第二話 ハルカとカナタ
二人の住む古井実町は、都心から電車で二時間ほどの距離にある。
内陸の小さな町だ。南北から山が迫っているので、鄙びた印象に拍車がかかっている。
いくつかの史跡と、リゾートマンションと、地元の暮らしがあるだけの平和な町である。
明治期から昭和の初期にかけては現在よりも栄えていた、と社会科の教諭は口癖のように語るが、都心に人口の流出した昭和中期以降は見る影もない。
都会好きのハルカはもちろんの事、カナタでさえもう少し遊ぶところがあれば、と思う。
二人の両親は東京育ちなのだが、人口集中の風潮に逆行するように、父方の祖父母がかつて住んでいたこの町に引っ越して来たのだった。
もっとも、両親にとっては晩年の子に当たるハルカたちには、祖父母の記憶は全然ない。家族と言えば両親と、同じ顔の姉か妹で、故郷はこの鄙びた小さな町だった。
「せめてまともな喫茶店が欲しいわ」
今朝は珍しく早く起きた姉と並んで歩きながらカナタが言うと、
「あんた欲なさすぎ!」とハルカに咎められた。
「お姉ちゃんは何が欲しいの」
「ん、最低でも服とレコードとライブハウスとボードの店が欲しい」
「需要が低いものばっかりだね……」
性懲りもなく小脇にスケボーを抱えている姉を見やって、カナタはため息をついた。最近は学校のどこに隠しているんだろう。
「こんな所にわざわざ旅行にくる人もいるのが不思議だよ」
雲の多い空を見上げてハルカが言った。
カナタが木脇積太の道案内をしてから、三日目の金曜日である。
「あれから見かけないね、あたしもミズキに触りたかったのに」
「しばらく滞在するって言ってたんだけどな。学校の方に来てないだけだと思うよ」
豆腐屋のおばさんが店の前を掃除しているところを通りかかって、二人は一緒に頭を下げた。
◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
学校では、月曜日からのテストを控えて、生徒たちの間にも多少の緊張感が漂っている。
休み時間ともなるとカナタの周りはノートを借りにくる友だちで取り囲まれてしまう。学年でも常にトップ争いから外れた事のないカナタなので、周囲が彼女に頼るのは当然なのだが、彼女が友人同士の「勉強会」にあまり参加しないこともあって尚更そのノートが必要とされるのだった。
「教祖だね、あれは……」
妹とは正反対にテスト前ほど閑散とする自席で頬杖をつきながら、ハルカは退屈を持て余すことになる。
ハルカの場合は家でテスト対策をしているカナタから教えてもらえるので、他のクラスメートよりのんびり構えていられるのである。
「誰が教祖だって?」
同じく暇そうにしている亮二が、机に突っ伏したままの肩越しに首だけで振り返って声を掛けてきた。
「カナタがよ。謹製の教典が大好評で」
「ああ……どうせ実力テストだろ? 通知表には関係ねえのに御苦労なこった」
複写に余念がない級友たちの方を一瞥して亮二は言った。
「中間期末でもクラス最下位のあんたがよく言うわ……今年の夏は補習で大会欠席なんて真似はやめてよね」
ハルカは笑った。この町でスケート仲間は貴重なのだ。
その日の夜からは、夜半まで机に向かう妹に倣ってハルカも一応のテスト勉強に入った。今度の試験は範囲が広い分、内容が薄い。浮かんだ疑問にすぐ答えてくれるカナタが隣にいる状況なら、復習には二日もあれば十分だった。
もちろん及第点を目指すハルカの場合は、という話ではある。
「来年からは塾かなあ」
中休みのひと時にそう洩らしたカナタを、ハルカは信じられないと言った顔で眺めた。
カナタにしてみれば、高校入学の少し前から塾に慣れておいて、最終的には大学受験を目標に高校での実力をつけていきたいと考えている。高校は姉と一緒にしたいので、塾選びはなおさら身に迫った問題になりつつあった。
なにしろ少子化の進む古井実町には名が知れるほどの進学塾はひとつふたつしかない。それにしたところで地方の国立大学合格程度を辛うじて標榜できるレベルなのだから、カナタが満足できるかどうか。
「やっぱり自習かな……」
複雑な妹の内心など知らないハルカは、二転三転するカナタの呟きに首を傾げるのだった。
「お姉ちゃんは大学とか考えてない……よね」
「大学は行かないよ。無理だし必要ないし」
日本では極めて数の少ないプロのスケーター、このレベルになるとスケーターではなくライダーと呼ばれるそうだが、そのプロになるのがハルカの夢だった。初めて聞いた時にカナタは目を丸くして呆れたものだが、暇さえあればスケボーを担いで出て行く姉を見ていると、はっきりした目標のある彼女が羨ましくもある。
