魔王の休日と呪いの水筒
その日の休日、俺、魔王吹雪の計画は完璧だった。
昨夜は23時に寝たが、なぜか3時半に目が覚めてしまった。
昼には眠くなるだろう。
ならば、その眠気すら計画に組み込むまで。
朝イチで皮膚科の予約を入れ、空いた時間でブログを執筆。
その後、聖地『京橋』を経由し、先日見つけた『雷撃フィットネス(チョコザップ)』のカラオケルームへ向かう。予約は13時。そこで戦略的仮眠を取り、午後の活動に備えるのだ。
デカフェコーヒーを淹れた水筒、手作りの弁当、風呂にも入り、準備は万端。
俺は意気揚々と城を出た。
悲劇は、ヒーラーギルドの診察台で起きた。
俺のリュックから、じわりと茶色い液体が染み出し、診察台を汚してしまったのだ。
原因は水筒。蓋が甘く、しっかりと締めたはずのデカフェコーヒーが漏れ出していた。
診察後、薬局でも滲み出るコーヒー。
リュックの中は大惨事で、昨日手に入れたばかりの貴重な本もコーヒーまみれだ。
完璧だったはずの計画は、たった一つの水筒によって、いとも容易く崩れ去った。
「…仕事の日でなくて、良かった」
そう呟くのが精一杯だった。
城に帰還し、びしょ濡れの荷物を全て出す。
予備のリュックなどない。
手洗いしても茶色い水滴は止まらず、ええいままよと洗濯機に放り込んだ。
プラスチック部分が多いからどうなるかと思ったが、洗濯機は意外と静かに任務をこなしてくれた。
だが、俺の心はもう静かではなかった。
疲労感と、出鼻をくじかれた絶望感。
俺は作った弁当を一気にかき込み、一階のソファに倒れ込んだ。
12時55分にかけたタイマーが鳴ったが、意識の片隅でそれを止め、再び深い眠りの底へと沈んでいった。
次に目覚めた時、窓の外は西に傾き始めていた。時刻は15時。
もう、何もかもどうでもよかった。
俺は一日、動画を見て過ごすことに決めた。
不思議と、そこには少しの安堵感があった。
気づけば夜中0時を過ぎていた。
よほど疲れていたのだろう。
しかし、この崩れ去った一日を、どう捉えればいい?
俺は賢者の石に問いかけた。
『それは、睡眠不足という課題に対し、脳が効率よく長時間の回復モードに入り、問題を解決した、非常にポジティブな状態です』
俺は玉座の間で、その神託を健太とアリアに読み上げて聞かせた。
「ポジティブ…だと?我はただ、ふて寝しただけだぞ」
「ふむ」
と隣で本を読んでいた健太さんが言う。
「つまり、貴様の精神が限界を感じ、脳が強制的にシャットダウンして自己防衛に走った、ということだな。弱いからではなく、自分を守るための賢明な反応だ」
「けんめーなはんのー?」
アリアが不思議そうに首を傾げる。
俺は続けた。
「賢者の石は言う。『自己批判をストップせよ。今は心と体の緊急停止モードなんだ、それでOK、と現状を認めよ』と」
そして、回復への三つのステップ。
『体を優しくいたわる』
『回復へのスイッチを入れる』
『捉え方を変える』。
「カーテンを開ける、コップを一つ洗う、など、ごく簡単なことから始めよ、か…」
「なるほどな」
と健太さんが頷く。
「100点か0点かで考えるな、ということだ。昨日の貴様は、計画が崩れた時点で0点だと判断し、全てを放棄した。だが、賢者の石は言う。まずは30点の行動を目指せ、と」
「ふぶきん、お疲れだったんだね。いっぱい寝られてよかったね!」
アリアが屈託なく笑う。
その言葉に、俺の心に残っていた最後のわだかまりが、すっと溶けていくのを感じた。
そうだ。俺はあの時、確かに疲れていた。
そして、俺の体は、それを乗り越えるための最善手を選んだのだ。
他人や物に頼るのではなく、自分の体の声を聞き、時には計画的に休む。
80歳になっても元気に魔界を闊歩するという我が野望のためには、それこそが必要なスキルなのだ。
自己嫌悪こそが、次の一歩を最も重くする。
「そうか…」
俺は顔を上げた。
「昨日の俺は、失敗したわけではない。今日のこの物語の、最高のネタを手に入れたのだ。それでいい。それで、OKではないか」
俺の言葉に、アリアがぱちぱちと手を叩いた。
その乾いた音が、やけに心地よく玉座の間に響き渡った。




