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三日だけ彼女になってくれ、と狐の神様は言った  作者: 一ノ瀬 このは


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二日目

「……よい匂いじゃな」


朝のキッチン代わりの狭い流し台の前で、俺はトースターから食パンを取り出しながらため息をついた。

振り返ると、紺乃(こんの)はちゃぶ台の前に正座したまま、じっと皿の上を見つめている。目が妙に真剣だ。


「神様って、食パン食べるんだな」

「神をなんだと思うておる」

「いや、もっと霞とか露とかを栄養にしてるのかと」

「できるならそうしたいが、今の私はだいぶ弱っておるのでな。うまいものが必要なのだ」


俗っぽい。


初めて会ったときの神々しさを返してほしい。

それでも、こうして普通に朝食をねだる彼女を見ていると、昨日聞かされたあの話が、時々ひどく現実味を失う。

だけど昨夜、透けていた彼女の指先を思い出すたびに、胸の奥がざらついた。


真昼(まひる)、手が止まっておるぞ」

「……ああ、ごめん」


皿を二枚、ちゃぶ台に並べる。

バタートーストに目玉焼き。インスタントのコーヒー。

大学生の朝食としてはかなり頑張ったほうだと思う。

紺乃(こんの)は嬉しそうに、でもどこか遠慮がちに「いただきます」と言った。

その声が妙に素直で、俺は一瞬だけ言葉に詰まる。


昨日、商店街で元好きだった相手と鉢合わせしたときもそうだった。

紺乃(こんの)は、まるで本当にそうであるみたいに俺の腕を取って、迷いなく言ったのだ。


――この者は、今は私の大事な相手じゃ。


契約だ。

あれは祭礼まで紺乃(こんの)をこの世につなぎとめるための、三日間だけの恋人役。

そう頭ではわかっている。

なのに、その一言を思い出すたび、胸の奥がくすぐったくなる。情けないくらい単純だと、自分でも思う。


「む、うまい!」


紺乃(こんの)が目を丸くした。


「食パンというもの、ただの四角い白い塊と侮っておったが、焼くとこんなにも化けるのか……人の世は油断ならぬ」

「大げさだな」

「大げさではない。外はさくり、中はふわり。しかもこの黄色い塩気のあるやつ――」

「バターな」

「ばたあ。覚えた。よし、今後の供物はこれにしよう」


神社の御利益が急に心配になった。

思わず吹き出すと、紺乃(こんの)はきょとんとして、それから少し遅れて笑った。

笑うと年相応の女の子みたいな顔になる。

そのことに気づいてしまった瞬間、俺はまた少しだけ困る。


今日で二日目。


祭礼まで、あと二日。


今はまだ、形を保っている。けれど昨夜ああして揺らいだのを見た以上、安心はできない。

そのくせ当の本人は、バターをもう一枚要求するくらいには図太い。

心配するのも、お節介なのかもしれない。


それでも。


「今日は、商店街の飾り付け手伝いに行くんだよな」

「うむ。ついでに、八百屋の若夫婦もどうにかしたい。あれは放っておくと意地の張り合いが長引く」

「首突っ込む気か」

「縁結びの神ゆえ」


紺乃(こんの)は胸を張ってそう言って、それから少しだけ目を細めた。


「……それに、おぬしがいると話が進めやすい」


予想していなかった言葉だった。

俺はコーヒーカップを持ったまま止まる。


「え」

「私は神じゃからな。人の気持ちの揺れは見えるが、人の輪の中には入りにくい。だが真昼(まひる)、おぬしは違う」


まっすぐに見られる。


「おぬしは、誰かの隣に立てる男じゃ」


バターよりずっと重たいものを、朝から渡された気がした。


◇◇


商店街は祭礼を控えて、いつもより少しだけ賑やかだった。

軒先には提灯が吊るされ、店先には「祭礼セール」の張り紙が増えている。


その八百屋の前で、若い夫婦が険悪な顔で言い合っていた。


「だから、俺は怒ってないって!」

「怒ってる人ほどそう言うんですー!」

「あーもう、めんどくせぇ!」

「そっちが先に無視したんでしょ!」


俺は思わず足を止めた。


「……あれ、わりと本気でやばくないか」

「うむ。互いに好きなくせに、意地だけ張っておる」


紺乃(こんの)は冷静にそう言って、俺の背を軽く押した。


「行ってこい」

「なんで俺」

「私は見た目が神々しすぎるのでな。こういうときは、おぬしみたいな普通の男のほうが向いておる」

「自分で言うのかそれ」


気は重かったが、このまま通り過ぎるのも後味が悪い。

俺は仕方なく二人に近づいた。


「あの、すみません」


二人が同時にこちらを見る。

うわ、気まずい。


「祭礼の準備、大変そうですね」


我ながら無難すぎる入りだった。

だが妻のほうが何か言い返そうとした、その瞬間だった。


ふらり、と。

彼女の身体が小さく揺れた。


「おい!」


夫が咄嗟に腕を掴む。


「だから言っただろ、熱あるんだから休めって!」


怒鳴るみたいな声なのに、手はひどく必死だった。

妻はばつが悪そうに目を伏せる。


「でも今日、忙しいし……」

「そんなのいいから」

「よくない。祭礼前だし、私が抜けたら」

「お前が倒れるほうがよくない!」


ぴしゃりと言い切られて、妻が黙る。

その間に、紺乃(こんの)がすっと二人のあいだへ入った。