「でもスケボーじゃ、この町には残れないね」
大卒後には戻ってこようかと考えているカナタが冗談めかして言うと、ハルカは大真面目な顔で答えた。
「そんなのあたしが日本一になって古井実をスケーターの街にすれば済むことでしょ?」
「……そ、そうだね」
ハルカが各地の大会で入賞し、天才少女の名声を得ている事はカナタも当然、知っている。
この姉ならあるいは実現するかもしれない。
「日本一のライダーの妹、か。わたしも何かスポーツでも始めようかな」
「本当!? 自転車とかなら一緒の大会に出られるよ!」
「自転車って……あの曲乗りみたいなのでしょ? もう少し怖くないのがいいんだけど」
カナタは以前姉を応援しに行った大会で見た競技場の風景を思い出しつつ言った。
「ふうん……じゃ、水泳がいいんじゃない? カナタ泳げるようになるのあたしより全然早かったし」
「あ、いいかも」
スポーツ万能のハルカの影に隠れがちだが、徒競走と水泳だけはカナタの天稟も姉にひけを取らない。
水の中にいるのが好きなカナタは、姉の勧めに従ってみようかという気になった。
休息を終えて二人が机に戻ると、しばらくしてカナタの携帯電話が短く鳴った。
「メールか。早苗からだ」
旧式の携帯を開きつつカナタは言った。文面を見た彼女の顔が明るくなる。
「ミズキ連れて散歩してる木脇さん見かけたって! 西見神社のあたりだってさ」
学校とは正反対の方角だ。
「あの辺りにいたんじゃ会わない訳だ。あした天気よかったら、ちょっと探してみる?」
カンヅメ勉強が苦手なハルカは叱言を覚悟で提案したのだが……、
「うん!」
妹の予想外の快諾に、却って面食らったのだった。
◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
週が明けて二日が経った。
過密スケジュールのテストも終わり、生徒たちは本格的な夏を前に生き生きとした普段の生活に戻っている。
カナタは試験が済むとすぐに水泳部の門を叩き、人材不足に悩む水泳部員たちを喜ばせた。
もちろん部員の中にはハルカの方に来てもらいたかったと思う者もあっただろうが、カナタの泳ぎを見れば意見を改めるに違いなかった。
カナタが初日の部活を終えて出てくるのを待って、姉妹は帰宅の途についた。
寄る所がある。
「どうだった?」
「まだ少し寒いよ。水からあがると風邪引きそう。でもやっぱり楽しいけど」
「速い人はいたの?」
「女子の中では私がトップみたい。クロールはね」
女子水泳部は総部員10名というところだろう。二人は歓談しながら駅への道を歩いて行った。
町の中央に位置する駅を挟んで、ちょうど学校と真向かいに二人の住むマンションがある。二人は最近新しくなった駅舎の側を通り過ぎると、普段の通学路から少し逸れて、商店街を抜ける細い横道に入って行った。
目的のホテルは、横道を抜けたすぐ隣の通りに建っていた。小さいながら新しく小綺麗な造りのこのホテルに、あの青年が逗留している。
先日ようやく散歩中の彼を見つけた二人はそのことを知り、彼の厚意に甘えて今日もミズキと遊びに来たのである。
フロントの女性に挨拶をして、二人は木脇積太の部屋を訪ねた。
「やあ、いらっしゃい」
ドアを開けた青年の足元で、ミズキも並んで二人を出迎えた。再会に喜んだカナタがあまりに可愛がったので、ここ一両日で数年来の友だちのように懐いてしまったのだ。
積太はもう部屋にも慣れたらしく、ハルカたちが愛犬と戯れている間に、器用に三人分の紅茶と菓子を用意してくれた。
どうぞ、とテーブルに盆を置かれて初めて顔を上げた姉妹は、青年の気回しの良さに驚いて、お詫びだかお礼だかはっきりしない返事を返した。
「君たちが来てくれるからミズキも喜ぶよ。お茶くらいしか出せなくて申し訳ないけど」
積太は笑顔で言った。サングラスは外しているので、閉じられた瞼と長い睫毛が彼を年齢よりは多少幼く見せている。
「申し訳ないだなんて。私たちの方こそ、気が利かなくてごめんなさい」
「買い物とかお洗濯とか、あったら手伝いますよ」
「ありがとう。でも旅行は慣れてるから、身の回りのことは自分でできるよ。ミズキを可愛がってくれるだけで十分、感謝してる」
積太は微笑を浮かべたままで二人に言った。
「それだけ、ってのもちょっと悪い気がするなあ……」
釈然としない様子でハルカが呟くと、
「それなら学校の話でも聞かせてもらおうかな」
と積太は言った。
「中学校か……懐かしいな。僕にもそんな頃があったんだっけ」
明るい青年の声に初めて憂いに似た響きが混じったように、カナタには聞こえた。
