5.ミルトン邸に忍び込む
公爵家に入るなり、エレナが飛びついてきた。
「お兄様、二ヶ月ぶりです。もっと頻繁に来てくださらないと、寂しいです」
「そんなことを言っているとジェルマン殿に嫌われるぞ」
エレナはさもおかしそうに俺と同じ空色の瞳を細めた。幸せなんだな。
「調子はどうだ?」
「順調に育っているようです。でも身体はきついです。早く生まれて欲しいと思うけれど、時が来るまではきちんと母体に居なければ強い子になれないなんていわれまして」
「俺には良く分からんが、転んだりしないでくれよ」
「はい、気をつけます」
「どころでジェルマン殿は今日は?」
「もう王宮から帰ってくるはずです。なにかあったのですか?」
「それは彼が来てから話すよ。それまではサロンでお茶を飲んで世間話でもしよう」
俺はジェルマンの義兄にあたるのだが、ジェルマンは公爵で俺より三歳も年上。伯爵である俺の貴族歴は二年半。力関係は言うに及ばず、俺が義理の弟みたいなものだ。
俺とエレナがサロンで歓談していると、ジェルマンが足早に入って来た。
エレナの隣に座り、軽く口付けして、さっと彼女の手を握る。まいったなぁ。あの白い結婚騒動の時の彼からは想像もつかない。
「ランセル、久しぶりだな。俺も話したいことがあったから丁度良かった」
「ジェルマン殿のお話とは?」
「今度お前を、外交部の副長に推薦することにした。領地の経営も落ち着いてきたことだし、そろそろ議員としての活動もして欲しい。部長はもう年だし好きなようにできるぞ」
「卿もご存じでしょう。俺はそんなことをできる人間では……」
「お前も分かっているだろう? 貴族は市民のために役立つことをしなくてはいけない。相応の社会的義務を負うべきなんだ」
「それは分かりますが。はあ、荷が重いなあ……。未経験の俺に出来ることがあるのでしょうか?」
「お前は近隣諸国の言葉も不自由なくできる。経理も問題ない。相手の身につけているものの良しあしを判断できる目利きもある。な? 相応しいだろう?」
「いえ、だが……」
まあ、俺が絵画泥棒だったと知っている人間は、師匠のルパートとエレナとジェルマンだけだ。問題ないと言えば問題ない。
「わかりました。いつからですか?」
「この秋からだ。その頃には俺たちの子も産まれているだろうな」
見つめ合うエレナとジェルマン。急に二人の世界が展開した。仲良きことは良きことだが、少しは独身の俺の身も考えてくれ。
ジェルマンが思い出したように俺に顔を向けた。
「ところで、お前の用事は?」
「実は最近、街の花屋の娘にモデルになってもらったのですが、彼女が数時間前に攫われまして……」
もちろん、アンジェリカの泥棒の話も、俺が彼女を気に入っていることも話しはしない。ばあさまから聞いた彼女の生い立ちを話し、ミルトン伯爵の名前を出しただけだ。
「ジェルマン殿はミルトン伯爵について知っていることがありますか?」
「あまり評判が良くないな。王宮では議会関係の仕事をしているんだが、すべて部下に任せっぱなしで、上手く行っている時は自分の手柄、悪い時は部下のせいにするらしい。ま、あくまでも噂だ」
「屋敷はどの辺?」
「二街区の西の一等地。ミルトン伯爵家自体は二百年以上続いている家柄だ。だから伯爵はやたらに自尊心が高い」
「領地は山地では林業、平地では小麦などの農業、他には木工業で有名だと記憶していましたが」
「ああ、領地自体はそれなりに裕福なところだ。トバルに接しているので、昔は辺境伯と呼ばれた時代もあったが、今は揉め事などもないので、一応、王家の軍が駐留しているがそれだけだな」
「最近、変わったこととかは?」
「そうだな。一年ほど前から、崖崩れが頻繁に起きているようだ。さらに橋が何カ所か崩れ落ちたと聞いた。古くはあるが壊れるほどではなかったらしい。だから長男が領地に行っていろいろと調査をしていたらしいんだが……」
「なにかあったんですか?」
「数か月ほど前に落馬して、腰を骨折したらしい。治る見込みがないとも」
「そのことで聞いたことがあるわ。その長男の婚約者はカーソン侯爵家のお嬢様なんだけれど、彼女はミルトン家から婚約解消を申し出されても受け入れずに彼を看病すると言ってミルトン伯爵家の領地に向かったらしいの」
「それこそ『真実の愛』かもしれんな。我々も負けてはいないが」
「はいはいはい。とにかく今ならアンジェリカもまだミルトン伯爵のタウンハウスにいるはずですから、今夜、ちょいと様子を見に行ってきます」
「お兄様、あぶないことはしないでください」
「心配しないで、慣れてるから」
「慣れているか……」
ジェルマンがボソッとつぶやいた。昔のことは思い出さないでくれ。
すり替えた絵画は元に戻した。師匠のルパートは残念がっていたが、『いつでもすり替えられるし、あそこに預かってもらっていると思えばいいのでは』と言ったらしぶしぶ同意してくれた。
ジェルマンにはすり替えようとした時にエレナの歌声を聞いたということにしている。大抵の人間は、人の物は盗まれても何とも思わないが、自分の物を盗まれるのは許せないと思うものだ。
さてと、幸い今夜は月に薄い雲がかかり、ほんのりとした明るさがちょうどいい。心地よい夜風に吹かれて、口笛を吹きながらミルトン伯爵の近くまで小半時ほど歩いた。
ミルトン伯爵邸の敷地に入るのは簡単だった。屋敷の回りの塀もさほど高くもなく、一部朽ちているところもあった。
屋敷を見渡すとまだ灯りがついている部屋もあったが、ほとんどは消えていた。窓を丹念にたどってみると、三階の窓の下枠からリボンが少しはみ出ているところを見つけた。あのリボンは、このくらいは着けていた方が絵が華やぐからと、俺が彼女に渡したものだ。
彼女は俺が探しに来ると思ったのか? いや、ただのずぼらかも知れん。
三階の窓の回りに足場はなく、近くに木もないので外から侵入するのはちょっと難しい。屋根に上る手もあるが、使用人専用の裏口から忍び込んだ方が早いだろう。扉に鍵がかかっていたところで俺にとっては普通の扉と変わらない。
裏口から入って、使用人用の階段を上り三階に行った。経験上、アンジェリカのいる部屋はだいたい見当がつく。人々は寝静まり、月灯りが縦長の小さな窓を通して廊下をほんのりと照らす。ドアをそっとノックした。寝ているかと思ったが、即座に声が返って来た。
「だれ?」
「アンジェリカ、俺だ。大きな声を出すな」
「シューリス先生!」
「ドアは開くのか?」
「中からは開かない」
「わかった。寝巻だったら何かを羽織れ」
「大丈夫。いつでも逃げられるように着替えていない。しばらくこのままにしてって、俯いて涙ぐんでみたら、メイドも納得してくれた」
おい、ちょっと待てよ。あの泥棒に入った時の涙はもしかして嘘の涙だったのか?
