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三日だけ彼女になってくれ、と狐の神様は言った  作者: 一ノ瀬 このは


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1/3

一日目

失恋した。

いや、こういうのはもっと順序立てて言うべきなのかもしれない。

春の終わり、大学二年。講義終わりの中庭。新緑がきれいですね、なんてどうでもいいことを思いながら、俺は好きだった相手に告白して、そして玉砕した。


真昼(まひる)くんって、すごくいい人なんだけど」


そのあとに続く言葉は、だいたい決まっている。


「恋愛って感じじゃなくて」


はい、知ってた。

知ってたけど、実際に言われると、心って案外きれいに死ぬんだなと思った。


帰り道の記憶はあまりない。


駅前の居酒屋の赤提灯がにじんで見えたことと、コンビニで買った缶チューハイがびっくりするほどまずかったことだけは覚えている。

あとは、ふらふら歩いて、気づいたら町外れの古い稲荷神社の前に立っていた。


石段の上にある小さな社は、夜のせいもあってひどく静かだった。

賽銭箱の木は古び、鈴の紐はところどころ毛羽立っている。子どものころ、このあたりで遊んだ覚えはあるのに、こんな神社があったことなんてすっかり忘れていた。

俺はポケットを探って、十円玉を一枚だけ見つけた。

ちゃり、と軽い音がする。


「……どうせ神様なんかいないだろ」


酒のせいで、口が悪くなっていた。

手を合わせるでもなく、賽銭箱に向かって吐き出す。


「もう誰でもいいからさ」


夜風が、木々をざわりと揺らした。


「俺を必要としてくれよ」


言ってから、死ぬほどダサいことを口にしたと気づいた。

二十歳にもなって、失恋した勢いで神頼みとか、終わってる。ほんと終わってる。

俺は誰に聞かれるでもなくひとりで赤くなって、そのまま逃げるように石段を下りた。


◇◇


そして翌朝。


「起きよ、真昼(まひる)


