少し遠く、少し近く
朝、執務室に入った瞬間、最初に目に入る場所が変わった。
以前なら、無意識に澪さんの席を探していた。今は違う。視線は自然と、窓際に新しく置かれた課長席へ向かう。
そこに澪さんがいることに、まだ少しだけ慣れない。
もちろん、頭ではわかっている。辞令が出て、組織が変わって、危機管理部が発足した。澪さんはその課長になった。何度も見たはずの光景なのに、朝いちばんにその席を見るたび、胸の奥が小さく揺れる。
「おはよう、小夜」
先に来ていた澪さんが、手元の書類から顔を上げた。声はいつもと変わらない。落ち着いていて、やわらかい。
「おはようございます」
そう返してから、自分の席へ向かう。たったそれだけのやり取りなのに、前と同じではないのだと、どこかで思う。
席に着いて端末を立ち上げる。メールを確認し、今日の予定を開く。部内打ち合わせが一件、他部署との調整が二件。午後には定例会議も入っていた。
発足してまだ日が浅いせいか、細かな確認や問い合わせはむしろ増えている。名前が変わっただけで仕事が整理されるわけではないし、むしろ境界が引き直されたぶん、どこまでを誰が持つのかを確かめるやり取りが続いていた。
「おはよう、柿谷」
振り向くと、相沢さんが入ってくるところだった。その少し後ろから、高橋さんも「おはようございます、柿谷さん」と軽く声をかける。
「おはようございます」
いつもの朝の挨拶。それだけなら前と変わらないのに、四人がこの部屋にそろうと、まだ少しだけ不思議な感じがした。
危機管理部。口に出せばもう聞き慣れたはずの名前なのに、実感はいつも少し遅れてやってくる。
午前中は細かな確認が続いた。他部署からの問い合わせに答え、共有用の資料を整え、会議用のメモをまとめる。澪さんは朝から二件続けて打ち合わせに入っていて、席に戻ってきてもすぐ別の確認に呼ばれていた。
課長になったから忙しいのだ、と思う。実際その通りなのだろう。けれど、そうやって席を立つ背中を見るたびに、少しだけ遠くなったような気がするのも本当だった。
十一時を少し回ったころ、内線が鳴った。高橋さんが取ろうとしたのとほとんど同時に、澪さんが立ち上がる。
「すみません、先に総務へ行ってきます。急ぎの確認が来たら、まとめておいてもらえますか」
部屋の全員に向けた言葉だったが、最後に視線が止まったのは小夜だった。
「はい」
短く返すと、澪さんはうなずいて部屋を出ていった。
扉が閉まる。そのあとに残る静けさは、ほんの数秒なのに妙に耳についた。
「……課長、ほんと席にいませんね」
相沢さんがぶっきらぼうに言う。高橋さんは端末を見たまま、小さく笑った。
「発足直後ですからね。しばらくは落ち着かないでしょう」
課長。相沢さんの口から出たその呼び方に、また胸の奥が小さく揺れる。
間違っていない。むしろ正しい。正しいのに、まだ少しだけ落ち着かない。
その間にも、問い合わせは止まらなかった。共有フォルダの権限設定についての確認。午後の会議資料の差し替え依頼。他部署からの、案件の所管に関する問い合わせ。
一つひとつは大きくない。けれど、澪さんが戻ってから確認しやすいようにしておかなければ、余計に時間を取らせてしまう。
小夜はメモを取りながら、内容ごとに整理していった。急ぎのもの、今日中でいいもの、会議前に判断が必要なもの。関連する資料を開き、過去のやり取りを確認し、必要なら簡単な補足も添える。
「もう分けてるのか」
ふいに相沢さんが言った。
「え?」
「確認。どれを先に見るか、もう整理してるだろ」
画面から目を離さないまま言われて、小夜は少しだけ言葉に詰まった。
「先に分けておいたほうが、確認しやすいので」
「早いな」
