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神戸須磨シーワールド②

館内に入った瞬間、すずは思わず足を止めた。

目の前に、圧倒的な「青」が広がっていた。

ただの水槽ではなかった。壁の向こうに水がある、というより、自分たちの方が海の中へ迷い込んでしまったような、奇妙な浮遊感があった。頭上近くまで弧を描くように広がる外洋水槽の中を、銀色の魚たちが吹雪のように群れになって泳いでいる。水面で乱反射した光が、揺らぎとなって壁にも、床にも、すずの頬にも淡く落ちていた。


「……」


言葉が出なかった。


すずは吸い寄せられるように、水槽に一歩近づいた。分厚いアクリルガラスの向こうを、魚の群れがすうっと横切っていく。大きなエイの影が悠然と通るたびに、小さな魚たちが光の粒みたいに形を変えて散っていく。


「……綺麗」


ぽつりとこぼれた声は、自分でも驚くくらい小さかった。

けれど、隣にいた天馬にはしっかり届いたらしい。彼が、すずの横顔を見た気配がした。

すずは水槽から目を離せないまま、ふわりと笑った。


「海の中におるみたい」


その笑顔を見た瞬間、天馬は何かを言いかけた。けれど、声にはならなかった。


「バンビ、顔! 顔が完全に海の子になってる!」


玲花がすかさずスマホを構える。


「待って、今の顔撮りたい!」

「えっ、いやや、今の顔ってどんな顔!?」

「めっちゃええ顔! 無加工でいける!」

「無理無理無理!」


すずが慌てて両手で顔を隠すと、陸が水槽を見上げながらぼそっと言った。


「魚の方が落ち着いてるな」

「比較対象が魚なんや」


天馬が短く笑った。

それから四人は、薄暗い順路に沿って館内を歩いた。

イルカのコーナーでは、すずがまた完全に足を止めた。水の中を滑るように泳ぐイルカが、時々こちらへ顔を向けてくる。そのたびに、ばっちりと目が合ったような気がして、すずは小さく息を飲んだ。


「見て! 今、こっち見た!」

「バンビ、さっきから全部と目ぇ合っとーな」


玲花がケラケラと笑う。


オルカのコーナーへ行くと、今度は空気が劇的に変わった。

シャチは、図鑑で想像していたよりずっと大きかった。

黒と白のコントラストの強い体が、水の中でゆっくりと向きを変える。それだけで、水槽の中の大量の海水がうねり、空気まで一緒に動くような迫力があった。すずはガラスに張り付くように近づき、ただただ見上げた。


「すごい……」

「大きいな」


天馬が隣に並んで言う。


「うん。大きいのに、怖いだけじゃないね」

「怖くないん?」

「うん。なんか……強くて、綺麗」


すずはシャチの滑らかな動きを目で追いながら言った。


「大きいのに、ちゃんと水の中で自由そう。すごいなぁ」


天馬は、シャチではなく、すずの横顔を見ていた。

水槽の深い青い光を受けて、すずの頬が淡く光っている。低く結んだ髪が肩に落ち、赤い靴下が足元で少しだけ見えている。

天馬は小さく息を吐いた。


「……そういうとこ」

「え?」

「いや」


天馬はふいっと目をそらした。


「なんでもない」

「今、何か言った?」

「言ってへん」

「言ってたよね?」

「空耳」

「水族館で空耳って何……?」


すずは不思議そうに首を傾げたが、すぐにシャチがこちらへ近づいてきてアクリルを叩き、また完全に意識を奪われた。

昼は、シャチが見えるレストランに入った。


高校生の感覚では、かなり勇気のいる値段だった。

けれど、財布の中には、今月のバイト代がちゃんと入っている。朝七時から立ちっぱなしで働いて、パンの名前を覚えて、レジを打って、袋詰めをして、少しずつ貯めた自分のお金。

