その声を聞いた瞬間、すずはもう一度泣きそうになった。


「伯母さん……」

「うん。帰ってきた。もう大丈夫や」


 紗英はすずの肩を抱き寄せた。

 それから、天馬の方へ顔を向ける。


「天馬くんやね」

「……はい。西倉天馬です」


 天馬は立ち上がり、少しだけ頭を下げた。


「送ってくれて、待っててくれて、ありがとう」

「いえ」

「ほんまに助かった」


 紗英の声は、いつもの明るさよりずっと静かだった。

 天馬は少しだけ目を伏せた。


「もう大丈夫。ここからは私がおるから」


 紗英はそう言ったあと、少しだけ柔らかく笑った。


「ありがとう。すずを一人にせんといてくれて」


 天馬は、すずを一度だけ見た。

 すずは涙でぐしゃぐしゃの顔のまま、小さく頭を下げた。


「……ありがとう」

「うん」


 天馬は短く頷いた。


「LINEして。落ち着いたらでええから」

「……うん」


 天馬は玄関から出ていった。

 扉が閉まる直前、彼の白いTシャツの裾が、少し濡れているのが見えた。

 すずはそれを見て、胸の奥がまたぎゅっと痛くなった。

 でもその痛みは、さっきまでの真っ暗なものとは、少しだけ違っていた。

 誰かがそばにいてくれた。

 大丈夫じゃないと言った自分を、置いていかずに待っていてくれた。

 その事実だけが、涙の向こうで、かすかに温かかった。



 静寂が、再びこの部屋に戻ってきた。

 けれど、さっきまでのしんとした静けさとは違う。今の部屋には、伯母の紗英という確かな体温と、張り詰めた空気が満ちている。

 紗英はすずの手を引き、リビングのテーブルまで連れていった。

 まだ電気をつけていない部屋は、夕暮れの淡い青に染まっている。窓の外では、街灯が一つ、また一つと点灯し始めていた。


「座り」


 紗英は慣れた手つきでケトルを回し、お湯を沸かし始めた。


「お茶、淹れるから。すずは座ってて」


 すずは言われるまま、ダイニングテーブルの椅子に座る。さっきまで座っていたピンクの傘のところから、世界ががらりと変わってしまったような感覚だった。

 お土産の袋が、テーブルの上に置いてある。

 その中にあるクッキーの箱が、まるで母を騙していた証拠品のように見えて、すずは目をそらした。


「……知ってたん?」


 喉から絞り出すように聞いた。

 紗英はお湯を注ぐ手を止めず、背中を向けたまま答えた。


「うん」


 淡々とした、正直な響きだった。


「いつから?」

「ふう。年明けくらいかなぁ。お父さんと別れる前、お母さん、体調崩してたやろ。あれがなぁ、ただの疲れやなかったんよ」


 紗英の言葉に、すずの脳裏に記憶が蘇る。

 父がいなくなった後の、母の青白い顔。無理をして笑っていた表情。仕事に出かけるたびに、少しずつ痩せていく背中。父の浮気が分かったからだと思っていた。


「……ずっと、隠してたの?」

「隠してたっていうか……恵美が、すずには絶対言わんといてくれって。……お願いされたんよ」


 紗英が振り返った。カップを二つ、テーブルに置く。湯気が、彼女の疲れた表情をぼんやりと隠す。


「恵美は、怖かったんよ。すずを不安にさせるのが、何より怖かった。パパのことがあって、環境が変わって、一生懸命頑張ってるのを見てたから。自分が癌だなんて言ったら、すずが自分のことばかり気にするようになるって、そう思ってた」

「だからって……!」


 すずの声が震えた。


「黙ってられるなんて、ひどいよ。……私、自分のことばっかり……!」

「今な、すず」


 紗英はすずの手を握った。冷たくなっていたすずの手が、伯母の温かい掌に包まれる。


「恵美は、癌を小さくするお薬をしてるんよ。それである程度小さくなったら、手術することが決まってるの」


 すずは頷いた。


「その薬はな、吐き気がしたり、頭が痛くなったりしてしんどい時があるねん」


 すずの瞳から、ポロポロと涙がこぼれ落ちた。


「すずは、精一杯頑張った。恵美も、精一杯頑張った。一緒やねんよ。大変な時やからこそ、

 すずには『普通の高校生』として、笑っててほしかったんよ。水族館に行ったり、お友達と写真を撮ったりして、悩みなんて勉強と恋愛のことくらいしかない、そんな時間を過ごしてほしかったの」