女の声で目が覚めた。


夢かと思った。

というか、夢であってほしかった。


薄いカーテンの隙間から朝日が差し込む六畳一間。見慣れたはずの安アパートの天井。散らかった教科書。脱ぎっぱなしのジーンズ。昨夜コンビニで買ったままのレシート。


そこまではいい。


問題は、その部屋のど真ん中に、見知らぬ女がきちんと正座していたことだ。

白い小袖に、深い紺の袴。

つややかな黒髪は腰まで届き、朝の光を受けてなめらかに光っている。整いすぎるほど整った顔立ちに、切れ長の目。凛としていて、息を呑むほど綺麗で――。


場違いだった。

俺の安アパートに、あまりにも場違いすぎた。


「……え?」


間抜けな声が出た。

するとその女は、まるで当然のような顔で言った。


「うむ。やっと起きたか。待ちくたびれたぞ」

「いやいやいや待ってください誰ですか」

「神じゃ」

「はい?」

「ゆうべの、おぬしの願いを聞き届けに来た」


そこで彼女は、すっと背筋を伸ばした。

朝日を背にしたその姿は、冗談みたいに神々しくて、だけど次の一言で全部台無しになる。


「三日だけ、私の恋人になってくれぬか」


沈黙。

俺は布団の上で固まったまま、三秒ほど考えた。

そして結論を出す。


「――まだ酔ってるな、これ」

「酔っておらぬぞ」

「いや絶対酔ってる。じゃなきゃ知らない和服美人が部屋にいる説明つかないだろ」

「鍵は開いておった」

「開いてたからって入る!?」

「神社の神に不法侵入という概念はない」


彼女――自称・神様は不思議そうに首を傾げた。


長い黒髪がさらりと肩を流れる。

その仕草が妙に様になっていて、余計に困る。


「それで、恋人って何の冗談ですか」

「冗談ではない。私はこの神社に宿る狐神、紺乃(こんの)。縁結びを司っておる」

「狐神……」

「うむ」

「じゃあ耳とか尻尾とかあるの?」

「ある。今は、隠しておるがな」

「あるんだ……」


紺乃(こんの)は小さく咳払いをした。


「話を戻すぞ。三日後、この町では祭礼がある」

「ああ、そういえばそんなもんあったな……」

「本来なら、年に一度、この社がいちばん賑わう日じゃ」


紺乃(こんの)はそこでいったん言葉を切った。

さっきまでの飄々とした調子が、少しだけ薄れる。


「……だが今の私は、そこまで保たぬかもしれぬ」

「は?」

「弱っておるのじゃ。このままでは、祭礼の前に形を保てなくなる」


あまりに静かな言い方だったから、意味が頭に入るまで一拍かかった。


「形を保てないって……」

「消える、ということじゃな」


冗談めかして言っているわけではない。

そのことだけは、彼女の顔を見ればわかった。


「最期に、祭礼だけは見届けたいのじゃ」


俺は返す言葉に詰まった。


「そのために、縁が要る」

「縁?」

「今の私をこの世につなぎとめるための、仮初の結び目じゃ。三日だけでよい。形だけでもよい」


俺は眉をひそめる。


「……それが、なんで恋人なんだよ」


紺乃(こんの)は少しだけ視線を逸らした。


「別の形でも、まったく足りぬわけではない」

「じゃあ別に恋人じゃなくても」

「だが私は縁結びの神じゃ」


今度ははっきりと、紺乃(こんの)は俺を見た。


「私にとっていちばん馴染み、いちばん強く形を保てるのが、恋人という契りなのじゃ」


そこまで言ってから、彼女は珍しく言い淀んだ。


「……それに」

「それに?」

「せめて最後くらい、誰かの特別として呼ばれてみたかった」


不意打ちみたいな声だった。

神様らしい理屈でも、上からの命令でもなかった。


「だから頼む」


紺乃は背筋を伸ばしたまま、けれどさっきよりずっと弱い声で言う。


「三日だけ、私の恋人になってくれぬか」


俺は布団を握ったまま視線を逸らす。

正直、面倒事の匂いしかしない。

神様とか絶対関わっちゃいけないタイプだし、三日限定の恋人とか意味がわからないし、なにより――。


「俺、そういうの向いてないから」


ぽつりと出た言葉に、紺乃(こんの)が目を細める。


「恋人役とか、誰かに好かれるとか」


昨日の言葉がまだ胸に刺さっていた。


『いい人なんだけど』。


結局それだ。

俺は誰かの一番にはなれない。

だから、もう期待したくない。

すると紺乃は、ふっと息を吐いた。


「必要としてくれと願ったのは、おぬしじゃろう」


その一言で、言葉が止まった。


昨夜。


酒の勢いで吐き出した、あの情けない願い。


誰にも聞かれていないと思っていた。


「……聞いてたのかよ」

「神じゃからな」


少しだけ得意げに言って、それから紺乃(こんの)は真顔に戻る。


「私はおぬしを必要としておる」


真正面から、そんなことを言われたことがなかった。

胸の奥が変にざわつく。

俺は誤魔化すみたいに頭を掻いた。


「……三日だけだからな」


紺乃(こんの)の目が、ぱっと明るくなる。


「引き受けてくれるか!」

「いや、まだ完全には納得してないけど」

「うむ!では契約成立じゃな!」


◇◇


その日の午後。


俺と紺乃(こんの)は祭礼準備の手伝いのため、商店街へ向かっていた。


「切符を通すだけで扉が開くとは……!」

「改札くらいで感動するな」

「人の世、術式の進歩がすごい」

「科学技術を術式扱いするな」


紺乃は改札を抜けるたびに感心し、コンビニではホットスナックケースの前で立ち止まり、自動ドアが開くだけで少し身構える。

神々しい見た目なのに、中身が田舎から出てきた人みたいだった。


真昼(まひる)

「ん?」

「この『あげどり』というもの、気になる」

「揚げ鶏な」


そんなやり取りをしていると、不思議と気が紛れた。

失恋の痛みが消えたわけじゃない。

でも、隣にいるこの神様は、一人で放っておくには危なっかしすぎた。

商店街の入口が見えてきたころ。


ふいに、足が止まる。


「……あ」


見覚えのある後ろ姿だった。

昨日、俺を振った相手。

そして、その隣には男がいる。

自然に並んで歩く二人を見た瞬間、胸の奥が鈍く痛んだ。

向こうもこちらに気づく。


「あ、真昼(まひる)くん」


気まずい沈黙。

何か言わなきゃと思うのに、うまく口が動かない。

そのとき。

ふわりと、腕に柔らかい感触が触れた。


紺乃(こんの)?」


彼女は自然な仕草で俺の腕に抱きつき、そのまま相手に微笑んだ。


「この者は、今は私の大事な相手じゃ」


空気が止まる。


俺の心臓も止まりそうだった。


元想い人が目を丸くして、「そ、そうなんだ」とぎこちなく笑う。

何を話したか、あまり覚えていない。

ただ、別れ際。


真昼(まひる)くん、元気そうでよかった」


そう言われたあと、隣の紺乃(こんの)が静かに口を開いた。


「おぬしは、選ばれぬような男ではない」


夕方の風が、商店街の旗を揺らした。

俺は返事ができなかった。

代わりに、隣を歩く紺乃(こんの)の手に、ほんの少しだけ触れる。


その瞬間。


「あ……」


指先が、透けていた。


夕陽の中で、白い指の輪郭が淡く薄れている。


冗談じゃない。


本当に。


三日後には消えるのだと。


その事実だけが、急に現実味を持って胸に落ちてきた。

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