今日は、ご褒美の小旅行なのだ。


「バンビ、大丈夫?」


玲花がメニューの向こうから心配そうに覗き込む。


「だ、大丈夫。今日は、ちゃんとお金あるから」

「えらい!」

「えらいって言われることなんかな……」

「えらいよ。自分で働いたお金で、自分が行きたい場所に来て、ごはん食べるんやで。めっちゃえらい」


玲花は当然のように言った。その裏表のない言葉に、すずは少しだけ胸が熱くなった。

席に案内されると、目の前の大きな水槽の向こうを、シャチが悠々と泳いでいた。


「うわ……」


すずは椅子に座るのも忘れて見入った。レストランの中なのに、そこだけ深い海の底みたいだった。青い光がテーブルに落ち、白い皿の上にも波模様を作って揺れる。


「すごい、食べながら見れるんや……」

「バンビ、口開いてる」


玲花が笑う。


「あっ」

「写真撮ろ。四人で」


玲花が近くのスタッフに声をかけ、四人は水槽を背景に並んだ。

すずの隣には、ごく自然に天馬が立った。

近い。肩が触れそうで触れない絶妙な距離。けれど、天馬は少しだけすずの方へ体を寄せ、後ろの他のお客さんにぶつからないように、すずの背中の後ろに軽く手を添えて壁になってくれた。


「撮りまーす」

「バンビ、笑って!」

「は、はい!」


シャッター音が鳴った。

画面の中には、玲花が満面の笑みでピースをしていて、陸は少し眠そうで、天馬はいつもより穏やかな顔をしていた。

そして、すずは。

少し緊張して、でも、確かに心から笑っていた。


「インスタあげよ!」


玲花がすぐに言う。


「え、今?」

「今!」


四人で写真を確認し、玲花がすずをタグ付けする。すずも、自分のアカウントに同じ写真を上げた。

――初めての須磨シー。

――ご褒美小旅行。

送信ボタンを押すと、胸がくすぐったくなった。

午後は、ウミガメの給餌体験に参加した。

キャストの人から説明を聞き、長いトングを使ってエサを持つ。大きなウミガメがゆっくりと近づいてくるたびに、すずは緊張で肩をすくめた。


「こ、これ、どのタイミングで出せば……」

「近づいてきたらでええんちゃう」


天馬が隣で冷静に言う。


「近づいてきてる! もう近づいてきてる!」

「落ち着け」

「無理!」


ウミガメが大きな口を開け、ぱくりとエサを食べた。


「食べた!」


すずは思わず笑った。


「食べたよ、天馬くん!」

「見てた」

「すごい! ちゃんと食べた!」

「そら食べるやろ」


陸が後ろで呆れたように言った。


「でも、わかる。俺も飯出されたらちゃんと食べる」

「陸とウミガメを同じ枠に入れんな」


玲花がすかさず突っ込んだ。

体験中は写真が撮れなかったので、終わったあと、四人はウミガメの展示の前でまた写真を撮った。

その頃には、雨は完全に上がっていた。


昼食の後、四人はこの水族館の最大のハイライトである「オルカパフォーマンス」を観るため、スタジアムへと移動した。


すっかり雨の上がった空の下、すり鉢状の大スタンドは、平日の金曜日だというのに信じられないほどの熱気と観客で埋め尽くされていた。かすかに響くプールの循環水の音と、アナウンスの声が嫌でも期待感を煽る。


「はい、ここからはガチの戦場やから。前の方の席は死ぬで」

玲花が慣れた手つきで、売店で買ってきたポンチョを広げる。


「え、そんなに濡れるの?」 すずが戸惑っていると、陸がスタジアムの電光掲示板を見上げながら、他人事のように言った。


「掲示板に『7列目までは水しぶきが届きます』って書いてある。俺らの席、5列目やな」

「5列目!? 絶対あかんやん!」 すずが慌ててポンチョのフードを被ろうと格闘していると、天馬が無造作にその紐を引っ張って、顔のサイズに合わせて結んでくれた。


「これ、ちゃんと結んどかんとめくれるぞ」

「あ、ありがと……」


やがて、軽快な音楽とともにシャチとトレーナーがステージに姿を現した。

その瞬間、スタンドから割れんばかりの拍手が沸き起こる。


プールを滑るように泳いでいたシャチが、トレーナーの合図とともに、爆発的なスピードで加速した。長さ数メートルの巨体が、重力をあざ笑うかのように水面から完全な放物線を描いて宙に舞う。


