第六話 天才少女と恋心
広い競技場のフィールドを人垣が幾重にも取り囲んでいた。
様々に配置された障害物の上を少女の影が渡るたび、人垣からため息にも似た賛嘆の声が洩れた。
難易度の高い技をリズミカルにこなしていく少女はハルカである。
時には誰よりも速く、時にゆったりと繰り広げられる彼女の技の数々を、とある雑誌の記者はオーケストラのようだと表現した。指揮者はもちろん彼女自身だ。
急角度の斜面を高速で駆け上がったハルカは台の上から得意のオーリーを決めた。地表から跳んでも高さ1mを超える、プロ顔負けのオーリーである。
背の高いセクションの頂点から放ったそれは、驚嘆の沈黙をもって迎えられるに十分な美しい放物線を空中に描き切った。
車輪が再び地面を噛むと同時に、40℃の大気を震わせて、喝采の嵐が巻き起こる。採点係の審査員たちまでが、ペンを投げ出して手を叩いた。汗に光るハルカの頬には、してやったりの笑みが浮かぶ。こうなるとハルカはもう止まらない。
既に勝利の確約されたフィールドで、天才の資質を惜しみなく発揮しながら、次々と超難度の技を決めていく。カメラマンたちは後の競技の事も忘れて切り通しにシャッターを切った。
怒涛のような歓声を浴びながら舞い続ける少女は、たしかに一人の指揮者に違いなかった。
亮二もまた人垣の最前列で彼女を見ている。
普段から見慣れているとはいえ、大舞台でのハルカの技の冴えは亮二の想像すら超えるものがある。世界レベルのトリックの数々に、少年も心からの拍手を送った。
ハルカの滑りは特徴的で、競技中は常に進行方向だけを見ている。基本の一つだが、ハルカの場合はそれが極端である。
彼女を師とする亮二もまたその傾向が強かった。結果として、お互い観客を見ない。競技場の内と外を隔てて視線が合うような事はまずなかった。亮二にとっては最近それが多少不満でもあったりするのだが……。
とはいえ、今日のような芸術的なライディングを見せられては不満の一つも出るはずがない。
午後に控える自分の出番を前に、否応もなく少年の士気は上がった。
大歓声の裡にハルカの競技は済んで、インタビューを終えた彼女と亮二は揃って昼食を取った。
昼食と言っても会場のすぐ隣にあるラーメン屋である。パン嫌いのハルカは会場で振舞われているサンドイッチやホットドッグが食べられない。向かいのハンバーガーショップなど論外だった。
「この暑いのにラーメンかよ……」
「ごめん。おごるよ」
「馬鹿言え。まあ空いてるしな」
亮二の言葉通り、店内は空席ばかりが目立った。冷房が強烈に利いていて、寒いくらいだったのは意外である。
「客が来ないからヤケになって冷やしてるんだよ」
メニューを眺めながらハルカが言った。混み合うファーストフードや会場内よりは、多少の寒暑に耐えても空いた店の方がいい。ファンや会場の友人たちと接するのも大会の楽しみの一つだが、食事時くらいはゆっくりしたかった。
「揚げ焼きそば」
「俺は炒飯を」
看板のラーメンを無視されて鼻白む店員の様子にも気付かず、二人は午前中の競技者たちの論評に熱中しはじめた。
料理が運ばれて来てしばらくすると、店のドアが開いて日曜らしくないスーツ姿の若い男性客が入ってきた。
ちょうどそちらを向いて座っていた亮二と目が合って、お互いが軽く会釈を交わす。知った顔である。
「倉田さん」
「よう、亮二君。ひさびさ」
倉田は今日の大会を取材に来ている記者の一人だ。
特に若年層のライダーたちを中心に長く取材しており、ハルカはもちろん亮二やロイとも面識が深い。
「ハルちゃんも、久々。さっきの競技は凄かったよ! もう国内じゃ敵無しだねえ」
二人の席の傍まで来て、倉田記者は言った。水を運んで来た店員が当惑して立ち尽くしているのにも一向に構う様子がない。
「そろそろ本場の大会に出てみるのもいいんじゃないか?」
「アメリカかあ、英語できないからなー」
身を乗り出して訊いてくる倉田に、ハルカは極力本心とは逆の答えを返した。この若手記者に言質を取られたら、一か月後には彼女の出場が決定事項として雑誌に発表されてしまう。
もっとも、若いライダーたちを活躍の場に引き上げようとする彼の姿勢は、ハルカも嫌いではなかった。
「ハルちゃんの実力があれば言葉なんか使わなくても友だちはたくさんできると思うけどな。まあ考えておいてよ」
倉田はそつのない笑顔で言って、
「ところで、二人の仲はその後どうなんだい?」
「そういうのオヤジ趣味って言うんですよ。倉田さんまだ二十四歳でしょ」
ことさらに無垢な瞳を向けて、ハルカが千枚通しの皮肉を返す。
「あ、相変わらずキツいなあ……亮二君、同情するぜ」
「倉田さん、水持って帰られちゃいましたよ」
亮二は苦笑して言った。ハルカの毒舌は自覚がある分だけ妹よりもたちが悪い。
