第三話 積太の少年時代
その町には、赤いレンガの工場があった。
少年の頃の積太は、部屋の窓から見える、煙突に半ば区切られた空が好きではなかった。学校や習い事の合間を見つけては、緑の残る郊外に出かけて、煤の臭いのしない空気を吸った。
労働者の多い町で資産家の子として生まれ、周囲からは羨望と嫉妬の視線を向けられることが多かったが、所詮は一代で財をなした成金の子だった。肌の合わない家庭教師たちから押し付けられる教養は却って彼を孤立させ、父母との会話も多くはなかった。
その寂しさを自然との対話で紛らわしていた、という自覚は彼にはない。けだし性分なのだろう。習いもしないのに詩や画の才能は十分にあった。
仲の良かった少女がいる。積太の家とは違う、正真正銘の名家の娘だった。
積太より一つ年上で、少年の話をよく聞いてくれた。澄み切った管楽器のような声で歌うのが上手かった。恋と呼ぶほどの昂揚はないまま、それでも二人はよく話をした。手習いの苦労や家庭での事、大人たちの会話から洩れ聞こえる社会情勢をよく分からぬまま論じ合ってみたりした。
何を話しても楽しかったのだから、やはりそれは恋と呼ぶべきものだったのだろう。
積太の両目が光を失う頃には少女と会うこともなくなっていたが、彼は暗い瞼の裏にはっきりと、今でもその顔を思い描くことができる。
赤レンガの工場が建つその町で、積太の少年時代は過ぎた。
◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
「御曹司だったんだ!」
積太が話し終えるのを待ちかねたように、ハルカが叫んだ。
「どうりで品がいいと思った」
「そうかな?」
調子のいいハルカに青年は苦笑した。
「お姉ちゃん! 失礼でしょ」
青年の話にこちらも聞き入っていたカナタが、顔を赤くして姉をたしなめた。
「褒めたんだよ」
「褒めても失礼なの!」
「えー」
ハルカは不満そうである。
「ほら喧嘩するなよ。カナタもそんなに気を遣わなくていいからさ」
と積太が言った。
「はい……でもお姉ちゃん、よく御曹司なんて言葉知ってたね」
「あんた絶対あたしのことバカにしてるでしょ?」
ハルカは紅茶のカップをひとつ指で弾くと、
「スケート仲間にもいるからね、いいトコの子が」
「ああ、例のハーフの?」
カナタは簡単に答えると、何気なく続けて
「ミズキとはその頃からの付き合いなんですか?」
と、積太に訊いた。
「ん……そうだね」
足元で寝そべる愛犬を撫でながら積太が答えた。ミズキは気持ち良さそうに目を閉じている。
「この子が一緒ならどこに行っても寂しくないね」
「あ、そういえば木脇さん」
ハルカが思い出したように言った。
「まだこの町に来た理由を聞いてないわ」
「ああ、ただの旅行だよ。この年になっても放浪癖が抜けなくてさ」
「こんな何もない山の中にわざわざ?」
「山の中はちょっとひどいなあ。暮らしやすい町じゃないか。それに史跡だって結構色々あるんだよ、住んでると却って気付かないかもしれないけど」
積太がそう返すのと同時にハルカの携帯が賑やかに鳴って、ミズキが眠たそうに瞼を上げた。
「うちからだ……あ、こんな時間か」
時計を見ると七時をだいぶ回っている。
◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
記録係の笛が鳴り、スタート台に並んだ少女たちが一斉に25mのプールへと飛び込んでゆく。
短い今年の梅雨が明けて、空には真夏の太陽が照り輝いていた。
放課直後の騒がしい校庭を抜けて、ハルカは妹が所属する水泳部のプールへやってきた。
「ハルカ!? 珍しいじゃん」
「カナタの様子見にね。レギュラー選抜、今日でしょ」
合図の笛がもうひとつ鳴る。日に焼けた級友は白い歯を見せて、
「見るまでもないよ。部長は背泳ぎ専門だし、三年にクロール得意な人いないもん」
制服姿のハルカはプールサイドではよく目立つ。二人を見慣れていない一年生部員が、飛び込み台で笛を待つエースとハルカを見比べて呆気に取られた顔をした。
カナタは姉に微笑を向けたが、表情は硬い。ハルカも笑顔を返して、腕を組んだ。