「うわあ……!」


すずは息を呑んだ。巨大な黒と白の塊が空中で静止したかと思った次の瞬間、ドゴォン!と地響きのような音を立ててプールに叩きつけられた。


直後、スタジアムを襲ったのは、文字通りの「水の壁」だった。 シャチがわざと尾びれで客席を煽るたびに、バケツをひっくり返したどころではない、スコールのような大量の海水が容赦なく5列目の彼らに降り注ぐ。


「キャー!! 冷たっ! すごっ!!」


玲花が悲鳴をあげながら大爆笑している。


見上げれば、二頭のシャチが息を合わせて同時に大ジャンプを決めるところだった。

きらめく水飛沫の向こうで、圧倒的な生命の躍動が、初夏の光を浴びて輝いていた。


すずはその美しさをただただ目に見開いて焼き付けた。心臓の鼓動が、シャチの水しぶきの音と混ざり合って、いつまでも激しく鳴り響いていた。


パフォーマンスが終わる頃には、誰もが言葉にできない興奮で顔を上気させていた。





館内を歩き回った足は少し疲れていたけれど、すずの胸はずっと弾んでいた。

最後に、お土産コーナーへ行った。

ぬいぐるみ、文房具、お菓子、キーホルダー。棚いっぱいに並んだ海の生きものたちを見た瞬間、玲花が目を輝かせた。


「お揃い買お!」

「お揃い?」

「記念! 四人で!」


玲花が選んだのは、小さなシャチのキーホルダーだった。少し丸っこくて、黒と白の体がかわいい。


「これ、可愛くない?」

「かわいい!」


すずが即答すると、天馬も無言で手に取った。


「ええやん」


陸は値札を見て少しだけ真顔になったが、結局、買った。


「給料日後やからな」

「そうそう、ご褒美」


玲花が笑う。

すずは、自分の分のキーホルダーを大事に握りしめた。

それから、お菓子売り場へ向かった。

母に。伯母に。ベーカリーツバメの店長と真帆さん、子どもたちに。

そして。

少し迷ってから、すずはもう一つ、クッキーの箱を手に取った。

父に。

父と最後に会ったのは、いつだっただろう。

奈良に残った父。母と自分ではない、別の誰かを選んだ父。考えると胸の奥が少し痛くなるけれど、それでも、今日ここに来たことを少しだけ伝えたくなった。

すずはレジを済ませ、スマホを取り出した。

少し迷って、メッセージを打つ。


『suzu:パパ、元気?』

『suzu:友達と水族館に来たんだけど……パパにもお土産買ってん。』

『suzu:次に会う時に、渡すね。』


送信ボタンを押す。

しばらく、既読はつかなかった。

帰りの電車に乗る頃には、すずは心地よい疲労で満たされていた。

足は重い。お土産の紙袋もかさばって重い。でも、その重さまでが楽しい思い出の一部だった。

玲花は撮った写真を見返しながら、「これストーリーにあげよ」「これは盛れてる」「陸、目ぇ開いてへん」と騒いでいる。陸は向かいの席で、シャチのキーホルダーを指先で弄りながら半分寝落ちしていた。

