三日目
祭礼当日の朝。
俺はまだ人の少ない石段を上りながら、小さく息を吐いた。
昨夜、倒れかけた紺乃を神社まで送り届けて、そのまま「明日は朝から来い」と念を押されたのだ。
境内に差し込む朝の光の中、紺乃は拝殿の前を箒で掃いていた。
――けれど、その輪郭は昨日より薄かった。
箒を持つ彼女の袖口が、陽射しの中でわずかに透けている。白い指先の向こうに、石畳の灰色が見えた。
「……紺乃」
呼ぶと、彼女はいつものように振り向いた。
「なんじゃ、そんな顔をして」
「そんな顔って」
「今にも泣きそうな顔じゃ」
図星だった。
祭礼の準備は整ってきている。
商店街の提灯は軒先に吊るされ、境内には屋台の搬入も始まった。
二日間、俺たちが結んできた小さな縁は、確かに町のあちこちで芽を出している。
なのに。
紺乃の輪郭だけが、少しずつ薄くなっていく。
箒を握る紺乃の手はひどく頼りなくて、風が吹くだけでほどけてしまいそうに見える。
「……誰のせいだよ」
「私のせいにするでない。男ならしゃんとせい」
言葉だけはいつも通りだ。
なのに声の奥に、かすかな掠れが混じっている。
俺は石段の下から運んできた提灯の箱を地面に置いた。
どすん、と少し大きな音がして、境内の静けさに不釣り合いに響く。
「今日は無理するな。飾り付けくらい、俺がやる」
「そういうわけにはいかぬ。今日は祭礼ぞ。神社の神がふらふらしておってどうする」
「ふらふらしてるだろ、この間から」
「しておらぬ」
「してる」
「しておらぬ!」
子どもみたいな言い争いの末、紺乃はふいと顔を背けた。
朝の風が彼女の黒髪を揺らし、その隙間から、ぴんと尖った狐耳が一瞬だけ覗く。
俺は息を呑んだ。
「……耳」
「見るでない!」
ばん、と袖で隠される。
でも遅い。見えてしまった。
昨日までなら、たぶん笑っていた。
「隠せてないぞ、狐神サマ」くらいは言えたと思う。
けれど今は、その愛らしさより先に、胸の奥が痛んだ。
弱っているのだ。
耳を隠せないくらいに。
紺乃は俺から目を逸らしたまま、小さく息を吐いた。
「……真昼」
その声が、今まででいちばん静かだったから、嫌な予感がした。
「今日で終わりじゃ」
境内のどこかで、祭礼の準備をする人たちの笑い声が聞こえる。
遠くで鈴が鳴る。
空はきれいに晴れていて、こんな日に限って世界はやけに普通だ。
「約束の三日。ここまで付き合ってくれただけで、十分じゃ」
俺は何も言えなかった。
紺乃は、まるで本当にどうでもいいことを告げるみたいな顔で、続ける。
「祭りが終われば、おぬしはもう来なくてよい」
その一言だけで、胸の奥にしまい込んでいたものが、音を立てて崩れた気がした。
◇◇
祭礼が始まるころには、神社には思ったより多くの人が集まっていた。
子どもたちは屋台を走り回り、商店街の人たちは忙しそうに声を張り上げている。
「あ、真昼くん!」
八百屋の若夫婦が手を振った。
昨日よりずっと穏やかな顔をしている。
「昨日はありがとね。あいつ、ちゃんと休ませてくれたから」
そう言って笑う。
少し離れたところでは、商店街の魚屋と肉屋の店主が、珍しく一緒に屋台をやっていた。
「そっち焦げてるぞ」
「うるせぇ、お前こそ焼きすぎだ」
文句を言い合いながらも、二人ともどこか楽しそうだ。
去年までは、顔を合わせれば張り合ってばかりだったらしい、と宮司が笑っていた。
小さな変化ばかりだった。
でも確かに、人と人との間にあったものが繋がっている。
なら。
これだけ縁が結ばれているなら。
紺乃は――。
「真昼」
声がして振り返る。
石段の上。
提灯の灯りの中に立つ紺乃は、ひどく綺麗だった。
白い小袖に深い紺の袴。
黒髪を夜風が揺らし、その姿だけが祭りの喧騒から切り離されたみたいに静かだった。
けれど。
透けている。
袖の先も、指先も、薄く。
まるで光に溶ける寸前みたいに。
