魔王、時間の支配術を悟る
昨日のことだ。
朝はあれほど活発に動け、執務の合間に勉強すらできたというのに、午後になった途端、俺、魔王吹雪の体はまるで泥になったかのように動かなくなった。
玉座に座ってはいるものの、思考は停止し、ただ無為に時間が過ぎていく。
「くっ…なぜなのだ。時間だけは有り余るほどあるというのに、この体たらくは…」
自らを「怠けている」と断罪しそうになったその時、隣で静かに古文書を読んでいたドラゴンの先輩、健太さんが顔を上げずに言った。
「時間があっても、動ける時と動けない時がある。それは怠惰とは違う。エネルギーの波だ。自分を否定しても何も生まれんぞ」
その言葉に、俺は少しだけ救われた気がした。
そうだ。大事なのは、自分を責めることではない。
「できるタイミング」を見極め、その瞬間を逃さないことなのだ。
通勤中に魔法の歴史を聴き、トイレで単語帳を開き、吊り革で密かに肩を回す。
人の目を気にしすぎず、常識に囚われすぎず、自分のための時間を捻出するのだ。
「そうだ、健太!我は新たな宝具を手に入れたのだ!」
俺はそう言って、先日購入した黄色いテニスボールを取り出した。
ひとまず執務城に置いておき、休みの前に持ち帰る算段だ。
普通の職場でこれを持ち込めば、変な勘ぐりをされるのが関の山だろう。
俺は玉座に座ったまま、足元にボールを置くと、足の裏で静かにコロコロと転がし始めた。
硬くなった足底筋膜に、痛気持ちいい刺激が走る。
「ほう、そんな玩具で何になる」
「玩具だと?健太、これはな、我が魔王軍の未来、いや、我が人生そのものを左右する、賢者の宝珠なのだぞ」
俺は水晶板で調べ上げた、この行動がもたらす絶大な効果を、健太に高らかに語って聞かせた。
「このささやかな動きは、足裏の血行を促進し、冷えやむくみを改善する。足底筋膜炎を予防し、全身の姿勢を整え、果ては腰痛・肩こりをも緩和する。さらに、足指で地面を掴む感覚が蘇り、転倒を予防、ひいては内臓機能の活性化にまで繋がるというのだ。これだけの効果がありながら、この『隙間時間』に実行しない手はないだろう」
俺が熱弁していると、いつの間にかそばに来ていた幼馴染のアリアが、興味深そうに足元のボールを覗き込んでいた。
「へえ、気持ちよさそう!でも、転がっていっちゃわない?」
まさにその時だった。
俺が少し足に力を入れすぎたせいで、黄色い宝珠は勢いよく玉座の下から転がり出て、部屋の隅へと飛んで行った。
「あっ…」
俺は一瞬、普通の職場でこれをやってしまった時の、あの気まずい空気を想像した。
「すみません、すみません」
と平謝りする自分と、面倒くさそうにボールを投げて返す同僚…。
しかし、ここは我が城。
「わーい、待てー!」
アリアが楽しそうに叫びながらボールを追いかけ、ひょいと拾い上げると、こちらにぽーんと軽く投げて返してくれた。
「はい、ふぶきん!」
「…すまん、アリア」
その光景を見ていた健太さんが、ふっと息を漏らした。
「…楽しい職場だな。そんなことが許されるのは、世界広しといえど、ここくらいのものではないか?」
その言葉に、俺はハッとした。
そうだ。俺は一人で仕事をしている。
やるべきことさえしっかりやれば、誰にも文句は言われない。
給料は魔王軍の中でも底辺で、一人身でなければ生活もままならない。
しかし肉体労働のように体が疲弊するわけでもなく、神経を使う仕事のように心がすり減るわけでもない。
その代わり、あほみたいに給料が安い。
だが、お金があっても、自分の時間がない者は多い。
そんな不遇な環境だからこそ、俺は、この誰にも邪魔されない時間を、完全に自分のために有効活用できるのだ。
「…そうか。我は不遇ではあるが、ある意味、とてつもなく幸運なのかもしれんな」
やりたいことがある者にとっては、羨ましい限りの環境。
俺はたまたまこの立場になってしまっただけだが、この幸運を享受しない手はない。
俺はアリアから返されたボールを再び足元に置き、静かに転がし始めた。
それはもはや、ただの健康器具ではない。
この恵まれた孤独と自由を、最大限に味わい尽くすための、賢者の石にも勝る、我が人生の最高の相棒なのだった。




