第一話 犬を連れた少年
初夏には珍しい、まだ朝靄の残る月曜日だった。
通勤通学のひと足もあらかた通り過ぎてしまった道を、けたたましい車輪の音を響かせて、一人の少女がすっ飛ばしていく。
古風な制服にプロテクターを着けた姿は初めて見る者には異装と映るだろうが、この小さな町の人々にとってはもう見慣れた景色の一部になっていた。
体格は小柄ながらスポーツ万能、あり余る元気をこげ茶色の瞳が象徴するような、誰からも愛されるスピード狂は、学校への道を急いでいる。
まだシャッターの開かない洋品店の角を曲がり、三分遅れた農協の時計で時刻を確かめて、少女はさらに加速した。ここからしばらくは交差点も横道もない長い直線なのだ。
腕時計に目を走らせた少女が前方に視線を戻すと、ほんの10メートルほど先からこちらに向かって来る人影が見えて、彼女は慌てて縁石を飛び越え横に避けた。
速度はほとんど落ちなかったので、大きな犬を連れたその人影は、見る間に彼女の脇を流れ去って行った。
「いいなあ、あんな大きな犬」
呟きながらもういちど縁石を飛び越えて、少女は再び地面を蹴った。
◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
「三峰……カナタ」
「はい」
「うん、カナタ、姉さんは欠席か。珍しい」
担任の中年男性教諭が、黒い出席簿を片手に言った。
「遅刻です。たぶん」
カナタと呼ばれた女子生徒は簡単に答えた。
「あ、遅刻か。うん、カナタ、遅れてもいいからハルカにスケボーで通学するのだけは止めるよう言ってくれないか。ずいぶん危ないから」
担任は人の好い笑顔を浮かべてカナタに頼むのだが、カナタとしても再三、姉には忠告しているので、「善処します」くらいしか言うことがない。
だいたい双子とはいえ妹の方が姉の非行の責任を問われるというのもおかしな話だ。
「先生からもきつく言ってやって下さい」
カナタがいくぶん冗談交じりに返すと、
「うん、私はどうもきつく言うのが苦手で……」
担任が情けない苦笑でそう答えて、教室は無邪気な笑い声に包まれた。
ホームルームが終わって先生が教室を出て行くと、入れ違いにハルカが登校してきた。
「遅かったね」
カナタが同じ顔の姉に声を掛けると、
「その言い草はないでしょ。もう少し真剣に起こしてくれたっていいじゃない。先生、なにか言ってた?」
「校則破ってまで遅刻するような奴は最悪だってさ」
さらりと言ってのけるカナタの隣で、ノートを写していた友人たちが目を丸くした。
妹の機嫌が予想以上に悪いので、ハルカは肩をすくめて自分の席についた。クジ運のいい彼女は、大体いつも窓際後方の席に座っている。
「よう、転んで泣いてんじゃないかと思って心配したぜ」
一つ前の椅子に座った亮二がハルカの方に向き直って声を掛けてくる。
小学校の頃からのスケート仲間で、むろん彼女が普通の道路で転ぶような腕前かどうかはよく知っていた。
「一度でもあたしより高く跳べるようになってから言って欲しいもんだわ、そういう科白は」
「へっ、可愛げのねえ。次の大会で俺の新技みて惚れても教えてやらねえからな」
軽口を叩いた亮二はまた背中を向けた。いやに自信のある彼の口ぶりと新技という響きにぐっと興味を惹かれたハルカだったが、ここで亮二に得意がらせるのも癪なので黙っていることにした。
予鈴が鳴って、カナタの周りでノートを写していた面々もいそいそと席に戻り始める。ハルカがちらりと目をやると、同じように振り向いたカナタと目が合った。
こういう時は決まってカナタの方がそっぽを向いてしまうのだが、ハルカはそういう妹が可愛いので、普段のお小言も甘んじて聞くようにしている。
一時限目の英語は、担任の柴田先生の受け持ちだ。意外と几帳面な彼はいつものように授業開始の二分前には教室にやってきて、不真面目な生徒たちを落胆させた。
「お、ハルカが来たか。お前ずいぶん上手いらしいが、登下校の時くらい歩けよ」
単語をいくつか省略しても意味が通るくらいに、彼女の才能は教師の間にも知れ渡っている。「気を付けます」と型通りの返事を返して、ハルカはまた妹に睨まれたのだった。
◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
翌日、委員会の仕事を終えて帰る途中で、カナタは珍しく町の本屋に寄った。
参考書や雑誌はハルカが買ったものを共有しているし、趣味の読書は図書館を活用するので、却って書店に寄る機会は少ないのだ。