短い一言だった。ぶっきらぼうなのに、軽く流したわけではないとわかる声音だった。
高橋さんも横から穏やかに続ける。
「助かってますよ、実際。前からそうですけど、柿谷さんはこういう整理が早いですから」
その一言に、指先が止まった。
前からそう。高橋さんは、まるで当然のことのように言う。
「課長も、そのつもりで柿谷さんに頼んだんじゃないですか」
そのつもり。
考えたことがなかったわけではない。でも、そんなふうに他人の口から言われると、急に輪郭を持って迫ってくる。
ただ手伝っているわけではない。ただ近くにいるだけでもない。澪さんが席を外している間、この部屋の流れを止めない役目を、自分はいつの間にか当たり前に担っていた。
そう思った瞬間、少しだけ息が浅くなる。
「柿谷?」
相沢さんの声に、はっとして顔を上げる。
「すみません。続けます」
ごまかすように画面へ視線を戻す。けれど一度意識してしまうと、自分のしていることが前より少し重く見えた。
昼前、澪さんが戻ってきた。手元の資料を抱えたまま席に着くと、すぐに「状況どうですか」とこちらを見る。
小夜はまとめていたメモを持って立ち上がった。
「急ぎは三件です。ひとつは権限設定の確認で、これは総務側の処理待ちです。二つ目は午後の会議資料の差し替えで、最新版はもう反映済みです。三つ目が所管確認で、こちらは判断をお願いしたくて、関連資料を添えてあります」
言いながら、自分でも驚くほど言葉が滑らかに出た。順番も、要点も、頭の中で整理されたまま並んでいく。
澪さんはメモに目を通し、すぐにうなずいた。
「ありがとうございます。助かりました」
その言い方があまりに自然で、小夜は一瞬だけ返事を忘れた。
まるで、こうなることを最初からわかっていたみたいだった。小夜が整理して待っていることを、当然のように前提にしていたみたいに。
「……いえ」
やっとそれだけ返すと、澪さんはもう次の資料に目を落としていた。けれど、その横顔はどこか落ち着いて見えた。
「ほら」
相沢さんが小さく言う。
小夜がそちらを見ると、相沢さんは端末に目を向けたまま、ぶっきらぼうに続けた。
「そういうことだろ」
説明のない一言なのに、何を指しているのかはわかった。
高橋さんは少しだけ笑って、書類を整えながら言う。
「今さら確認することでもなかったのかもしれませんけどね」
午後の会議は滞りなく終わった。細かな修正や確認は残ったものの、大きな問題はない。終業時刻が近づくころには、部屋の空気も朝より少しだけやわらいでいた。
端末を閉じ、机の上を整える。ふと顔を上げると、窓際の課長席が目に入った。
そこに澪さんがいる。朝と同じ光景のはずなのに、今は少しだけ見え方が違った。
遠くなった、と思っていた。前とは違う場所に行ってしまったのだと、どこかで感じていた。
たぶん、それは間違いではない。課長になった澪さんは、もう前と同じ位置にはいない。
でも、変わったのは澪さんだけではなかったのかもしれない。
今日、自分がしていたことを思い返す。問い合わせを受けて、整理して、判断が必要なものを分けて、戻ってきた澪さんに渡した。それは補助ではなく、この部屋の流れをつなぐための仕事だった。
前と同じつもりでいたのは、自分だけだったのかもしれない。
「小夜」
呼ばれて顔を上げる。澪さんが席からこちらを見ていた。
「今日、ありがとうございました」
今度は朝より少しだけ、言葉が近く聞こえた。
「……いえ。お疲れさまでした」
そう返すと、澪さんがやわらかく笑う。
その表情を見たとき、胸の奥の揺れが少しだけ静まった気がした。
変わったものはある。変わらないものも、きっとある。
そのどちらの中にも、自分はもう立っている。
小夜は小さく息をついて、鞄に手を伸ばした。




