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課長席から

朝、窓際の課長席に座ることには、もう慣れている。


慣れている、と思う。

少なくとも、椅子を引くたびに余計な感慨を挟むことはなくなった。課長席だからといって、机の高さが変わるわけでも、書類の重さが変わるわけでもない。朝になれば端末を立ち上げ、予定を確認し、先に片づけるべきものから順に手をつける。その繰り返しは、肩書きが変わる前と大きくは違わなかった。


ただ、判断が集まってくる。

それだけは、前よりはっきりしている。


自分で決めるべきことと、上に上げるべきこと。

今すぐ返すべきものと、少し寝かせてもいいもの。

係で持たせるべきものと、課で引き取るべきもの。

そういうものが、朝のうちから静かに机の上へ積み上がっていく。


窓際の課長席は、よく目立つ席だと思う。

見ようとしなくても視界に入るし、誰が座っているかも自然とわかる。だからだろうか、ときどき自分がそこにいることを、周囲のほうが先に馴染ませていったような気がする。自分では、まだそこまで意識していないことまで、周りはもう当然のものとして扱っている。そういうずれは、少しだけ不思議だった。


書類を開きながら、今日の予定を頭の中で並べ直す。

大きな動きはない。ないが、何も起きない日ほど、細かい調整は要る。表に出るほどではないずれや、今のうちに触っておいたほうがいい違和感は、たいてい静かな日に見つかる。


端末の通知をひとつずつ確認していると、部屋の空気が少しだけ動いた。

誰かが入ってきたのだとわかる。視線を上げなくても、足音や物音でだいたいのことはわかる。長く同じ場所で働いていると、そういう感覚だけは妙に残る。


相沢さんだ、と思う。

思ってから、べつに確認する必要もないことに気づく。


鞄を置く音。

端末の電源を入れる間。

すぐにはこちらを見ない気配。

何かあるときほど、あの人は先に一度、自分の中で順番をつける。共有するならどこから話すか、どこまで言うか、今ここで上げる形になっているか。そのあたりを見ているのだろうと思う。


総務部にいたころ、相沢さんはそういう人だった。

起きてから対処するより、起きる前に拾っておきたいのだろう。懸念の段階で持ってくることも多かったし、実際、そのおかげで助かったことも少なくない。拾う範囲が広いぶん、本人の中で重さが均されてしまうところはある。けれど、それを雑だと思ったことはなかった。見落とされる前のものを拾うのは、たぶん簡単なことではない。


今は危機管理部で、相沢さんは係長だ。

自分の持ち場を持ち、先に拾い、ある程度まで整理したうえでこちらに上げてくる。だからこちらも、ただ可否を返すだけでは足りない。どこを係で持ち、どこから課で引き取るか。部署としてどこを優先するか。そこまで含めて返す必要がある。


書類に目を落としたまま、ひとつ数字を確認する。

昨日の報告と照らしても、大きな齟齬はない。今日のうちに返しておくべきものを先に分けて、午後に回せるものは後ろへ送る。そうしているあいだにも、部屋の静けさの中で、相沢さんがまだこちらに声をかけていないことがわかる。


たぶん、二つ。

持ってきたい話の数はそのくらいだろうと思う。

ひとつだけなら、もっと早い。

三つ以上あるなら、逆に少し間が長くなる。


そこまで考えて、少しだけ可笑しくなる。

こんなふうに相手の間の取り方を覚えているのは、長く一緒に働いてきたせいだろう。総務部では上司と部下だった。今は同じ危機管理部で、課長と係長だ。立場は変わったが、相沢さんがわざわざ上げてくる話は軽く扱わないほうがいいと、もう体が覚えている。


課長席に座るようになってから、判断を返す場面は増えた。

増えたが、急に何かが変わったという感じはあまりない。前からやっていたことの延長に、いまの席があるだけだと思っている。そうでなければ困る、という気持ちもある。肩書きが先に立つと、判断が遅れる。席に合わせて自分を作るより、自分がやってきたことに席のほうを馴染ませるしかない。


もっとも、そんな言い方を口に出すつもりはない。

言葉にすると、少し大げさになる。

ただ、座るべき理由を毎朝確認しなくても、この席でやることはわかっている。それで十分だった。


書類を一枚めくる。

そのとき、椅子を引く音が小さく部屋に落ちた。

ようやく来る、と思う。


昔も、こうして机の前に立たれることはあった。

必要な報告を持ってきて、短く要点を伝えて、こちらが返した判断を持ってまた動いていく。あのころと違うのは、机の位置と肩書きだけだ。けれど、その違いを軽いものだとも思わない。今は係長として上げてきたものを、課として受け取って返す。その責任がある。


机の前で足音が止まる。

そこでようやく顔を上げると、相沢さんが立っていた。手元にメモを持っている。やはり何かあるのだろうと思う。


「少し、いいか」


短い声に、頷く。

それだけで十分だった。


相沢さんが話し始める。

ひとつ目は、昨日のうちに上がってきた報告について。今すぐ問題になるほどではないが、このまま誰も触れなければ、あとで面倒になるかもしれないという話だった。聞きながら、頭の中で関係部署と影響範囲を並べる。懸念としては妥当だと思う。ただ、このままだと受け取る側が判断を先送りにする可能性がある。


