4.アンジェリカの絵を描く
アンジェリカが約束通り、両手いっぱい花を抱えてやって来た。エレナのワンピースを少しアレンジしているようだが、良く似合う。絵を盗むのは下手だが、案外器用なのかもしれない。
恥ずかし気に微笑む様は、可愛いことは可愛い。だが、髪は後ろに一つに結んだだけだし、化粧っ気のない顔には少しそばかすも目立つ。ありのまま描くのもありだが……。
「ルイサ。済まないが、彼女をもう少しあか抜けた感じにして欲しいんだが」
ルイサは、母が生きている頃からのメイドで、一時期は屋敷から追い出されていたが、俺が連れ戻し、今はメイド長をやってもらっている。
「承知しました。お嬢様の化粧品を少し使用させていただきますので、後ほど旦那様からきちんとお嬢様にお伝えくださいね」
「分かった」
しばらくして、髪をきれいにハーフアップにして薄化粧をしたアンジェリカがルイサに連れられてアトリエにやって来た。
白い壁の殺風景なアトリエには描きかけの絵や風景画、画材などが所狭しと置いてある。
アンジェリカはアトリエに入るなり薄青紫の瞳をキラキラさせて「すごい」を連発する。「ここにあるのはやらんぞ」といったら、彼女は「うん」と頷いていたが、アトリエの鍵はきちんとかけておこうと思った。
深緑のビロードが張ってある椅子に座ったアンジェリカは、ベランダから注ぐレース越しの陽射しを受けて、まるで天使のようだった。話さなければだが。
「ばあちゃんにお貴族様とどうやって知り合ったのかと聞かれて困ったけど、道を聞かれたので丁寧に答えただけだって言ったら、『深入りは禁物だよ。貴族の男に碌なやつはいない』ってばあちゃんに言われたんだ」
「なるほど、ばあちゃんの言うことが正しい。気をつけるのに越したことはないからな」
「そうなんだ……」
「だが、俺は純粋に絵を描きたいだけだから、心配しなくていい」
彼女が好みだという気持ちもあるし、彼女と距離を縮めて、いつしか結婚を視野に入れられるようになることを望まなくもないが、今は伯爵というこの国の貴族の一員である以上、軽率な真似は出来ない。
「あのー」
「なんだ?」
「少しは動いていいですか?」
顔を少し格子窓の外の中庭に向けてもらっている。彼女の抱えている花束からは、バラや桔梗、デルフィニウムだったか、そんな花々の香りがアトリエの中に甘く広がり、穏やかな気分にさせてくれる。
「かまわないよ。疲れたら言ってくれ。お茶を淹れてやるよ」
「え、シューリス先生が淹れるんですか?」
「ああ、割と得意だ」
緊張していた彼女の顔が少し緩んだ。
俺は絵を描きながら彼女の生い立ちをそれとなく聞いた。
アンジェリカは花屋の二階で、ばあさまと一緒に暮らしているという。母親は、彼女が五歳の時に彼女をばあさまに預け、隣国に行ってしまったらしい。それ以来会っていないという。
「私は、私生児なんだ。母親は、意に添わぬ妊娠だったから、私を見るとその男を思い出すと言って、あまり私を可愛がってはくれなかった」
「それは大変だったな」
「でも、じいちゃんとばあちゃんがすごくかわいがってくれたから大丈夫」
「父親のことで知っていることはあるのか?」
「ばあちゃんは何も話してくれない。知らない方がお前は幸せだって」
「じいちゃんはどうしたんだ?」
「ある日、急に倒れて動かなくなった。年寄りには良くあることだと言われた」
「長い間、病を患わなくて良かったのかも知れんな」
「近所の連中にもそう言われたけど、すごく悲しかった……」
可愛い顔が少し曇った。俺は母親の記憶が殆どないし、アンジェリカも父親が分からない。下街にはそんなやつらがたくさんいる。俺もアンジェリカも愛情を受けた記憶があるだけましな方かもしれない。
「なぜ、絵を盗もうなどと思った。盗みは悪いことだと教わらなかったのか?」
「う、それは……。花を届けに行ったお屋敷の玄関ホールで先生の絵を見たんだ。あれはキエン川の河口だと思う。ほんのりと明るくなって夜明けの薄赤い光がぼんやりと川面を染めている。その中に一艘の釣り舟が浮かんでいた。その上で釣をしている人影を見た時に、あれはじいちゃんだと思った。そうしたら涙が止まらなくなった。そして先生の絵をもっと見たくて、あちこち聞きまわったら、この屋敷に先生の絵がたくさんあると知って忍び込んでしまった。盗むつもりではなくて、少しの間そばに置いておくだけならいいだろうと思ったんだ」
「はあー、人間は一線を越えると歯止めが利かなくなるんだぞ。俺に見つかって幸運だったな」