先日、作文のコンクールで入賞し、いくらか分の図書カードが手に入ったので、しまい忘れる前に本と換えてしまおうと思ったのである。
こういう時ほど目当ての商品と出会えずに迷うのは本に限った事ではないが、広い売り場を飽きもせずにチェックしていったカナタは、とあるコーナーを見つけて目を輝かせた。
「これにしよ。値段もちょうどだし」
ペット雑誌のコーナーから図鑑ほどもあるムックを選び出したカナタは、嬉しそうにページをめくって呟いた。
マンション暮らしで猫一匹飼えないので、姉妹揃って動物に憧れているのである。特にカナタは幼い頃から生き物の世話をするのが好きで、小学校の頃は皆に率先して兎や金魚を可愛がった。
カナタが重いムックを抱えるようにしてレジまでやって来ると、顔見知りの店員のおばさんが一人の客と何か話しているところだった。
カナタがその客の後ろに並んだのを見て、おばさんは言った。
「あ、ちょっとご免なさいよ……カナタちゃん、いらっしゃい。お姉ちゃんは元気かい」
おばさんの声に合わせて、レジの前にいた客が一歩横に避けたので、カナタはカウンターに分厚いムックを置いた。
見るとはなしに目をやると、話をしていた客はサングラスをかけた青年のようだった。
カナタは軽く頭を下げたが、青年は微動だにしなかった。年は二十二、三といったところだろう。普段なら礼儀を知らない人だとムッとするところだが、青年の手元に一本の杖を認めたカナタは、そのままおばさんの方へ向き直って答えた。
「おかげ様で。いつも姉がお世話になってます」
ふだん雑誌などを買いに来るのは専ら姉のハルカの方なのだから、たまに顔を見せた自分を憶えていてくれただけで単純に嬉しい。もっとも、顔立ちや髪型はほとんど同じなので、一見して見分けてくれるのはこのおばさんくらいだ。
「あらあら。中学生になってずいぶん気の利いた話し方するようになったわね。お勉強もできるんですってね、いつもハルカちゃんが自慢してるわよ」
「やだな、フツーですよ。お姉ちゃんが自慢するのもなんか変だし」
「いいじゃないの。お姉さんはスポーツ万能、妹さんは成績優秀! 理想の双子だわ」
そこまで断言されると、優等生のカナタも多少照れる。返す言葉に詰まって、少女は仕方なく頬を掻いた。
「今日はもう部活は終わったのかい、いつもより中学生の帰りが早いようだけど」
「テスト前だからです。ほとんどの部はいつもより一時間くらい短くなってるから」
「ああ、それでね。そうだ、カナタちゃん。こちらの方なんだけど、目が不自由なんだそうだよ。それで慣れないこの辺の道で迷っちゃったから、駅までの行き方をいま教えたとこなんだけど、カナタちゃん帰り道だろう? 一緒して案内してあげてくれないかい」
「えっ、いいですよ、わざわざ」
驚いた声で答えたのは、カナタではなく青年の方だった。深みのある声で、カナタは好感を持った。
「あっ、本当に帰り道と同じですから。ご案内させて下さい」
カナタが言うと、青年は恐縮したように、
「ありがとう、それじゃお願いします」
と頭を下げた。
「悪いねカナタちゃん。少しオマケしておくから」
有無を言わせず図書カードの一枚を返してくれたおばさんに挨拶を残して、カナタは青年と店を出た。
と、入り口の前の柱につながれて主人を待っていた白い犬が、嬉しそうに立ち上がって長い尾を振った。
「大きい犬! あ、この子もしかして……」
「ああ、私のパートナーです。元々は普通のペットだったから盲導犬としてはまだ半人前ですが」
青年が手探りで紐を解いてやると、愛犬はゆっくりと彼を先導しはじめた。が、いかんせん不慣れな道に戸惑っているようで、大型犬特有ののんびりした足取りが、時々さらに遅くなった。
「さっきからこの調子ですっかり夕方になっちゃいまして……手間で申し訳ないけど駅まで頼みます」
「はい、もちろん!」
大型犬など滅多に見る機会もないカナタは一も二もなく頷いた。
「迷ってるところも可愛いなあ……名前はなんて言うんですか?」
「この子はミズキ、僕は木脇積太」
「あ、私……三峰カナタです」
慌てて自己紹介したカナタは、積太と名乗った青年の横顔を、改めて見直した。サングラスに隠れた瞳はどちらを向いているのかはっきりしないが、どうやら両目とも完全に光を失っているのはまちがいないようだ。
身長は並か少し高いくらいだろうか。体つきが細いので、実際より高く見える。やや尖った印象の顔立ちは口元が厳しすぎるほどに締まっていて、物腰の柔らかさと対照的だった。
「引っ越して来られたんですか?」
