一日目
失恋した。
いや、こういうのはもっと順序立てて言うべきなのかもしれない。
春の終わり、大学二年。講義終わりの中庭。新緑がきれいですね、なんてどうでもいいことを思いながら、俺は好きだった相手に告白して、そして玉砕した。
「真昼くんって、すごくいい人なんだけど」
そのあとに続く言葉は、だいたい決まっている。
「恋愛って感じじゃなくて」
はい、知ってた。
知ってたけど、実際に言われると、心って案外きれいに死ぬんだなと思った。
帰り道の記憶はあまりない。
駅前の居酒屋の赤提灯がにじんで見えたことと、コンビニで買った缶チューハイがびっくりするほどまずかったことだけは覚えている。
あとは、ふらふら歩いて、気づいたら町外れの古い稲荷神社の前に立っていた。
石段の上にある小さな社は、夜のせいもあってひどく静かだった。
賽銭箱の木は古び、鈴の紐はところどころ毛羽立っている。子どものころ、このあたりで遊んだ覚えはあるのに、こんな神社があったことなんてすっかり忘れていた。
俺はポケットを探って、十円玉を一枚だけ見つけた。
ちゃり、と軽い音がする。
「……どうせ神様なんかいないだろ」
酒のせいで、口が悪くなっていた。
手を合わせるでもなく、賽銭箱に向かって吐き出す。
「もう誰でもいいからさ」
夜風が、木々をざわりと揺らした。
「俺を必要としてくれよ」
言ってから、死ぬほどダサいことを口にしたと気づいた。
二十歳にもなって、失恋した勢いで神頼みとか、終わってる。ほんと終わってる。
俺は誰に聞かれるでもなくひとりで赤くなって、そのまま逃げるように石段を下りた。
◇◇
そして翌朝。
「起きよ、真昼」
女の声で目が覚めた。
夢かと思った。
というか、夢であってほしかった。
薄いカーテンの隙間から朝日が差し込む六畳一間。見慣れたはずの安アパートの天井。散らかった教科書。脱ぎっぱなしのジーンズ。昨夜コンビニで買ったままのレシート。
そこまではいい。
問題は、その部屋のど真ん中に、見知らぬ女がきちんと正座していたことだ。
白い小袖に、深い紺の袴。
つややかな黒髪は腰まで届き、朝の光を受けてなめらかに光っている。整いすぎるほど整った顔立ちに、切れ長の目。凛としていて、息を呑むほど綺麗で――。
場違いだった。
俺の安アパートに、あまりにも場違いすぎた。
「……え?」
間抜けな声が出た。
するとその女は、まるで当然のような顔で言った。
「うむ。やっと起きたか。待ちくたびれたぞ」
「いやいやいや待ってください誰ですか」
「神じゃ」
「はい?」
「ゆうべの、おぬしの願いを聞き届けに来た」
そこで彼女は、すっと背筋を伸ばした。
朝日を背にしたその姿は、冗談みたいに神々しくて、だけど次の一言で全部台無しになる。
「三日だけ、私の恋人になってくれぬか」
沈黙。
俺は布団の上で固まったまま、三秒ほど考えた。
そして結論を出す。
「――まだ酔ってるな、これ」
「酔っておらぬぞ」
「いや絶対酔ってる。じゃなきゃ知らない和服美人が部屋にいる説明つかないだろ」
「鍵は開いておった」
「開いてたからって入る!?」
「神社の神に不法侵入という概念はない」
彼女――自称・神様は不思議そうに首を傾げた。
長い黒髪がさらりと肩を流れる。
その仕草が妙に様になっていて、余計に困る。
「それで、恋人って何の冗談ですか」
「冗談ではない。私はこの神社に宿る狐神、紺乃。縁結びを司っておる」
「狐神……」
「うむ」
「じゃあ耳とか尻尾とかあるの?」
「ある。今は、隠しておるがな」
「あるんだ……」
紺乃は小さく咳払いをした。
「話を戻すぞ。三日後、この町では祭礼がある」
「ああ、そういえばそんなもんあったな……」
「本来なら、年に一度、この社がいちばん賑わう日じゃ」
紺乃はそこでいったん言葉を切った。
さっきまでの飄々とした調子が、少しだけ薄れる。
「……だが今の私は、そこまで保たぬかもしれぬ」
「は?」
「弱っておるのじゃ。このままでは、祭礼の前に形を保てなくなる」
あまりに静かな言い方だったから、意味が頭に入るまで一拍かかった。
「形を保てないって……」
「消える、ということじゃな」
冗談めかして言っているわけではない。