「はい……」
彼女は消え入りそうな声で返事をして、俯いた。俺も人のことは言えないが、一応釘を刺しておいた方が良いと思った。
一週間に一度、四回ほど通ってもらうことにした。二回で十分なんだが、そこは俺の願望も入れて四回ということにした。その後は美術館にでも誘って、交流を持とうと考えていた。まあ、焦ることもないが。
それは、三回目の時だった。
もう一時間ほどが過ぎているのに、来る気配がない。いつも時間少し前には来ていたのだ。さすがにおかしいと思い始めた時に、ルイサがアトリエに駆け込んできた。
「何かあったか?」
「はい、アンジェリカさんのおばあさまのドリューさんという方がお見えになって……」
「どうした?」
「アンジェリカさんが攫われたというのです」
「で、ばあさまは?」
「はい、第二サロンの方に」
俺ははやる心を抑えながら、第二サロンに向かった。
身体を縮めて居心地悪そうにソファに座っているばあさまは、六十歳と聞いていたが、花屋をやって人と接する機会が多いせいか、栗色の髪にはちらほら白髪も見えるが、しわも目立たなくて思っていたよりも若くみえた。輪郭と口元がアンジェリカとよく似ている。
慌てて立ち上がった彼女を俺は手で制して、「挨拶はあとだ。何があった?」と尋ねた。
「はい、アンジェリカがこちらに伺おうと家を出た時、店の前に馬車が止まったんです。私たちは客かと思って頭を下げたら、アンジェリカに名前を尋ねました。あの子が答えるとすぐに馬車に乗れと言われ」
「どんな馬車だった?」
「はい、アンジェリカの父親の家の紋をつけていました。あの子に用事があるなら、こんなことをしなくてもいいじゃありませんか」
ばあさまは血の気の失せた顔を左右に振りながら、胸の前で両手を握りしめた。
「アンジェリカは逃げようとしなかったのか?」
「屈強な男がアンジェリカの肩をしっかりとつかまえてまして、逃げるのは無理でした。彼から『伯爵さまが彼女に用があるとおっしゃるので、連れて行く』と半ば脅されるように言われたんです。アンジェリカは『ばあちゃん、私大丈夫だから待ってて』と……」
「彼女の父親は貴族なのか?」
「はい、ミルトン伯爵さまです」
アンジェリカの髪はあまり癖のないきれいな金髪。瞳は薄い青紫色。どこか貴族的な容姿だとは思っていた。
「ミルトンか、うちの領地の北部とミルトン家の南部の一部接していたはずだが、まだミルトン伯爵に会ったことはない。家具の製作で有名なところだと思ったが。絵の額縁も良いものを作る工房がある」
「アンジェリカの母親のミラが、王都のミルトン伯爵邸で掃除とか縫物とかそういうことをしていました」
「なるほど、伯爵が彼女の母親に手を出したのか……」
「ミラはその頃好きな男がいまして、そのせいで彼との結婚がだめになり伯爵さまを恨んでいました。だからアンジェリカに上手く愛情を注げず、結局、行商の男と家を出て行きました」
「ミルトン家は、ずっと、アンジェリカを放置していたんだろう?」
使用人を雇う時は必ず、実家やその家族、緊急の連絡先などを報告しなければならないから、伯爵家では一応ばあさまの家は知っていたのだろう。自分の子かも知れないと思えば事前に調べるのは簡単なことだ。
「はい、妊娠中に伯爵の奥様に追い出されましたので、アンジェリカは父親にも会ったことはありません。それに伯爵家にはあの頃すでに息子が二人、娘が一人いましたから、父親の伯爵さまも私生児のアンジェリカを必要とすることはなかったのです」
ミルトン伯爵か。やはりジェルマンに聞いてみるしかないか。公爵であるエレナの夫ジェルマンは総務全般の責任者で、次期宰相との声も高い。ほとんどの貴族の状況を良く知っている。
「事情はだいたいわかった。アンジェリカの様子は私がなんとか調べてみよう。ばあさまは家で待っていてくれ」
「何から何まで本当にありがとうございます。アンジェリカが無事でいてくれればもうそれだけで十分です」
「そういえば、アンジェリカはいくつなんだ?」
「十七になったばかりです」
成人に近いアンジェリカを連れて行くなんて、何の目的があるのか。貴族のやることは、相変わらず強引で横暴だ。俺も一応貴族だが…。
ばあさまは何度も何度も頭を下げて帰って行った。
さてと、どうするか。手始めに執事のニールを呼んだ。
「オースティン公爵家にこれから伺うと先ぶれを出してくれ。ジェルマン殿がいてくれるといいのだが」