俺は駆け寄った。
「紺乃!」
「騒ぐでない」
「騒ぐだろこんなの!」
掴んだ腕は、昨日よりさらに軽かった。
紺乃は困ったように笑う。
「……本当に、不器用な男じゃな」
「何が」
「私はもう十分じゃと言っておるのに」
「よくない」
即答だった。
紺乃が少し目を見開く。
俺は自分でも驚くくらい、迷っていなかった。
「最初は、誰かに必要としてほしかった」
喉がひどく乾いていた。
うまく息が吸えないくせに、言葉だけは止まらなかった。
「失恋して、自分が誰の一番にもなれない気がして。だから、必要としてくれって、そんな情けない願いしか言えなかった」
俺は紺乃の手を握る。
透けかけた指先が、驚いたみたいに小さく震えた。
「でも今は違う」
心臓がうるさい。
逃げたらたぶん、一生後悔すると思った。
祭り囃子が聞こえる。
笑い声も、屋台の呼び声も、ちゃんとすぐ近くにあるはずなのに、今は紺乃の呼吸ひとつ分しか世界が残っていない気がした。
「三日だけじゃなくて」
「……言うでない」
紺乃が、かすれた声で遮る。
「言うな、真昼」
首を振る。
その目が、初めてはっきり怯えていた。
「私は神じゃ。おぬしとは違う」
「関係ない」
「関係ある。人と神では、生きる時間も、立つ場所も違う」
紺乃は自分の腕を見る。
袖の先は、今もかすかに透けていた。
「こんなふうに消えかけるものに、心を残してどうする、馬鹿者」
「馬鹿でいい」
指先に力を込める。
離したら、そのまま本当にいなくなってしまいそうだった。
「これから先も、君にそばにいてほしい」
言い切った瞬間、喉の奥が熱くなった。
怖い。
でも、それよりずっと、失いたくなかった。
紺乃は黙ったまま俺を見ている。
揺れていたのは、たぶん彼女の目だけじゃない。
「……もともと私は、おぬしの『必要としてくれ』という願いに縋っただけじゃ」
「違う」
かぶせるように言った。
「必要としてほしいんじゃない」
一歩、近づく。
「俺に、君が必要なんだ」
その瞬間だった。
――からん。
神社の鈴が鳴った。
風もないのに、境内中の提灯が一斉に揺れる。
祭りの人々が驚いたように空を見上げた。
光が、溢れる。
紺乃の身体を包むように、淡い金色の光が舞い上がった。
透けていた指先が、少しずつ輪郭を取り戻していく。
紺乃が呆然と、自分の手を見つめる。
「……縁が」
小さく呟く。
「結ばれた」
その声は、泣きそうなくらい震えていた。
次の瞬間、力が抜けたように紺乃の身体が傾く。
慌てて抱き止めると、彼女は俺の胸元に顔を埋めた。
「……ずるい男じゃ」
「何が」
「そんなふうに言われたら、断れぬだろう」
頬が少し赤くなっている。
動揺しているのか、狐耳まで出ていた。
祭りの灯りの下で見るそれは、反則みたいに可愛かった。
「耳」
「見るなと言っておる!」
でも今度は隠されなかった。
◇◇
数日後。
講義終わりの夕暮れ、俺は見慣れた石段を上っていた。
祭礼の日から、町はまたいつもの静けさを取り戻している。
社の前には、紺乃が腕を組んで立っていた。
「遅い」
「講義が長引いたんだよ」
「恋人を待たせるでない」
不機嫌そうに言うくせに、口元は少し笑っている。
狐耳が、夜風に揺れた。
俺は思わず笑う。
「なんじゃ」
「いや。三日で終わりじゃなかったなって」
すると紺乃は、少しだけ目を細めた。
「……おぬしが終わらせてくれなかったからな」
それから、ほんの少し照れたように視線を逸らして言う。
「……これから先も、ちゃんと通うのだぞ」
夕暮れの名残が残る境内で。
俺は今度こそ、迷わず頷いた。
神と人間では、生きる時間も違う。
きっと、この先も簡単なことばかりじゃない。
それでも。
今、こうして隣にいられることが、たまらなく嬉しかった。
あまり恋愛小説に触れてこなかったので、これで良いのか…?となっています。




