課長席
窓際の課長席は、部屋の中でそこだけ空気の重さが違って見える。
机や椅子が特別なわけじゃない。配置だって、前とそこまで変わったわけじゃない。ただ、その席があるだけで、誰がこの部屋の判断を引き受けるのかが、目に見える形になっている気がする。
総務部にいたころ、篠宮澪は部下だった。
朝、部屋に入って窓際の課長席を見るたび、べつにそのことを思い出すわけじゃない。
思い出さなくても、知っている。
あの席に座るだけのものを、篠宮は前から持っていた。
鞄を机の脇に置いて、端末の電源を入れる。
立ち上がるまでのあいだ、窓際は見ない。見なくても、もう来ているのはわかる。朝の部屋は静かで、その静けさの重心がどこにあるかも、なんとなく知れてしまう。
今日の予定に大きな動きはない。
ただ、先に渡しておいたほうがいい話が二つある。急ぎではない。でも、急ぎでないうちに共有しておくべきことだった。
ようやく窓際へ目をやる。
篠宮は書類を開いたまま、まだ顔を上げていない。
あの横顔を見ると、声をかけるなら今だと思う。
そういう判断だけは、昔からあまり外れたことがない。
端末が立ち上がるのを待ちながら、頭の中で二つの話を並べ直す。
ひとつは昨日のうちに上がってきた報告のこと。すぐに問題になるほどじゃないが、このまま誰も触れなければ、あとで面倒になる気がした。
もうひとつは、今朝の予定表を見ていて気になった小さなずれだった。見落としで済むかもしれないし、済まないかもしれない。そういう曖昧なものを、放っておくのは苦手だ。
大げさに扱うほどじゃないことほど、扱いを間違えると厄介になる。
総務部にいたころから、そういうものを先に拾う癖がある。起こりうる最悪を先に考えるのは、悲観というより習い性みたいなものだ。何も起きなければそれでいい。けれど、起きたときに遅れないためには、起きる前に考えておくしかない。
篠宮は、そういう考え方を無駄だと言わなかった。
考えすぎだと笑われたことがないわけじゃない。けれど篠宮は、拾った懸念をいったん受け取って、その中から本当に要るものだけを残した。要らないものは静かに脇へよけて、要るものには順番をつける。ひとりで抱えていると広がるばかりの想定が、篠宮の手にかかると、動ける形に収まった。
思い描いた厄介な事態が、そのまま現実になったこともある。
そういうとき篠宮は、短い報告でも要点を外さず拾って、必要な判断をすぐ返した。こちらも、その判断を前提に動くことができた。噛み合っていたのだと思う。上司と部下として、というより、見ている先が大きくずれていなかった。
危機管理部に移ってからも、その感覚がなくなったわけじゃない。
立場は変わったし、部署も変わった。前と同じ距離ではない。それでも、共有しておいたほうがいいと思う相手が誰かで迷うことはない。篠宮もまた、こちらがわざわざ口にすることを軽く扱わない。その程度の信頼は、もう説明しなくてもそこにある。
端末の画面が切り替わって、未読の通知がいくつか並ぶ。
そのうち優先度の高いものから順に開いて、内容をざっと追う。今すぐ対応が必要なものはない。少なくとも表面上は、今日も静かなまま始まっている。
静かな朝だと思う。
こういう時間が長く続けばいいと、べつに願っているわけじゃない。ただ、静かなうちにしかできないことがある。何も起きていない時間に、起きたときのための穴を塞いでおく。朝の仕事は、その繰り返しだ。
メモ欄を開いて、共有しておくべきことを短く打ち込む。
言葉は少ないほうがいい。長く書けば、そのぶん判断が遅れることがある。篠宮に渡すならなおさらだ。必要なことだけあれば足りるし、足りなければ向こうが聞く。総務部にいたころから、そのやりとりで困ったことはあまりない。
入力を終えてから、もう一度だけ窓際を見る。
篠宮はまだ書類に目を落としている。机の上に余計なものはなく、手元の動きにも無駄がない。目立つようなことは何もしないのに、気づけば部屋の流れがその人を中心に整っていく。昔からそうだった。課長席が似合う、というのとは少し違う。あの人が座るから、あの席がそういう場所として落ち着くのだと思う。
もっとも、そんなことを口に出すつもりはない。
言ったところで篠宮は困ったように黙るだけだろうし、こちらもそれ以上の言葉を持たない。必要なのは感想じゃなく共有だ。画面に戻って、打ち込んだメモを見直す。順番は悪くない。今ならまだ、朝の静けさを壊さずに渡せる。
椅子を引く音が、思ったより小さく部屋に落ちた。
その音で篠宮が顔を上げるかと思ったが、そうはならなかった。立ち上がって、手元のメモを頭の中でなぞる。急ぎではない。けれど、急ぎでないうちに渡しておくべき話だった。
窓際へ向かいながら、ふと、昔もこうして篠宮の机へ話を持っていったことを思い出す。
あのころは、部下の机だった。今は課長席だ。ただ、それだけの違いだと片づけるには、少しだけ遠くまで来た気もする。それでも足が迷わないのは、結局、相手が篠宮だからなのだろうと思う。
机の前で足を止めると、篠宮がようやく顔を上げた。
短く息をついてから、手元のメモに落としていた視線を上げる。
「少し、いいか」
篠宮は何も言わず、わずかに頷いた。
その反応を見て、ようやく口を開く。昔と同じようでいて、まったく同じではない。部下の机へ話を持っていっていたころとは違う。今、自分が立っているのは課長席の前だった。
けれど、その違いを遠いものとは思わない。
あの席は、突然与えられた席じゃない。篠宮という人間が積み重ねてきたものに、ようやく席のほうが追いついたのだと思う。
静かに最初の用件を話し始める。
朝の部屋はまだ静かだった。
その静けさの中心にある課長席は、もう誰にも違和感を与えない場所になっていた。




