第五話 水泳大会決勝戦
炎天下の県大会会場は沸いていた。
50m自由形の決勝で惜しくも斉藤に敗れながらも緒方・平泉ら強豪を制して二位をマークした新鋭、三峰カナタの雪辱戦とも言うべき100m決勝が近付いている。
二、三の例外を除いて他の出場選手も50mと同じ顔触れなので、彼女たちにとっても雪辱戦という言葉は相応しかった。
カナタは小刻みにジャンプしたり深呼吸したりする他の選手たちの気配を感じながら、目を伏せたまま時を待っていた。
応援に来てくれた姉や友達に笑顔で応えつつも、真剣さの度合いは予選会とは比較にならないほど高まっている。
二種目分の予選を終えた後の昼休みに、カナタはハルカたちと一緒にランチを取った。
50mの予選で会場の衆目を釘付けにした斉藤理穂とのデッドヒートは一時間足らずのランチタイムを賑わす話題としては十分すぎるほどだったが、主役であるカナタと姉のハルカは意外にも言葉少なだった。
姉妹の視線はあくまで勝利に向いているのだから無理もない。
予選タイムでは四位に甘んじていたカナタが決勝一戦目で二位に浮上したことからも、彼女の気迫が窺えた。客席の観衆はもちろん、大会関係者の彼女を見る目まで変わってきている。
距離の伸びる100mはペース配分が勝負の鍵だ。仕掛けるタイミングを誤れば、それだけで勝機は失われてしまう。
一見対等のリスクでもありチャンスでもあるようだが、経験の浅いカナタにとっては実は50mよりかなり不利である。先の種目で苦杯を嘗めた他の強豪たちも、虎視眈々と優勝を狙っている事だろう。
「女子100m自由形、決勝――」
プログラムが読み上げられ、会場の騒めきがひときわ大きくなった。
カナタは目を開け、海のように燦めくプールを見た。日本一のライダーになる、という姉の言葉がふと頭に浮かんだ。客席を見上げると、同じ顔の姉と目が合った。穏やかな笑みを口元に浮かべたのは、僅かにカナタが先だったようだ。
勝てる、と確信した。以前のカナタなら同じ感覚も疑念の種にしかならなかったろう。だがいまは違った。
八人の選手たちがスタート台に登り、会場のアナウンスがそれぞれの学校や名前を紹介していく。
短い笛の合図で前屈みに構えた八人が、次の笛で一斉に飛び込んだ。
この上ない滑らかさで、水はカナタを迎えてくれた。一瞬の恍惚をくぐり抜けて、水面に浮かび上がった時には倍の力が手足に宿っているのをカナタは感じた。肉体が、意志そのもののように少女を前進させた。
誰よりも速く、誰よりも先へ。
意志の命じるまま、カナタは無心で水を掻いた。不思議なほど気分は澄んでいる。すぐ左のレーンを泳ぐ平泉選手が後方に消えていくのを見ても、速度を加減しなければという考えはさらに起こらなかった。
25mの線を超え、カナタは身体半分の差で斉藤理穂を押さえ込んでいた。他種目含め、斉藤も今大会は調子がいい。ハイペースな二人に引きずられるようにして無理を冒した後続は見る間に脱落していった。50mのターンが迫る。
辛うじて保たれていた両者の均衡が斉藤の芸術的なターンによって破られた。身体半分のリードは覆され、二人の位置が逆転する。間髪入れずに斉藤のスパートがかかった。カナタの加速が半秒遅れた隙に、更に20cmの差が開く。
応援席の歓声はピークに達した。自分の名を呼ぶ声も聞こえる。
限界を確かめるような無謀さで、カナタはその速度を上げていった。いや、ハルカの目に無謀と見えたのは、カナタがその限界を無視するであろう事がありありと予想できたからに他ならない。
息継ぎの時、3レーン横の斉藤の位置を確認するカナタの表情はゴーグルに隠れてよく見えなかったが、死力を尽くしての猛追はそれだけで鬼気迫るものがあった。
カナタの目には、既に迫るゴールが見えている。誰よりも早く、あそこに辿り着く。それだけがこの瞬間の価値であり、全世界だった。最後の息継ぎと同時に腕の差まで追い上げた相手の位置を認めたカナタは、感覚のなくなりつつある腕を振るって最後の5cmをもぎ取る事に全力を賭けた。もう空気は必要ない。かき寄せる水が自分に味方してくれる事を心から願った。
割れんばかりの歓声、そして一杯に伸ばした指が、待ち望んだ壁に触れた。
◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
「一着――古井実中、三峰カナタ」
アナウンスが勝者の名を告げた時の会場の興奮は凄まじかった。
無理もない。タッチの差が明暗を分けた先頭の二人はもちろん、三着に入った緒方選手までが大会レコードを上回るという好レースだったのだ。
判定の発表を息を詰めて待ち構えていたハルカは、アナウンスと同時に飛び上がって快哉を叫んだものの、一瞬の後には周囲の友人たちにもみくちゃにされて嬉しい悲鳴を上げた。
カナタは精根尽きた様子でレーンの仕切りに凭れていたが、やがて左手の拳を高く上げて会場の声援に応えた。大きく手を振るハルカと友人たちの姿が見えた。
興奮の裡に県大会の幕は下り、熱戦に盛り上がったスタンドも、残照を照り返す空席の列に変わっている。
「どうしても行かないとダメ?」
「当たり前でしょ、カナタは主役の一人なんだから」
すっかり普段の優等生に戻ったカナタを、ハルカが笑って諭す。
水泳部員たちを乗せたバスの乗降口の前である。応援団の面々も加わっての祝勝パーティーが、急きょ企画されたのだ。
出席すればそのまま友人宅へ泊まる事になるのは知れ切っていたので、翌日ハルカの大会を観戦しに行くつもりだったカナタは躊躇した。しかしハルカの態度は明快だった。
今日は友人たちと勝利を祝って、明日はゆっくり休むこと。
ハルカの競技を見に来る機会はいくらでもある。100mの決勝で無茶な泳ぎをしたカナタがいかに疲弊しているか、姉にはよくわかっていた。関東大会への出場権を獲得している以上、部のためにも体を休める責任がある。
「勝てば勝ったでやることがあるんだよ。応援してくれた皆と騒ぐのも大事」
「わかってるよ。……お姉ちゃんの応援に行けなくて残念だってこと」
「そんなの。今日のカナタの試合みてたら十分気合い入ったよ。――楽しかったでしょ?」
「うん」
「よし。じゃ皆によろしく」
ハルカは幼い頃からの習慣で妹の頭を軽く撫でた後、彼女を待つバスに乗り込むよう促した。
「わかった。お姉ちゃんも頑張ってね!」
走り出すバスに手を振って、ハルカもまた友人たちの待つ駅へと帰途を急いだ。
暮色の迫る会場を後に、車輪の軽い響きが颯爽と尾を曳いていく。
◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
灼けつくような日差しは、野放図に建ち並ぶビルの谷間に早朝から耐え難い熱気を育んでいた。
地下鉄の駅を出た少女と少年が、都市部特有の猛烈な暑気に歩を遮られて、二人同時に顔をしかめた。
「あっつ!」
言わでもの愚痴をこぼしたのはハルカの方だ。
愛用のスケートボードは脇に抱え、ヘルメットその他を詰め込んだバックパックを背負っている。
希少なスケート専用スニーカーは都内の某スポーツ用品店からのプレゼントである。店主が彼女の大ファンなのだ。
「熱射病で倒れる客が出そうだな」
早くも迷惑そうに亮二が言った。選手は倒れないものと決めてかかっている所が彼らしい。
丈の短い上下にハルカと色違いのスニーカーで身を固めた亮二は、普段よりずっと幼く見える。
遠足を前にした子供のような期待感が、一層その印象を強くしているのだろう。ちなみにスニーカーは徹夜で並んで買った。
「春は靴の差で負けただけだからな。もうロイなんかに勝たせてやらねえぞ」
同い年でハーフのその少年を、亮二は一方的にライバル視している。ハルカの見た限り、技の迫力はたしかに亮二が勝っているようだ。
「男子は天童さんが欠場でしょ? 青木さんは別格としても、ロイに勝てればフリーは二位狙えるんじゃない」
並居る強豪の実力を知りながら、ハルカは意地悪く笑った。一人や二人欠場が出たところで、若年の亮二やロイでは六位までの入賞も難しいだろう。
「けっ、そうやって笑ってろ。福島や吉田だって一つでもミスが出れば射程圏内なんだからな」
亮二の顔はあくまで険しい。そのくせ楽しそうでもある。無関心に伸びる大都会の道路を半ば傲然と歩いていく少年そのものの亮二の横顔を、ハルカは見なくても思い浮かべることができた。
会場の手前で、二人は互いの健闘を祈って別れた。競技人口のまだまだ少ない女子の部では、ハルカは常に優勝候補だ。
