第四話 夏の子どもたち
障害物が少なく本格的な練習には不向きな古井実町の公園だが、広い近いの他にもう一つ、特筆すべきところがある。
隣接した図書館と公園の敷地を隔てる3mほどの高さの崖が、端から端まで平らなコンクリートで固められているのだ。傾斜もきつく普通に駆け上がるのはとても無理だが、スケーターにとっては格好の遊び場となる。
平地でのライディングに飽きたハルカは、壁面に近い崖に向かって加速すると、タイミングを見計らって強くデッキの後端を蹴った。一瞬だけ地面を離れた車輪は壁面にぴたりとグリップし、少女の身体はそのままの速度で垂直の壁を上っていく。
視線が自然と空を向いて、崖の上の欅が落とす木洩れ日が優しくハルカの顔を撫でた。
汗に濡れた少女の頬に若々しい爽快な笑みが浮かぶ。ぎりぎりまで空に向かって走ってから身体ごと反転して、あとは流れるように崖を滑り降りた。傍で散歩する人でもあれば、さぞ驚いたに違いない。
一連の動きには彼女が天才と呼ばれるに相応しいスピードと高さがあって、まずスケーター向けの教則本に写真入りで紹介されるくらいの価値は十分にある。
壁面を駆け降りたハルカがその勢いのまま公園を滑って行くと、すぐ脇の道をクラスの友人が通りかかるのが目に入った。隣にいる彼氏はたしか三年生だったはずだ。
友だちの方でもハルカに気付いて、車止めの前で足を止めた。
その友人から、
「トリックやって!」
唐突にリクエストが飛んで来たので、ハルカは下ろしかけた足でもう一度地面を蹴って加速すると、『ビッグスピン』と呼ばれる回転系の大技を披露してから友人の前に着地した。
「おぉ――!!」
カップルから喝采の声が上がる。
「はい、五百円ね」
ハルカが手を出して見せたので、二人は笑い出した。天才少女はようやくデッキから降りる。
「今日は亮二君は一緒じゃないの?」
と、友人が訊いた。
「夏休み入ってからはほとんど別行動だよ。あいつ、結局補習地獄で全然時間合わないし」
大会には出られそうだと聞いているが、隣町まで毎日練習に行く余裕はとてもないだろう。
亮二の場合は家が遊歩道のある川の近くなので、ハルカが公園に来ない時はそちらで練習する方が都合がいい。
「なんだ、せっかく休みなのに、それじゃハルカもつまんないね」
含みを持たせた笑顔を向けられて、
「あー、あたし達べつに付き合ってるとか、そういうのじゃないから」
ひらひらと手を振って答えたが、
「でもさっき別行動って言ってたよな、普通に」
「言ってたー」
「……」
先輩からも突っ込まれてハルカは二の句が継げなくなった。
別に照れがあって否定したわけではないのだが、そう見られてもおかしくはない。
言われてみれば五年来のつきあいになる亮二との仲だ。もっと進展していても良さそうなものだが、仲間意識が強すぎて一般的な恋愛感情に繋がりにくくなっているのかも知れない。
あるいはいま先輩に言われた通り、もう恋人同士という事になるのだろうか。
「恋敵って奴がいないからだね。ハルカんとこは、お互い」
「あっ、そうかも。……幸せだな、あたし」
「いやいや、浸ってないでさ。ちゃんと誠意を見せておかなきゃダメだよ。それでなくても妹べったりなんだから」
「そうそう、男は移り気なもんだからな」
「ちょっと隆史!」
余計な口を挟んだ先輩が、彼女に睨まれて肩をすくめた。
「そういえばハルカ、あの犬連れた人と知り合いだって言ってた?」
ふと思い出したように、友人は言った。
「白い犬? うん、カナタが道案内したんだって。それから知り合い」
「やっぱり。ねえ、盲導犬を連れてるってことは目が悪いんでしょ?」
「うん、全然見えてないみたいだよ」
ハルカが答えると、友人と先輩は黙って顔を見合わせた。
「どしたの?」ハルカは訊いた。
「うん、今日隆史と歩いててその人を見かけたんだけどね、手にスケッチブックみたいなの持ってた気がしたから、二人で変だねって話してたの」
