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須磨海浜公園駅への道。

 その日は、朝から雨が降っていた。

 六月の金曜日。

 窓の外では、細い雨がマンションのベランダをひたひたと濡らしている。


 空は薄い膜を張ったように白く曇り、武庫川の方角も、いつもより少しぼんやりと霞んで見えた。


 すずは、朝から丸テーブルの前にちょこんと座らされ、母の恵美と伯母の紗英にがっちりと包囲されていた。


「すずってば、今日初めてやろ? 神戸の友だちと遊びに行くの!」

 紗英が、これから合戦にでも赴くかのような、やたらと張り切った声で言う。

「舐められたらアキマヘン。ここは一発、決めてかなあかん!」


「姉ちゃん、ごめん、それダサいわ」

 恵美が即座に、しかし的確に斬り捨てた。


「一昔どころか石器時代やん」

「石器時代は言い過ぎやろ! せめて昭和後期!」

「自分で昭和言うてるやん」


 すずは、頭上で交わされる二人の漫才のような勢いに圧倒されながら、椅子の上でただ小さくなっていた。


「ま、待って待って。コテって何度? すずちゃん髪の毛細いから、温度低めでええとかあんの?」

「姉ちゃん、コテする前にこのスプレーしたって。熱から守るやつ」

「ファンデはむしろしやん方がええ。すず、あんた肌白いなー! マスカラだけ軽くしたる。あとリップ」

「あ、これこれこれ、これ忘れたらあかん。はい、これいい匂いのするクリーム! 手首に塗っていき」

「あ、はい……」

 四の五の言う隙などない。すずは、言われるがまま、されるがままだった。


 紗英はこの日のために、わざわざ紙の雑誌を買ってきていた。

 すずはそもそも、ファッション雑誌というものを自分で買ったことがない。服も髪型も、スマホの画面をスクロールすればいくらでも出てくる時代だ。だから、わざわざ重たい紙の束を買う必要なんてないと思っていた。

 けれど、髪をセットされながら膝の上で重みのあるページをめくってみると、なるほど、雑誌には雑誌の抗いがたい良さがあった。

 可愛い服。雨の日のヘアアレンジ。白いワンピースに合わせる靴下の色。

「初夏のおでかけメイク」なんて、自分には一生関係ない、違う星の出来事だと思っていた見出し。

 紗英はその中から、すずに似合いそうな髪型や服を見つけるたびに、几帳面に細い付箋を貼ってくれていた。


「これ、すずに似合うと思ってん。で、似たようなんネットで探して買っといた」

「えっ、買ったん!?」

「買った。だってすず、今日まで頑張ったもん」

 紗英は、さも当然の権利であるかのように言った。

「パン屋のバイトも、学校も、課題も。ほんま、よう頑張った」


 そのあっけらかんとした言葉に、すずは少しだけ胸の奥がぎゅっと詰まった。

 引っ越してきた二月からずっと、思えば、息をつく暇もないくらいあっという間だった。

 朝六時台に起きて、ベーカリーツバメへ行く。香ばしいパンの匂いに包まれて働き、水曜と木曜は三宮の学校へ行く。課題に追われ、電車の揺れに身を任せ、時々、天馬からひらがなばかりの短いLINEが来る。

 腕の火傷は、すっかり良くなった。完全に消えたわけではないけれど、白く薄い跡が少し残っているだけで、紗英は「あと数ヶ月もしたらほとんどわからんようになるわ」と請け負ってくれた。