黙っているとミズキに見入ってしまいそうなので、世間話の苦手なカナタは何とか話題を見つけて聞いた。
「いえ、旅の途中なんです。こうしていくつも街を回ってまして」
「旅、ですか……この子と二人で?」
少女の率直な問いに、積太はそうです、と短く答えた。
「あの、不便じゃありません?」
失礼な質問かと思ったが、青年の落ち着いた声に甘えてつい訊いてしまった。
「はは……特に不便という程でもないですよ。皆様親切にして下さいますし。ミズキには苦労をかけますが」
屈託なく話す青年の声は明るかった。愛犬が主人の声に反応したように小さく鼻を鳴らす。
姉ほどではないにしろ、カナタも生来の楽天家なので、表向き感じ取れない相手の苦労をわざわざ汲んで黙り込むような野暮はしなかった。
「道を覚える暇もないんじゃたしかに大変だわ。あっミズキ、こっちだよ!」
丁字の交差点を見事に逆に曲がろうとしたミズキを、カナタは楽しそうに呼び止めた。
◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
その夜、夕食を終えて自分たちの部屋に入ったカナタは、早くもベッドに寝転がっているハルカに帰り道での出来事を話して聞かせた。
「ミズキっていう大きな白い犬を連れててさ、その犬がすごく可愛かった!」
妹が目を輝かせながら教えると、ハルカは少し考えた後、思い出したように言った。
「もしかして毛の長い犬?」
「そうだよ、お姉ちゃんも見たの?」
「うん、昨日の朝ね。スタンドの前あたりでぶつかりそうになって焦ったけど」
遅刻して睨まれたことなどとうに忘れたような気安さでハルカは言って、ごろりと仰向けにひっくり返った。熱心に読みふけっていた雑誌が終わったのだろう。
「じゃ、たぶん同じ人かな。サングラス掛けてたでしょ」
「うん、痩せた感じの」
「男の人ね。木脇さんて言うんだって」
積太の容貌や彼との会話をかいつまんで話すと、ハルカは少なからず興味を引かれたようだった。
「変わってるね。そんな不自由な身で一人旅なんて」
「うん。なんで旅行してるんですか、って訊いたんだけど、あんまりはっきり答えてもらえなかった」
「あたしがぶつかりかけても平気な顔してた訳だわ。真正面から向かってくのが見えてなかったんだ」
ハルカは天井に向けて呟くと、そのまましばらく口をつぐんだ。
カナタは鞄からノートを取り出して、宿題に取り掛かる。二年になってからの二人はクラスも同じなので、自然と宿題や予習範囲も同じになる。
大抵はカナタのノートを一番に写すのが姉のハルカという感心できないパターンになるのだが、いつかのように知恵熱で寝込まれても困るので、優しい妹はこのあたりは黙認することにしていた。
半分ほど済ませてから姉のベッドを見やると、意外にもハルカは微睡みもせずに天井を見上げていた。
「お姉ちゃん、音楽掛けてもいいよ」
「ん、カナタちょっと聞きたいんだけど」
身軽にハルカは上体を起こすと、妹の方を向き直った。
「目が見えないのってどんな感じか考えたことある?」
「ないよそんな恐ろしいこと」
言下にカナタは答えた。
いや、実際には積太のような青年と会話を交わす間には、相手の立場に身を置いて物事を考えるくらいのことはカナタもやっている。が、そんな空想に価値を認めることの危険さを彼女は本能的に知っているので、あえて考えた事もないと言い切ってしまう。
言い切ってしまっても、ハルカにだけは誤解される心配はない。カナタはこの点、誰よりも姉を信頼していた。
「以前は見えたらしいんだけどね。怪我で両目とも、だって」と、カナタは付け加えた。
「ふうん、それでそんなに明るくしてられるのは凄いね。たいした人だわ」
少年のような笑みを唇に浮かべてそう言うと、ハルカはまたベッドに倒れた。
ハルカのこういう性格も、あるいは人には理解されにくいものかもしれない。
「変わってるよね。名前からして変わってる、木脇とか」
欠伸を噛み殺したハルカは大きく伸びをして、そう言った。
「変な名前は私たちもいい勝負だけどね」
カナタがシャーペンの芯を足しながら答える。ハルカが噴き出した。
「ほんとだわ、ましてこっちは下の名前だし。センス疑うよね」
「待望の子供が双子だったもんだから舞い上がってたんでしょ」
親不孝な姉妹はひとしきりいつもの愚痴をこぼして、互いに笑い合ったのだった。
◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇




