表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
三峰姉妹の夏休み 〜ある八月の物語〜  作者: 文月斜


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
7/7

最終話 明日に架ける橋

「ハルカ……ハルカ」


誰かが名前を呼んでいた。

名前(・・)を呼ぶのはカナタではない。それに声は男のものだった。

父だろうか。違う。


「亮二……?」


掠れた声で呟いて、ハルカは重い瞼を開けた。擦りむいた頬が鋭く痛んだ。

目の前に、白い大きな姿があった。


「ミズキ……木脇さん」


愛犬の隣にしゃがみ込んで、ハルカを呼んでいたのは彼だった。


「ハルカ! 気がついたかい」

「うん。あたしボーッとしててトラックに……」


ハルカはアスファルトから身を起こして、不思議そうに自分の手足を眺めた。

あちこち擦り剥いてはいるが、どこも大きな怪我ではない。


「ミズキが間に合ったみたいだね。急に引綱(リード)を振り解いて駆け出したから何事かと思ったよ」

「あっ」


ハルカは思い出した。トラックが衝突してくる直前、背後からの衝撃が彼女を突き飛ばした事を。


「戻ってきたミズキに引っ張られて来てみたら、君が倒れていて驚いたよ」


と、積太は言った。


「どうしてあたしだって分かったんですか?」

「ミズキが君を覚えてるからね。それに近くにこれが」


ハルカが積太の手元を見ると、無残に割れてしまったデッキが目に入った。


「壊れてしまっているみたいだけど――(ハルカ)が無事で本当によかった」

「あ、ありがとうございます……あたし」


死ぬとこだった、と言おうとしたが、喉に貼り付いて言葉が出なかった。ささくれたデッキの断面が街灯の光を受けて、ひどくよそよそしいものに見えた。本当に久々にハルカは泣きたくなったが、ミズキが大きな身体を寄せて来てくれたので涙は出なかった。


「ミズキ、ありがと」


ハルカはトラックの事を聞いた。


「ひどいやつだ。君をはねていない事がわかると僕らにこの場を任せて逃げてしまった。僕の目が見えれば捕まえておいたのに」


積太は悔しそうに言った。


「この町の男はあんなじゃなかった」


ぽつりと洩らした青年の口許を見やって、ハルカは目が覚めたような気分になった。


「いいんです、木脇さんとミズキに助けてもらえて、それだけで十分」


痛みをこらえてハルカはどうにか立ち上がった。


「歩けるかい」


気配を察して青年が言った。


「うん。木脇さん、この町に住んでたの?」

「えっ」

「さっき、この町の男は、って言ったからさ」


ハルカは何気なく訊いた。十日間の留守(・・)中、青年は何をしていたのだろう。

事故のショックが和らぐと、疑問が次々と浮かんできた。


「ああ、口が滑ったな。実はそうなんだ。今夜カナタと君が来たら話すつもりだったんだけど」

「今夜? あたし何も聞いてませんけど」

「お昼頃に電話で話したんだよ。ハルカが帰ったら一緒に来るってことになってた」


と、積太は言った。


「でも今夜は休んだ方がいいかな。怪我、してるだろう」

「こんなの。スケーターにとっちゃ掠り傷くらいいつもの事です」


ハルカは強がってみせた。


「それにカナタに明日まで待てなんて頼んだら、何て言われるか。すごく楽しみにしてるんです、木脇さんと会うの」

「そうか、じゃ僕が出向こう。遅くに迷惑かな?」

「全然!」


意外な青年の申し出に、ハルカは喜んで答えた。



◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆


カナタの淹れた薄いコーヒーが、三つのカップから柔らかな香気を立てていた。


打ち身と擦り傷だらけの姉を、カナタは慣れた手つきで治療していく。治療と言っても消毒して絆創膏や湿布を貼る程度だから手当て()と呼んだ方が正確かもしれないが、とにかく怪我人から文句が出ない的確な処置だった事はたしかである。


カナタが怒った顔で治療を続ける間、ハルカは気まずそうに空いた手でコーヒーを啜っていた。

積太と一緒に帰る、と家に連絡した時まではよかったのだが、顔に酷い擦り傷を作って帰宅したハルカを見て家族全員が青くなった。

普段めったに怒らない両親もたまりかねたように二言三言の叱言(こごと)を言ったが、何よりカナタがヒステリックに双子の姉を咎めたてたので、結局は姉妹の間を取りなすような変なお説教になった。


