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アイスボックスクッキー

 翌日の木曜日。

 朝からしとしとと降り続く雨のせいか、ベーカリーツバメの店内はいつもより閑散としていた。入り口のガラス戸はうっすらと結露し、店内には焼きたてのパンの甘い香りと、静かな雨音だけが満ちている。


「すーちゃん、ママの調子どない?」

「あ……」


 忙しい朝のピークが過ぎ、子どもたちを無事に保育園や学校へ送り出した後、奥さんがふと手を止めて優しく声をかけてくれた。


「はい、思っていたよりも元気でした」

「そら良かったわ。大変な時に来てくれてほんまにありがとう。でも、もししんどかったら、いつでも言うんやで。無理はあかんで」

「はい!」


 すずは、エプロン越しにも大きく目立つ奥さんのお腹を見つめた。双子の赤ちゃんが入っているそうで、見ているだけでもとても重そうだ。それなのに気遣ってくれる奥さんの優しさに、胸がじんわりと温かくなる。

 その時、奥の厨房からご主人が無言で出てきて、レジのそばにスッと丸椅子を二つ並べてくれた。


「誰もおらんし、座れ」

「ん」


「食べろ」

「ん?」


「飲め」

「んん?」


 ご主人は、レジと反対側の作業台に、まるでどこかのおしゃれなカフェのように、綺麗に並べられたクッキーのお皿を二つと、湯気がふわりと上がる温かいミルクの入ったマグカップを二つ、コトッと置いた。


「どないしたん、急に」

 奥さんが目を細めて笑いながらご主人を見上げる。

 店長であるご主人は、言葉の代わりに一瞬だけ奥さんの大きなお腹を気遣うように見つめ、次にすずの顔をじっと見た。


「……別に」


 それだけ言うと、ご主人は照れ隠しのようにクルリと背を向け、スッと厨房の奥へ戻って行ってしまった。


「あはは、ありがとう。すずちゃん、今の翻訳するわ!」

 奥さんは楽しそうに笑いながら、すずの肩を軽く叩いた。


「ほ、翻訳ですか!?」

「うん。あれはな〜、『お腹大丈夫か。すずちゃんも、疲れてないか。クッキー食べて、ちょっとゆっくり休憩せーよ』、やで」


「あ、あの『別に』のたった三文字の中に、そんなにたくさんの言葉が隠れてたんですか!?」

「そう。そうやねん。まだあるで。『いつもありがとう』と、『無理すんなよ』も入ってるな。さ、冷めんうちに食べや」


「す、すごい。……わぁ!美味しい!」

「アイスボックスクッキーやな。一回生地を作って冷凍しといたら、焼こうっと思った時に切ってすぐ焼けるから便利なんよ」


「アイスボックスクッキー……」

「そ」


 さくっ、ぽりぽり。

 口の中でほろりと崩れて広がるバターと砂糖の優しい甘さに、すずはジーンとした。外の冷たい雨とは対照的に、この場所はひだまりのように暖かい。


 あっという間に12時になり、店長は帰り際、今日も黙ってサンドイッチの包みを差し出してくれた。


「ありがとうございます!」

「!」


 すずは、自分でも驚くほどいつもより大きな声が出た。

 と言っても、すずにしては大きな声、というだけなのだが。

 それでも店長は少し目を丸くして、次に「ふ」と柔らかく笑うと、再び奥の厨房へと戻って行った。


(多分、今の「ふ」は、『どういたしまして』と、『お疲れ様』、やね)


 お店を出る頃には雨が上がり、雲の隙間から薄い光が差し込んでいた。すずの心の中は、来た時よりもずっと軽くなっていた。

 学校へ向かう電車の中、スマホで「アイスボックスクッキー」の作り方を調べながら、(帰ったら、作ってみようかな……)と考えを巡らせた。


 ふと、電車の中で目を閉じる。

 昨日の武庫川を吹き抜けた風の匂いと音が、まだ耳の奥に張り付いているような気がした。

 眼鏡橋の上で見た、全てをオレンジ色に染める夕暮れ。

 自転車を押して、歩幅を合わせて隣を歩いてくれた天馬。

 そして、耳元に響くあの低い声。


 思い出すたびに、心臓がトクンと変なふうに跳ねる。

 誤魔化すように不意にインスタグラムを開くと、新しい投稿に「いいね」がいくつもついていた。


(あ、天馬くんからいいねついてる……嬉し)