「もし跡が残ったら、シミ焼き一緒に行こ!」

「姉ちゃん、気軽に美容皮膚科を勧めすぎ」

「ええやん。女の子の腕やで。綺麗にしときたいに決まってるやろ」

「でも、あの圭太くんもええ子やなぁ。奥さんも優しいし。」

 恵美が、すずの細い手首にフローラル系のクリームを丁寧に塗り込みながら言った。

「こないだパン買いに行ったら、めっちゃ丁寧に謝ってくれて。おまけまでしてくれてん」

「あ、圭太くん……」

「ええ子やけど、距離近いな」

 紗英が、何かを見透かしたように意味ありげに笑う。

「そいで? 今日遊びに行くん、男の子は二人やろ?」

「えっ」

 すずは、びくっと肩を跳ねさせた。

「なんで男の子二人おるん?」

「な、なんでって……特に意味はないよ。席が近いから、たまたま仲良くなって……」

「そんなわけないやん!」

「そんなわけないやろ!」

 紗英と恵美の野次が、ほぼ同時に飛んできた。

「女二人、男二人で水族館って、もうそれは何かの始まりやん! 歴史が動く日やん!」

「違うよ! リョンファちゃんが行こうって言い出して、陸くんと天馬くんも一緒で……!」


「天馬くん」

 恵美が、鷹のようにぴくっと反応する。

「その名前、最近よく聞くな」


「えっ、そ、そう?気のせいじゃ…」

「そうやで。スマホ鳴ったら顔赤くなる時あるし」

「な、なってない!」

「なってるなってる」

 紗英が、すずの髪を低い位置で二つに分けながら、心底楽しそうに笑う。

「今日は雨やから、髪は下ろさん方がええ。低いツインにして、毛先だけちょっと巻こ。湿気でアホ毛が広がったらあかんし」


 細く柔らかい髪に、ゆるくコテの熱が入る。

 いつものストンとしたまっすぐな髪とは少し違う。低い位置で結ばれた髪の先が、ほんの少しだけ外へ跳ねて揺れている。鏡の中の自分は、いつもの気の抜けた自分より、少しだけ輪郭のはっきりした、よそ行きの顔をしていた。


 結んだ後に、髪を優しく引っ張り、おくれ毛をわざと出す。

 ふわふわのツインテールが出来合った。


「可愛い!」

 紗英が満足げに、パンッと手を叩く。

「可愛いわ、すず」

 恵美も、すずの肩に手を置き、少し柔らかい顔で言った。

「バイトに勉強に、よう頑張ったし……ほんま、可愛くなった」

「それは私のおかげや」

 紗英がこれ見よがしに胸を張る。

「そこは否定せえへん」

 恵美が笑った。

 

 すずは、この二人が好きだった。父のことがあってから、母はずっと不安定で、張り詰めた糸のような何気ない一言に、すずが傷ついてしまうこともあった。でも、こうして伯母と二人でわいわい、あーだこーだと言いながら、自分の髪を巻いたり、服の襟元を整えたりしてくれる時間は、どうしようもなく温かくて、息がしやすかった。


 七時半になると、恵美と紗英は一緒にばたばたと家を出ていった。今日は雨なので、紗英は恵美の車で保育所まで送ってもらうらしい。


「すず、水たまりで転ばんようにね!」

「傘、電車に忘れたらあかんで!」

「財布! スマホ! チケット!」


「全部ある!」


 二人の声が玄関先で重なり合い、やがて金属質の音を立てて扉が閉まる。

 急に静まり返った部屋で、すずはもう一度、鏡の中の自分を見た。

 母が買ってくれた、フレッドペリーのオフホワイトのポロシャツワンピース。

 伯母が選んでくれた、くるぶしまであるごつめの防水スニーカー。

 赤い靴下が、足元から少しだけ差し色のように覗いている。

 ファミリアの赤いチェックのスマホショルダー。黒い、小さなポシェット。そして、少し照れくさいくらい可愛いピンク色の傘。


 九時。すずは傘を開き、甲子園口の駅へ向かって歩き出した。

 雨粒が傘の布地を叩く音が、ぽつぽつ、ぱらぱらと耳元で小気味よく鳴る。道路には薄く水の膜が張り、パン屋や本屋の看板が、濡れたアスファルトの上にぼんやりと反転して映っていた。


 ベーカリーツバメの前を通りかかった時、すずはふと、昨日の夕方の珍事を思い出した。

 昨日、学校帰りに駅前を歩いていると、店の前のベンチで圭太が座り込んでいたのだ。学ラン姿のまま、腕を固く組み、眉間にシワを寄せて妙にむすっとした顔をしている。


「あ、圭太くん。お疲れ様で……す?」


 声をかけると、ガバッと立ち上がり、すずの前に立ちはだかった。


「明日、お店休むって聞きました」

「えっ」

「どこ行くんですか」

「え、あ、ご、ごめん。明日は元々お休みで、友達と遊びに行くの」

「それって、tenmaって人も?」

「えっ。どうして天馬くんを知ってるの?」


 すずは本気で目を丸くした。圭太は、バツが悪そうに少しだけ視線をそらした。


「インスタに……須磨シーのポスター載せてたじゃないですか。コメント欄に、何回も出てくる人いたし。あの人のインスタにも須摩シーのポスター載ってたし」

「えっ、あ、あの、私のインスタ、知ってるの……?」

「だって、ベーカリーツバメでタグ付けしてたし」

「あ、そっか」


 自分で店の写真を投稿した時、何度かタグをつけたことがある。言われてみれば、検索の鬼のような今時の高校生である圭太が見つけてもおかしくはなかった。

 圭太は、なぜか唇を少し尖らせて、すずの足元から頭の先までをじっと眺めている。昨日のすずは、シンプルな白いTシャツに、デニムのスカート。黒い靴下に黒いスニーカーを履いて、リュックを背負っている。本当にただの、その辺にいる女子高生の普通の格好だった。

