一線をこえる
復習して伸びをした俺は、数学の教科書をもってユウマの部屋をノックした。夜おそくに訪ねるのは初めてだ。緊張しながらドアノブをまわせば勉強していた彼がふり向く。弟と対照的でユウマの部屋は生活感がなく、物も最小限にとどめてる。
「あれ、メガネ?」
「これか? 片目がすこし乱視だから、勉強する時かけてる」
ユウマはメガネをはずして机へ置いた。なんの変哲もないメガネなのに俺の心臓は高鳴る。彼のひみつを1つ発見して高揚した気持ち。
「なに?」
教科書をかかえて佇んでいたら、背もたれへ体重をかけた彼が口をひらいた。尊大な態度はいつものこと、ふんぞり返ってこっちを見おろしている。教えてもらえないかもと思いつつ教科書をひらけば、彼は部屋からイスを持ってくるように言った。
イスをならべて座った。俺の質問が漠然としていたので、彼は1から説明してくれる。
「まずはこの方程式とグラフを頭に入れろ……このXが個数だとしてYの合計金額も変動するだろ? だから例題の最大値と最小値を……」
「うう……」
「もう1回やるから見ておけ、ここへこのXの数値をあてはめて……」
基本のわからない俺に対し、根気よく教えてくれる。やわらかい髪の毛が当たり、メガネをかけたユウマの顔がすぐそばにあった。ゆったりした長袖シャツ、首元からいい匂いがして俺の心音は速くなる。
出された問題をいくつか解き、彼がチェックする。
「解きかたが分かってきたなら、問題をこなして慣れるしかないな。分からないところは聞きにくればいい」
「ユウマって家庭教師できそう……」
「俺とおなじ大学めざしてみる?」
そくざに断ったがユウマの目はわりと本気だった。きっと入試のむずかしい大学にちがいない、彼は目指す分野があってその大学を目標にしてる。俺はそんなこと考えたこともないから素直に感心した。
「すごいなぁ、俺なんて今やりたいことも見つからないのに」
「ぐうせん見つけただけさ。早くから携われるメリットはあるけど、10年後には他のことやりたいって思ってるかもしれないだろ?」
ひと段落つき、休憩をとるため2人でリビングへ下りた。電気をつけ室内干しにしていた洗濯物を確認する。キッチンへむかったユウマはカップを出して2人分のコーヒーを淹れた。ミルク多めのカフェオレを渡されソファへ腰かける。
2人きりの家は静まりかえっていた。ソウマはクラブの遠征でマミさんも同行、父も出張でいない。熱いカフェオレをすするとユウマがとなりへ腰をおろす。
さっきまで饒舌だったくせに喋らない。時計の針がまわり、無音の気まずさにテレビのリモコンをとった。腕を引っぱられソファへしずみ、リモコンが床へ投げ出される。
「カエデ、どうして部屋へ来た?」
「え? 勉強を教えてもらおうと……」
「キスの悪戯してくるやつに何もされないと思った?」
「それは……」
内側からノックされてるみたいに心臓がドキドキする。答えられずうつむくと、彼の指は頬をたどって唇へふれた。
「警戒心うす過ぎ、そんなに無防備だったら襲うよ?」
引き寄せられて唇どうしが触れた。いけない遊び、共犯者の俺は何度も唇をかさねてきた。逃げられないんじゃなくて逃げなかった。甘く気持ちがよくて全身が熱くなる。ひとまわり大きな手が俺の手を撫でて指のあいだへ入りこみ絡みあった。
「シャワーを浴びたら部屋へおいで、続きをしよう」
耳朶へつけられた熱い唇、トーンの低い声でささやかれた。
滴ったシャワーのしずくが足元を流れる。バスタオルで髪をぬぐった俺は1階の電気を消して階段をのぼる。ひっそりした2階の廊下を歩き、俺の部屋を通りすぎた。
ドアから漏れる灯り、ドアノブへ手をのばした。
こえてはいけない禁断のライン、待っていた彼はベッドの上でほほ笑んだ。
◆◆◆
夢うつつの俺に彼の手がからみにぎり返した。空の端は色を変化させ、じきに夜が明ける。
朝食をつくるときはいつものユウマだった。ふだん使ってない筋肉を動かしたせいでぼろ雑巾のように気力もない。俺へピタリと寄りそった彼の手が腰へ巻きついた。
「ひゃっ」
「ヨレヨレだな、俺が朝ごはん作るからソファで休めば?」
「だれのせいだと思ってるんだ! くっ付くな、あっちいけ!」
余裕そうな彼、俺も意地をはる。恋人みたいに抱きついてくるユウマは俺の頬へ口づけた。越えてはいけない一線をひと晩で駆けぬけてしまった。彼がどことなく急いてると感じる。
「ユウマ、なんか焦ってる?」
「同居が終われば、一緒に過ごせなくなるだろ? ソウマも気があるみたいだし、ほかのヤツに渡したくない」
同棲がおわれば坂木家はマンションへ帰る。父とマミさんが再婚するにしても準備などで期間が空き、そのあいだ俺たちは別々に過ごす。高校はいっしょだけど今みたいな生活はできなくなる。
せっかく手を伸ばさなくてもいい距離へ近づいたのに期間限定だった。