話が切れたところで、手元のメモの一点を指で示す。


「この書き方だと、受け取る側が判断を先送りにするかもしれません」


相沢さんはすぐに反論しない。

そういうところは、昔から変わらない。言い返す前に、まず一度受け取る。


「懸念としてはわかります。でも、ここで欲しいのは可能性の列挙じゃなくて、どこを先に見るべきかです」

「……ああ」

「相沢さんの見立ては助かります。だからこそ、入口をもう少し絞ってもらえると動きやすい」


言いながら、少しだけ言葉を選ぶ。

否定したいわけではない。拾ってきたものの価値はわかっている。むしろ、拾ってこなければ見えないものがあることも知っている。ただ、課として受け取る段階では、次に誰がどう動くかまで見える形になっていたほうがいい。


「書き直す」

「いえ、口頭で十分です。二点目は?」


促すと、相沢さんはすぐに次へ移った。

今朝の予定表にある小さなずれについて。これもまた、放っておけばそのまま流れるかもしれないが、あとで説明が要る形になるかもしれない話だった。


聞き終えてから、少しだけ考える。

修正するなら今日のうちだろう。大きな問題ではない。けれど、大きくないからこそ、今のうちに整えておいたほうがいい。


「予定表のずれ自体は小さいです。ただ、修正するなら今日のうちですね」

「……ああ」

「このままでも回るとは思います。でも、回ることと、あとで説明が要らないことは別なので」


相沢さんが小さく頷く。

その反応を見ると、こちらの意図は伝わったのだとわかる。


「関係部署にはこちらから先に当たります」

「助かる」

「相沢さんは、元の報告をもう一度だけ見ておいてください。たぶん大きな齟齬はないですけど、言い回しの癖で受け取り方がぶれるかもしれないので」

「わかった」


短いやりとりだった。

けれど、それで十分だった。必要なことは抜けていないし、次に誰が何をするかも曖昧じゃない。こういう形に収まるなら、朝のうちに受け取ってよかったと思う。


ただ、まだ少し残っている。

相沢さんの話し方には、ときどきそういうところがある。必要なところまでは出す。けれど、その先を最後まで言い切らない。言わなくてもこちらが拾うとわかっているときほど、そうなる。


手元のメモに視線を落としたまま、口を開く。


「相沢さん、たぶん最後まで言ってませんよね」


相沢さんがわずかに眉を動かす。

「……何のことだ」

「このずれがそのまま残った場合、どこで説明が要ることになるか。そこまでは見えてるのに、今は言ってない」

「言わなくても、わかるだろ」

「ええ、わかります」


返しながら、視線を上げる。

相沢さんは少しだけ困ったような顔をした。逃がすつもりはないと伝わったのだろうと思う。


「でも、わかる相手にだけ省いていい話と、課として形にしておいたほうがいい話は別です」

「……そうか」

「それに相沢さん、たぶんその先も考えてるでしょう」

「その先?」

「説明が要る段階で済めばまだいい。もう一段悪い形になったら誰が引き取るか、そこまで」

「……隠せないな」

「長いですから」

「嬉しくない言い方だな」

「褒めてます」


そう言って、メモを相沢さんのほうへ軽く戻す。


「なので、そこまで見えてるなら、入口だけでも共有してください。全部言わなくていいです。こっちで拾えるので」

「……了解」

「最後まで言わないのは構いません。ただ、言わないなら言わないなりに、どこまでを共有するかは決めてください」

「係長への注文が細かいな」

「係長が細かいところまで見てるので」


そこでようやく、相沢さんが苦笑した。

たぶん、図星だったのだろう。見なくていいところまで見てしまう自覚は、本人にもあるはずだ。そして、それをこちらにだけは隠しきれないことも。


それで話は終わった。

相沢さんが机の前を離れていく。追いかけて何か言い足す必要はない。必要なものは受け取ったし、必要なだけ返した。それで十分だと思う。


書類に視線を戻す。

次の判断に手をつけながら、さっきのやりとりを頭の隅でなぞる。総務部にいたころなら、あそこまで言い方を整えなかったかもしれない。今は違う。相沢さんは係長で、自分は課長だ。係で拾ったものを課で受け取り、部署全体の流れに置き直して返す。そのためには、曖昧なまま受け取らないほうがいい。


窓際の課長席は、目立つ席だ。

けれど、目立つための席ではない。

持ち込まれたものを受け取って、選んで、返す。その繰り返しのためにある。


端末の画面に次の通知が出る。

それを開く前に、ふと視線を上げると、相沢さんが自席でメモを直しているのが見えた。ひとつ消して、順番を入れ替えているらしい。さっきの言葉は、きちんと届いたのだろうと思う。


それでいい。

そういうふうに返ってくるなら、こちらも判断を返しやすい。


朝の部屋はまだ静かだった。

その静けさの中で、窓際の課長席に座っている自分を、もう不自然だとは思わない。ただ、ここでやるべきことをやっているだけだ。

それだけのことが、いちばん席に馴染むのだろうと、澪は静かに思った。


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