バンビ、神戸須磨シーワールドへ初上陸!
須磨海浜公園駅の改札を出ると、雨の匂いに混じって、かすかに潮の匂いがした。すぐ近くに海があるのだという事実が、目に見えない大気の濃度となって皮膚にまとわりついてくる。
すずは、ピンク色の傘を両手でしっかりと持ったまま、駅前のロータリーにあるベンチにちょこんと座っていた。
緊張のせいで心臓がせわしなく位置を変えようとしている。すずはさっきから、意味もなく何度もスマホの画面を点灯させては消していた。
画面の中のグループトークでは、玲花が少し遅れると平謝りし、陸もまだ尼崎あたりを走行中だと伝えてきている。
そして天馬は――もう着いている、と。
そう思った瞬間、手元でスマホが短く震えた。
『tenma:小鹿、発見』
「えっ」
顔を上げるより先に、規則正しい足音が鼓膜に届いた。
改札の方から、天馬がこちらへ向かってまっすぐに歩いてくる。
黒のバケットハットを深く被り、オーバーサイズのシンプルな白いTシャツに、細身のデニム。肩から無造作に黒いサコッシュを下げたその姿は、まるで海外のファッション雑誌からそのまま抜け出してきたモデルのようだった。すずの周囲だけ、急に世界の解像度が上がったような錯覚に陥る。
帽子のつばの下から、天馬が八重歯を覗かせて小さく笑った。
すずは、思わず肺の空気をすべて止めた。
「おはよ」
「あ、お、おはよう」
天馬はすずの目の前でぴたりと足を止めた。それから、少しだけ目を細めて、すずの頭の先からつま先までを検分するように見つめる。
「今日、雰囲気ちゃうな」
「えっ」
「髪」
天馬の長い指先が、自分の髪のあたりをかすめる。すずは慌てて縮こまり、言い訳のように言葉を紡いだ。
「あ、これは、伯母さんとお母さんが……雨やから、下ろすと広がるって、巻いてくれて……」
「似合ってる」
「っ」
たった四文字の、炭酸水のように素っ気ない一言だった。それなのに、すずの心臓は肋骨の裏側で派手に跳ね上がった。慌ててピンク色の傘の柄を両手で握り直す。
「あ、ありがとう……」
天馬は、そんなすずの動揺を気にする風でもなく、今度は足元に視線を落とした。
「靴も、歩きやすそう」
「う、うん。伯母さんが買ってくれて。たくさん歩くやろって、これ防水のやつで……」
「ええやん」
当たり前みたいに、天馬はそう言った。
ちゃんと褒められている。くまなく見られている。普段のすずなら、気恥ずかしさのあまりその場から逃げ出したくなるところだった。けれど、天馬の視線には不思議と嫌な感じがまったくない。むしろ、雨と緊張で少し冷え切っていた体の内側が、じわじわと火を入れられたように温かくなっていくのがわかった。
すずの脳内は完全に行き先を見失い、パニックを起こした。どうしていいかわからなくなった結果、口から突飛な疑問が飛び出した。
「あ、あの」
「何」
「天馬くんって、モテるでしょう!?」
言い終えた瞬間、すずは自分の頭を鈍器で殴りたい衝動に駆られた。駅のホーム前で、一体全体何を質問しているのだ。
天馬は、さすがに予想外だったらしく、少しだけ目を丸くして瞬かせた。
「なんで?」
「だ、だって」
すずは真っ赤になりながら、必死で消え入るような言葉をかき集めた。
「優しいから」
口にしてから、さらに顔が沸騰していくのがわかった。優しい、だなんて、面と向かって言うにはあまりにも破壊力がありすぎる。
天馬は、しばらく黙ってすずを見つめていた。
二人の間に、傘の布地を叩く雨の音が、ぽつぽつと静かに割り込んでくる。天馬の瞳が、雨の光を反射して静かに揺れていた。
やがて、天馬はまるで「今日は雨だね」とでも言うかのように、なんでもないトーンで告げた。
「すずにだけやけど」
「……え?」
「優しいんは」