滅多に人前で笑顔を絶やさないハルカの顔から表情が消えた。
スケッチブック……。
「緑の表紙の?」
我知らず厳しい口調になって、ハルカは訊ねた。
◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
「で?」
二燭に落とした照明を見上げて、カナタは言った。時計は一時を回っている。
「うん、話を聞こうと思ってホテルに行ってみたんだけど戻ってなくて。フロントの人に尋ねたら、何日か帰らないかもって言伝て」
「……私たちに、ってことかな?」
会話は静かに進む。この姉妹には珍しい。
「フロントの人には顔を憶えられてるし、間違いないよ」
「ふーん……どこ行ったんだろう」
「カナタ」
淡々とした妹の声に強い落胆の色を感じ取って、ハルカは胸が痛んだ。
「大体、旅行先で部屋借りたまま外泊ってどういうこと?」
「何か急な用事ができたんだよ。荷物は預かってるってフロントで言ってたし」
スケッチブックの件があったのでハルカは妹に教えるべきかどうかしばらく迷ったのだが、結局就寝前になって伝えることにしたのだ。
「最初にカナタが見つけた日以来いちども開いてないけど、たしかあたしがお寺と間違えたのが西見神社で、それが一番新しい絵だったよね……」
「早苗が木脇さんを見かけたのも西見の辺り……でも何だかなぁ、目が悪い演技なんかする必要ないじゃん」
その点についてはハルカも同感だった。
だいいち、積太の立居を間近で見ていれば、それが演技でない事はすぐに判る。青年が彼女たちを欺いていたとは考えにくいし、考えたくないことでもあった。
「目が見えなくてもあのくらいの絵は描けるものなのかなあ。まさかミズキが描いてる訳でもないだろうし」
カナタが呟く。
様々な人の手によって描かれた風景画の中で、あの西見神社の一枚は出色の一枚と言ってよかった。
そのことがハルカの気を尚更に重くしている。彼女自身事情が整理できず、言えば余計に妹を惑わせるだけだと分かっていても、黙っていることはできそうにない。
天井を見上げたままのカナタに、ハルカはもう一つ、フロントで聞いた話を打ち明けた。
「カナタ、あのスケッチブックなんだけど……ホテルが準備した物なんかじゃないってさ」
◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
記録的猛暑の夏は、記録的に雨の少ない夏でもあった。
双子にとって十四歳の夏休みは、ぎらついた日光と逃げ水の記憶とが全ての基調になりそうだ。
県内三百有余の中学校から選抜された水泳部員たちが実力を競う県大会、その当日である。
予報通りの好天に恵まれ、会場は例年より多くの観客で賑わいを見せていた。オリンピックの開幕を十日後に控えて、スポーツへの関心が高まっている証拠だ。
ハルカも総勢二十人もの応援団を連れて、大会の会場にやって来ていた。
最初は五、六人で来る予定だったのに、地区予選で敗退した他の部の友人たちも加わって、いつの間にか文字通りの応援団になってしまったのである。
「楽器とか持ってってもいいの?」
「甲子園じゃないんだから」
「でも泳いでる時って声援とか聞こえるのかな」
「大丈夫だよ。声楽部も三人いるし」
さすがにこれだけ集まると、鳴り物などなくても十分騒がしい。客席の一角を占拠したハルカたちの姿は、選手の側からもよく見えることだろう。
ハルカがホテルの受付嬢から青年の不在を知らされた日から、一週間が過ぎている。その後も三度、姉妹は青年を訪ったが、彼が戻った様子はなかった。
疑惑が浮上した当日からのことだけに、ハルカ自身はともかくカナタにはずいぶん神経を使う一週間であったであろうことは想像に難くない。
学校が休みでなければもう少し気も紛れたろうに、とハルカは思った。