自分たちの部屋に戻ってからも、カナタの機嫌は穏やかではない。積太は応接室でしばらく父親と世間話をした後、二人の部屋に通されていた。彼はいつも通りの微笑でコーヒーカップを傾けている。


「よりによって私が行かなかった時に事故らなくてもいいでしょ。心配で休めやしない」


カナタの叱言はもはや愚痴に近い。

たしかに妹が一緒なら亮二とのキスは未遂に終わった可能性が高い訳だが……。


「だから事故ったわけじゃないって」

「それはミズキが助けてくれたからでしょ! たまたま木脇さんの帰りと重なってなかったらどうなってたか……」


カナタは厳しく言った。当のミズキは居間で両親の歓待を受けている。ペット禁制のマンションなので家族揃って動物に憧れているのである。


「ごめんなさい、木脇さん。お待たせして」


ようやく治療を終えたカナタとハルカが、車座を組んで青年の傍に腰を下ろすと、わだかまっていたキリマンジャロの香りがふわりと三人の間に立ち迷った。

カナタの表情も心なしか和らぐ。


「お話、聞かせてくれますか?」


青年は肯き、物静かな声で語り始めた。



◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇


灼けつくような太陽の日差しは、その夏も古井実の町を照らしていた。

空梅雨となった水無月の頃より数えて、もうふた月ほども雨らしい雨が降らない。農家では作物の生育が心配されていた。

日本晴れの青空の下、陽炎に霞む街並みが広がる。


「――美しい町だった。今でも、思い出すよ」


積太は屈託なく言った。

町の中央には、いまはなくなってしまった大きな工場があった。家々の屋根は低く、工場の煙突は西見から桜台まで、町のどこからでも望むことができた。赤レンガの巨大な外観と、吐き出される煤煙は、当時の古井実のシンボルだった。

国会議員何某と繋がりの深い町長が先年誘致したこの工場が、町の経済を根本から変えたと言っていい。伝統的な農業と宿場の収益で成り立っていた財政が、連日フル稼働を続ける新工場の出現でにわかに潤った。多数の労働者が県内外から移住し、人口の増加も目覚ましいものだった。


誰もが誇らしげに見上げるこの高い煙突を、しかしいま、索漠とした眼差しで遠望する男女がいた。中心地からは少し距離のある、見晴らしの良い高台である。


「また内閣が変わるってさ」


嫌悪感を滲ませて言ったのは、まだ幼さの残る顔立ちの少年だった。短く刈り込んだ頭に古びた麦藁帽子を斜めに被り、鍔の縁から空を睨むようにわずかに頤を上向けて話す癖があった。


「工場ができて町も変わった。景色も人も」

「積太は嫌いなの、あの工場が」


少年の右後ろに佇む少女が言った。少年よりは一つ年上の、すらりと背の高い少女だった。


「嫌いだよ」


煤煙から目を離さぬまま、少年は言った。

工場は兵器廠だった。


「あんなものを日本中に建ててどうする気だろう。大陸での戦争もまだ済みそうにないのに、もう次の戦争に備えてるんじゃないか」


流れる汗を拭いもせずに彼は言った。町内にも兵役に取られたきり帰って来ない者がいくらもあった。少年はこの辺りでは富裕な役人の長男だったが、内心では画家になりたかった。幼馴染の少女はそれを知っている。