八つのレーンに区切られた小さなプールは、燦然として横たわり――。
笛が鳴り、水音が響いて、その日、カナタは新しい自己ベストを出した。
◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
公園の広い駐車場を、縦横に切ってハルカは滑る。
暮れ方が迫っても盆地の夏はまだまだ暑い。手足と顔に当たる風が心地よくて、ハルカはまた加速する。
縁石、手すり、車止め――目につく物に片っ端から跳び乗っては、デッキの腹で横滑りに駆け抜けて、夕映えの駐車場に少女の表情はいよいよ明るい。
弧を描く彼女の軌跡に、もう一つ車輪の音が重なる。頭ひとつ半背の高い影が、ぴったりと少女を追走する。
「亮二! ストーキングで訴えるよ!」
弾けるように、ハルカの笑い声が響く。
繰り返される加速、跳躍。二人の影は半秒差を保ったまま、足の裏に吸い付いたボードはしかし、乗り手の意思に応じて自在に宙を走っては、ひねりを加えて再びその足下に戻って来る。
最後に一際高く跳んだハルカが、アイススケートのように空中で身を捩ると、一回転半のスピンを決めて見事な着地を見せた。毎回の大会で絶賛を浴びる芸術的なジャンプには、自称急成長中の亮二もさすがについていくことができない。
圧倒的に高いハルカの軌跡を瞼に残したまま、少年は全く別の大技で追走劇を締め括った。
◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
月のない夜道を痩身の影が、白い犬に曳かれて歩いて行く。
猛暑の夏は宵に入ってなお蒸して、左右に広がる水田から聞こえる蛙の音もどこか元気がないようだ。中心地を少し離れると、こんな景色はまだたくさん残る町である。
青年は足を止め、広がる夜の静寂に耳を澄ました。光を失う前の習慣で、彼は目を閉じたまま空を仰いだ。
夜の散歩は彼と白い犬との日課になっている。ミズキは賢い犬で、十日ほどの間に単純な町の地理をあらかた覚えてしまった。
もう道に迷う心配はないが、あのとき知り合った少女とその双子の姉妹はいまでも三日に一度はやって来て、ミズキの頭を撫でていく。
学校は夏休みに入ったらしい。
藪蚊の群がる農道を厭うふうもなく、白い犬に曳かれた青年は熱帯夜の底をまた歩き始めた。
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シャワーを済ませたハルカが部屋に戻ると、珍しくカナタが先に帰ってきていた。
「お帰りー」
「ただいま。今日は早いじゃない」
「図書館が混んでたから。部活終わってすぐ帰って来た」
長期休暇に入っても、カナタのライフスタイルはほとんど普段と変わらない。
午前中が部活になって勉強が午後に回ったくらいで、土日とたまのイベントがある日以外はそれが全く崩れない。毎日が日曜日のハルカから見ると、少し窮屈すぎるようだ。
いまだって部屋に戻ってはいるものの、机の上には参考書とノートがきちっと開かれている。
「あんた、もう少し楽しんだらいいのに」
「楽しんでるよ。今年は水泳やってるから、いつもより全然。部活の子とも遊びに行ったりしてるし」
実際カナタは愉快そうに答えたが、「遊びに行く」のはもちろん土日の話で、平日は三年生や高校生に混じって図書館での予復習に勤しんでいるのも確かだ。
「宿題とかもう終わってるわけ?」
「五教科の分はね」
あっさり妹が肯いたので、ハルカはさすがに呆れた。
「お姉ちゃんも毎日練習行ってるみたいだけど、この暑さで倒れないでね」
ハルカの方は自由になった時間を活用して、ごたごたと障害物の多い隣町の公園まで、遠征する日が増えている。もちろん手すりや縁石を練習台にするためだ。
垂直競技と呼ばれるハーフパイプ状の競技場で行う技の練習も進めておきたかったが、これは更に遠出しないと環境がない。
「カナタこそ、部活で無理して夏風邪ひかないように気をつけな。大会いつだっけ?」
ハルカは妹のと並んだ自分の勉強机に腰掛けて言った。湯上りの香気が漂って、カナタはちょっと首をすくめる。
「県大会が来週の土曜だよ」
「地区予選は楽勝だったから県でも優勝狙えるかもね」
姉が気楽に言うと、
「どうかなあ。タイムだけを見ると五番目くらいには着けてるんだけど」
カナタの方では慎重な態度を見せる。水泳一筋の上級生に混じって泳ぐのだから不利は当然なのだが、やるからにはあくまで勝ちを狙いに行くのは姉譲りの性格かも知れない。
「タイムなんて本番じゃ関係ないよ。まだ時間もあるし、縮められるとこ縮めて後はレースに負けない事だけ考えてな」
ハルカは笑って言った。水泳だってスケートボードと同じで、普段のタイムや技量が重要なのは言うまでもない。が、それ以上に本番で普段通りの泳ぎや滑りができるかの方がずっと大事で、そうした精神面での強さがあればこそ、大舞台で実力以上の結果も残せようというものなのだ。
その自信を得るために、千回でも一万回でも練習する。好きでなければできないことだ。
「土曜日なら応援行けそうだね。暇な友だち集めて観に行くから頑張りなよ」
「えっ、微妙にプレッシャーなんだけど……それよりお姉ちゃんの大会が日曜でしょ? 前日遊んでていいの?」
「いいのいいの。前の日は軽く体動かすぐらいがベストなんだよ。それにカナタがスポーツ大会に出るなんて今年が最初で最後かもしれないし。姉として妹の晴れ舞台は観ておかないとね」
ハルカはきっぱりと言った。どうもスポーツ以外の晴れ舞台などは存在しないと考えているようだ。
「うん、私も日曜は休みになるからお姉ちゃんの応援に行くよ。遠いから友だち連れては無理かもしれないけど」
カナタはよく日に焼けた姉の顔を見ながら言った。例年、この時期だけは色の違いで姉妹の見分けがつくと皆にからかわれるのだが、今年はカナタの方も小麦色に日焼けしているのでほとんど差はない。
「期待してるよ」
ハルカは嬉しそうに白い歯を見せて、妹の申し出を歓迎したのだった。
正直なところ、夏休みに入る前後あたりからカナタの様子がどこか普段と違ってきているようで、姉としては少し心配だったのだ。
初めての部活も楽しんでいるのは事実だろうが、入部したばかりでレギュラーを任される重圧はやはり大きいだろう。記録会や予選会でも、気が入りすぎているのが見ていてよく分かった。
カナタは何でも一人でできるが、反面では一人になることが苦手だったりする。人の輪の中に居てこそ彼女も輝き、周囲も喜ぶというタイプなのだ。
個人競技の水泳を選んだことが、妹にとって負担にならなければいいが、と多少ハルカの懸念するところだった。
慣れないものは、部活の他にもう一つある。
ハルカとしては、こちらの方がずっと心配な事柄である。木脇積太のことだ。
ミズキに会いに行く、という口実で姉妹は今も青年の所に遊びに行く。いや、二人とも「口実」と意識するほどの他意はないのだが、世話好きのカナタは特に、積太の部屋では掃除や片付けなど実によく働いて、ミズキと遊ぶことへの「お礼」をする。
どちらかというと妹とは逆に、ハルカは会うたびにこの不思議な青年との間に、距離を置くようになってきている。
自分でそれと気づかない恋ほど、失われてから残る痛みは長い。最初にハルカにスケートボードを教えてくれた先輩は、今年の春に結婚してしまった。カナタも亮二も知らないことだが、ハルカだけは知っている。知りたくなくても、なぜか耳に入るものなのだろう。
彼が東京に出る時にくれた板だけが、今もハルカと共に風を切っている。
カリカリとペンを動かすカナタの横顔を、ハルカはしばらく眺めていたが、妹の集中を乱しそうなのでまたデッキを持って部屋を出た。
大丈夫だろう。
楽観主義は三峰家の家風で、双子の娘は家風の体現といっていい。カナタは自分ほど感傷的ではないし、もし傷つくような事があっても、カナタ自身が築いてきた周囲との絆が彼女を元気づけてくれるだろう。
何より、すぐ隣には姉である自分がいるのだ。
殺人的な蒸し暑さの中、立ち昇る陽炎の隙間を縫うようにして、ハルカは公園への舗道をとばして行った。
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