 圭太は消え入りそうな声で呟いた。


「今日、すごく可愛いです」

「え!?」

「何でもないです」

「え、いや、今、何か……」

「僕、僕は……僕はもう! 走ってきます!」

「えええ! 今から!? もう夜になるよ!?」

「だから行くんです!!!」


 圭太は、若さゆえのわけのわからない理屈を大声で叫び、そのまま武庫川の方へ猛ダッシュで消えていってしまった。

 ガラス越しの店の中では、葉鳥店長と真帆さんが、揃って口元に手を当てて笑いを堪えていた。なぜか、店先のベンチに座っていた常連のおばあさんまで、顔を手で覆って肩を震わせていた。

「い、行ってしまった……」

 すずだけが、状況を全く咀嚼できないまま、ぽかんと雨上がりの道に取り残されていたのだった。


 そんなことを思い出しながら、すずは甲子園口駅の改札を通った。駅のホームには、雨の日特有の、埃と鉄が混ざったような湿った匂いが漂っている。

 傘を閉じ、ワンピースの裾についた小さな雨粒を丁寧に払う。今日向かう駅は、須磨海浜公園駅。甲子園口から、乗り換えなしの一本で行ける。

 電車が滑り込んでくると、すずは窓際の席にちょこんと座った。

 今日は、三宮で降りない。いつも学校へ行く時に降りる三ノ宮駅を、素通りしてその先へ行く。たったそれだけのことなのに、胸が少しだけそわそわと波打った。


 電車はゆっくりと動き出し、見慣れた甲子園口の街を置き去りにしていく。

 芦屋、住吉、六甲道。車窓には、雨に濡れた住宅街が静かに流れていく。マンションのベランダ、線路沿いの小さな公園、傘を差して俯き加減に歩く人たち。いつもの誰かの生活が、窓の外で次々と後ろへ飛び去っていく。

 三ノ宮駅に近づくと、にわかにビルが増え、人の気配がぐっと濃くなる。いつもなら、ここで降りる。けれど今日は、電車はそのまま三ノ宮をあっさりと通り過ぎた。

(通り過ぎた……)

 自分だけが特別な切符を持っているような、小さな冒険みたいに思えた。


 元町を過ぎ、神戸駅のあたりへ近づくと、窓の外の空気が少し変わった気がした。雨に霞む向こう側に、港町らしい重厚で大きな建物が見える。遠くには、神戸ハーバーランドの観覧車が、灰色の空にぼんやりと浮かんでいた。高層ホテルの姿も、雨の白い膜の向こうに滲んでいる。港の方へ広がる景色は、三宮のひしめき合うビル街とは少し違って、どこかゆったりと呼吸をしているようだった。

 神戸という街は、海の方へ向かうほど、急に表情を変えるのだと思った。


 兵庫駅を過ぎるころから、景色はまた地続きの顔に戻った。

 下町の住宅街。日に焼けた古い建物。工場跡地らしい広い敷地。無機質に建ち並ぶ新しいマンション。線路沿いに並ぶ、生々しい生活の景色。きらきらした三宮とも、お高く止まった西宮とも違う。そこには、日々を働く人たちの生活がそのまま無造作に置かれているような、少しざらっとした、でも温かい温度があった。

 鷹取を過ぎるころ、線路が少しずつ海側へカーブしていくのがわかった。

 車窓の向こうに、空の広がりがぐんと大きくなる。建物の隙間が広がって、緑が増える。濡れた松林の濃い緑が、雨に洗われてしっとりと艶を帯びている。

 そして、その向こうに。

 白っぽく霞んだ砂浜と、灰色がかった海が見えた。


「……海やん」


 すずは思わず、窓ガラスに顔を近づけて小さく呟いた。

 晴れた日の、絵葉書みたいな海ではない。二十五階の教室から見下ろした、遠くできらきら光る青でもない。今日の海は、雨に打たれてひっそりと静かだった。波の色は少し暗く、空と海の境目も曖昧にぼやけている。けれど、その圧倒的な広さだけは、やっぱり奈良の盆地には絶対ないものだった。


 駅に近づくにつれ、海がどんどんこちらへ迫ってくる。

 松林。白い砂浜。広い公園。そして、その向こうに見える、真新しい巨大な建物。

 神戸須磨シーワールド。

 電車が、須磨海浜公園駅のホームへゆっくりと滑り込んでいく。すずの胸が、どきどきと早鐘を打った。


 今日、ここでみんなと会う。

 学校が休みの日に。

 初めて。


 玲花。陸。天馬。

 