視力を失ってしまったのは高校以降の事なのだろうと、カナタは思った。
苦難の時間が楽しかった過去を、取り返しのつかない遠くに隔ててしまう。青年の憂いはそこに向けられたもののように思えた。
もっとも、それはお節介なカナタの単なる思い過ごしであったかも知れない。勢い込んで話し始めるハルカの声を聞きながら、青年はいかにも愉快そうだったからである。
ハルカのおしゃべりは熱が入ってくると五分や十分ではとても終わらない。教室での流行から教師たちのあだ名まで、思い付くネタを語り尽くさんばかりの勢いで口が動く。
これで明日も明後日も同じ調子で話して話題がなくなる事がないというのが、カナタにもちょっと信じられないほどだ。
ハルカの快弁に相槌を打つ青年の微笑をカナタはしばらく眺めていたが、不意に胸苦しくなって慌てて目を逸らした。
積太は姉の話に聞き入っていて、カナタが見つめていても一向に気付く様子はない。盲目というのは何て悲しいものだろうとカナタは思った。
自分自身の感情の揺らぎを悟られまいとして、カナタはすぐ隣に寝そべっているミズキの方に左手を伸ばした。姉にも積太にも、同情していると思われるのは嫌だった。
幸いハルカの話が佳境に入ってきたところらしく、二人の意識は彼女の方には向いていなかった。ミズキの頭を撫でてやりながら、カナタはぼんやりと室内を眺めた。
このホテルの特色なのだろう、壁にかかった複製の名画や造花のポット、間接照明などで一見賑やかな印象があるが、青年の荷物はというと驚くほど少なかった。
旅行鞄や着替えはクローゼットに入っているのだろうが、部屋の中には大きめのリュックサックが一つと、机の上のサングラスがあるだけだ。
あとはミズキの世話に必要な物ばかり、それらにしても多くはない。
本の一冊もないんだものね、と当然のことを考えかけて、ふとカナタの視線が止まった。部屋の一隅に置かれた簡素な机……その脚元の椅子の陰に籐編みの深い籠があり、そこに何か雑誌らしきものが差さっている。
いや、目を凝らしてみると雑誌ではない。たくさんのリングで綴じられた背表紙の、それはスケッチブックに間違いなかった。
カナタが立って行ってスケッチブックを開いてみると、ページごとに様々な画風のスケッチが並んでいた。多くの人が旅の記念にと描き残したのだろうか。
どこの景色かよく分からないが、中にはずいぶん上手いものもある。逆に明らかに子供の手とわかる、微笑ましい落書きのような画もあった。
「カナタ、何やってんの?」
ようやく一息ついたハルカが、思い出したように妹の方に声をかけた。
「カナタってば」
「あ、ごめん。これ見つけて」
カナタが写生帳を渡すと、ハルカはパラパラとページを繰って、
「ホテルが用意してるのかな。変わってるけど、ちょっと気が利いてるね」
ちょうど青年がトイレに立ったので、美術の好きな双子は描き人しらずのスケッチ群に寸評を加えたりしながらページをめくっていった。
「知らない所ばっかりだね」
「山や田圃の景色じゃ仕方ないよ。どこだって大差ないし」
「あっ、このお寺みたことある! でもどこだっけ?」
「どれ?」
カナタはハルカの手元を覗き込み、ちょっと目を瞠った。
「上手い! でもお姉ちゃんコレ西見の神社だよ。お寺じゃないし」
「? 似たようなもんでしょ。あ、これが最後なんだ」
ハルカがめくった次の頁はまだ白紙のままだった。
「こういう名所をもっと描いたらいいのに。いくらこの町が田舎臭いからって、山ばっかりじゃどこがどこだか分りゃしない」
「名所って、お姉ちゃんどこだか思い出せてなか
ったじゃん」
「……あーあ、誰かあたしがオーリー決めてるとこ描いてくれる人いないかなー」
無理矢理はぐらかされてカナタは噴き出した。ボードに乗っている時のハルカは確かに絵の題材になりそうだ。山や神社と違って一秒もじっとしていないのが難点だが……。
青年が戻ってきたので二人はスケッチブックを元の位置にしまうと、またテーブルに着いた。
「さ、今度は木脇さんの事も少しは話してよ」
好き勝手に喋っておいて、と苦笑しながら、カナタも姉の意見には賛成だった。
「私も聞きたいです。どうしてこの町にいらしたのか、とか」
「うん、実は以前から旅行が好きでね。昔は友達連れとか一人旅が多かったんだけど、今はミズキと一緒にその頃に巡った町をもう一度、回ってるんだ」
積太が話し出すと、ミズキが大きな体を起こして主人の足元に歩いて行き、また寝そべった。
愛犬の背を撫でながら、積太はゆっくりと話を続けた。
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