しかし所詮は無理だった。周囲の大人や情勢が、なにより少年自身の責任感が、自由に夢見る事を到底ゆるさなかった。

少年は父親の言いつけ通り、画家への道をあきらめ高校に進学した。


「積太は」


と少女が言った。


「戦争が嫌なのね」

「うん。あんな恐ろしい事はいくら勝ったって聞くのも嫌だよ。銃剣も大砲もまっぴらだ。戦地から帰った人にはずいぶん得意になって話す人もいるけど」

「男のくせに」


少女が笑った。むろん本音ではない。からかうのが面白いのだ。

刹那的で中身のない愉しさに彼女は寂しさを紛らせた。恐れているのは彼女の方だった。

少年はまた黙って町を眺めた。

いずれ自分は下士官になる。その時、戦争が今より激化していれば、十中八九は死ぬだろう。


「笑われるのは癪だな」


初めて口許を緩めて少年が言った。


「怖がるのと逃げるのは別の事なのに」


振り返ると少女と目が合った。


「戦うのと死ぬのだって別の事よ」


少女は言った。


「撃つことと撃たれることも別。くだらないようでも覚えておかないと、あなたみたいな人はすぐに諦めるわ」

「諦めやしないさ、僕だって男だ。もし何年かして出征することになっても――必ず瑞生のところに帰ってくるよ」



◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇


戦時下に交わされた多くの約束と同じように、少年と少女のそれもまた、正しく果たされることはなかった。


最前線に送られた新任下士官が生還を信じて激戦する一方で、皮肉にも彼を待つ娘の方が、兵器廠を狙った大規模な空襲に巻き込まれて瀕死の重傷を負い、他の住民ともども避難してきた町外れの高台で、満足な手当ても受けられぬまま命を落とした。

住民の救助に奔走した積太の父親も、二次の爆撃でこのとき帰らぬ人となった。何も知らぬまま積太は戦い続け、一週間後に死んだ。補給のままならぬ最前線で飢えと熱病に衰弱しきった末の戦死だった。


「――半世紀以上も前の話だよ。信じろっていう方が無理だと思うけど」


積太は隣で聞き入る双子の姉妹に、むしろさっぱりとした口調で言った。

コーヒーはまだ湯気を立てていた。居間の方から両親の笑い声が聞こえた。ミズキが愛想を返しているのだろう。


「からかってるならやめて下さいね」


ハルカが口を開くより先に、カナタが真面目くさった表情で言った。初めて会った時から不思議な青年だとは思っていたが、それでも彼の話をにわかには信じ切れなかった。

勘のいいハルカは今の話をどう聞いたのだろう。

確かめる前に、積太が答えた。


「からかってはいないよ。カナタ、手を」


青年はカップを置いて、床の一点を指差した。


「そこに置いて」

「はい」


言われるままに手を置くと、


「動くなよ」


そっと積太の手が重なった。

カナタの顔が強張る。すぐに積太は手を離した。

直前までコーヒーカップの表面を撫でていたのに、青年の指は氷のように冷たかった。


「あまり触れてると身体に悪いんだ。少しは信じてもらえたかな」

「どうして嘘ついたんですか? 旅行で来てる、って話だったのに」


言いながら、ハルカはずっと心に引っ掛かっていた積太との出会いの場面を思い出していた。

あの日、遮蔽物も脇道もない直線道路の真ん中に、青年とミズキの影は突然現れはしなかったか。

そして今夜、彼女を事故から救った時も、積太はハルカに手を触れようとはしなかった。


「ごめん、あの嘘のことは謝るよ。僕らが里帰りする時のルールでね、身分を知られるのはちょっとマズいんだ」


青年は悪戯っぽく笑って、コーヒーを啜った。


「いまはいいんですか、話しちゃって」


冷たい手のショックからやや立ち直ったカナタが訊いた。


「目的が済んだからね。どのみちもう戻らないと……」

「……」


カナタは暗い窓の方に目を背けた。仕方のないことだと無理に思った。積太がただの旅人だったとしても、いずれはその日が来る。ずっと不在だったこの一週間を思えば、最後に会えただけでも幸運だったのだ。

そのうえ、何よりも大切な姉の命を救ってもらっている。


「目的って、もしかして絵を描くこと?」

「うん、それもあるけど、家族と瑞生の消息が知りたかったんだ。あっち(・・・)じゃ確かめられないからね」

「見つかったんだ」

「ああ」


ハルカの問いに短く答えて、青年の口許には寂しげな色が浮かぶ。積太はそれ以上言わなかった。


「ミズキの名前はその人から貰ったんだね」

「うん、もともと名前のない犬なんだ。里帰りする人間があると案内するように育てられた子なんだよ」

「目が見えないのも里帰り(・・・)のルールなの?」

「そうだよ。()の故郷は見られない」

「だったら」


ハルカは身を乗り出した。


「どうして絵を?」

「あの画帳のことか――あれはミズキと一緒に貸してもらった特別な物でね。里帰りした人が故郷の変わってない風景を探して描くものなんだ。僕の場合は五十年以上も経ってるから何もないかと思ったけど、西見の神社がそのままだったのを知った時は嬉しかった。僕らには変わっていないものだけが見えるんだよ。感じられる、と言った方がいいかな。それをスケッチするんだ。里帰りの記念にね。人も町も変わってしまったけど、変わらない場所も確かにある。五十年、百年の昔から」