天馬は、すずの隣に座っていた。

お土産の袋を、当たり前のように自分の足元へ引き寄せてくれている。


「重くない?」


すずが小さく聞くと、天馬は首を横に振った。


「全然」

「ありがとう」

「うん」


電車がゆっくり動き出す。

須磨海浜公園駅を離れ、海が少しずつ遠ざかっていく。

その時、すずのスマホが震えた。

父からだった。

すずは少しだけ胸を高鳴らせて、画面を開いた。そこには、久しぶりに見る父の言葉が並んでいた。


『papa:すず、久しぶりやな。』

『papa:ママの癌の手術日は決まったか?』

『papa:入院してる間は大変だろう。』

『papa:できることはするつもりでおるから、頼ってや。』


――世界の音が、遠のいた。


さっきまで玲花が笑っていた声も、電車の走るガタンゴトンという音も、窓の外を流れる景色も、全部が冷たい水の底へ沈んでいくみたいだった。


癌。

入院。

母が?

ママが?


すずは文字を何度も読み返した。

意味はわかる。日本語として理解はできる。

でも、心がまったく追いつかない。

母は、今朝、いつも通り仕事に行った。化粧をして、保険会社の営業スマイルを作って、伯母と一緒に家を出たのだ。癌だなんて、一言も言っていなかった。

入院。そんな予定があるのか。

自分だけ、知らされていなかったのか。

足元が、急に真っ暗な深海になったみたいだった。

「すず?」

隣から、天馬の声がした。

いつもなら、すぐに「どうしたの?」と返事ができた。でも、喉が張り付いたように声が出なかった。

「どうした?」

天馬の手が、すずの方へ伸びかけて、空中で止まる。すずはスマホを握りしめたまま、ただ血の気の引いた顔で画面を見つめていた。

「バンビ?」

向かいの玲花も、すぐに異変に気づいた。


「顔、真っ白やで。何?」


答えなければと思った。

大丈夫、と言わなければ。

何でもない、と笑わなければ。

楽しかった今日を、こんなことで壊したくない。

でも、唇がワナワナと震えるだけで動かなかった。


「……」


すずは、何も言えなかった。

そこから先、どうやって電車を乗り継いだのか、ほとんど記憶がない。

誰がどこで降りたのか。天馬が何を言ったのか。

玲花が手を握ってくれていたような気もする。

陸が何か低い声で「先生に連絡しようか」と言った気がするけれど、それも曖昧だった。


気がつけば、すずは甲子園口の駅の改札を抜けていた。


夕方だった。

雨はもうすっかり止んでいて、空には薄い雲が残っている。駅前のパン屋からは、いつものように香ばしい匂いがしていた。

でも、その匂いすら、うまく現実のものとして受け取れなかった。


母は、まだ帰っていない。今日も仕事だと言っていた。

癌なのに? 入院するのに?

どうして何も言ってくれなかったの。

自分は、今日、水族館で無邪気に笑っていた。

シャチを見て、写真を撮って、キーホルダーを買って、お土産を選んだ。母に渡すクッキーまで買った。

これまで、母は、どんな気持ちでいたのだろう。


「……送る」


ふと、隣で低い声がした。

すずがハッと顔を上げると、そこには天馬が立っていた。玲花も陸もいない。いつの間にか、二人だけになっていた。


「天馬くん……」

「家まで送る」


天馬は、すずの重いお土産の袋をすでに自分の手に持っていた。


「いいよ、そんな……駅からはすぐだし……」

「送る」


天馬の目には、拒否を許さない静かな力があった。


「一人で帰せる顔ちゃうわ」


すずは、それ以上何も言えなかった。

二人で、夕暮れの道を歩く。

水たまりを避けるように、天馬が少し前を歩いてくれる。

マンションの前に着くと、天馬は黙ってお土産の袋をすずの手に渡した。


「……ありがとう」


すずが震える声で言うと、天馬はすずの顔をまっすぐに見つめた。


「家に誰もおらんの?」

「う、うん。多分もう少しで帰ってくる。」


天馬は少しだけ言葉を探すように間を置いた。


「大丈夫か?」


その言葉の温度に、すずの目から、不意に大粒の涙がこぼれ落ちた。


「……大丈夫じゃない」


すずは、ピンクの傘を握る手を震わせながら、呟いた。


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