 すずの涙が、またあふれた。


 それは、母の優しさだったのだ。

 けれど、その優しさは、同時にすずを孤独にしていた。

 自分だけが何も知らずに、楽しそうに笑っていたなんて。


「私……帰ってきたら、なんて顔をしたらいいの。帰ってきたお母さんに、なんて言えばいいの」

「いつも通りでええ」


 紗英は断言した。


「普通に、おかえりって言い。水族館楽しかったって、キーホルダー見せてあげ。お土産のクッキー、食べようよって言い」

「……そんなこと、でけへん、私…!」

「できる」


 紗英の目は、どこまでもまっすぐだった。


「それが、恵美が一番欲しかった日常やから」


 すずは、テーブルの上の紙袋を見た。

 シャチのキーホルダー。

 母に買ったクッキー。

 父に買ったクッキー。

 そうだ、父は知っていたのだ。

 瞬間、これまでにない怒りがすずに芽生えた。


「……パパ、いつから知って…」

「すず。パパにもパパの事情が……」

「ママが癌で大変な時に、新しい人家に連れ込むなんておかしいわ!!!!」


 すずは、これまでパパに関して我慢していたことが爆発したかのように叫んだ。


 紗英は、自分自身も涙を堪えながら、ぎゅっとすずを抱きしめた。


 パパが浮気相手を妊娠させたと聞いたのは、学校のクラスメイトから聞かされた話だった。

 小さい町だ。

 噂はあっという間に広がって、すずたちは居心地の悪さを感じながら生きてきた。



 小さい頃から住んできた思い出の家に、全てを置いてきた。

 ピアノ、アルバム、タンス、お気に入りの勉強机、ママのお気に入りの食器棚に、大きな姿見。

 高校だってせっかく受験で受かった高校を捨ててまでして、あの家から出てきたのだ。


 パパが、浮気相手を妊娠させて、結婚するって言うから!!

 だからママは実家に帰るしかなかったと言うのに!!

 知りながら浮気相手との結婚を進めるなんておかしい!!!


 すずの脳裏にあの時の母親が次々と浮かぶ。



 治療をしながら引っ越し作業をするのはどれだけ辛かったことだろう。

 治療をしながら荷物をまとめて、すずの転校先も探して、どれだけ大変だったことだろう。

 そんな中で、働いて…


 すずはもう涙が止まらなかった。


「はぁ…正直、パパが関わってくるのは想定外やった」


 紗英の口調に、わずかに苛立ちが混じる。


「すずに余計な動揺を与えて……。でもまあ、恵美にとっては、昔の家族が心配してくれるのは、悪いことやないのかもしれん」


 カチャリ、と玄関の鍵が回る音がした。

 すずの心臓が跳ねる。


「……帰ってきた」


 紗英が小さく頷く。


「すず、顔洗ってき。泣いた顔、見られたくないやろ?」


 すずは慌てて立ち上がり、洗面所へ走った。

 鏡の中の自分は、目が腫れ、唇が青ざめていた。

 冷たい水で何度も顔を洗う。

 深呼吸をする。

 大丈夫。

 いつも通りに。

 それが、母が守りたかった日常なのだから。

 洗面所から出ると、リビングから母の声が聞こえた。


「ただいまー。あー、疲れた。姉ちゃん早いやん!」


 いつも通りの、少しハスキーで、少しおどけたような母の声。

 すずは、リビングの入り口に立った。

 母は、玄関でカバンを置いて、靴を脱いでいた。

 いつものスーツ。いつもの髪型。

 でも、よく見ると、頬のあたりが少しだけこけている気がする。

 母は、すずの姿に気づくと、パッと顔を明るくした。


「あ、すず! おかえり! どうやった? 水族館!」


 その笑顔は、あまりにも自然で、あまりにも綺麗で、胸が締め付けられるほど愛おしかった。

 すずは、握りしめたこぶしを緩めた。

 涙をこらえ、口角を上げ、精一杯の笑顔を作って言った。


「……ただいま。すごく、楽しかったよ」


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