俺ともあろうものが、ころりと騙されたわけか? 俺の脇が甘かったようだ。
気持ちを切り替えて、ドアをピンで開けた。
「先生すごい! 私も覚えたい」
そんなたわごとは無視して目の前の部屋を確認する。小さなろうそくの灯と月の光で十分に見える。小さくて天井も低いが、ベッドと机があり、そこそこに掃除もされている。
「ばあさまがすごく心配していたぞ」
「うん、わかっている。でもばあちゃんに何かあるよりはいい」
「しかし、お前なら、その窓から斜め下のベランダに降りて逃げ帰って来られたろうに」
「確かにそうなんだけど、この家、なんか変なんだ。だからもう少しここに居てみようかと思って」
「変と言うと?」
「うん、食事を持ってきてくれたメイドのエラが、私のことを気の毒だと思ったらしくて、内緒だけどと言って話してくれた」
「内緒ごとって言うのは話したくなるものだからな。だが、信用できるのか?」
「そこら辺のことは、私も分かるよ。一応商売しているから」
「それで?」
「この家の長男が領地で馬から落ちて怪我をしたんだって。それでいま、寝たきりだって。伯爵家を継ぐのは無理だから次男に連絡したんだけど、その次男はもともと家を継ぐ気がなかったから、好きな音楽の勉強にカムロン公国に留学していたんだ。でもこっちに帰る途中で行方知れずになってしまったらしい。娘の方はどこかの伯爵の長男と五年間も婚約していたんだけれど、娘が婿を取ることになるだろうからって、すぐに婚約解消を申し出たって。婚約を解消された娘はひどく落ち込んで部屋から出てこないとエラが言っていた」
「世の中には立て続けに不幸が起こることもあるからな。気の毒に…。それでなんでお前が拉致されるんだ?」
「伯爵夫人が今評判の占い師を呼んで占ってもらったら、悪いことが起きるのは昔家から追い出したミラの産んだ娘が不幸だからって言ったらしい」
「おまえ不幸なのか?」
「まさか! だからなんか変だと思った」
「父親がこの家の主と知ってどういう気持ちだ?」
「まだ会ってないし、よくわからない。正直どうでもいい」
俺はアンジェリカのその言葉に安心した。まあ、彼女は深く考えるたちではないが、血の繋がった父親がここに居ると知っても動揺することがないのはいいことだ。
「でもなぁ、この部屋は幸せになってもらいたい人間に与えるような部屋ではないぞ」
「なんでも、この部屋だけが内側から開けられないからって。逃げる気持ちがないことを確認できるまでとか言われた」
「危ないことがないのなら少し様子を見るか。とりあえずその占い師と娘の婚約していた相手を調べるかな」
「ん? なんで?」
「裏でいろいろ繋がっているかもしれん。次男の行方も気になるし、ほかにもいろいろ。詳しいことはあとでゆっくり話すとして、今日は着替えて寝るんだな。体力温存だ。危険と思ったらすぐに逃げるんだぞ。俺も何かわかったら、ここに来るから。ばあさまには元気だと伝えておくよ」
アンジェリカは急に身体を二つ折りにするようにして頭を下げた。
「シューリス先生、本当にごめんなさい。いろいろと迷惑かけて」
「いや、お前のためというより、俺の好奇心かな」
絵画泥棒をやめて以来、わくわくするような体験にはすっかりご無沙汰している。この件は、なんとなく楽しめそうな予感がした。
帰ろうとドアノブを握ったところでアンジェリカが言った。
「先生、大きな絵が大階段に飾ってあったよ。あれは多分クインシーの絵だと思う。高そうな絵だった」
「そうかクインシーか。それは興味深いな。どんな絵柄だった?」
「大きな教会が描かれていた」
「なるほど……」
アンジェリカも絵には詳しいようだ。正当な手段で美術館に行っていることを祈ろう。
俺は屋敷を出る前に、アンジェリカの言う大階段を通ってみた。確かにクインシーの『アルデン聖堂の午後』だが、仄暗い場所では真贋は分からない。




