001 長期素泊まり向けの宿『わたらい』
何の予告もなく平和だった日常が失われる事がある。世界では何かの拍子に戦争や紛争が起こるし、地震や洪水だって起こる。何年か前には世界的なパンデミックも起こった、だがそれは自分とは遠いどこかで起こっている事…、そんな風に思っていた。
いつもの水曜日、少し遅めになってしまった昼メシを食い終えた俺は腹ごなしとばかりに自宅兼職場である民宿『わたらい』の出入り口であるガラス戸を開けて表に出た。目の前にはすっかり見飽きた山々と原野、そしてその上空にはこの地特有の降りそうで降らない曇り空が広がっている。
「今日も客が来ないなあ、予約の電話も鳴らないし…」
ため息と共にシケたセリフを吐いている俺は渡会勝治、四十歳。祖母から引き継いだ民宿と小さな売店を営んでいる、ちなみに独身だ。
ガラス戸を閉めて駐車スペースでもある敷地内を歩けば田舎の道にしては立派な中央線の引かれた県道に出る。数十メートル先には風雨によって錆だらけになったバス停が見える、そこでは誰も待ってないし降りた人がいたような気配も無い。
ここは大分県内にあるとある温泉観光地…、その外れの…さらに外れだ。
そう、大分県は温泉県とあだ名されるくらい温泉で有名だ。その県の中でも特に有名な別府と並んで知られる温泉地、具体的な名前は伏せるがそこに俺の営む民宿はある。名前はあまり知られてはいないが豊富な湯量を誇る温泉地、その外れにあるとはいえその産出される湯量の恩恵にはあずかれる。うちの民宿もまた風呂場で使う湯は天然温泉だ。
「なんで土地の名前を出さないのかって?配慮だよ、配慮。俺が土地の名前を出したせいで何か問題が起こったらどうするんだ。今時、何が原因で炎上するか分かったもんじゃないんだから…」
俺は誰に言うわけでもなく呟いた。さっきも言ったが民宿『わたらい』の前には県道が横切っている。しかし交通量は少ない。田舎の雑木林と農地、そして点在する民家が道路脇にあるだけの県道だ。このまま東に行けば山道を抜けて別府方面、反対なら…まあそれはいい。ここではないどこかに行くだけだ。間違いないのは客があまり来ないという事だ。
ブロロロロ…。
坂道を登ってくる力強い大型車のエンジン音がした。トラップでも来たかと視線をやれば何台ものバスが列を作ってやってくる。この辺りを三時間でだいたいニ本運行する路線バスではない。オレンジ色をした明るく目立つバスだ。
先頭車両のフロントガラスをチラリと見れば進学校として有名な隣県の私立高校の貸し切りバスだという事が分かる。ここ十年くらいはクラブ活動にも力を入れていて野球や柔道、陸上などでも強豪校として聞くようになった。甲子園大会に出た事もあり、プロの世界に入った選手もいる。
列を作ったバスが次々に通り過ぎていく、きっとこの先にある高地で毎年行われている林間学校の為の移動なんだろう。
「ウチに泊まってけば良いのになァ…」
ここより少し高い山の中か、そうでないか。正直、彼らが向かう宿泊所とウチの宿泊施設はそのくらいの差しかない。彼らが目的地に着くのは夕方より少し早いくらい。荷物を置いたら火起こしをして定番の初日の夕食カレー作りといったところだろう、それならウチの炊事場を使えば十分に出来る。ガスもあるし、薪や木炭を使えるかまどだってあるんだから。
ウチの宿泊施設、民宿わたらいはいわゆる湯治客向きの宿だ。それも一拍とか二泊というのではなく一週間…十日、あるいはそれ以上というようなもの。温泉を引いた浴場があり肩凝りや腰痛などに悩む人が忙しい毎日を忘れのんびりするような宿である。やってくるのは高齢の女性グループが多かった気がする、何人かでやってきて湯につかり食事は炊事場を貸して自分達で作ってもらう。
米は常備してるし、野菜は近くで取れた物もある。時には猪を撃ったという人が分けてくれた肉がある時もあるし、近所の人が買いにくる為の商店もしてるからそこで買ってもらうのもいい。でも、利用客のお婆ちゃん達は年季の入った炊事のプロだ。味噌汁と煮物のひとつも手早く作ってそれで三食を済ませてしまう。…そんな光景を小さな頃…、平成のはじめの頃によく見ていた。つまり民宿わたらいは長期素泊まり向けの宿という事なのだ、その分だけ宿泊料は安く済む。だから仕事や子育てが一区切りした人がよく来ていたのだった。
「林間学校は布団を敷くのも…、炊事も自分達でやるんだから山の中行くのもウチに泊まるのも変わんないだろうしなァ…。まあ、でも無理か。あんな何百人も泊まれるスペースなんかないし」
一学年に三百人以上…、全校生徒は千人以上いるマンモス校だ。そんな人数は受け入れられないしなあ。ウチに一度に泊まれるのはせいぜい二十人ちょっと…、ひとつのクラスでも入りきらないな。
「それに最近は名門校とかでも色々問題あるらしいしな…」
俺は同業者達から聞いた話を思い出した、案外この業界は狭い世界だ。宿泊業の経営者…、それが他県であってもけっこう顔見知りだったりする。そこから聞いた話だと…。
「わざわざ山の中に来てやってることはスマホとにらめっこしてるのが多いらしいしなあ、臨海学校とかでも砂浜に来てまでやってるのも多いらしいし…。それに夜の徘徊か」
夜に活発な男子が女子の部屋に行くっていうアレだ、これ自体は俺が高校生の時にもあった話だ。だけど生徒達を迎える側になったら話は別だ。羽目を外す生徒は出てくるものだが中には学校行事中だけど外泊という事で解放的になった男女が事に及んだ…なんて話も聞いた事もある。ため息を吐きたくなるがそのくらいの年頃なんて頭の中は異性の事でいっぱいだったりするのもまた事実、いくら名門校で頭が良いと言われる生徒でも頭の中が常に賢者タイムという訳じゃないのだ。
「どっかの部屋とか物陰をラブホ代わりにされちゃたまらないしな。うん、やっぱりナシだな」
何台かのバスを見送りながら俺は呟く、そしてその車列がもうすぐ終わるという時にそれは起きた。観光バスが今まさに目の前を通過する…、そのタイミングでバスの真ん中あたりから光が溢れた。真っ白で強い光、突き刺さるように俺の目に飛び込んでくる。何も見えない、状況が全く分からない。だが、同時にひとつだけ俺に変化が起こる。
グイッと体を前に引っ張られる感覚。
「う、うわっ…」
まずい!俺は道の脇で通り過ぎるバスを見ていた、その方向に体を引っ張られたんじゃ…。
ぶつかる…、そう考えた時にはすでに俺の足は地面を離れ宙に浮いていた。




