表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
1/3

少し遠く、少し近く

朝、執務室に入った瞬間、最初に目に入る場所が変わった。


以前なら、無意識に澪さんの席を探していた。今は違う。視線は自然と、窓際に新しく置かれた課長席へ向かう。


そこに澪さんがいることに、まだ少しだけ慣れない。


もちろん、頭ではわかっている。辞令が出て、組織が変わって、危機管理部が発足した。澪さんはその課長になった。何度も見たはずの光景なのに、朝いちばんにその席を見るたび、胸の奥が小さく揺れる。


「おはよう、小夜」


先に来ていた澪さんが、手元の書類から顔を上げた。声はいつもと変わらない。落ち着いていて、やわらかい。


「おはようございます」


そう返してから、自分の席へ向かう。たったそれだけのやり取りなのに、前と同じではないのだと、どこかで思う。


席に着いて端末を立ち上げる。メールを確認し、今日の予定を開く。部内打ち合わせが一件、他部署との調整が二件。午後には定例会議も入っていた。


発足してまだ日が浅いせいか、細かな確認や問い合わせはむしろ増えている。名前が変わっただけで仕事が整理されるわけではないし、むしろ境界が引き直されたぶん、どこまでを誰が持つのかを確かめるやり取りが続いていた。


「おはよう、柿谷」


振り向くと、相沢さんが入ってくるところだった。その少し後ろから、高橋さんも「おはようございます、柿谷さん」と軽く声をかける。


「おはようございます」


いつもの朝の挨拶。それだけなら前と変わらないのに、四人がこの部屋にそろうと、まだ少しだけ不思議な感じがした。


危機管理部。口に出せばもう聞き慣れたはずの名前なのに、実感はいつも少し遅れてやってくる。


午前中は細かな確認が続いた。他部署からの問い合わせに答え、共有用の資料を整え、会議用のメモをまとめる。澪さんは朝から二件続けて打ち合わせに入っていて、席に戻ってきてもすぐ別の確認に呼ばれていた。


課長になったから忙しいのだ、と思う。実際その通りなのだろう。けれど、そうやって席を立つ背中を見るたびに、少しだけ遠くなったような気がするのも本当だった。


十一時を少し回ったころ、内線が鳴った。高橋さんが取ろうとしたのとほとんど同時に、澪さんが立ち上がる。


「すみません、先に総務へ行ってきます。急ぎの確認が来たら、まとめておいてもらえますか」


部屋の全員に向けた言葉だったが、最後に視線が止まったのは小夜だった。


「はい」


短く返すと、澪さんはうなずいて部屋を出ていった。


扉が閉まる。そのあとに残る静けさは、ほんの数秒なのに妙に耳についた。


「……課長、ほんと席にいませんね」


相沢さんがぶっきらぼうに言う。高橋さんは端末を見たまま、小さく笑った。


「発足直後ですからね。しばらくは落ち着かないでしょう」


課長。相沢さんの口から出たその呼び方に、また胸の奥が小さく揺れる。


間違っていない。むしろ正しい。正しいのに、まだ少しだけ落ち着かない。


その間にも、問い合わせは止まらなかった。共有フォルダの権限設定についての確認。午後の会議資料の差し替え依頼。他部署からの、案件の所管に関する問い合わせ。


一つひとつは大きくない。けれど、澪さんが戻ってから確認しやすいようにしておかなければ、余計に時間を取らせてしまう。


小夜はメモを取りながら、内容ごとに整理していった。急ぎのもの、今日中でいいもの、会議前に判断が必要なもの。関連する資料を開き、過去のやり取りを確認し、必要なら簡単な補足も添える。