 雨の日なのに、不思議と心は沈んでいなかった。むしろ、おろしたての傘の下から、まだ見ぬ新しい世界をのぞき込むみたいに、少しだけ足取りが弾んでいた。

 プシュー、とドアが開く。雨の匂いと、微かな潮の匂いが混ざった空気が、ホームへふわりと流れ込んできた。

 

 すずはピンクの傘の柄をぎゅっと握り直し、電車を降りた。


 ■■■


「うわー待って待って、なんで靴下がないの!? 先に靴下発掘せな!」

 地層のように山積みになった洗濯物の前で、玲花は朝から絶叫していた。


 朝七時。白家のリビングは、さながら局地的な戦場と化していた。

 百七十センチをゆうに超える男三人が、上半身裸に下だけジャージと言う出立で、巨大な肉食獣のようにドスドスと狭い動線をウロウロしている。室内の湿り気と、男兄弟特有のむさ苦しい熱気で、部屋の空気は酸素が薄く感じられるほどだった。その間を縫うように、玲花は髪を振り乱して駆け回っていた。


「ぬな! 俺のポロシャツは!」

「もう待って!? 先に靴下なんやろ!?」


「ぬな! 俺の雑巾もちょうだい!」

「ちょ待って!? なんで昨日のうちに準備セーへんの! アホなん!?」


「ぬな! 俺の朝飯は!?」

「もう! 白ごはん炊いてあるから! 卵かけご飯してつけもんと食べて!」


「「「ぬなー!!!」」」

「うるさーい!!!!!」


 玲花は的確に指示を飛ばしながら、洗濯物の山から次々と獲物を釣り上げる。


「ヒョンジン、靴下ここ! テミン雑巾投げるで! ナイスキャッチ! ジミンつけもん冷蔵庫!……あれ、ヨンチョリは!?」


「「「寝てる!!」」」

「もー!!!!!」


 玲花はドタバタと階段をかけ上がる。可愛い白い扉を乱暴に開けると、人形を抱いた一番下の弟が、まだ夢の世界をたゆたっている。ぷにぷにのほっぺが憎たらしいほど可愛い、小学校五年生だ。


「起きろー!!」

 布団ごと必死で揺さぶると、焦点の合わない寝ぼけ眼で見つめてくる。


「昨日……ゲームしすぎた」

「知るかー!!!」


 半ば強制的に叩き起こし、ランドセルを階下に向かって放り投げると、末っ子の首根っこを掴むようにして一緒に階段を降りる。水筒にお茶を注ぎ、鉛筆削りをガリガリと回しながら、寝ぼけている末っ子の口に食パンをフライングディスクのように放り投げる。

 そうしている合間に、身支度を終えた大きな三人組が、ジャージ姿で家を飛び出していく。


「「「ぬな、行ってきますー!」」」

「はよ行けーい!」


 食パンを飲み込んだ末っ子を玄関から押し出すと、玲花はふう、と息を吐き、今度は家の奥の部屋へ向かった。


 しん……。


 嵐が去ったように、急に静まり返る家。

 薄暗い部屋の中には、女性が一人、キャミソール一枚という無防備な姿でシーツの上に寝そべっている。


「オンマ、薬、飲める?」


 玲花が静かな声でそう呼びかけると、シーツの中からぬらりと上体が起き上がった。

 長い髪に、日に当たっていない白い肌が、不健康なほど艶かしい。薄い茶色の瞳が、気怠げでとても魅惑的だ。


「ん」

 女性は玲花から水の入ったコップと薬を受け取ると、一気に飲み干した。鼻をつく酒の匂いと、それに混じる甘い香水の匂いに、玲花はわずかに顔を顰める。


「っはぁ……ごめん、あともう一回寝かせて」

「うん……あのさ! 玲花今日、朝から晩までバイトやから!」


 それは、玲花なりの小さな嘘だった。


 洗面所の鏡の前に立ち、玲花は手早くコテで髪を巻き、ふわりと横に流した。

 玄関を開けると、無情にも雨が降っていた。


(うわ、雨や! みんな傘持ったかな)


 玲花は少し迷って、下駄箱から小さな傘をもう一本引っ張り出して家を出た。早足で末っ子の通う小学校へ寄り、受付の職員に愛想よく名前を告げて傘を託す。


 そこから駅まで全力で走ったが、どう考えても予定の電車には間に合いそうになかった。

 花隈駅は、朝の殺伐としたラッシュが終わって、嘘のように静けさを取り戻していた。茶色い、光沢のあるレンガが敷き詰められたレトロな駅舎は、外の鬱陶しい雨など知る由もない顔をしている。