そのことだけは、彼女の顔を見ればわかった。
「最期に、祭礼だけは見届けたいのじゃ」
俺は返す言葉に詰まった。
「そのために、縁が要る」
「縁?」
「今の私をこの世につなぎとめるための、仮初の結び目じゃ。三日だけでよい。形だけでもよい」
俺は眉をひそめる。
「……それが、なんで恋人なんだよ」
紺乃は少しだけ視線を逸らした。
「別の形でも、まったく足りぬわけではない」
「じゃあ別に恋人じゃなくても」
「だが私は縁結びの神じゃ」
今度ははっきりと、紺乃は俺を見た。
「私にとっていちばん馴染み、いちばん強く形を保てるのが、恋人という契りなのじゃ」
そこまで言ってから、彼女は珍しく言い淀んだ。
「……それに」
「それに?」
「せめて最後くらい、誰かの特別として呼ばれてみたかった」
不意打ちみたいな声だった。
神様らしい理屈でも、上からの命令でもなかった。
「だから頼む」
紺乃は背筋を伸ばしたまま、けれどさっきよりずっと弱い声で言う。
「三日だけ、私の恋人になってくれぬか」
俺は布団を握ったまま視線を逸らす。
正直、面倒事の匂いしかしない。
神様とか絶対関わっちゃいけないタイプだし、三日限定の恋人とか意味がわからないし、なにより――。
「俺、そういうの向いてないから」
ぽつりと出た言葉に、紺乃が目を細める。
「恋人役とか、誰かに好かれるとか」
昨日の言葉がまだ胸に刺さっていた。
『いい人なんだけど』。
結局それだ。
俺は誰かの一番にはなれない。
だから、もう期待したくない。
すると紺乃は、ふっと息を吐いた。
「必要としてくれと願ったのは、おぬしじゃろう」
その一言で、言葉が止まった。
昨夜。
酒の勢いで吐き出した、あの情けない願い。
誰にも聞かれていないと思っていた。
「……聞いてたのかよ」
「神じゃからな」
少しだけ得意げに言って、それから紺乃は真顔に戻る。
「私はおぬしを必要としておる」
真正面から、そんなことを言われたことがなかった。
胸の奥が変にざわつく。
俺は誤魔化すみたいに頭を掻いた。
「……三日だけだからな」
紺乃の目が、ぱっと明るくなる。
「引き受けてくれるか!」
「いや、まだ完全には納得してないけど」
「うむ!では契約成立じゃな!」
◇◇
その日の午後。
俺と紺乃は祭礼準備の手伝いのため、商店街へ向かっていた。
「切符を通すだけで扉が開くとは……!」
「改札くらいで感動するな」
「人の世、術式の進歩がすごい」
「科学技術を術式扱いするな」
紺乃は改札を抜けるたびに感心し、コンビニではホットスナックケースの前で立ち止まり、自動ドアが開くだけで少し身構える。
神々しい見た目なのに、中身が田舎から出てきた人みたいだった。
「真昼」
「ん?」
「この『あげどり』というもの、気になる」
「揚げ鶏な」
そんなやり取りをしていると、不思議と気が紛れた。
失恋の痛みが消えたわけじゃない。
でも、隣にいるこの神様は、一人で放っておくには危なっかしすぎた。
商店街の入口が見えてきたころ。
ふいに、足が止まる。
「……あ」
見覚えのある後ろ姿だった。
昨日、俺を振った相手。
そして、その隣には男がいる。
自然に並んで歩く二人を見た瞬間、胸の奥が鈍く痛んだ。
向こうもこちらに気づく。
「あ、真昼くん」
気まずい沈黙。
何か言わなきゃと思うのに、うまく口が動かない。
そのとき。
ふわりと、腕に柔らかい感触が触れた。
「紺乃?」
彼女は自然な仕草で俺の腕に抱きつき、そのまま相手に微笑んだ。
「この者は、今は私の大事な相手じゃ」
空気が止まる。
俺の心臓も止まりそうだった。
元想い人が目を丸くして、「そ、そうなんだ」とぎこちなく笑う。
何を話したか、あまり覚えていない。
ただ、別れ際。
「真昼くん、元気そうでよかった」
そう言われたあと、隣の紺乃が静かに口を開いた。
「おぬしは、選ばれぬような男ではない」
夕方の風が、商店街の旗を揺らした。
俺は返事ができなかった。
代わりに、隣を歩く紺乃の手に、ほんの少しだけ触れる。
その瞬間。
「あ……」
指先が、透けていた。
夕陽の中で、白い指の輪郭が淡く薄れている。
冗談じゃない。
本当に。
三日後には消えるのだと。
その事実だけが、急に現実味を持って胸に落ちてきた。