「午後は亮二君も競技だろ? ハルちゃんも垂直競技が残ってるのか。二人とも頑張ってくれよ」
倉田はそう言い残すと、カウンター席の方に歩いて行った。
「アメリカの大会はこんな規模じゃないんだろうな」
亮二は煤けた窓から、賑わう会場の方を見やって言った。ハルカの目指すものを少年は知っている。
「ロイに聞いてみたらいいじゃない。前に出てるんでしょ」
「小学生の頃の話だろ。町レベルの大会なんか聞くまでもねえよ」
「……あ、そういえば英語の通訳なんてロイに頼めば――」
「カナタに頼めば何にも問題ないよな!」
響いてくる少年たちの会話に耳を傾けながら、倉田は楽しそうに煙草をくゆらせている。
◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
表彰式が済んで、インタビュー、参加者同士の挨拶と一通りの儀式が終わると、全国から集ったスケート愛好者たちも、三々五々と帰途につきはじめた。
「ハルカ、打ち上げつきあいなよ」
高校生の女子ライダーたちが誘ってくれたが、ハルカは軽く詫びて断った。
「ごめん、次は出るから」
「あら、珍しい。じゃまたね」
優しい年上の友人に手を振って、ハルカもまた熱戦の舞台を後にした。
混雑した地下鉄から下りのJR線に乗り換え、空いたボックス席に腰を落ち着けると、ハルカはようやく息をついた。
「亮二! 機嫌直しなよ、上出来だったって」
「……ああ」
腕を組んだまま夕映えの街を睨みつけていた亮二は短く答えた。
出場したフリースタイルでの彼の成績は四位。周囲の予想を上回る堂々たる結果といえたが、同い年のロイ・ラッセンに僅差で三位の表彰台を譲る形になったため、亮二の悔しがり方は一通りではなかった。
自分のデッキを踏み割ろうとした彼をハルカがひっぱたいて制止し、口論の末お互いろくに口も利かずにここまで戻って来たのだった。
「次は勝てるよ。マジで上手くなってるもん」
「ああ」
「ミスもなかったし、ベストは出せたでしょ」
「ああ」
「叩いたのは悪かったよ」
「ああ」
「もう! 聞いてんのかよ!」
ハルカは憤然と立ち上がって向かい合って座っていた亮二の脇へと席を移した。
「亮二が上手くなって嬉しいって言ってるんだよ」
「わかってるよ――お前のおかげだ」
亮二はようやく振り向いた。
暮れかかる夏の日が少年の右頬を染めていた。口元に怒りの名残があるが、目は穏やかさを取り戻していた。
「わかってるなら礼なんかしないでよ――次は勝つか?」
「ああ」
「よし。一緒に――」
言いかけて、はたと止め、ハルカはつと顔を寄せた。
唇が触れ、すぐに離れた。
「一緒にアメリカ行こう!」
差し込む夕陽に照れ笑いの横顔を晒して、少女は言った。
「お前……そういうのは男の科白だぞ」
「そんなのないよ。言葉は言うべき人のもんだわ」
「ちぇっ、パン食えるようにしておけよな」
少年は恋人の顔を覗き込むと、借りを返すようにもう一度唇を重ねたのだった。
◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
古井実の駅で亮二と別れたハルカが家路に着く頃には、暮れなずんでいた夏の一日もすっかり夜へと移り変わっていた。
数時間前に立っていた街とは何もかも違う田舎町の澄み切った夜気を、ハルカは深々と吸い込んだ。
昨日、今日と色々なことがありすぎて、少し疲れたように感じる。しかし、気の滅入るような本当の疲れではない。思い出が記憶される時の、自覚のない幸福な変化に伴う疲れだ。
ハルカは亮二の顔を思い浮かべて、胸が温かくなるのを感じた。
恋というのは予想がつかないものだ。ハルカが心のどこかで怖れていたようなことは何もなかった。いまでは何を恐れていたのかも思い出せないほど、あるべき高さにある自分を感じる。
歌い出したいような気持ちを抑えて、ハルカはゆっくりと夜道を滑り出した。全3種目で主を優勝に導いたボードは、車輪の軽い響きと共に、通い慣れた路を辿っていく。
大丈夫だ、あたしは落ち着いてる。
浮き立つ心を何度も自制しながら、ハルカは地面を蹴っていった。
スピード狂の彼女にしては、夜道とはいえ信じられないほどの安全運転である。
それが、ふと吸い込まれるように夜空を見た。
下弦の月はまだ山の端を離れない。広々とした夜空を渡る藍色の帯……。
――天の川。
呟きは、突然のクラクションにかき消された。細い路地から飛び出して来た運送会社のトラックが、振り向く間もなく少女に襲いかかった。強い衝撃と共にハルカは暗い路面へと投げ出された。トラックのタイヤがデッキを踏み割るぞっとする音が夜道に響き、全身の苦痛に耐えていたハルカはそのまま意識を失った。
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