「答えになってないわ。見えないのにどうして昔から変わってないって分かるの?」

「ん、説明するのが難しいんだけど……いまの僕に見えるのは昔に見たものだけなんだ。記憶の中にないものは見えない。だから普段は真っ暗闇の中を歩いてるのと大差ないけど、ごくたまに明かりの灯ったような場所があって、そこは昔と変わってない場所ってこと」


ハルカやカナタにとってみれば、戦争の頃の話などは遠い伝承でしかない。両親だって戦火とは無縁の世代である。積太にとっての風景が、この町に残っていなくとも無理はなかった。


「でも来てみて良かったよ。戦争が終わって半世紀以上が経ってもこの町は平和で、あの嫌な工場の臭いもしない。君たちにも会えたしな」

「よくないですよ。用事が済んだらさっさと帰っちゃうんだから」


恨みがましくカナタが言って、すぐに寂しそうな笑い声を上げた。ハルカは何も言えず、妹と青年を交互に見た。


「ごめんな」


冷たい手がもう一度だけカナタの髪を撫でてくれた。

それだけで言いようのない疲労が全身に染み渡って、カナタは安息混じりの小さなため息をついた。


「いまので許してあげます。その代わり、私たちの大会の話くらい聞いて行って下さいね」









◇◆◇◆◇◆◇ エピローグ ◇◆◇◆◇◆◇


カナタの関東大会から二日が過ぎた。


姉妹は町を見渡す高台に立って、いくぶん草臥れた蝉の声を聞いている。

木蔭にひっそりと立つ碑の下に、持参した色鮮やかな夏の花々が手向けられていた。土や草木の匂いが濃い。


「静かなとこだね」

「そう? 賑やかじゃん」


手を合わせた双子は互いに言った。

ミズキと青年が町を去ったあと、普段は風邪もひかないカナタが珍しく熱を出して二日ほど寝込んだ。

妹が気を落としていることを知っていたハルカは、できるだけ傍にいて元気づけてやった。

他の家族が寝静まった後、カナタは一度だけ涙を見せたが、翌日には体調を取り戻した。

関東大会では惜しくも入賞を逃したものの、残り少ない夏休みを有意義に過ごすべく、相変らず日々の予復習には余念がない。


ハルカはデッキを新調した。

新しいデッキの調達に同行したカナタは、「一番危なくないのにして下さい!」と強硬に言い張って、ハルカと顔なじみの店主を驚かせた。

割れてしまった思い出のデッキは、修復を終えて双子の部屋の壁を飾っている。


ハルカは石碑の裏に回って、刻みつけられた被災者たちの名をもう一度眺めた。

年齢の順で並べられているらしいその悲しい名簿の一番下の方に、青年の想い人の名があった。


「ずっと待ってたんだね、ここで」


姉の思いを見透かしたように、カナタが同じ感想を洩らした。


「もう二度と会えないのに、名前だけになっても待ってたんだね。それを木脇さんは手探りで捜して、ちゃんと見つけてあげたんだ」


カナタはハルカの隣に寄って来て、どこか懐かしそうに人々の名を見た。


「こういうの二世の縁って言うのかな。私なんか自分の町にこんな碑があることも知らなかった」

「あたしは宿命論なんかキライだけど」


男のように腕を組んでハルカは笑った。


「でも想いの強さってのは大事よね」


おりから蝉の声が高まり、木の下闇に目を上げると、生い繁る樹々の間から、広がる古井実の町が見えた。


赤レンガの工場は今はない。


「ここも五年でスケートのメッカね」


眼下に故郷を望みつつ、姉はカナタにそう宣言した。






(終)

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