 その「いいね」のリストから、奈良の幼馴染たちのページを辿る。

 遥は、まだ6月だと言うのに、気の早いことにすでにもう川遊びを開始したようだった。最寄りの駅の裏手にある大和川で魚釣りをしている様子が写真に収められている。

 そして別の投稿では、吉野の山へも足を伸ばしたようで、川底の石の模様まで透き通って見える吉野の川へ、勢いよくダイブしている短い動画がいくつもアップされていた。


 それを見て、去年の春、吉野の山へ遊びに行った日のことを鮮明に思い出す。

 咲き遅れた野生の藤の花が、重たげに川面に向かってしなだれ、紫の花びらが水面を静かに流れていく。その下では、小さな小魚が太陽の光を反射してキラキラと泳いでいた。

 深いところまで行くと、すずの首あたりまで川の水があり、ひんやりとした水圧に怯えながら必死で遥の手を握って、対岸まで歩いた。ただ対岸に渡るだけなのに、まるで大冒険だった。渡り切った先にある大きな岩場に大の字になって寝転がると、山を吹き抜ける風がサラサラと濡れた体を撫でていった。


 青い空と、どこまでも遠く続く深い緑の山々。そこには、それしかない。でも、それがたまらなく良いのだと、すずは心の底から思った。

 あの日の冷たい水の感覚と、空の広さを思い出すと、すずの目に少しだけツンとした涙が浮かんだ。


『たらん、たらん……三ノ宮ー、三ノ宮ー』


 無機質なアナウンスが流れ、すずは慌てて現実に引き戻され電車を降りた。

 改札を抜けた途端、行き交う人々の多さと街の喧騒に一気に包み込まれ、すずは余計に自分の小ささと寂しさを感じてしまった。


 すずはしばらくホームの端に立ち止まり、遥の投稿に「いいね」をタップした。

 そして、<楽しそう!いいな>とコメントを残した。

 すると、すぐに返事がついた。

<すずも行こうや。夏休み、泊まりに来いよ>

 そのたった一言が、すずを一人ぼっちの世界から引き上げてくれた。嬉しくなって、すぐに返事を送る。

<うん!>


 ■■■


「はいこんにちは〜。お前ら、今日も生きてるか〜」

「先生、その挨拶こわいです」


 教室ではいつも通りの雑多な挨拶が交わされる。

 玲花があきれたように笑いながら言う。


「こわない〜!海外から来たばっかりで慣れへん子もおるし、働いて学校来てるやつもおるし、病院通いしてるやつもおるし、朝から弟の弁当詰めてるやつもおる。生存確認は大事や」


 その言葉に、すずは少しだけ肩を揺らした。

 佐伯先生は、わかっていてわざとすずの方を見ない。

 見ないまま、手元の出席簿を教卓でぱたぱたと鳴らして言った。


「しんどいやつは、しんどい時に言えよー。黙って倒れたら、俺の心臓に悪い」


 すずは、膝の上で小さく両手を握った。

 ——泣く時まで謝らんでええ。

 ——しんどい時は電話。

 ——怖いなら、怖いでええやろ。


 最近、周りの大人たちや、天馬が、似たようなことを言う。

 ずっと「迷惑をかけてはいけない」「自分でなんとかしなきゃ」と思ってきたすずは、それをまだ全部はうまく受け取れないでいる。

 でも、差し出されたその温かい手を、少しずつ、自分の心の中に置いていこうと思い始めていた。


 授業が終わると、昨日と同じように、すずは阪神神戸三宮駅へ向かった。

 今日は天馬も、当然のように改札まで一緒に歩いてくれた。


「昨日一人で行けたし、大丈夫やのに」

「油断したら迷う」

「そ、そんなに?」

「三宮は油断した人間から食う」

「街が?」

「街が」


 真顔で恐ろしいことを言う天馬に、すずが思わず吹き出して笑うと、天馬は満足したように少しだけ口元を緩めた。


「武庫川着いたらLINE」

「うん」

「病院出る時も」

「うん」

「迎え行く」

「えっ、今日も?」

「水曜と木曜は来るって言ったやろ」

「言ったけど……」

「言った」


 天馬はそれ以上反論を聞く気がない顔をしていた。

 すずは少しだけ困ったように眉を下げ、それから、観念したように小さく笑った。


「……じゃあ、お願いします?」


 そう自然に口に出せた自分に、すずは少し驚いた。

 いつもの自分なら、絶対に「迷惑だからいいです」と言っていた。

「大丈夫です」と頑なに断っていた。

 でも今日は、すんなりと「お願いします」と言えたのだ。

 予想外の素直な返答に、天馬は一瞬だけ目を丸くして、それから、照れ隠しのようにふいっと顔をそらした。


「おう」


 そらした横顔の耳の先が、少しだけ赤くなっていた。


 ■■■


 その日の夕方、病室で、すずは母に天馬のことを話していた。


「昨日ね、病院出たら、天馬くんが武庫川駅の近くにいて」

「ああ、あの写真によく写ってる子?」

「写真に、よく……?」

「すずのインスタにおるやん。背ぇ高い、顔の濃い子」

「顔の濃い子って……」


 身も蓋もない言い方に、すずは思わず苦笑した。


「学校帰りに、一回家まで帰って、自転車で来てくれたんやって。それで、武庫川沿いを一緒に帰ってくれて」

「ええ子やね」


 母は心底安心したように、目尻を下げて笑った。


「自転車で?」

「うん。天馬くんの家、尼崎の立花の方なんやって。武庫川が近いから、川沿いに走って来れるって」

「そうなんや。……ママも昔はよー歩いたな〜武庫川。彼氏と」


 その瞬間、すずは手からスマホを落としかけた。


「か、彼氏!?ママ、彼氏おったの!?」

「ぶっ、何そんな驚いてんねん。あんたくらいの歳の時にはおったわ。あんたかって、周りの子、お付き合いとかしてる子とかおるやろ?」


 すずは頭の中で考えを巡らせた。

 確かに、奈良の学校では、あの子とあの子が付き合ってるだとか、誰が好きだ嫌いだ、誰が告白しただなどと騒いでいる日もあった。しかし、自分にはまったく無縁の世界の話だったのだ。

 いつも幼馴染の遥や仲のいい友達と泥だらけになって遊ぶのに必死で、彼氏がほしいなどと思ったこともなかった。今だって、仕事に家に学校にと、新しい環境についていくだけでいっぱいいっぱいだ。

 でも、自分が知らないだけで、玲花や、陸、それに天馬だって、誰か特別な人とお付き合いをしているのかもしれない……。

 そこまで考えを巡らせて少し胸がチクリとしたところで、母がびっくりするような提案をしてきた。


「今度、連れておいで」

「えっ」


 すずは目を丸くした。


「て、天馬くんを?」

「うん。送ってくれてるんやろ? 直接『ありがとう』って言いたいやん」

「で、でも、病室やし。何もないし」

「ちょっと挨拶するだけやん。『うちの娘をお世話してもろてます』って」

「お、お世話って……」


 すずは自分の顔が一気に熱くなるのを感じた。


「そんなん、天馬くんに迷惑かも。気ぃ遣わせるし」

「すず」

 言い訳を並べるすずを遮り、母は少しだけ真剣な目をして笑った。

「ママ、どんな子か気になるだけ。こういうことは、勝手に自分で想像しやんと、本人に聞いてみて。嫌じゃないかどうか」


 すずは言葉に詰まった。

 本人に聞く。

 来てくれるかどうか。

 嫌じゃないかどうか。

 どう思うか。

 相手の気持ちを勝手に遠慮して、勝手に決めつけない。


「……うん」

 すずは小さく頷いた。


 ■■■


 その帰り道。武庫川は、お昼まで降っていた雨の影響でいつもより水かさが増し、少し荒々しい音を立てて流れていた。

 二人は橋の下にあるベンチに腰を下ろし、少し休憩した。初夏の生ぬるい風が川面を撫でていく。


 天馬は、隣に座るすずを密かに観察していた。

 すずはどこか落ち着かない様子で、そわそわと川の流れを見つめている。


(俺のこと……意識、してくれてんの……か?)


 天馬はじっとすずの膝の上に置かれた小さな手を見て、少しずつ、少しずつ、気づかれないように距離を詰めていき、そして指先が触れるか触れないかのすんでのところで……。


「あああああの、ママがね!」


 突然、すずが弾かれたように振り向いて切り出した。


「うん?」

「天馬くんに、ありがとうって言いたいって」


 不意打ちを食らった天馬は少し驚いた顔をして、伸ばしかけていた手を慌てて引っ込め、すずの方へ向き直った。


「俺に?」

「うん。いつも送ってくれてるからって。……今度、ちょっとだけ病室来てくれる? でも!い、いい、嫌やったら全然いいんやけど!」


 早口で捲し立てるすずに、天馬の答えは、


「行く」


 即答だった。


「えっ、いいの?」

「うん」

「病室やよ?匂いとかもあるし」

「わかってる」

「ママ、たぶん変なこと言うかも……」

「佐伯より変?」

「それは……どうやろ」


 すずが眉間にシワを寄せて真剣に考え込むと、天馬は可笑しそうに短く笑った。


「ほな大丈夫やろ」

「じゃ、じゃぁあの、来週水曜日、よろしくお願いします……?」

「ふふ、わかった」


 橋の上で手を振って見送る天馬の顔は、夕暮れのせいだけではなく、少しだけ赤く染まっていた。


 ■■■


 その日の夜、すずはリビングでスマホの画面を食い入るように見つめ、検索窓に文字を打ち込んでいた。


「あ、い、す、ぼ、っく、す、く、っき、ー。……あ、あった」


 見つけたレシピの手順を頭に叩き込むようにじっと見つめ、そして無意識に台所へと向かった。


「すず?お腹すいたん?」

 後ろから突然声がして、すずはビクッと肩を跳ねさせた。

「あ、ち、違うねん、あの、その……」


「?なんか夜食作ったろか?」

 紗英が首を傾げる。

「違くて、あの、アイスボックスクッキーでも焼いてみよかなって」


「えー!どっち!?どっちの男子にあげるん!?」

「えええ!あの、えええ?」


 すずがしどろもどろになっていると、紗英は素早く自分のスマホをタップし、すずのインスタグラムに載っている四人の写真を出して画面を突きつけてきた。

「このガタイのええ子?それともこっちのスラッとした子?!」


「あ、あの、天馬くんは、こっちです」


 すずが観念してすらっとした方を指差すと、紗英は「やっぱり!」と言わんばかりにニヤニヤと意地悪く笑った。


「え〜そうなんや〜ふーん。いいやんいいやん!よし!おばちゃんが教えたろ!クッキーやんね!」


 紗英は機嫌良く本棚の奥から、使い込まれた古いレシピ本を取り出してきた。

 パラパラとページをめくり、アイスボックスクッキーのページを開く。


「これなぁ、私がおばあちゃんからもらった本なんよ。もう何回も作ってるけど、絶対美味しくできるよ!」

「そうなんや」


 色褪せたページに書かれた手書きのメモに、すずは目を輝かせて食い入るように見つめた。


「簡単やからすぐできるよ!でも、今日は無塩バターがないから無理やな。土日に一緒に作ろう!」

「! うん!」


 その週の日曜日。

 すずのインスタグラムには、可愛らしいハート型のクッキーと、綺麗な市松模様のクッキーの写真が新しく投稿された。

 紗英が淹れてくれた湯気の立つ美味しい紅茶の横に並ぶそのクッキーは、少し不格好なものもあるけれど、とても愛らしい。


 ーーー

 可愛くできた!

 ♯アイスボックスクッキー

 ーーー


 たくさん作って、冷凍庫のタッパーに綺麗に並べられたクッキーの種。

 すずはそれを開けるたびに、これを切って焼いて、彼に渡す水曜日の放課後のことを想像しては、満足げに一人で微笑むのだった。




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