低く、少しハスキーな声が、鼓膜を震わせてまっすぐ耳の奥へ届いた。
「すずにだけ」
すずの思考回路は、ここで完全に爆破され、機能を停止した。
すずにだけ。すずにだけ。すずにだけ。
呪文のようなその言葉だけが、空っぽになった頭の中でピンポンのように何度も跳ね返る。
「あ、あの、え、そ、それは……」
「何」
「そ、それは、その、友だちとして……?」
必死の抵抗で絞り出した質問だったが、案の定、声がひどく裏返ってしまった。
天馬は、すずの狼狽ぶりを鑑賞するように、少しだけ綺麗に口元を緩めた。
「さあ」
「さ、さあ!?」
「自分で考えたら」
「そんな難問を駅前で出さないでください!」
すずは半ばヤケクソになって、思わず大きめの声を出した。天馬が、肩を揺らして小さく笑う。その笑い方が、いつもの少し意地悪で、でもすべてを許してくれているような天馬の感じで、すずはますます底なし沼に沈むように混乱した。
ちょうどその時、救世主の咆哮のごとく、遠くから聞き慣れた快活な声が降ってきた。
「おーい! バンビー!」
玲花だった。
すずは地獄から蜘蛛の糸を見つけたような気持ちで、勢いよく振り返る。
「リョンファちゃ……」
だが、満面の笑みで駆け寄ってきた玲花は、すずの耳まで真っ赤になった顔と、隣で妙に満足げに佇んでいる天馬を交互に見た瞬間、ピタリと急ブレーキをかけた。鋭い狐のような目が、一瞬で状況を察知する。
「……何かあったやろ」
「な、何もないです!」
「何もない顔ちゃうねん」
玲花の後ろから、陸が長い足を動かしてゆっくりと歩いてくる。手首の時計を見ながら、呆れたように、けれどどこか楽しげに口元を歪めた。
「駅着く前から糖度高いな。ごちそうさまですわ」
「黙れ」
天馬がドスの効いた声で短く遮る。すずは破裂しそうな顔を隠すように、傘の柄をぎゅっと握りしめたまま、海の方から吹き抜けてくる湿った風に頬を晒して、必死に体温を下げようとしていた。
「うわ、見て! 雨!上がりそう!!」
玲花が突然、パンッと手を叩いて嬉しそうに空を指差した。
言われて見上げれば、さっきまでどんよりと垂れ込めていた灰色の雲の切れ間から、まるで舞台の照明のように、優しく明るい光が地上に向かって差し込み始めていた。雨脚はいつの間にか霧のように細くなり、やがて完全に止んだ。
「ショー見れるかもやで! シャチのやつ、雨やったらカッパ着ても大変やん。めっちゃついてるわ、ウチら!」
駅の敷地を出て、目的の場所までは歩いて五分もかからなかった。潮の匂いがどんどん濃くなり、風が髪を優しくなでる。
玲花が「ほら、はよ行こ!」とすずの手をごく自然に引いて歩き出す。すずは引っ張られるまま、小さな歩幅で彼女に続いた。
「めっちゃ楽しい!!」
まだエントランスが見えただけだというのに、玲花は跳びはねるように声を弾ませる。
「うん、楽しい!」
すずも、さっきまでのパニックが嘘のように、胸の奥から湧き上がる高揚感に笑顔を返した。
前を行く女子二人の、弾むような後ろ姿を見つめながら、後ろを歩く男子二人は、どちらからともなく顔を見合わせて、思わずといった風に目を細めて微笑んだ。
目の前に広がったのは、雨上がりの光を浴びて、まばゆいほどに輝く白い石畳のエントランスだった。濡れた床が鏡のように空の光を反射し、まるで水上を歩いているかのような美しさを見せている。
そしてその中央には、今にも大空へと跳躍しそうな、ダイナミックで巨大なシャチのモニュメントがそびえ立っていた。黒と白の美しい曲線が、これから始まる特別な時間を象徴している。
潮風が、新しくオープンしたばかりの水族館の建物をすり抜けて、四人の間を通り抜けていった。
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