「もう分けてるのか」


ふいに相沢さんが言った。


「え?」


「確認。どれを先に見るか、もう整理してるだろ」


画面から目を離さないまま言われて、小夜は少しだけ言葉に詰まった。


「先に分けておいたほうが、確認しやすいので」


「早いな」


短い一言だった。ぶっきらぼうなのに、軽く流したわけではないとわかる声音だった。


高橋さんも横から穏やかに続ける。


「助かってますよ、実際。前からそうですけど、柿谷さんはこういう整理が早いですから」


その一言に、指先が止まった。


前からそう。高橋さんは、まるで当然のことのように言う。


「課長も、そのつもりで柿谷さんに頼んだんじゃないですか」


そのつもり。


考えたことがなかったわけではない。でも、そんなふうに他人の口から言われると、急に輪郭を持って迫ってくる。


ただ手伝っているわけではない。ただ近くにいるだけでもない。澪さんが席を外している間、この部屋の流れを止めない役目を、自分はいつの間にか当たり前に担っていた。


そう思った瞬間、少しだけ息が浅くなる。


「柿谷?」


相沢さんの声に、はっとして顔を上げる。


「すみません。続けます」


ごまかすように画面へ視線を戻す。けれど一度意識してしまうと、自分のしていることが前より少し重く見えた。


昼前、澪さんが戻ってきた。手元の資料を抱えたまま席に着くと、すぐに「状況どうですか」とこちらを見る。


小夜はまとめていたメモを持って立ち上がった。


「急ぎは三件です。ひとつは権限設定の確認で、これは総務側の処理待ちです。二つ目は午後の会議資料の差し替えで、最新版はもう反映済みです。三つ目が所管確認で、こちらは判断をお願いしたくて、関連資料を添えてあります」


言いながら、自分でも驚くほど言葉が滑らかに出た。順番も、要点も、頭の中で整理されたまま並んでいく。


澪さんはメモに目を通し、すぐにうなずいた。


「ありがとうございます。助かりました」


その言い方があまりに自然で、小夜は一瞬だけ返事を忘れた。


まるで、こうなることを最初からわかっていたみたいだった。小夜が整理して待っていることを、当然のように前提にしていたみたいに。


「……いえ」


やっとそれだけ返すと、澪さんはもう次の資料に目を落としていた。けれど、その横顔はどこか落ち着いて見えた。


「ほら」


相沢さんが小さく言う。


小夜がそちらを見ると、相沢さんは端末に目を向けたまま、ぶっきらぼうに続けた。


「そういうことだろ」


説明のない一言なのに、何を指しているのかはわかった。


高橋さんは少しだけ笑って、書類を整えながら言う。


「今さら確認することでもなかったのかもしれませんけどね」


午後の会議は滞りなく終わった。細かな修正や確認は残ったものの、大きな問題はない。終業時刻が近づくころには、部屋の空気も朝より少しだけやわらいでいた。


端末を閉じ、机の上を整える。ふと顔を上げると、窓際の課長席が目に入った。


そこに澪さんがいる。朝と同じ光景のはずなのに、今は少しだけ見え方が違った。


遠くなった、と思っていた。前とは違う場所に行ってしまったのだと、どこかで感じていた。


たぶん、それは間違いではない。課長になった澪さんは、もう前と同じ位置にはいない。


でも、変わったのは澪さんだけではなかったのかもしれない。


今日、自分がしていたことを思い返す。問い合わせを受けて、整理して、判断が必要なものを分けて、戻ってきた澪さんに渡した。それは補助ではなく、この部屋の流れをつなぐための仕事だった。


前と同じつもりでいたのは、自分だけだったのかもしれない。


「小夜」


呼ばれて顔を上げる。澪さんが席からこちらを見ていた。


「今日、ありがとうございました」


今度は朝より少しだけ、言葉が近く聞こえた。


「……いえ。お疲れさまでした」


そう返すと、澪さんがやわらかく笑う。


その表情を見たとき、胸の奥の揺れが少しだけ静まった気がした。


変わったものはある。変わらないものも、きっとある。


そのどちらの中にも、自分はもう立っている。


小夜は小さく息をついて、鞄に手を伸ばした。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