ただ、50m、100mともカナタの記録が飛躍的に伸びているのは好材料だった。地区予選時の課題だった飛び込みとターンの無駄が解消され、泳ぎ自体も力強さが増した。
自己ベストを更新した時の喜び方も以前のような控え目な態度から爽やかな笑顔に変わり、本格的に泳ぐ楽しさがわかってきたようだった。
「なんかハルカと似てきたみたい」
とは、小学校時代から二人を知る水泳部員の評である。
成績まで似なきゃいいけど、と余計な一言を加えて、彼女はハルカに小突かれたものだ。
ハルカの方も、明日の全国大会に向けて仕上がりは上々といってよかった。
妹が無理に水泳に没頭しているのがわかって当初は心配したが、その後の様子では落ち着きを取り戻しつつあるようだったので、ハルカとしても普段通りの気持ちで練習の仕上げができたのは幸いだった。
もっとも、この辺りには妹の気配りもあったに違いない。状況の中でベストを尽くして周囲はもちろん自己の在り方まで常に好転させていくのが、この双子の姉妹に共通した一種の徳といえた。
一歩間違えば無謀な献身にもつながりかねないこの性格を、姉妹がお互いにフォローしあっている。
「ハルカ! つぎカナタの番だよ!」
隣で応援していたバスケ部の友人が、プールサイドの一点を指差してハルカに言った。
飾り気のない黒の競泳水着に身を包んだカナタが、他の部員に囲まれて出場を待っている。
100m自由形の予選である。
「カナタって水着になるとスタイルいいんだよねー」
「ほんと。ハルカより胸あるんじゃないの」
背後から不名誉な寸評が聞こえてきたが、ハルカは妹を立てて涙を呑んだ。少なくとも春の身体測定までは差はなかった筈だ。
平泳ぎの予選が終わり、自由形の選手たちが仲間の部員たちに見送られてスタート台に向かう。
ダークホースのカナタはともかく、優勝候補の一角である斉藤理穂というエリート選手が出場するという事で、客席の声援もにわかに大きくなってきた。
ハルカは凜森として飛び込み台の前に立つ妹の顔をじっと見た。予選会で見せたような切羽詰まった感じはない。自分に似てきた、と友人が評した気魄と余裕が、確かに備わりつつあった。
「カナタ! 頑張れーっ!」
ハルカは精一杯の声でエールを送る。団長の声を合図に周囲からも一斉に黄色い声援が飛んだ。
プールサイドの緊張の中から、カナタは笑顔で手を振り返す。
「さすがハルカの妹!」
友人たちの無責任な寸評も、一層熱を帯びてきた。一般客たちもカナタの動作に目を取られたらしく、会場全体の注目が一度にこの小柄な二年生選手に集まった。
カナタの微笑は途絶えない。
「こりゃ一気にヒロイン候補だわ……」
カナタの意外な才能に半ば呆れつつ、それでも嬉しそうにハルカは呟いたのだった。
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古井実町を見渡す高台に、草に半ば埋もれた一つの碑がある。
町外れの高台は車道からも遠く、路の不便も手伝って今日では訪れる人もない。
歓声とも喝采とも無縁の場所に、同じくそれらと無縁の青年が、白い犬を連れてぽつりと立っている。万雷の、と形容するならば、耳を聾する蝉時雨も十分、彼への慰安となり得る。
青年の手は碑に触れている。
捜し求めていた物を、ようやく見つけた人間の安堵がその顔にあった。
手にした光を失うことへの幸福な不安や焦りはそこにはない。それらのあるべき心の位置を、悲しみと諦めが埋めている。
失意と共にある安堵、それは何と若さから遠い感情であることだろう。何と希望から遠い感情であることだろう。だが今となってはそれだけが、青年の心に残された唯一の、真に血の通った感情だった。
青年の手は碑に触れている。
刻まれた名を何度辿っても、彼の安堵が失われる心配はない。
苔生した碑を撫でながら、青年は祈るように俯いている。
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