「ほれ。ちゃんと口に出せばよいものを」


夫婦が揃って紺乃(こんの)を見る。


「心配しておる。休んでほしい。隣にいてほしい。どちらも同じことを思っておるくせに、意地ばかり先に立つ」


からかうような口調だった。

でも、不思議ときつくは聞こえなかった。


妻が小さく唇を噛む。


「……だって、忙しいのに迷惑かけたくなくて」

「迷惑じゃねぇよ」


夫はほとんど間を置かずに言った。


「お前が無理してるほうが、ずっと嫌だ」


その一言で、妻の肩から力が抜けたのがわかった。


「……午後だけ、休みます」

「最初からそうしろ」


そう言いながらも、夫の声はさっきよりずっと柔らかい。

彼はすぐに踵を返した。


「スポドリとゼリー買ってくる」

「え、ちょっと」

「そこで座ってろ!」


商店街の奥へ走っていく背中を見送りながら、紺乃(こんの)が満足そうに頷く。


「よし、ひとつ」

「何が」

「ほどけかけた縁が、切れずに済んだ」


糸を結び直すみたいに、紺乃はそう言った。


俺はしばらく、夫が走っていった方向を見ていた。

言えば伝わることを、俺はどれだけ言わずに済ませてきたんだろう。


好きだった。

寂しかった。

必要としてほしかった。


そういう肝心なことほど、ずっと飲み込んできた気がする。


真昼(まひる)?」


紺乃に呼ばれて、はっとする。


「……なんでもない」


そう答えたけれど、胸の奥には小さな棘みたいなものが残ったままだった。



◇◇


昼過ぎ。


商店街の手伝いを終えて神社へ戻る途中、紺乃(こんの)が急に立ち止まった。


「どうした?」

「……たい焼き」


視線の先には、小さな屋台。

香ばしい匂いが漂っている。


「食べたいのか」

「神は俗世の誘惑に負けたりせぬ」

「目がめちゃくちゃ泳いでるけど」

「……」


結局買った。

紺乃(こんの)は紙袋を両手で持ちながら、熱々のたい焼きをはふはふ食べている。

その姿は神様というより、祭りに来た普通の女の子だった。


「うまい……」

「そんな感動する?」

「甘味は偉大じゃ……」


幸せそうに頬を緩めるものだから、見ているこっちまで変な気分になる。

不意に、紺乃(こんの)がこちらを見た。


真昼(まひる)

「ん?」

「おぬし、少し笑うようになったな」

「……そうか?」

「昨日は、今にも世界が終わりそうな顔をしておった」


失恋直後だったからな、と言いかけてやめる。

代わりに聞いた。


紺乃(こんの)はさ」

「うむ?」

「なんで俺を選んだんだよ」


紺乃(こんの)は少しだけ黙った。

風が吹き、石段脇の木々が揺れる。


「……あの願いを聞いたから、というのも本当じゃ」

「それ以外もあるのか」

「おぬし、昔この神社で泣いておったことがある」


俺は瞬きをした。


「え?」

「まだ小さかったころじゃ。祭りの日、人混みではぐれてな。社の前で、ひとりで泣いておった」


そんな記憶――。


「あ……」


ぼんやりと、思い出す。


夕暮れの境内。

迷子になって、不安で仕方なくて。

誰もいない社に向かって、小さな声で呟いた。


『ひとりは嫌だ』


「覚えておったか」

「……少しだけ」


紺乃(こんの)は静かに笑った。


「私はあの時から、おぬしを知っておる」


胸の奥が、妙に熱くなる。

自分でも忘れていたような記憶を、誰かが覚えていた。

孤独だった時間を、見ていてくれた存在がいた。

その事実が、思った以上に心に響いた。


「だからな」


紺乃(こんの)がこちらを見る。


「おぬしには、ちゃんと誰かと結ばれてほしかった」


その瞬間。


ぐらり、と。


紺乃(こんの)の身体が大きく揺れた。


紺乃(こんの)!?」


慌てて支える。

腕の中の身体は、驚くほど軽かった。

彼女の輪郭が、陽炎みたいに不安定に揺らぐ。


「っ……大丈夫じゃ」

「全然大丈夫じゃないだろ!」


触れた腕が、少し透けていた。

昨日より、明らかに薄い。


紺乃(こんの)は苦しそうに目を伏せる。


「神力が……思ったより残っておらぬだけじゃ」

「そんなの」


言葉が詰まる。


三日後。


いや、このままなら、それより前に消えるんじゃないか。


紺乃(こんの)は俺の袖を掴んだ。

その手は冷たかった。


真昼(まひる)

「……」

「三日が終われば、私は消えるやもしれぬ」


夕暮れの風が吹く。

石段の向こうで、祭礼準備の笑い声が聞こえていた。


こんなに世界は普通なのに。

腕の中の彼女だけが、少しずつ遠ざかっていく。

紺乃(こんの)は弱く笑った。


「……それでも、最後におぬしと笑えてよかった」


その言葉を聞いた瞬間。

胸の奥で、何かが決定的に変わった気がした。


契約だから。


三日だけだから。


そんなふうに割り切れると思っていた。

でも違う。

消えてほしくないと、思ってしまった。


「まだ終わらせない」


気づけば、口にしていた。

紺乃(こんの)が目を見開く。

俺は彼女の肩を支えたまま、強く言う。


「絶対、終わらせないから」


夕陽の中で、紺乃が小さく息を呑む。

その表情を見た瞬間、自分がもう後戻りできないところまで来ていることを知った。

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