 電車が走り出す。空いた車内の端の席で、玲花は手際よく化粧を直した。

 ふと顔を上げると、窓ガラスに、あの「おんま」と呼ばれた母とよく似た目をした自分の顔が映っていた。


 栗色の髪は計算されたウェーブを描きながら横に流れている。クロップド丈の白のポロシャツに、潔いほど短いマイクロミニ丈のベージュのスカート。黒の靴下にスニーカーを合わせて、自分でも惚れ惚れするほど完璧に仕上がっている。先ほど施した化粧のおかげで、ぽってりとした唇が瑞々しいピンクに輝いていた。

 玲花は、窓ガラスの自分と目が合った。

 オンマと同じ、色素の薄い茶色の瞳から、ふっと目を逸らした。

 

 スマホを取り出し、毎朝の習慣でバイオリズムのアプリを開く。画面のグラフは、今日の『感情』の波が絶好調のピークに達していることを示しているのを見て、にっこりと笑う。


 阪急からJRに乗り換えたところで、時計を見る。

「あちゃー、やっぱ間に合わんか」

 小学校に傘を届けたロスタイムのせいで、待ち合わせの時間には着きそうもない。玲花はため息をつきながら、メッセージアプリを開いた。


 ■■■


 尼崎の駅のホームで、一際背の高い男が、首をゴキッと鳴らして立っていた。陸だ。

 短い髪をワックスで無造作に、しかし計算してまとめ、七分袖の水色のシャツに、黒の細身のズボンを履いている。ガタイの良さに反して、佇まいは妙に爽やかだ。

 彼の斜めがけの鞄の中は、本人の大雑把な外見からは想像もつかないほど小宇宙が形成されている。小さなメントール系の飴玉とガムが詰められたジップロック、水滴がつかないようカバーを被せた小さな水筒、アイロンのかかったハンカチ、汗拭きシート、スマホ、そして少し端の擦り切れた使い古しの財布が、テトリスのようにきっちりと完璧な配置で並んでいた。


 ピロン、とスマホが震えた。

<親方:陸。今日休みやろ。整体とマッサージいってこい。予約入れて金払っといたるから。>

(マジか)

 陸の厳つい顔が、ふっと綻んだ。連日の肉体労働で、肩や腰がバキバキに凝っていたのは事実だった。親方の不器用な優しさが身に染みる。

(……ありがとうございます。でも今日出かけるんで、夜20時くらいだったらありがたいです、と)

 大きな親指で器用にフリック入力していると、続けてまた通知が鳴った。


『玲花:ごめん!ちょっとだけ遅れる!10分くらい!』

 ごめんなさい、という顔をして上目遣いをしている玲花の自撮り画像が添えられている。

 陸は思わずその画像をタップして拡大し、数秒間、じっと凝視してしまった。

(黙っとったら普通に可愛いねんけどな……)

 内心が出ないように、無表情を作って短い返事を打つ。

『陸:俺もまだJ尼。着いたら連絡する。』


 ■■■


 その頃、須磨海浜公園駅の男子トイレでは、先ほど到着していた天馬が、鏡の前でヘアスタイルをチェックしていた。

 バケットハットを被った先から出ている髪先を、指先でツンツンと何度も毛束を触り、前髪の流れをミリ単位で整える。見えない敵と戦うかのように鋭い視線で鏡を睨みつけ、顔の角度を右、左と変えて、どの角度から見ても完璧に決まっているか入念に確認する。


 オーバーサイズのシンプルな白いTシャツに細身のデニム。

 インスタグラムで見たおしゃれな装いをそのまま真似したスタイルだった。


 よし、と小さく頷いてトイレを出ると、ポケットの中でスマホが鳴った。


 画面を開くと、玲花の遅刻宣言と、陸が撮ったらしい「尼崎駅の看板にピースサインが添えられた写真」がグループトークに届いている。

 続いて、個別のトークルームにもすぐに通知が入った。


『すず:私、駅着いてるから座って待ってるね』


 天馬の口角が、無意識のうちにすっと上がる。

 ホームの向こうに目をやって、軽やかな指さばきで返事を打つ。


『天馬:俺も駅着いた。小鹿、発見。』


 送信ボタンを押すと同時に顔を上げると、改札を出てすぐのベンチに、ピンクの傘を持ってちょこんと座っているすずの姿が見えた。



 天馬は、迷うことなくそちらへ向かって走り出した。

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