男子に混じっても、フリースタイルなら三位入賞はほぼ確実と言われる天才少女である。会場に入ると同時にフラッシュとインタビューの嵐に晒されることがわかっているので、到着後は開会式の終了まで別行動、というのが二人の暗黙のルールとなっていた。
もちろん互いの競技の観戦や応援はする。単に試合前の余計な儀式に亮二を巻き込みたくないというのがハルカの本音だった。
会場ではスケートボードの他に、インラインスケートや自転車など、多種目の競技者たちも多数集まっている。それらに十倍する数の観客たちも、大半が競技者かスポーツ関係者だ。
昨日の水泳大会とは一味違った会場の雰囲気が、程よく緊張したハルカの頬に心地よかった。
「あっ、ハルだ!」
「三峰!? どこ!」
一人の出場者の声を合図に、周囲の視線が八方からハルカに集中し始めた。少女の顔に羞恥とは無縁の笑みが浮かぶ。可憐な容貌に似つかわしくないその表情は、正しく不敵と呼ぶに相応しかった。
◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
遅めの朝食と入浴を済ませて、カナタはぱたぱたとスリッパの音を響かせながら自室へと戻った。
ハルカが留守の時には、彼女はよく姉の悪癖を真似して両親の眉をひそめさせる。
昨日の激戦の疲れがまだ全身に残っていて、さすがに机に向かう気になれない。
楽しい事にはリスクがあるんだわ、と考えて、カナタはふと微笑った。
楽しくない事にだって同じだけのリスクがあるのがすぐに分かったからだった。
姉の応援に行きたい。しかし昨夜の夜更かしと寝不足も手伝って、着替える気力もなくカナタはベッドに突っ伏してしまった。
慣れ親しんだ寝台の睡魔が、小さな主人を優しく迎えた。
母の声に起こされた時には、正午が近かった。寝返りひとつ打たずに二時間は寝ていた見当だ。
「何ですか、そんな格好で!」
娘の活躍を聞いている母親は、苦笑を浮かべつつ彼女を揺り起こした。
「あなた宛てに電話よ。いつだか話してくれた木脇さんて方から」
「木脇さん!?」
枕に埋もれたままのカナタの顔から一時に眠気が去った。
彼の不在が長かったので、ホテルの人にこの家の電話番号を教えておいたのだ。青年からの連絡があれば、必ず伝えてくれるようにと念を押してあった。
カナタは急いで身を起こすと、母の手から受話器を受け取った。気を利かせて母は出て行く。
「もしもし……木脇さん?」
「ああ、カナタか。久し振りだね」
青年の穏やかな声が聞こえて来て、カナタは一瞬胸が詰まった。
「急に留守にして悪かった。こんなに長くかかるとは思わなかったんだけど……何度も訪ねてくれたみたいだね」
「あの……心配しました。余計なことかもしれませんけど。木脇さんが出掛けられたその日に、私も色々聞かされて。それでずっと戻っていらっしゃらなかったから」
喉の震えを堪えてカナタは言った。一方的な内容になっているのが自分でも分かったが、普段通りに組み立てていたら何も言えなくなりそうだった。嬉しかった。
「ありがとう。色々聞いたっていうのは……」
「スケッチブックの事です。木脇さんの部屋にあったからホテルのものかと思ってたら、木脇さんのものだってホテルの人が」
カナタは姉に聞かされた当日の話を、かいつまんで説明した。
「ああ、この絵を見てたんだね。巧く隠しておいたつもりだったんだけど。じゃ驚いたろう」
「じゃあ、やっぱり木脇さんが描いたんですか」
「ん……話すと少し長いんだ。僕もまだ外から電話しているんだけど、夜にはホテルに戻るから、よかったらハルカと一緒に今夜か明日にでも来るかい」
青年は屈託のない口調で言った。
「ミズキも喜ぶよ」
「行きます! 今夜、姉が帰ってきたらすぐ!」
少し遅くなるかもしれないが、ハルカと一緒なら両親も何も言わないだろう。もともと手のかからない双子なのである。
「暗いから車に気を付けておいで」
「子供じゃあるまいし」
珍しく冗談めいた忠告をくれた積太に、カナタは受話器越しの笑顔で答えたのだった。
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